1-1 少女レンカの決意
望んでもいない自分の人生を変えたくて移住やら契約やらを決意した少女の話
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私に声をかけてくれた、知らない、立藤なのか菫とも分からない髪の色をしていただけ、と記憶だけが残っている女性。
目の色は覚えていない。その時の私は目の色で他人を区別するという手段も知らなかった。単にあの人が隠していたのかも知れない。涼やかな、綺麗な顔立ちだということしか記憶にない。
所詮は童女の年齢の記憶なのだから、アテにしないほうがいい。だって自分の記憶が絶対に正しいと証明できるのは、他者がいてからこそ成立するのだから。
……それなら、この記憶は何? 数年前の出来事ということだったなら覚えている。それから、これは決して夢ではないと断言できる。私は夢というものを見たことがない。
例えば沢山のご馳走が出るパーティーにお呼ばれしたものの、結局はありつけないまま終わったとか。
そう言えば、母さんも父さんも何度も口にしていた。睡眠をしても時間の長短に関係なく夢を見ないと。私は夜になったらベッドで寝て、いつの間にか朝になってベッドの上で目覚めていた。お友達のマノンも同じことを言っていたっけ。
夢とは何だろう。見ないものの話をしても仕方ないとある種の諦めすら感じられたし、悪夢にうなされる夜もあると聞いていたからそのままでいいと思った。
――自分が夢を見ないことも含めて、あの人に話をしてしまった。話しかけられたからと言っていきなり身の上話を話していいのは無礼だって、わかっていたのに。
もし相手が荘園を持っている貴族の婦人だったら私の一族もろともどころか村も町も丸ごと消されてしまう可能性があるのに。上着を着ているのに、足元から覘く衣服の裾に施された刺繍の細やかさは芸術品すら超越した代物に見えたっていうのに。あまりにも幼稚すぎた。
年上が、優れているものが、君臨する世界だっていうのに、はしゃいで。童女だからって言って。
ーーそれに、聖なるものの言葉に恭順でなければならないのに。
それでも、あの人は全部聞いてくれた。静かに頷いたり、時折相槌を打ってくれながら。
一頻りしゃべり終わると今まで聞いたことのない、澄み切った音色で笑った。扇子を持っていたから尚更口元は見えにくかったけど。
ーー聖なるものに対する絶対の恭順?それをして何か徳があるとでも?終末論ってものもここまで来ると最早人間に課せられた呪縛ね。それはとても恐ろしいのよ、いかなる鎖より硬くて未来永劫、過去に遡ってまでも続く白銀のように煌めき続ける呪縛だわ、と。
雨が降ったところで止める術は人間には不可能だ、と。
子供の話だからと笑い飛ばさず、私の話を本気で聞いてくれた。父さんも母さんも離れているけど手紙でやり取りしているマノンもそうだけど。
いつになく舞い上がってしまった。夜空よりも遥か遠くに浮かんでいるそれへ届くよう望むように。
私は名乗ったけど、その人の名前は……聞くのを忘れてしまった。本当に肝心なことなのに、いややっぱり下手に訊かない方がいいのかなと後回しにした結果がこれ。
それからどのような家、じゃなくてお邸に住んでいるのかも気になった。きっと星々のように煌びやかなところだろうと勝手に想像してしまった。
それからありとあらゆる角度から星々を眺めた後、立ち上がったあの人は私に一冊の本を渡してくれた。困ったら、これを読みなさい少女。と気品のある優雅で自然な笑みで語りかけた。
夜空の星々から舞い降りてきたのかな、と連想してしまうあの光景は夢ではない。
…
……
………
……どうして、単純極まりないことに気付けなかったのだろう。
私はその事から目を背けずに気付くことにした。
他ならないそれは、欲望にも等しい己の望み。叶うかどうかすら予想もつかないもの。
私は、悪魔になりたくて魔女になった。そうなれば寿命もないまま、好きなだけ研究が出来ると思ったからだ。
元々そういう、魔術に関する研究を数代に亘って続けてきた家系だった。
魔術を新たに覚えるにはやはり金銭の類が必要であり、何かしらの取引を頻繁にしてきた関係かそこそこ裕福だったように思う。少なくとも毎食の食卓は豊かだった。不作による飢饉も難なく乗り切った記憶がある。
気づけば分厚い書物の山に囲まれていた。私は入手できる限りの書物を漁り、集めた。いかにも人間の幼子に与えられそうな絵本とやらは読んだが、知識へのわずかな糧になった程度でそこまで興味は惹かれなかった。
