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峠道の緑の濃い若葉を揺らす木々の隙間から見えるのは抜けるような青い空。見上げたものの日差しの強さにおもわす掲げた手の指先の隙間から見える太陽は直視できないくらいに自己主張する。いつかリュカが帰るべき空が今日もいつも通りに広がっていた。
既に背中に額にと大粒の汗が流れる。
今日は夏日になりそうだ。
時折人目を盗んで高い木に登り飛び降りる時、深い谷間の隙間にある水面に飛び込む時、ふと気がついた。
しがみつく重力を振り払って力のままに大空に飛び出す瞬間。遮るものの無い何処までも広い空を命の駆け引きさえ楽しみながら白い羽を手足の如く操って舞い踊り、生と死の狭間にある落下よりも早い降下の瞬間。
擬似的な体験から感じたのは、恐怖よりも強いあの得も言われぬ高揚感。知らない筈なのに懐かしく愛しく思えた。
リュカには拾われた十年前より昔の記憶がない。過去はないはずなのにその感情だけはすっぽりとはまり込み、少しもおかしいとは思えない。それならば多分そこがリュカの帰る場所だろうとずっと思っていた。
いつも通り町人達とトラブルを起こしつつ農作業を続けたリュカはあの町長に呼び出されてから五日後の今日を迎えている。
昨日の農作業の帰り道、
「あー!渡す物があったのに忘れてましたよー!私は忙しいので勿論、取りに来てくれますよね!!」
と、アルに引きずられ町長の家に連れ込まれ風呂に入れられ、そのまま明日貴族を迎える為の継ぎ接ぎのない衣服と夕食と朝食になりそうな弁当を手渡された。
帰りの玄関先、手を振るアルの後で町長が柱に3分の1体を隠しこちらをジッと見ながらニヤニヤしていたのは気が付かないフリをした。
今朝は日の出と共に目覚め、裏の山水で顔を洗い昨日町長から貰った食事をとった。
もともとリュカは私物が増えるのを好まない。だから数少ない私物の整理は最悪な事態になった時、または貴族のご機嫌を損ねたときは戻ってこないからと、町長の話を聞いた夜に片付け終わっている。
そろそろ出発かという頃に玄関先にクリスとクリスの父グランとアルの姿が見えた。あの夜、サナの話を聞き急遽町長の代理として同行する事を立候補したクリスを見送る為に来たのだろう。
クリスは領地中央の学校にも行っていたし、父親のグランは昔貴族に使えていたこともあるというから礼儀作法も安心だろう。
戸締まりが済んだ家の金属製の鍵が付いたネックレスを外し、リュカはグランに預かって欲しいと手渡した。
リュカがいるからとこの家のセキュリティは一部、瞳鍵でない。トーマが提案してくれたオールドテクノロジーを使っている。
しかし手渡した鍵はそのままグランの隣に居たアルに手渡された。
「アル様、町長にお渡し願えますか?今回、お前は私に同行する」
「え?」
前半アルに、後半リュカに向けられた言葉に驚きを隠せない。
あの夜の出来事しか夢では見ていないものの、神殿に同行していたのは確かにクリスの筈だった。
「クリスのレベルでは帝都の貴族相手に町長の代理の挨拶など出来ぬし、今回旧友が姫様に同行していると聞いた。クリスには休憩地として提供する町のはずれの東屋の準備と警備を指示してある」
確かに帝都の知り合いの話を持ち出せばグランが選ばれるのは当然だが、ならばリュカは必要無いのでは?という思わずでかけた言葉は飲み込んだ。一緒に行かなければサナを助ける事ができない。
「休憩地の準備は僕も手伝うからね〜。しかし、この金属製の鍵は面白いねぇ!」
嬉しそうに預かったリュカの鍵をブンブン振り回すアルの頭をクリスが静かにしろと軽く小突くと「うにゃ〜」とアルはしゃがみこんだ。こういう時の年相応のクリスの笑顔を見ると二人は友達なんだと思う。
猫の仔のように戯れるクリスとアルに見送られて旅慣れているらしいグランと少し早目に町を出た。
早朝にサイノール伯領地内の水の神殿から出立した姫君御一行との待ち合わせは町から少し山道を登ったサイノール伯領との境界だ。土色の舗装が整備された道を男二人、無口に進んでいく。
グランはサナの父親だった養父カールの親友で、リュカが拾われたばかりのころは週末になると片手をクリスと繋ぎ、片手に酒瓶と旨いつまみを抱え四人の家に遊びにきていた。しかしそれも養父が亡くなる事故が起きてからはパタリと途絶え、今では町で遠目に見かけてもあまり笑顔を見なくなった。
「サナ様の母君はトワ様という。トワ様は現皇帝の妹君で私はトワ様の護衛騎士だった」
「あ、がっ?!」
赤や青の屋根が川魚の鱗の様に輝く。町が眼下に小さく見え始めたころ、無言だったグランの突然告白にリュカは思わず躓いた。
「これからお前は帝都の姫君、皇帝の親族にお会いするから話した」
「それって、グランおじさんと俺だけの秘密かよ?」
「ああ」
「クリスも知らないのかよ?」
「ああ、町長もクリスも知らない。現皇帝も私がトワ様の騎士だったことは知っているだろうが、帝都から姿を消したトワ様がこの町で暮らしていた事は知らない。だからサナ様の存在も知られていないし、今後も知られてはいけない。私はトワ様がお隠れになられた後もトワ様の護衛騎士としてサナ様の成長を見守っていた。しかし、まさかこの田舎町で再度皇帝の親族に会うとは思っていなかった」
「随分、重くないか?」
「だからこそ誰にも聞かれないここで話した」
転んだリュカをそのままに進むグランを追いかけつつリュカはグランの告白の意図する所を考える。
グランが昔、貴族に仕えていたとは噂に聞いていたが、それがまさかの帝都に住まう皇帝の親族で、しかもサナの母親とは思わなかった。これから会うグランの旧友とは護衛騎士仲間や皇帝の親族に付き添える位の貴族だと言うことだろう。そして、そういう人間に対しそれなりの態度を取るがそれはグランにそれなり地位と理由があるし、こちらも知られたくない事があるからサナを守りたければ事を荒だてるなということだろう。
直前になって随分な腹の内の見せようだ。
ならばリュカも覚悟をきめよう。
多分このグランの話は、『アノ』夢に大きな影を落としている筈だ。何よりサナの成長を今までこんな田舎町で隠遁生活をしつつ見守っていてくれたのだ。信じる価値はある。
「そっか、じゃ、俺からも大切な話がある」
「なんだ」
突然立ち止まったリュカの気配を感じたのかグランが足を止めリュカに振り向いたが木々の影に隠れてその表情が見えない。
「これから来る帝都の姫君は多分三の姫じゃなくて二の姫だ。そして、神殿に到着した翌日の夜、土砂降りの中、恐らくニの姫の抱えたトラブルにサナは巻き込まれ、命の危機を迎える」
話しながらもだんだん唇に震えが乗ってしまう。そんなリュカの話をグランは静かにけれど考え込むように聞いていた。
「随分な話だな……」
リュカの言葉を疑いもせず受け止めてくれた一言にこらえ切れなかった雫が頬を伝う。
「サナを一緒に守って欲しい……。俺一人じゃ駄目だったんだ……。カール父さんの時の二の舞いはいやなんだ。なぁ、グランおじさん……助けてくれよ」
「勿論だ」
いつの間にか歩み寄りリュカの頭の上にぽんぽんと置かれた大きな手は優しくて昔、遊びに来てくれていた時のグランおじさんそのままだった。