海
海辺に佇む彼は、いつもより小さく見えた。彼はいつか立つことも食べることもできなくなり、私の手を握ることもできなくなる。でも今は、そんな未来さえ見せないように胸を張って、こうやって立っている。自分の足で立つことができなくなる恐怖を、私は理解してあげられない。でも私は彼と一生遂げ、きっと一緒に死んでいく。
先にいなくなるのはどちらか、なんて話し合いで喧嘩になったこともあるが、私はわかる、絶対に、どこまでも私たちは一緒だと。海辺は綺麗だった。地球温暖化なんて知らないような顔をして波を作り、私たちをいつ飲み込もうかと狙っている動物のようで、海も生きていると感じる。そよ風を感じる。私はいつもこの風を彼と感じながら、時間を共にする。彼は動けなくなってもここに来たいと、私に懇願してきた。もちろん私は将来彼の子供たちを連れて、ここにいつまでも、永久に来るつもりである。
私たちが出会ったのはある大学のパーティーだった。静かに行われていた小さなパーティーはまるで密会のようで、蒼い月の光に照らされた室内は官能的だった。私は友達に誘われただけで行く気は毛頭なかったのだけれど、そこで海について語る素敵な男性を見つけ、くぎ付けになった。彼は海の姿かたちから、なぜ地球は青く丸いのか、そして海はなぜ私たちを生かすのか、私に説明してくれた。よく覚えている。彼の瞳は輝いていて、私は彼とまた会う約束をして別れた。私にはボーイフレンドがいて、その人は正反対の人だった。いつも苛立ち、大柄な体格に自信を持ち、何かに暴力を浴びせては自分を高めるような人で、私は少し疲れていた。控えめで優しく、海について語りだせば止まらない小柄の彼に出会ったのは、そんな時だった。
きっと私たちは運命で結ばれていた。運命なんて言葉を使うのはとても恥ずかしい気もするけれど、私は彼を、出会った瞬間から愛していた。素敵な瞳を持ち、興味を持ち、何にでも興味深そうな反応を見せる彼にとって、私はどう映っていたのだろう。いつもは褒めない容姿を、彼は一度だけ私に向かって言ったことがある。“君の瞳と髪はまるで宇宙のようだ。海と月に関係があるように、深いつながりがあるように、僕たちもきっと繋がりを見いだせる日が来るだろう”と。
私はロマンチストで落ち着いた彼のもとへ行くことにした。大柄な彼とは違い、小柄で優しさを持った彼は、いつも私を笑顔で迎え入れてくれた。そんな彼が倒れたのは、大学内でのことだった。
私は人だかりを見て、その中心にうずくまり恐怖におののいた顔をしている彼を見つけた。それは恐ろしい瞬間で、同時に、私の中に何かが芽生えた瞬間でもあった。きっと、恋であり、守りたいという本能だったのだと思う。すぐさま私は彼のもとへ駆け寄り、声をかけ、体が動かなくなったと唸る彼を介抱しながら救急車が来るのを待った。意外にも私は冷静だった。こういう運命を待っていた、いや、知っていたかのように。
彼は診断を静かに受け入れた。それが彼のシナリオにあるような表情をしながら。私も不思議とそれをすんなりと受け入れることができて、彼とともに病院を去った。彼は治療を勧められたけれども、それを求めることはなかった。今の技術に、彼を助ける方法はひとつもないことを知っていたからだと思う。進行を遅らせることでさえ難しい病に。
彼は今、手をつなぐことが少し難しくなっている。これからきっと、食べ物をつかめなくなって、私がすべて彼の生活を支えるようになる。でも私はそれを受け入れる。海を見ていた彼が言った。
“僕はあの波のようだった。あんな様に生きていたんだよ。でもいつか、波にうたれても動じないあの岩のようになるんだ。それでも、僕を愛してくれるなら”
私はうなずく。私は何度も彼を受け入れた。一度も見捨てたことはなかった。愛していたから、どこまでも彼を感じたかったから、もっといろいろなことを教えてもらいたかったから、こういった。
“それがあなたの望みであれば、私はそれを既に望んでいます”
彼は震えて固まった手で何かを取り出し、私の薬指にはめた。
気付くのは、それから一瞬もしないうちのことになる。