4歳にもなれば魔術で発火を覚えた。6歳で飛行ができるようになった。7歳にもなれば両親の仕事の手伝いで家計を助けることに繋がるほどの成長を見せた。
確かに、人並み以上に魔術は学べたがその他に、残酷な事実を知ってしまった。
私が人間として生まれたがために、生きていられるのは残り数十年程度だということ。ましてやひとたび重い病にかかってしまえば、薬を作らなければ更に短くなることを。
決して両親を恨んだ訳ではない。魔術を学ぶ選択肢と同時に、家を離れる選択肢も与えてくれたのだから。知識を学び覚える権利が与えられるか、ないしは獲得できるかというものは人生において、とてつもなく重大だ。
その点において運がよかったと思う。
しかし、それでも。万が一、恨みを持った対象があるとするなら。
――人間という短命な生物に生まれた私自身。
そして魔術を学びはじめて間もなく、悪魔という存在を知った。魔術で人生を消費、或いは捧げる覚悟さえ示せれば、私のように年端のいかない童女であっても夜の集会への参列が許された。
当然のことだ。彼らの存在なくして人間は魔術を知らない。魔女にもなれない。
契約をして魔力を増やしたり、無理やり寿命を延ばす者も少なくない。
記述のある書物が魔術についてのそれより数段少なく、手に入った情報は覚え書き程度でしかない。それはまだ財力が乏しい以前にまだ幼い私の限界であったが、何もないよりずっと知識は増えた。
朝の鳩が鳴く音を聞き、思いついた。
――悪魔様にお願いして、私自身を悪魔にしてもらうように乞おうと。
それを今の自分の技量で実行できるかなど分からない。召喚術の困難さが羅列された文章が、知り合いの評判を示している。成人を迎えてようやく習得できるかどうかだと。
ましてや、そのような願いを叶えてくれるのだろうか。
矮小で、あまりにも未熟すぎて、考えも浅く、成人すらしていない小娘だ。きっと自分のような魂は彼らにとってただの食べ物に過ぎないかもしれない。
それでもいい。ご馳走だと思って、食べてくれるのならそれでも構わない。
ーー契約を通じて絶対的な忠誠を誓うという儀式。
その儀式を利用し、通常において人の手では届きもしないような願いを持つ者がいたとしたならーー
…
……
………
これといった星も目立たず、ぼやけた球体のみが浮かんでいる普遍的な夜だった。
野鳥の一羽も飛び立たない。
少女――レンカはお仕着せのローブを羽織り、荷物を曳いて外に出ていた。
どこの町や村にでもいそうな、十を過ぎた年齢で栗色の髪の毛の娘だ。
単身で、命に関わる獣がいる夜の森付近を出歩くようにはとても見えない。傍に両親がいたとしても、獣の咆哮に震え怯え、その場で歩みを止めてしまいそうなほどには。
だが、退治すれば報酬として一ヶ月の食事に困らないという狼であっても、少女にとっては草木と戯れる児戯となんら変わりない。
片手には少女の身と変わらない大きさの、幾つもの荷物を詰めた鞄、そしてもう片方には分厚い一冊の書物。
少女は、魔女である。簡易ながら飛行や発火などの魔術も習得している。未だ肝心な悪魔との契約を済ませていないものの、単独での集会へ参列を許されている。
習得したての術を目に使い、松明なしでも昼間と同じように歩き回れるよう支度を済ませてある。
その程度の術が使える程度で満足しては向上できない、と言い聞かせてきた。全てはこの日を境に、更なる力を付ける為。
つまり、これから召喚を用いて、許しを請うて契約をするための外出であった。
意を決し事前に定めておいた地点に移動する。そこは夜の集会の会場からは少し離れており、やはり誰も通らないような地区。町からも遠く集会が開かれる地へ、足を踏み入れる村人は滅多にいない。ましてや日が落ちた現在の時刻ならば尚更だ。
空を飛ぶことも可能だが、ここで余計な魔力を使っていては召喚時に失敗する可能性が跳ね上がってしてしまう危険もある。そうなっては身を守ることも出来なくなってしまう。
よって、少女は原始的だが堅実な徒歩を選択した。
一見何の変哲のない樹木に、レンカが近付くと簡易に光るよう仕掛けておいた目印を探す。昼間も夜間も、他の者がそうしても一切が分からない仕組み。
……あった。間違いなくここだ。間違えるはずもない。
たどり着いたレンカは安堵する間もなく息を吐き目を閉じ、本を開く。震える足を落ち着かせて己を鼓舞し、魔力を操りながら敬意に値する誰かの存在を想像する。
恐らくあの挿絵よりも凛々しい姿なのだろう。獣じみていてそれでいて冷徹な振る舞いをするのだろう。強大な力で以って他者を圧倒し、蹂躙するのだろう。
