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カフェイン

作者: ひめきち

「あ、」


 ガコン。


 押し間違えたと気が付いた瞬間にはもう遅かった。

 重量感のある音と共に自動販売機の受け取り口へ落下して来た缶飲料の、パッケージデザインは素っ気ない黒。苦手なブラックコーヒーだ。


「……っ!」


 しゃがみ込んで取り出すと、素手で握っていられないくらいに熱い。春先でもホットドリンクを販売している貴重な自動販売機なのだ。穴場である中庭に設置されているため管理が杜撰なのかもしれない。制服の袖口を伸ばしてくるむように缶を持ち、反対側の手でポケットのお財布の中身を再確認する。

 あと入っているのは支給されたばかりのお小遣い、五千円札。自販機では使えないかぁ。小銭の持ち合わせ……もう無かったんだよね。


 月イチの、体調不良の日。腹痛はしょうがないとしても、頭痛までするのは血糖値が下がっているからだ。身体を温め糖分を補給すれば楽になることを経験上知っている。校内ではここでしか売ってない、普段はカロリーを気にして手を出せない激甘ホットチョコレートドリンクを、だからこの日だけは自分に解禁していたのに。


 私はコーヒーが飲めない。飲むと動悸がするのだ。いや、全くの不可能という訳ではない。砂糖とミルクを適量(……適量?)入れ、さらに摂取後ミネラルウォーター1本服用し迅速にカフェイン排出を促しさえすれば、比較的短時間で回復はする。夜もちょっと眠れなくなるけど、午後3時までに飲むなら寝付きは悪くともまあ最悪、徹夜にはならない。そう思って腕時計を見ればもう4時近く。

 ……痛恨のミスだ。

 飲めはしないけど火傷しかねないくらいに熱いのだから、少なくともカイロ代わりにはなるだろう。

 隣のB棟校舎から自販機に寄ってくる他人の気配を感じ、私は溜息を吐いて、場所を譲るべく立ち上がった。

 誰のせいでもない、自分の失敗なのだから、ここは甘んじて受けるしかないかな……。


 ガコン。


「うわっ!」


 立ち去り掛けた私の背後で、デジャヴな叫びが迸った。振り向くと、茶髪男子が件の自販機の前で立ち尽くしている。その手にしているものは私の欲しかったホットチョコレートだ。


「やっちまった……」


 小声でボヤいている。

 私とは逆に間違えたのかな。押しボタンが隣り合っているから、指が滑ると危ないんだよね。自販機でやらかすの私だけじゃないんだ。へへ。

 ちょっと救われた気持ちで見守っていると、目が合って、何故だかズカズカと距離を詰められた。

 え、いや違うよ⁉︎ 顔がニヤついていたかもしれないけど、これは決してあなたの失敗を嘲っていた訳ではなく、むしろ不幸仲間が出来て嬉しかったっていうか……!


「ね、それ飲んでないってことは……もしかしてだけど、君も押し間違えた?」


 初対面の女子相手だと言うのに物怖じしない態度の男子だった。

 柔らかそうな髪質を無造作風茶髪にしていて、高校生にしてはどこかまだ幼さの残る顔立ち。眉は嫌味のない程度に整えられてるし、肌は清潔でニキビの気配もない。そして今現在はつけていないけど、耳朶に残る塞がりきっていないピアスホールが、わりと最近までピアスの習慣があった事を示唆している。

 こういうのをきっと雰囲気イケメンって言うんだろうな。私とは正反対の人種だ。

 そもそも、って。同世代の人にそんな呼び掛けされたの、私初めてだよ。明らかに地味な私みたいなテリトリー外の女子にも、呼吸するように話し掛けられるコミュニケーション能力の高さ。第一印象を裏切らないチャラ男だな!

 しかして彼の熱い目線は私の持つブラックコーヒーに固定されている。


「……こ、交換します?」

「いいの⁉︎」


 若干食い気味に快諾された。

 まああれだ、男子には甘いモノ苦手な人が多いって聞くし、だとしたら激甘チョコレートドリンクなんか(もっ)ての外なんだろう。私にとっても救いの神、相互得ウィンウィンなトレードだ。

 お互いに飲み物を交換して、その場はそれで別れた。



 *



 次に彼に会ったのは3日後だ。


「誰かこいつらに和英辞書貸してやってくれーん?」


 クラスメイトの男子が教室中に声を掛けた。名前は確か藤原くん。親しい訳ではないが、同じクラスなので面識はある。入口に他のクラスの男子数人と立っているので、友人にでも頼まれたのだろう。文系と理系で、クラスを越えての辞書や教科書の貸し借り自体は割と頻繁にあるのだ。


(辞書……電子なら持ってるけど……)


 私は人見知り気味なので、知らない人に物を貸すことに少しだけ躊躇する。無いとは思うが、万が一壊されたり返ってこなかったりした時に対処出来ないからだ。でも今回は藤原くんが仲介になってくれるようだし、他に誰も貸し手がいなければ名乗り出てもいいかもしれない。

 クラス内に他に手を挙げる人がいるかどうか見極めようとしていると、藤原くん越しに廊下側から覗き込んできた男子の一人と目が合った。


「あー! こないだのおさげちゃん!」


 目線をロックオンさせたままズカズカと教室内に乗り込んでくる。その躊躇の無さに軽くカルチャーショックを受ける私。あれ、他クラスってもっと敷居が高いものじゃないの……?


