1-3 さくっと入浴と食事
続きです
入浴シーンはシンプルにしました
追記:挿絵を入れました
抱えたまま冥界の自宅に帰還し、リーザベルは目を閉ざした少女レンカを客室のベッドに横たえた。
いかに”大悪魔”の称号を拝してから数百年経ち、冥界内においても最高峰の悪魔だと称えられるようになっているリーザベルであっても、契約した相手がいきなり気絶するなど数えるときりがないくらい目を通してきた書物や同胞の噂話にも聞いたことがない。
「あぁ……早く目覚めて」
そう漏らしながらもまさかと思い、一瞬より短い時間で頭に過ぎった最悪の事態をどうにかして消し去る。もしかしたら、或いは。気絶などではなく、と。自分がいつになく焦っていることに気付く。
冷静に戻ろうとし観察すれば、幸いなことに呼吸をしている。何か重篤な病を抱えていたりする記憶はないので一安心だ。レンカを運んだ客室にしても、どの部屋を選んでもすぐ使えるよういつでも清掃はメイドにさせてある。
ほっと一安心の溜め息をつき、冷めきった紅茶のカップを手に取ると一口喉に流し込む。紅茶のお替わりであれば側にいるメイドに頼めば事足りるが、どうせなら目覚めたレンカと一緒に淹れたてを飲みたい。
紅茶に合う茶菓子は何がいいだろうか。レンカにはできる限り上質で美味な菓子を提供させてあげたい。
「ねぇ、菓子は何がいいかしら? ケーキにクッキー? それともアイス?」
「お嬢様とレンカ様のお気に召すまま、ご用意いたしましょう」
近くで控えている、長い付き合いになっていた明るい空色の髪をしたメイドが礼儀正しく返答をする。
「レンカが目覚めたらリクエストを聞くからそうして頂戴。レンカは目覚めるわよね?」
「お嬢様、どうかご心配なく。目覚めるに決まっています」
「そういうのもあるということかしら。シトニはいつも気が利くのね」
「お褒めに与かり光栄です」
……リーザベルはそこではたと気が付く。目覚めないのには相応の理由があるからと。
例えば、リーザベルの魔力が召喚時に流れ込み、拒否反応を起こしているからだとか。
大悪魔リーザベルの魔力は測り切れるものではない。言ってしまえばうっかり制御を怠った可能性も否定しきれない。
そう思考している間にも、レンカに変化があった。
ベッドに視線を向けなおすと、焦げ茶色の髪が深い翡翠色に染まっていく。
髪にそっと触れると、瞬く間にどの毛束も一面の色がその色になっていった。草原に風が吹いたかのように。
「お嬢様、これはきっと契約内容が進行しているのでしょう」
「契約の願いに含まれているというの?」
その問いは響いた後、アイスのようにこの場で溶けきった。
そうしている間にも髪の毛の間から覘く耳の上部が尖っていく。やがてリーザベルは気が付く。
この部屋に抱えて運んだときから、この少女は人間ではなくなっていた。あの時口にした切なる願いは莫大な魔力で叶ったのだ。
こういう時こそは旧友が誰よりも詳しい魂の観察だ。
推察したとおり、魂が人間のものではなくなっていた。レンカの魔力が膨大な、長命を望んだ魔女のものとは比べ物にならなくとなっていく。これは間違えようがなく、悪魔の持つ魔力量だ。
「正解よシトニ、勘がいいのね。気絶は一時的なものだわ」
「恐れ入ります。レンカ様がご無事で何よりです」
残る変化は翼と角のみだが、それは目覚めた本人に確認させてみよう。
メイドはすぐさま食事を作りに厨房へと赴いた――。
…
……
………
「外出を控えているのだからとりあえず入浴しましょう? 私は別室で済ませておくわ」
というリーザベルからの提案があったというわけで、レンカは邸内の入浴場、それも初めて足を踏み入れる脱衣所にいるのだが。
「嘘でしょ……」
先ほど口にした、魂の味が忘れられないでいる。甘酸っぱい果物のようでいてそれともまた異なる未知なる味に、変化したことで付与された新たな味覚が過敏に反応している。
「まだ美味しい……」
――これが病みつきになるということか。とっくに飲み込んだというのに、未だ口の中で転がっていた感覚が忘れられない。そしてまた食べたくなってくる衝動を深呼吸し、軽く抑える。
魂のことは後回し。今は入浴だ。改めて脱衣所を見回すのだが。
「いいなぁ、ご主人さまはこういったところに入っているのかぁ」
そう感想として声が上がるほど、人界での入浴はそれはそれは程度の低いものだった。魔術と無縁の人間は、河川の水を薪で温め入っていた。ひどいときは冷たい河川に浸かっていた時もある。