そして、契約する際に口にする願い事の内容も忘れないようにしながら。
ーー途端。
カンテラなどといった人工のものとは比べ物にならない光が発生し、柱を容どっていた複数の光は線となり音の伴わない嵐にもなり、少女を中心に広がっていく。
レンカは慣れない魔力の流れ方に襲われた。
息が苦しく、制御も出来そうにない。
召喚術が容易ではないと参考文献にした書物にて語られてきたが、レンカはようやくその一端を実践したことによって知ることとなった。
そして。
散々してきた心構えなどなかったかのように後ずさるほどの、おぞましい魔力の奔流。レンカの身体に流れ、乱れる魔力とはまるで別物。
木々がざわめく。森が叫ぶ。早くこの嵐よ去れと言わんばかりに。
どうなっているのかなど、当のレンカ本人の知識を総動員したところで解決するはずもなく。
人の脆弱な生命を脅かしてきた自然すら戦慄し叫び声を上げる嵐が起きているということは、一体どれほど高位の存在を召喚してしまったというのか。
召喚は無事に成ったというのか。確認しようとレンカは目前の気配に気付き、慌てて目を開ける。
「ーーえ」
しかし、目の前の“何か”から視線が動かせない。
(……なんて、美しいひとだろう)
——紅い月を浴びて静かに揺れる、菫色の絹の髪。
赤とも紫とも判別のつかない双眸は明らかに人のものではない。そしていつか見た宝石のように月光を受けて輝き、こちらだけを見据えている。
頭部には内側に曲がった一対の角。背には一対の、夜闇に溶ける色合いの羽ばたく両翼を携えている。
闇色のドレスに身を包み、地に降り立つ様はどの獣よりも高潔で気高い。
間違いなく召喚は成ったのだ。
召喚の技法の記された書物を力の入らない両腕で抱えたまま、レンカはその場にへたってしまう。
五感全てが麻痺した弊害により、目にしている出来事に対する実感はないに等しいが、ここに召喚をしたと言う事実があるのならば、それでもやらねばならないことが幾つもある。
「貴女が、私を呼んだと」
夜の海のように深く、奏でられる声音が胸の奥に響く。人より遙か遠いものがまさか人に近しい姿をしているとは貧弱な想像の埒外だったが。
「は、はい。私が呼びました。私の血を差し出させていただきまーー」
「それは不要。私の名はヴェルクローデン=リーザベル。では、完了した本契約を我が力でもって遂行していく。貴女の名は?」
「名はレンカといいます。年齢は本日で11です」
本契約……?
全く知らないわけではない、だが予備知識と違う単語。
レンカの見聞きしてきた契約とは召喚した悪魔と数日間行動を共にし、その間審査を受ける。その審査を経て、相応しい者のみが契約できると。そして前段階として仮契約を結ぶことがほぼ恒例というか暗黙の了解になっている。
その本契約なる言葉が純然たる事実ならば、そういった準備の過程を正式にすっ飛ばしていることになる。
そこまで進んだと判断し、自らの名を口にする。
かつて体験したことのない緊張から来るものなのか、心臓が早鐘を打つにつれ呼吸も安定しない。やはり立ち上がるのも脚と何かが拒否をする。
本契約について質問を試みようとしたが、うら若き婦人―リーザベルと名乗った女悪魔が—手を翳すとレンカの身体に力が流れ、契約の証が鎖骨の下に刻まれる。
「興味、関心とも違う。それに、契約などはいくらでも可能。なるほど、11歳ね。ふふ、私に弟子ができるなんて思っても見なかった」
耳に飛び込むややくだけた口調に、呆気を取られてしまう。それでも己より遥かに高位の存在から淑女らしく話しかけてくれたことに代わりはないのだから真摯に対応してみる。
「ですが、私との契約をするなんて……」
口淀む。たとえ何を問われても誠実に、早急に応じようと心構えをしてきたつもりだというのに。自ら作り出した壁のようなものが、崩れていく。
「…召喚すら出来ないと思っていたと?」
「度胸、ないですし。契約の前に召喚なんて出来ないと思っていました。私はまだ大人になっていません。貴方様から見たらとても幼い。勿論腕前も大したことない…」
腕を上げられ、反射的に口を閉じてしまう。
「正直腕前とか契約の本筋には関係ないわ。偶然魂を集めていた通りすがりと人間が悪魔と成り行きで契約、なんてよくある事例。それに、貴女なりに腕前を上げたくて私を召喚したのでしょう? 実行に移すのは並の労力では不可能よ。そこは忘れないで」
「…御見それしました」