「この前はありがとう。君、コーヒー交換してくれた子だよね。トックラだったんだ。へえ……頭いいんだね」


 トックラとは特進クラスの略だ。この学校では文系理系各一組ずつ、進学希望の成績上位者を集められたクラスが作られている。ちなみにうちは理系のトックラ。

 頭が良いというのはこの場合勉強が出来るという意味だから、否定はしない。トックラに在籍している人間ならば言われ慣れているし、下手な謙遜は嫌味になる。


「あのさ、和英持ってたら貸してくれない? 良ければ英語の予習ノートも。俺次の時間当たりそうなんだよね」


 まさかの個人攻撃。くっそ、不特定多数に有志を募られるのと違って断りにくいわ!


「……私ので良ければ」

「ホントに? 助かる、ありがとう! こっちの英語の時間までには必ず返すから! ……えーと、鷲尾(わしお)いづみさん」


 ノート表紙の記名を読み上げられる。


「俺は2組の芦屋(あしや)(がく)。よろしくね」


 2組……そうか同学年の人だったのか。

 同じ理系だとか文系でもトックラの成績上位者ならそれなりに交流があるから、なんとなく顔と名前が一致するんだけど、文系の普通クラスか……道理で見覚えがなかった訳だ。私、人の顔覚えるの苦手だからなあ。

 電子辞書とノートを渡すと、芦屋くんは笑顔で廊下の仲間の所へ戻って行った。


「俺借りれたー!」

「えっいいな岳。あの子知り合いなん?」

「うん鷲尾さん。友達」


 さっきの今で友達だと⁉︎ 友人のボーダーラインが低いなおい!

 さすが天下の陽キャ(推定)、スキルが違う。幼げな顔立ちで警戒心をほぐし、人懐こい言動でスルリと距離を詰める。なるほどこうやって知り合いを増やして人生スキップして行く訳ね。くぅ。見習えんが羨ましい。

 愛想笑いすら出来ない私は藤原くん達にぺこりと一礼して自席に着く。


「あと2人分、誰か持ってないかな?」

「隣行ってみようぜ」


 芦屋くんとその一行は焦った様子で移動して行き、隣クラスでまた懇願してる声が聞こえた。

 英語の授業何時間目なんだろう。間に合うのかな。英和ならまだしも和英置いてる人ってあまりいないもんね。……ちゃんと戻って来てくれよ、マイ辞書や。



 *



 それから数時間して油断していた休み時間、背後からの不意打ちに私は飛び上がった。


「これどうもありがとう。トックラはやっぱり進度早いね。鷲尾さんのノートばっちりだったし、助かっちゃった」


 ええっ芦屋くん、いつ来たの⁉︎ お客さんが入ってきた気配微塵も感じなかったんだけど、他クラスに溶け込みすぎじゃないのかな!


「充電そんな減ってないと思うし、トラブルも特別無かったと思うけど、一応動作確認してもらっていい?」

「えっ、あ、うん……大丈夫そう。ありがとう」

「いやお礼言うのこっちだって」


 律儀に座席まで辞書とノートを返却しに来やが……来てくれた芦屋くんが、「鷲尾さん天然?」と笑いながら、呆然としている私の手元を覗く。


「鷲尾さんって髪長いねえ。休み時間までお勉強……じゃないか。何読んでたの、小説? 理系の人も本とか読むんだ」

「……ええと、そりゃまあ人によるんじゃない、かな」


 文系が全員読書好きで理系が全員読書しない、っていうのはさすがに偏見だから!

 私はさり気なく頁を閉じて表紙を伏せた。

 ……語尾が丁寧語になり掛けたけど、同学年ならタメ語でいいよね。

 落ち着け落ち着け。背後から一瞬だけで本の中身まで悟られる訳がない。


「しかも鷲尾さん大人しそうなのにチョイスが意外」


 うっわ、しっかり見られてた!

 地元の書店では取り扱っておらず通販で取り寄せたばかりの古いシリーズ。ついつい夢中になって明け方近くまでのめり込んでしまった。その上朝から通学鞄に続刊をこっそり忍ばせてしまう程、続きが気になって仕方なかったのだ。油断してた。ブックカバーすら掛けていない状態だから、見る人が見ればかなりコアな作家のハードボイルド小説なのが丸分かりだ。純愛がテーマではあるけどエロもグロもある作品。間違っても女子高生(JK)が教室で読み耽るようなジャンルでは無い。


「じっ……実は私乱読派で! ハハハ」


 何キャラだよ私。


「この人の本、図書室蔵書には無いよね。鷲尾さん自分で買ったんだ? 結構ファンなの? 確か最近亡くなった作家だよね」


 マズい、キャラ崩壊を軽くスルーされた上に、芦屋くん割と文芸に詳しかった!