多少なりとも魔術が行使できたレンカの家では河の水を器に集めて熱し、それから石鹸を使っていた。
目覚めたときからどこも綺麗な邸だとは思ってはいたが、入浴場まで手を抜いていないとは徹底している。
――汗もかかないしそもそも体臭がしないけど、入浴も娯楽のうちという位置づけとして存在するわ。レンカに新しい服が届くよう準備したから入ってきなさい
というリーザベルの言葉を信じ、入浴してみることにした。最後に入ったのは二日前だっただろうか。
籠の中にはタオル。それから別室には着替えであろう服一式がかかっている。
大都市でも通用しそうな服に気が散ってしまうが、早く入浴したくなる気持ちが抑えられず、準備をし入浴を開始した。
「いい湯だったなぁ」
体に付着した水滴をタオルで拭き取れば、感想が出る。変化した髪の色についても、最初からその色だったのではと思えるほどにいつの間にか見慣れていた。脱衣所も扉の先にある浴場内も広くて暑くも寒くもなく、快適の一言に尽きる。
石鹸一つとっても、目立たない香りながらも包まれるようなそれに癒される。疲れが吹き飛ぶ。できることならずっと嗅いでいたいくらいには。
さて、下着も上質であると判明した上でかけられていた服に手を伸ばす。
それは胸元にリボンのついた服だった。スカート部分の丈も膝下丈で、腰の部分にビスチェも着けるようだ。
どう考えても村娘には備わっていない気品の良さを感じてしまう。
しかしそれは主人たるリーザベルがわざわざ発注したであろう服だ。着ない訳にはいかないし、装飾の良さからレンカなりの少女心というものが刺激される。それはいつか両親とともにそれなりの都市に出たときに見かけた、小遣いを貯めて買いたかった服に似ていた。
もう迷いも躊躇いもない。レンカは服かけから取り出し、袖を通していった。
「ご主人さま、お風呂から戻りましたー。服、ありがとうございます!」
「いえいえ、気に入ってくれたなら何より。えぇ、とっても素敵よ。流行りを取り入れつつセオリーを遵守した服だからある程度の場所になら堂々と外に出られるわ。他のはまぁ、別の機会までに準備しておく。それに、入浴中に気付いたでしょう? 人間の時に有ったものが、無くなっていることに」
「……あ」
確かに僅かに膨らみ始めつつある胸は残っているが、子を為し育てる器官が一切合切消失していた。
「いい? 悪魔に生殖器はないのよ。ならどう子を為すかというと――互いの血を混ぜる。そうすると誰にも破れない膜が出来、その中で育つ。但し、人間の血を混ぜると、その血が蒸発する。私の言いたいこと、分かりそう?」
レンカは考える。蒸発という現象が発生するということはつまり。
「蒸発するのでは同族同士でしか子が残せない。つまり、悪魔と人間との混血は存在しない、ということでしょうか?」
「正解。寧ろ人間が繁殖に拘り過ぎているのよ。こっちでは誰しもが呆れ果てるほどまで、にね。愛欲はあるけど、肉欲が最初から皆無だとでも言えばいい? 番って婚姻しても、人間や動物のように繁殖して子孫を残そうという欲が薄い。無計画にしないと表現した方が正確かしらね?」
言われてみれば、悪魔と人間の混血児の噂など耳にしたこともなかった。今まで目を通してきたどの資料にも、あの持ってきた手記にもそういった部類の記述は一行も一文字もなかった。誰かが隠蔽しているといったケースならともかく、生粋の冥界の住人たるリーザベルがそう断言するのだからそうだろう。
「後それから、私達に存在する年齢の区分は成人か否かの二つよ。加齢はするけど老化というものには一切縁がないのでね」
言われてみればそうだ。何百何千、いやそれ以上の時間を生き永らえるともなれば自然とそういう枠組みになっていくのだろう。単純に子供や成人、老人という矮小すぎるそれでは測りきれないのだから。
それから主人より教わった魔術で簡単に濡れた、見慣れた深い翡翠色の髪を乾かす。術で髪の毛を乾かす発想がなく、レンカにとっては新鮮であった。
「この服、ご主人さまが用意してくれたものですよね?すごくいいです、ありがとうございます!」
「よく似合っているわ。気に入っているようで何より。準備しておいて良かった」
着心地とデザインの良さを両立させた服はレンカの気分を否応なしに上昇させてくれる。
「前に着てた服はどうするのかしら?」
「そうですね、洗濯しても綺麗にならなければ処分しようかと思います」
「失礼いたします。お嬢様、レンカ様、お食事の準備が整いました」
「紹介するわ、彼女はシトニ。私付きのメイドで付き合いが長いわ」
