開演 3
湊
大きな悲鳴が上がる。
怖くなった子が上げたものかと一瞬思ったが、即座に違うと分かった。その理由はこの声を知っているから。
悲鳴を上げたのは信くんだ。
怖くなったから声を出したのではなく、何かに驚いて出した声。
でも、何かそんなにビックリするようなことがあったのだろうか?
わたしはずっとあの男の子ばかり見ていたので、幼い弟のことは疎かになってしまっていた。
視線を紙芝居の台座の前、信くんの所へ。
悲鳴の理由が判明した。
紙芝居を食い入るように観ていたからなのだろうか、買ってあげた紙コップのジュースを盛大にこぼしていた。離れた位置にいるわたしからでも分かる位に床が濡れている。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
ああ、そうだ信くんが溢してしまったジュースを片付けないと。でもその前に、信くんの上げた悲鳴のような音で紙芝居が中断したんだから、そのことを上演してくれている人、あの男の子に謝ったほうがいいのかな。けど、そのまま濡れたままで放置しておくのも。片付ける、拭き取るための道具を探さないと。持ってきているハンカチだけでは全部拭き取ることは無理なはず。ここはショッピングセンターだから何処かにモップがあるはず。初めてきた場所だから掃除道具が入っているようなロッカーが何処にあるか全然わからないけど探さないと。でも、その前にやっぱり謝るほうが先かな。あ、信くんがわたしの方を不安そうな顔をしながら見ている。わたしはここに信くんの付き添い、保護者として来ているのだからまずはその不安を取り除いてあげることをしないといけないのかな。それよりもまずはわたしが落ち着かないと。ああ、今日は持ってきていないんだった、部屋に置いてきたんだ。どうしよう……。
分からない。
分からない。
分からない。
分からない。
すべきことは分かっているはずなのに、何からすればいいのか分からない。
航
こういう場合は大抵親御さん、保護者の方々に片付けをお任せして紙芝居に専念するのだが。
見たところベンチには一人で座っているみたいだ。
保護者の方々は何処にいるのか。それを判断する良い方法があった。それは子供の目線、予想もしない事態に陥った時は人間信頼のおける人のほうを反射的に見るもの。子供ならなおさらのこと。そんなことを以前教わったこともあるし、この一年間で何回も見てきた。
ジュースをこぼした男の子は後ろを見る。
その視線の先にはあの少女の姿が。
一瞬母親だったのかと思ったが、俺と同じくらいの年齢なので流石にそれはないはずと思い、それから年の離れた姉弟だなと思いながら、あの少女に片付けをお願いするのは無理だと判断。
狼狽えているというか、あたふたしている様子が、離れている、ついでにいうと目の悪い俺でもハッキリと判るくらいに、さらに言うとちょっと申し訳ないけど少し滑稽な。
なら、どうしようか。
ヤスコの掃除を任せようか。そんなことを考えながら待機しているヤスコの方を見るとニヤニヤとしている。
おそらくこの予想外の事態を俺がどう対処するか楽しんでいるんだ。
意地の悪い奴だ。
ならば、まずは。
湊
しなくちゃいけないことは分かっているに、何かしたらいいのか分からずに、ちょっとパニック状態に陥っているわたしの耳にあの男の子の声が。
紙芝居が再開。
さっきよりも若干早口。
注文の多い料理店の紙芝居は終了し、男の子は一礼し、紙芝居が全部終わったことを告げて、踵を返して走り出す。何処に行ったのかと思っている間にモップを持って。素早く、慣れた手つきで信くんのこぼしたジュースを拭きとっていた。
そして、わたしは情けないことに見ているだけ。
航
「そのままでいいから。動かないで」
まずしたことは男の子に声をかけること。
片付けは後でするから。こぼれたジュースがこれ以上広がらないようにしておいて。
紙芝居を再開。
最後の盛り上がるところで水を差される、というかジュースをこぼされてしまい、変な感じの雰囲気になっているけどしっかりと〆ないと。
いつもよりも早口で、けど発音はハッキリとすることを意識しながら終わらせる。
終わって余韻もへったくれもなく、最後の挨拶を。
言い終わると同時に一番近くにあるトイレへとダッシュ。
勝手知ったるというか、一年近くここで上演しているから何処に何があるのか何となく判っている。モップのある場所も把握しているし、何度も使用した経験がある。
トイレの掃除ロッカー内のあるモップを手にして走って帰還。
手早くリノリウムの床にこぼれたジュースを拭いとる。
これで一応はきれいにはなったけどまだ終わりじゃない。
濡れたモップを洗わないと。
というわけで俺はモップを手に再びトイレへと。しかし今度は走らずに歩いて。
湊
どうしていいのか分からずにアタフタしているわたしを尻目に、あの男の子が何処から持ってきたモップでテキパキと掃除してくれる。
わたしがしないといけないことを代わりにしてくれている。
どうして?
そんなことを考えている間に男の子はこぼれたジュースを全部拭き取り、再びどこかへと。
その間、わたしはその場でボーっと突っ立っていただけ。
男の子が戻ってきた。
信くんと何か話をしている。そこにあの女の人も。
なにを話しているのだろう?
それよりも、お礼を言わないと、それよりも先に謝らないと。
そんなことを考えるけど、わたしの体は動かないまま。
只見ていただけ、見ているだけの役立たずのわたしの所に信くんが走ってくる。
「おねえちゃん、いこ」
紙芝居が終わったら買い物をしているお母さんと合流する約束になっていた。
信くんは私の手を引っ張って歩き出そうとする。
いいのかなこのまま行ってしまっても。でも、お母さんを待たせてしまうのも悪いし。
わたしの方が年上なのに手を引っ張られて歩き出す。
そんなわたしたちの背中に、
「バイバイー、また観に来てねー」
と、紙芝居を上演していた女の人の声が。
その声に反応した信くんはさっと反転して、わたしの手を握っていない方の手を大きく振りながら、「バイバイー」と返す。
信くんが反転したので、わたしの体も自然と後ろを向くことに。
あの男の子とまた目が合ってしまう。
その瞬間わたしは頭を下げた。
本当は直接言葉で、お礼と謝罪を言わないといけないのに。
お母さんとはすぐに合流できた、
わたしと信くんが紙芝居を観ている間に懸案であった大きな買い物が捗っていたようだった。
「ありがとね、湊ちゃん。信のお守りしてくれて」
この言葉にわたしは首を振る。
役立たずだったから、そんな言葉を言われても。
「何かあった?」
顔に出てしまっていたのかお母さんに訊かれる。
「うんとね、ジュースこぼしちゃった」
訊かれたわたしではなく信くんが答える。
「ああ、それで湊ちゃんは浮かない顔をしてるんだ。付き添いで一緒にいたのにって」
首を降る。
「それでどうしたの?」
「お……紙芝居の人が片付けてくれた」
「それならいいんじゃないの。そのままにしておくのは駄目だけど」
「でも……」
「まあ、本当なら自分たちで掃除したほうが良かったかもね」
「……うん」
それは分かっているけど、でもできなかった。情けないような気持に。
「ほんと、そういうところはお従姉ちゃんそっくりなんだから。今度同じようなことがあったら、その時はできるようにすればいいんだから」
そう言いながらお母さんはちょっと手を伸ばして、わたしの頭をなでる。
「それで紙芝居はどうだったの?」
「すごくおもしろかった」
信くんの感想に同意するようにわたしも大きく頷く。
あの男の子の紙芝居は本当にすごく、そして面白かった。