 仰る通り、作家さんの訃報のニュースから著作一覧辿ってシリーズ購入を決めたんだった。

 陽キャなリア充チャラ男(推定)だから読書に興味無いだろうとか……。こっちこそ偏見だったわすみません謝るから見逃してください。


「なんか勢いでオトナ買いしちゃって……あはは、深夜テンションって恐ろしいよねー……」

「え、本当? 全巻持ってるの? いいな、俺もこの作者気になってたんだ。でも電子化もされてないみたいだし……。あ。ねえ、嫌じゃなければさ、鷲尾さんが読み終わったら次貸してくれない?」


 え。


「……読むの?」


 古い本だし、最近流行っているような傾向とは全然違うのに。


「あれ。面白そうだなって思ってたんだけど、違う?」

「お、面白いよ!」


 そこは断言できるとも!

 私の鼻息が荒かった所為か、芦屋くんはフッと空気を逃すように笑った。


「じゃあ貸して」

「……分かった。今度1巻持ってくるね。それ読んで芦屋くんが面白かったら続けて貸すよ」


 こうしてどこかなし崩し的に、私は芦屋くんと約束を交わしてしまったのだった。



 *



(確か2組、だったよね……?)


 放課後、2組の教室へと向かいながらも、私の足取りはいまだ躊躇ためらっていた。

 鞄の中にはしっかりブックカバーを掛けた例のシリーズ第1巻が入っている。実を言えば芦屋くんと話をした翌日には学校に持参していたのだが、あれから彼と会う機会も無いままに数日が経ってしまっていたのだ。

 芦屋くんと私のクラスは同じ階だけどほぼ端と端に離れていて、使う階段も別々だ。意図的に立ち寄らなければ偶然会うことはほとんど無い。一度は貸すと約束した手前このまま放置するのもどうかと思い、悩みに悩んだ末に渡しに行こうとしているのだけど、そもそもが親しい友達でもないので日にちが経つうちにどんどん疑心暗鬼に襲われてきた。


 あの「貸して」という芦屋くんの言葉は、社交辞令というやつだったのではあるまいか。

 もしくは軽い気持ち、その場のノリでお願いしただけで、本人はもうとっくに忘れているとか。

 連絡先を交換した訳でもないただの口約束だったのに、教室にまで押し掛けて、「なんだこいつ」的な目で見られたらどうしよう。

 それに、よく考えたらそれほど親しくもない男子に際どい小説を貸すのってどうなんだろう。ネタにして笑えない分、もしかしたらエロ本貸すより恥ずかしいのではないかなあ(持ってないけど)。

 いや、この作品の根底に流れているのは切ないくらいの純愛だけどね! そこが好きなんだけどね!

 ……理解してもらえるかな。ううん、私の気持ちを理解される必要はないんだけど、この本の素晴らしさをきちんと読み取ってもらえるかな。

 ただの一読者に過ぎないくせに何言ってんだって感じだけど、誰だって自分の好きなものの価値を認めて貰えないと嫌な気持ちになる。

 コーヒーの事だってそうだ。熱狂的に好きな人の前では、だから私はコーヒーが飲めない事を敢えて公言はしない。


 そういや布教活動ってやったことなかったなあ。

 ……はぁ、ハードルの高さにひるんでしまいそう。

 小説を読んで生じる感想なんて当然、人それぞれだ。高名な文学賞を取った作品でも万人の心に響くわけじゃない。親しくて趣味嗜好の分かっている友人相手でも緊張するだろうに、ほぼ初対面の相手に自分のお薦め作品を渡すなんて、ある意味性癖を晒すようなもんじゃないか。私ったら、なんでこんな恥ずかしい事引き受けちゃったんだろう……?

 そう自問すると、約束を交わした時の芦屋くんの顔が脳裏に浮かぶ。

 ……だって、『本当に楽しみだ』みたいな表情してたんだもの。芦屋くんが物凄い演技派だっていうのでもない限り、あの顔見てたら私から反古ほごになんて出来ないよなぁ。


 てな事をつらつら考えているうちに、呆気なく2組の前に着いてしまった。まあ同じ階なんだからそこまで遠くなくて当たり前か。

 放課後だから出入口は開放されている。既にクラスの半分くらいは帰宅したり部活に移動したりで居なくなっていたが、居残ってお喋りに興じている人達で教室内はどことなくざわついていた。体育祭の応援団の打ち合わせとかそんな感じかな、うちの学校もうすぐだし。パッと見で、芦屋くんどころか、知り合いが誰一人その中に見当たらない。


 ……ああ、他のクラス、声掛けづらい──!


 逡巡していると、一人の女子生徒がこっちを見た。

 領土侵犯してすみません! と瞬時に回れ右したくなったけど、ふわりと微笑んだ彼女に目の前まで駆け寄って来られてしまう。


「どうしたのー? 2組(うち)の誰かに用事ー?」


 癒し系ボイスに軽く揺れるツインテール。

 ……一方的にだけど、この子知ってる(多分)。学年一可愛いと評判の子が2組にいると、以前風の噂で聞いた。名前は後藤さんとか加藤さんとか佐藤さんとか言った気がする。私の耳に届くくらいだから相当なんだろうと思っていたが、おお、噂に違わず可愛い上に親切だと……? 貴女が女神か……‼︎


「あの……あ、芦屋くん、います……?」

「芦屋──ああ、がっくん? いないねー。んー……部活に行ったんじゃないかなぁ、忙しそうだったし」


 がっくん?