「シトニと申します。レンカ様とはお初にお目にかかりますね」
そう優雅に一礼し挨拶してきたのは、薄い空色の髪を後ろで一つにまとめた髪のメイドであった。ロングスカートに純白のエプロンがこの上なく似合っている。
勿論というか角も生えている上、耳も尖っている。
「こちらこそよろしくお願いします、それから私のことは様付けじゃなくていいです」
「それではレンカさん……でどうでしょうか?」
「それでいいです!」
「決まりね。では食事にしましょう。食べ過ぎないよう適量にしてあるから安心よ」
挨拶を済ませ、シトニの案内で食堂に移動し食卓に着く。
複数の新鮮な野菜が乗ったサラダ、具材の多く温かい出来立てのスープ、野菜炒め、魚の煮物、炒めた芋が添えられた牛肉のステーキなどが皿に乗っている。
サラダにかけるであろう調味料やフォークやナイフ、スプーンといった食器類も並んでおり、本格的な食事のようだ。
食事を必要としない体となったからか空腹こそ感じないものの、それでも漂ってくる香りは鼻腔を絶妙にくすぐる。どうやら五感は失っていないようだ。
サラダに調味料をかけ、手を付ける。一口運んだ瞬間瑞々しさが舌に伝わる。それからスプーンでスープを掬い、飲んでいく。体が温まるような錯覚がする。
「シトニは料理も上手で、こうして作らせているのよ」
「調理はメイドの基本ですから! お口に合っているようで何よりです。お替わりも用意していますのでどうぞ遠慮なく」
そう快活に答えるシトニは会話に答えながらもてきぱきと給仕していく。メイドとして働いている期間が長いのだろうか、動作一つとっても手慣れている。
「シトニ、ワインを頂戴。レンカはどうする?」
「じゃあ林檎のジュースでお願いしますー」
「かしこまりました」
すぐさま既に冷やしてあるワインボトルを取り出すとコルクを抜き、リーザベルのグラスに注いでいく。同様にレンカのグラスにも林檎のジュースを注いでいく。
「このジュース美味しいですね!」
林檎のジュースで喉を潤す。甘すぎず、かといって酸っぱすぎない絶妙な仕上がりになっている。どのような料理にもぴったりだろう。
「そちらも含め、全てヴェルクローデン領の名産品ですよ。贈答品としても著名です」
名産品ならこの味わいにも納得がいく。リーザベルが飲んでいるワインもきっと絶品だろう。
「魚って、川魚ですか?」
皿に乗っている魚の煮物は色合いこそ酷似しているが、見慣れない形状をしていた。気になってレンカがシトニに訊く。
「いいえ、こちらは海で獲れたものとなっております。もしかして海の魚をお食事になるのは初めてですか?」
「そうですね、川魚は食べたことがあったけど海の魚は初めてです。ではいただきます!」
ナイフとフォークでよく煮込まれた煮物を切り分け、口に運ぶ。海の魚というものを初めて口にしたレンカだが、新鮮さは失われておらずほのかな甘さが口いっぱいに広がる。
「海の魚っていうのもいいですね!」
「気に入ったようで何より。シトニ、魚はこれから海産物でよろしく頼むわ」
「はい、かしこまりましたお嬢様。是非とも取り入れる所存です」
それから卵焼きの乗った皿を取る。こちらもパンケーキのようにふわりとした食感がたまらない。
続いてメインとも言える牛肉のステーキを切り分けていく。
「ほわー、牛肉ってこんなに美味しいんですね!」
「ステーキではなくてもローストにしても美味しいのよ。今度食べてみない?」
「いいですねそれ、ご主人さまが勧めてくれるなら美味しいと思います!」
ステーキを噛んだ途端に閉じ込められていたであろう肉汁が溢れ、するりと一口、また一口とフォークが進む。肉本来の旨味がこれほど感じられるとは思わなかった。
平民であるレンカの家庭は村の中では比較的裕福だったが、それでもこれらと同等の食事が頻繁に、食卓に並ぶかというとそうではない。1年に数回あれば良い方だった。
そうしていくうちにステーキも野菜炒めも他の料理もなくなり、食後のデザートが運ばれてきた。
「デザートはこちらです」
それは林檎をふんだんに使用した焼きたてのケーキである。シトニが二人分に切り分けて、皿に載せていった。ケーキ用のフォークで口に運ぶと、まろやかな甘さの口当たりが広がっていく。生地もふわりとしていて、まるで空に浮かぶ雲をそのまま食したかのよう。
それから4切れもご馳走になったが、最後の一口まで口当たりの良さは変わらなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!