必要ないでしょうと言おうとしたが、その言葉は彼女ー主人にしてみればーいらなかった。自分が誰と話しているかという事柄すら忘れそうになるほどの衝撃が続く。
「…聞いていると思って話すけど。私に契約内容を読み取る能力があるのは、知っているわね?」
「っ、は、はい。そのくらいは勉強しています」
「それは結構。色々話したい話題もあるけれど、これからどうするつもりだった?」
「あなたさま、いえご主人さまのお許しが下りるなら家を出て、修行の旅に出ようと思っていました」
鞄の中身は使い慣れた生活用品一式と、日頃行ってきた家業の手伝いで得たいくばくかの路銀。
「私は貴女の言葉が聴きたい。詳しい事は凡そ分かるけど全てではないわ……私達の過ごす時間は私達が思っているより、ずっとあるのよ?」
「私は怖かった。怖くて仕方がない。魔術の研究が死というものによって出来なくなる。私の研究した内容は他の魔女達たちから見たら大それたものじゃない成果くらい分かり切っています。――それでも、っ…無駄になるのは嫌です。誰にも伝えられないと言うのも本音を言うと悲しいです。寿命を延ばす魔術があるというのも知っていますが……それでも私は満足しません」
「契約をした人間が死後地獄とやらに落ち、永劫にもがき苦しむくらいは知っているでしょう。といってもただの俗説あるいはまやかしだけれど」
「……聞いています。莫大な魔力と知識を得るためには貴女様に魂を売り渡す事も、伝え聞くように地の底へ堕ちる末路も受け入れましょう。ですが……わ、私の願いは」
相手は契約内容、および願いなどとっくに熟知している。拒否される可能性の方が高い。それでも、口にしたい。
「――わ、私をッ……悪魔にしてください。見習いでも、下っ端でも、力が大した事なくてもいいです。魔術以外の記憶が無くなってもいい。この世界から離れて永遠に冥界に住むのは私にしてみれば愉しみで仕方ないのです。人間の命を奪うのは……もうしちゃった。地獄の門も通ります。寿命を気にしなくていいなんて考えから生じた願いは浅いかも知れません。でも私が貴女様に願うのはそれだけです」
「人としての生を捨てる事に対する後悔はない? 人間に戻る事も飽きる事も出来ず永い生を過ごす事になる。それでも?」
「私にしてみれば、短い生など不要でしかありません」
…
……
………
リーザベルは言葉を喪った。目の前の―自分の年齢の二十分の一も生きていない―見た目相応の幼い少女が発した言葉に対して。そして、どのような行動をとったのかも。このままでは全身全霊をかけてきた彼女を失望させてしまう。早く返答しなければ。
…
……
………
「何かと思えばこれ、人間の魂じゃないの」
「術を探し続け、裏市場で買ったものです。用意する代償がこれか自分の血しか知らなくて……」
レンカが丁寧にリーザベルへ差し出したのは、封をされた瓶に収まっている二個の魂だった。
「例えば欲しいものがあったとする。いくつも種類があり、金と時間をかけるより良いものが得られるとする。そして私は貴女を見つけたわ。毎日部屋を貸すだけでも構わないけれど、貴女は術の才能もここまでする実力も兼ね備えている」
ずいっと主の視線がレンカへ集中する。
「実は私、人間が結構嫌いです。私は人間だけど、魔女ですからねっ。だから他の魔女は大好きです。でも悪魔の皆さんはもっと大好きですよ!」
…
……
………
リーザベルは一つの疑念を持ち、それは瞬時に確信へと変じた。彼女は、最初から人間に生まれるべきではなかった存在だということに。
最低限であっても、自分と同等といえるような生活を送るべきだと。
そして、自分が最初の願いを叶えられない存在である事に酷く悲しみを覚えた。
自分に強大ではなく、更なる絶大な力があれば、と。
――二人の背中に、悪寒が走る。契約陣から足を踏み出したリーザベルがレンカに近寄り、抱きかかえてその背を低くさせる。
「な、えっ、何ですかご主人さま!?」
「冗長に話せなくなったので私の家に移動する。続きは後で」
「はい、お任せします!」
確かな悪寒。背中を伝い落ちる汗。落ち着きたくともそうさせてくれない心臓の音。不規則で締め付けられるような息苦しさ。
この場に限ったことではないが、主人の誘導に従うべきだと判断した。
視界をも乱れる物々しい風が吹き荒れて。リーザベルはその姿勢のまま空へ飛び立ち術が発動する。
何かが蠢いているであろう深い森も、レンカには見えなくなっていた。
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