 一瞬、格付けKINGの某肉体派ロックミュージシャンやら怪力ロボット眼鏡少女の某弟分やらが浮かんだけど、芦屋(……ええと確か)(がく)、で『がっくん』なのか。何それ可愛い。後藤さん(仮称)の可憐な唇から呼ばれると余計に可愛い。


「部活って……」

「がっくんは美術部だよー。急ぎの用ならB棟に行ってみるといいんじゃないかな。場所分かる? 美術室」

「……多分大丈夫。ありがとう」

「どういたしましてー」


 後藤さん(仮)がニコニコしながら私の後ろに回り込んだ。なんか注視されてないか私。どこか変かな。はっ、ファスナー開いてたりしないよね……⁉︎


「ところで髪長いねー。編み込みがすっごい綺麗。自分でやってるの?」

「ん、うん。一応……」


 不肖私、女神に背後を取られて挙動不審である。

 褒めて頂いて恐縮ですがすみません、お洒落でやってるんじゃないんです。

 私の髪は癖毛なので短いと爆発するし、毎朝ブローするよりもいっそ最初から編み込んでしまった方が楽なのだ。腰まである長さも散髪がめんどくさいというズボラの結果でしかない。


「いいなー器用で! 私の髪、三つ編みにしてもスルスルほどけちゃってキープ出来ないんだよねー」


 女神よ、それは貴女の御髪が素晴らしいストレートだからです。天使の輪まで見えるぜ。天然ストレート尊い、最高、異論は認めん。金払ってわざわざパーマかける奴らの気が知れんわ(縮毛矯正だけは別、あれは私も自分で稼げるようになったらやってみたい)。


「機会があったら今度私にも編み込み教えて?」

「いいよ勿論……私で良ければ」

「やったー」


 可愛くガッツポーズをした後藤さん(仮)は友人に呼ばれて、軽やかにスカートの襞を揺らしながら去って行った。おかしいなあれ私のと同じ制服だよね? TOKIOガールズショーの衣装かと思った。

 去り際に口角を上げて手の平を向ける仕草すらキュート。仄かに残る甘い香り。真のリア充は性格も良いと誰かが言っていたっけ。私が男だったら間違いなくこの数分だけで恋に落ちてるな……!

 私は今日、女子力の真髄を見た。



 *



 高校では芸術科目を音楽・美術・書道の中からどれか一つだけ受講する事になっている。ちなみに私の選択は、一番無難そうだったので音楽だ。なので美術室には入学当初の校内案内以来、足を踏み入れていない。うろ覚えの記憶頼りではあったけど、大して迷わずに美術室を見つける事が出来た。

 B棟は中庭を超えた向こう側にあった。テレピン油の匂いなのか、この一角にだけ独特な雰囲気が漂っている。人の話し声、紙に鉛筆を滑らせる音、椅子の軋み、軽い笑い声──扉の向こうで親しげに仲間内の活動をしている気配がする。


 ……って、さ。ここまで来といて今さらだけど、無関係な人間が部活の最中に部室乱入するのって、よそのクラスを放課後訪問するよりハードル高くないかな?

 おっそ! 気付くの遅いよ私! どうしよう、やめとこうかな……。


 私はドアノブに伸ばし掛けた手を引っ込める。


 ……いやしかし、女神・後藤さん(仮)が折角教えてくれたのに、行かないって選択肢は無いよねえ。今日行かないと私の気持ちが挫けそうだしさ。もしかして……もしかしてだけど、芦屋くんの方だって本を楽しみに待っているかもしれないし……。

 だけど、でも、やっぱり、うう、どうしよう、どうしたら。行くべきか行かざるべきか……。


「いつまで逡巡してんの? 鷲尾さん」

「わあ!」


 予想外の方向から機材を載せたカートを押して芦屋くんが現れた。私のリアクションが滑稽だったのか、「鷲尾さんなんかツボ」と言って肩を揺らしてる。


「び、美術室にいるんじゃなかったの⁈」

「うん、これ使うから取りに行ってた。したら長い編み込み髪の女子が今から俺を訪ねて来るよって、クラスの子がSNSラインで教えてくれた」


 震えるわ。アフターフォローまでこなすとか、親切過ぎやしませぬか後藤さん(仮)……。


「これ、三つ編みじゃなくて、編み込みって言うんだね。おさげでもないのかぁ。ごめん俺何も知らんくて。自分で編んでるの? はぁー、後ろとか見えないだろうにどうやんのか皆目見当も付かない」

「あ、これ実は見た目より簡単で」


 慣れれば5分で出来る。


「へえ……なんか芸術的なのに」


 さらりと。

 芦屋くんが私の編み込んだ髪束を掬い撫でていった瞬間、心臓が止まった気がした。

 だって癖毛だし。枝毛だって探せば結構見つかるし。何より放課後だよ、1日過ごした髪だよ、触られるとかホント無理だから!

 空白の一拍を経て、ナイアガラ級の濁流音が耳の奥で轟く。物凄い勢いで顔面になだれ込む私の血流の音だ。赤い。私今絶対に顔赤い。


「ゲ、イジュツ家なのはそっちでしょ。美術部なんだね。絵描ける人って尊敬しちゃう」


 才能は勉強しても手に入らないからなあ。


 詰まった言葉をどうにか繋げて平静を装いつつ、一歩下がって距離を取った。心臓バクバクいってるけどこれ相手には聞こえてないよね大丈夫だよね? 誤魔化すように向けた視線の先には芦屋くんが運んできた機材……プロジェクター?


「あーこれ? 体育祭の応援看板作るとこ。ほら赤組青組黄組それぞれ団員席の上に毎年シンボル絵掲げるよね? あれ、俺ら美術部員が描いた下絵を巨大看板に拡大投影して、人海戦術で皆に指定して色塗ってもらうの。デッサンの狂いとか拡大するとモロバレだから確認しとこうと思ってセンセーに借りてきた」


 前髪を掻き上げて笑いながら、芦屋くんが説明してくれる。


 応援看板……ああそういえば体育祭には付き物なんだっけ。体育祭とか私的には空気に徹する日だから、正直脳内スケジュールからデリートしてたわ。あの看板って業者が製作しているのかと思ってたけど違うんだ……って、ええっ?


「……えっ、凄い。つまり看板を芦屋くんが描くって事?」

「今年はね。それに全部じゃないよ。俺は黄組担当」

「充分凄いよ! どんな絵になるの?」

「赤の奴は朱雀で、青の奴は蒼龍らしいよ。俺は虎にするつもりだったんだけど」


 芦屋くんは眉間に皺を寄せた。


「……実は今ちょっと迷ってる。黄色で虎ってありきたりかなー。ライオンとか? いっそ満月を浴びた狼男なんてどうだろう、アリかもしれない?」

「狼男……」


 ハッとして私は鞄から本を取り出した。

 芦屋くんに貸す予定のこのシリーズ、実は主人公が人間社会に紛れ込んだ狼男なのだ。


「お! やった! 本持って来てくれたんだ!」


 手渡すと、喜んでくれたのでホッとする。


「あの、忙しかったら返すのはゆっくりでいいから」

「読む読む。いい気分転換になるよ。わー嬉しい。ありがとう鷲尾さん!」


 頑張ってね、と声援を送って私は芦屋くんと別れた。心配が杞憂に終わったのは良かったけど……。

 下駄箱に向かう道すがら、後藤さん(仮)のサラサラ髪に浮かぶ天使の輪が脳裏をよぎる。

 芦屋くんと後藤さん(仮)ってクラスメイトだよね。あの艶やかな髪を見慣れている人に、私の癖毛なんかを晒してしまった。手触りとか微妙だったんじゃないだろうか。女子力が低くて申し訳ない。


 帰り道、ドラッグストアで私は初めて自分の為にヘアトリートメント剤を買った。



 *



 それから一週間もしない休み時間、芦屋くんがうちのクラスに突撃して来た。


「鷲尾さぁぁん!」

「へっ? 何? 芦屋くんどうしたの」

「読んだ! 何これ熱い! すげー良かったありがとう! ちょ、もう、昨夜読み終えてから滅茶苦茶感想語りたかったのに、連絡先交換してなかったの、ホントしくった! 2巻! 2巻貸して鷲尾さん!」


 ……布教は成功したようだった。

 次の日私は芦屋くんのクラスまで2巻を持っていった。勿論連絡先も交換しておいたので、それからは彼が一冊読み終えるたびにお互い感想を語り合い、翌日私が続きを渡すというルーティンが確立されていった。



 *



「いづみ、月末の模試受ける?」

「S台予備の? あれ難易度高いよね」

「そうなんだけどさ、塾の先生が今後の為に受けとけって……」

「ああ私も偏差値もう少し上狙おうって言われてる」


 教室移動で友人のみっちょんと歩いている時に、偶然芦屋くんを見かけた。男女混じった華やかな集団。麗しの後藤さん(仮)もいらっしゃる。

 私の視線に気付いたみっちょんが、控えめに芦屋くんを指差す。


「あの人……いづみの知り合いだっけ。時々うちのクラス来るよね?」

「ああ、本とか貸してるから……」

「そか。なんか意外だね」


 意外なのは芦屋くんが本を読むということか、それとも私と彼が友達だということか。

 多分両方なんだろうな。

 仲間内で誰かが可笑しい事でも言ったんだろう、向こうの集団からドッと大きな笑いが湧いた。


「お気楽だね。……うちらとは別世界の住人って感じ」


 憧憬とも軽蔑ともつかないような声音で、みっちょんが言った。



 *



「鷲尾さんてさあ、そんなに本読むの好きなのになんで理系なの?」


 普通文系選ばない? と芦屋くんが首を傾げた。


 放課後。B棟に向かう途中の廊下で落ち合って、いつものように本を渡し、ついでに自動販売機で飲み物を買う。中庭の、芦屋くんと初めて会った件の自販機だ。美術室からだと一番近いらしく、あの日も部活の休憩がてら飲みに来ていたのだろう。芦屋くんはコーヒー、私は無難にお茶にした。封を切って、立ち飲みする。それぞれ部活と帰宅前、束の間の一服。


「あの……ヤな感じの自慢に聞こえちゃうかもしれないんだけど」

「うん」

「私、体育とか芸術方面には全然才能無いんだけど、主要教科は満遍なく全部出来るんだよね、勉強」

「ん? ……うん、スゲーね」


 芦屋くんの表情に妬みも嫉みも見当たらない事を慎重に確認して、そっと安堵の息を吐く。

 勉強が出来るというのは私のプライドだけど、同時に、勉強しか出来ないというのが私のコンプレックスなのだ。


「けど特にやりたい職業もなくて。それなら文系より理系の方が将来的につぶしが効くかなーって」

「なるほど、安定志向」

「読書は好き。だけど仕事にはしたくない。趣味でいい。むしろ、趣味いいの。仕事にしちゃうと私はきっと純粋に楽しめなくなるだろうから」

「……鷲尾さんは根っこが真面目そうだからねー」


 芦屋くんは伸びをしながら言う。


「俺は逆だな。好きな事を仕事にしたい。というより、好きな事だけやって生きていきたいから、仕事にせざるを得ない。絵以外の事に時間取られるの、正直ヤダ」


 集中して描いてると食事風呂睡眠すら面倒くさいんだ、と全然そうは見えない外見をして、芦屋くんは塞がりつつあるピアスホールを空いている方の手で弄った。


「あーでも、読書は好き。音楽や絵画とはまた違うアプローチがある。考えた事もないような情景とか心理描写に出会うと、頭殴られた気がして時々ハッとする。そういう捉え方があるのか! ならこの色、あの手法だな、この場面俺だったらこう描く、とか思いながら、本読んでる」


 美術部員だとわりと異端だけどね、と芦屋くんは笑う。


「人との会話も、そう。楽しい。鷲尾さんとか特に、頭でっかちで新鮮」


 どういう意味だ。


「そんな言う割には、芦屋くん結構勉強頑張ってるよね?」

「あー、おバカなりに一応、最低限ね。俺の目指す美大、学科試験もあるから」

「美大……」


 そうか、世の中にはそんな進学先もあった。限られた才能の持ち主しか選べない選択肢だ。

 ……本当に私とは人種が違うんだな。

 高校がたまたま同じだったというだけで、きっと私達は大学も就職先もその後の人生も、全然違うものになるんだろう。

 今この一点だけ接していて、その先は二度と交わる事の無い二本の放物線。それが私と芦屋くんなのかもしれない。

 それなのに同じ本を読んで共に感動出来るなんて凄いことだ。ひょっとして奇跡に近いのでは。


「さて、眠気覚ましにカフェインも摂取したし、看板仕上げなきゃなー」


 芦屋くんが空き缶を屑籠に放ったのを契機に、私は飲み切れなかったお茶の蓋を閉めて鞄に入れる。

 コーヒーの好きな芦屋くん。コーヒーの飲めない私。こんな点でも私達は相容れない。

 それなのに別れ難く思ってしまうのだから不思議だ。


「黄組の看板のモチーフって結局何になったの?」

「それが……笑ってくれる? 一周まわって虎!」


 芦屋くんは苦笑して、先程受け取ったばかりの本を仕舞ったポケットをポンと叩いた。


「読めば読むほど、俺らの狼男ウルフ・ガイが体育祭の応援してくれそうなキャラには思えなくなってきて」

「……確かに」


 私達は顔を見合わせて吹き出した。


「まあ期待してて。彼に匹敵するくらいカッコいい虎を描きあげてみせるから」

「うわぁ大きく出た」

「ハードルを自ら上げていくスタイルです」


 冗談っぽく言ってるけど、この言葉はきっと、試行錯誤に裏打ちされた自信なんだろうな。

 どんなものが完成するんだろう。

 そういえば私、結局美術室の中にまでは入りづらくて芦屋くんの作品見たことないや。


「芦屋くんてどんな絵を描くの?」

「ああ、鞄に何点かあるけど……今見る?」

「いいの? 見たい!」

「…………」


 芦屋くんは荷物からクロッキー帳を取り出してパラパラとめくり、ぱたんと閉じた。


「ごめんやっぱりナシでいい?」

「え、どうし……」

「恥ずかしくなっちゃった」


 はは、と誤魔化す笑い。

 芦屋くんのことだから頼めば気軽に見せてくれそうな気がしてたのに、何故だ。思ったより不本意な出来だったのかな? まあそれならいいか。こうなったら体育祭本番を楽しみにしておこう。

 ……有名美大受験は倍率もかなり高いと聞く。何か私でも芦屋くんの力になれるならいいのだけど。


「私で良ければ勉強、分からない箇所とか教えようか……?」

「おお、マジで? 百人力!」


 それからたまに夜、宿題の質問が来て教えたりした。スマホ越しの質疑応答には少しだけ時差があって、既読がついて返事が来るまでの間、私はなんだか普段よりソワソワしてしまうのだった。



 *



 カンカン釘打ち音がするなあと思っていたら、校庭で男子生徒達が応援看板の枠組みを作っていた。横幅が人10人分くらいある。大きい。

 廊下の窓から見下ろすと、芦屋くん達美術部人数名がその横で着色の指揮を執っている。赤、青、黄色の絵。完成したんだ!

 私は写真を撮るために窓越しにスマホを起動した。ピントを調整していると女生徒が寄って来て隣にスッと並ばれた。


「ねえ、トックラの人だよね?」

「あっはい」


 話し掛けられたことにびっくりする。


「最近よくがっくんに会いに来てるよね」

「え? あ、本を貸しに……」


 誰だろう。どこかで見た気もするな、同学年かな。隙のなく整えられた髪と爪、2組の人?


「あのね、がっくんはさ、後藤ちゃんのことが好きなんだよ」

「え……」


 この人は何故私に向かって・・・・・・そんな事を言うのだろう。本気で分からなくて私は数秒フリーズした。


「……知ってた?」


 それから彼女の労わるような目線に、唐突に理解した。

 これは忠告だ。明らかに望みのない相手にのぼせて手痛い失恋を味わう未来が確定している女に、わきまえろと告げている。私と芦屋くんが本当に友達だなんてはなから思っていない目。お前なんか釣り合っていない、とその目に断定されている。


「そ、そうなんだ……」


 恥ずかしい。


 指摘されて自分の気持ちに初めて気づいた。


 最初から別世界の人だと知っていて、でも友達ならいいんじゃないかと思うようになっていた。


 友達だと思ってた。思い込んでた。なのに自分でも気づいていなかった恋心がいつの間にか滲み出ていて、当たり前のようにそれを周囲に悟られていたのか。身の置き場もない。

 羞恥のあまり、私はシャッターも押せずにその場から逃げ出した。



 *



『ごめんね、模試の勉強しなくちゃいけなくて。1冊1冊渡していると手間だし、残りの本、纏めて渡しておくね。感想も返却も全部読み終わってからでいいから』


 切り口上で用件だけのSNSをし、わざと短い休み時間を指定して、芦屋くんに会った。結構な重さになった荷物を渡す。


「わ、ずっしりだね。大変だったでしょ。なんかごめんね?」

「ううん、こっちこそ重いのごめん。急がなくていいからね」


 最初からこうしていれば良かった。今にして思えば、1冊ずつ手渡ししていたのは芦屋くんに会うのが楽しかったからだったんだ。無意識の自分の行動に赤面しそう。


「看板完成したんだよ。見てくれた?」


 いつも通り、気負いのない芦屋くん。本人が気付いている様子はない。でも、道行く人はあの人もこの人も、私が目の前の人に実らぬ片恋をしていると知っているのだと思うと居たたまれない。


「あ、ええと、まだかな。当日を楽しみにしてるね!」

「鷲尾さん?」


 目を合わせない私を訝しく思ったのだろう。芦屋くんが何か問い質そうとするが、思惑通りに予鈴が鳴って、私は空々しい笑顔で乗り切った。



 *



 夜、芦屋くんから連絡が来ても、勉強以外の内容は進んで話さないように気を付けた。今まで秒で返していた返信は、2回に1回は翌朝まで既読が付かないようにして、気が付かなかったふりをした。


 私は何と戦っているんだろう。

 あんな女神みたいな女性を好きになる人が、私なんかを恋愛対象として考える可能性は皆無だ。

 元々無かった望みを、自ら更に貶めるような態度を取ってどうしようというんだろう。

 このままでは友達ですらいられなくなってしまう。


 時々そう思わないでもなかったけど、分不相応に高望みをしてしまった自分がとにかく恥ずかしくて、自分自身に対してもこの気持ちを無かったことにしてしまいたかった。


 私はどこで間違えたんだろう。

 友達でいるだけで良かったはずなのに……。


 布団の中で電源を落としたスマホを握り締め、コーヒーも飲んでいないのに眠れない夜が続いた。



 *



 体育祭の前日になった。今日は1日掛けての予行演習だ。小憎らしい程の晴天で、まだ5月なのにも関わらず気象庁が朝から熱中症の注意喚起をしていて嫌になる。ただでさえ苦手な体育祭だというのに、私のコンディションはお世辞にも褒められたものではなかった。寝不足のせいでか周期が狂い、頭痛と腹痛が奥の方にしつこく居座っていた。


(空気……。今日の私は空気……)


 高校の体育祭の良いところは全プログラム中全員参加の部分が最小限に抑えられている点である。私のように運動の得意でない生徒は、開・閉会式と全校生徒参加の1種目だけこなせば、あとは漫然と応援しているだけで済むのだ。まあ暑さからはどっちみち逃れられないんだけど。

 会場設営は既に準備万端整えられていて、私達生徒は体育服に着替えてから校庭に向かった。行進が始まる。歩むにつれ、頭上高くに掲げられた応援看板が否応なしに視界に飛び込んで来る。


「ぅわ……!」


 脈動感溢れる虎と、目が合った。

 リアリズムとは違う。生きている動物ではないと一目で分かるデフォルメがなされているのに、まるでそこに居るような・・・・・・・・。黄色と黒の色を従えて、獰猛な虎が王者の咆哮をあげている。

 赤の朱雀も青の蒼龍も上手い。けど素人目からでも、黄色い猛虎の迫力は抜きん出ているようだった。誇りがあった。渇望があった。何より迷いのない貪欲さが、彼にはあった。

 開会式(予行)の間中、目が離せなかった。


(恋の欲目? 違うよね。凄い……! 芦屋くん、こんな絵を描けちゃう人だったんだ……)


 すとん、と。

 その瞬間、私の恋心が身体の中に着地した。

 無かったことにしよう、どうにかして消し去ろうと苦戦していた気持ちを、やっと素直に受け入れられたのだった。


「いづみ? どした?」


 へなへなと応援席に座り込む私に気付いて、すわ貧血かと、みっちょんが慌てて支えてくれる。


「腰が、抜けた……」


 これは、しょうがない。うん。好きになってもしょうがないよ。

 何のてらいもなく、そう思えた。



 そのまま私は救護テントに運ばれた。



 *



「いやーもー最近の異常気象は困るよねー、5月なのに30度超えてるんだもん。9月も10月も暑い、5月に替えてもそこも暑い、地球温暖化の最中、一体いつ体育祭しろって言うのよまったくもー」


 白衣の天使が女神だった。いや女神が天使様になっていた。自分でもちょっと何を言っているのか分からない。あれこれマジで重症なんじゃないの私?


「鷲尾さん? 熱はないよね、大丈夫? 私のこと分かる?」

「えと……後藤さん(仮)?」

「はい。救護委員の後藤です」

「ああ、後藤さん(確定)……」


 あっ良かった正常だった。白衣に空目したのはただの体育服と救護委員の腕章だった(……正常か私?)。


「熱中症というより寝不足の上2日目なら、そのせいかもね。鎮痛剤飲んで少し休めば回復するでしょう。保健室クーラー効いてるからまだ空いてる今のうちに寝てきていいわよ。後藤さん、付き添って鍵開けてあげて」


 保険医の許可を得て、デフォルトで親切な後藤さん(確定)に肩を借りて移動する。可愛くて優しくて、救護委員とか天職だと思うよね! 恋敵と判明したところで張り合う気も起こらないよねこれは!

 保健室のベッドに横たわり布団を掛けてもらっていると、誰かが窓ガラスをノックした。二人して顔を見合い、後藤さんが窓を開けに行く。外に立っていたのは芦屋くんだった。


「鷲尾さん初っ端から倒れたんだって? 具合どう?」

「へ、平気、ありがとう……」


 うわぁこれは気まずい。やっちゃいけないと思うとなおさら後藤さんと芦屋くんの両方をチラチラ見てしまう。


「がっくん……冷気が逃げるから」


 幾ら親しい間柄と言え、後藤さんとしても第三者のごくごくプライベートな情報は説明しかねるのだろう。彼女に窓を閉められそうになって、芦屋くんは慌ててタオル包みを突き出した。


「待って待って、これ御見舞い! 鷲尾さんに!」

「何? なんか熱くて重……?」


 後藤さんがそのまま受け取って私の前まで持ってきてくれた。包みを開くと熱々の激甘チョコレートドリンクが5、6缶入っていた。私はびっくりして固まってしまう。後藤さんの方は呆れたように溜息をついた。


「がぁーっくん……これ、嫌がらせ? 炎天下に倒れた子には普通冷えたスポドリとかじゃないの?」

「いや、鷲尾さん、具合悪い時はいつもこれだよね?」

「何で知って……!」


 思わず叫んでしまった自分の口を押さえると、


「ふぅんー? がっくん、扉から回って入って来て?」


 と可愛らしく後藤さんが微笑んだ。

 どうしようもしやこれは修羅場の予感? いやまさかそんな私ごときが、と震えていると、入ってきた芦屋くんに向かって「5分だけだよー」と言い置いて後藤さんが退出しようとする。さすがに私は必死に引き止めた。


「なんで止めるの鷲尾さん? 私だって馬に蹴られるのはゴメンなんだけどなー」

「え、だって、その、何というか、後藤さんと芦屋くんって」

「……ただの幼馴染だけど」

「ねえ?」

「うん」


 はあ──⁉

 あまりのことに口をパクパクさせていると、「私ちゃんと彼氏いるしー」と笑って後藤さんは手を振って行ってしまわれた……。あ、ソウデスネ、女神が彼氏持ちだというのは物凄く順当に納得できますね……。

 ではあの女生徒の助言は単なる推測か、いやいや後藤さんに彼氏がいるからと言って芦屋くんが片思いしてる可能性が0になった訳ではないし、というか芦屋くんが誰を好きだろうと問題はそこではないのでは? 等とつらつら考えあぐねていると、


「ハイハイ、冷めちゃうから飲めるならサクッと飲んで横になって。余った分は身体温めるのに使う?」


 芦屋くんに急かされた。オカンか。しかし具合が悪いのでつい素直に言う事を聞いて横になってしまう。クーラー涼しい、気持ちいい。なのにお布団と熱缶カイロでお腹周りはあったかくて鈍痛が緩和され、少しだけ幸せだ……。いかんうっかり流されかけた。


「だから……何で知ってるの……?」

「それはホラ、美術室から鷲尾さんがこれ買ってる姿時々見えてたから。あんな不便な場所まで飲み物買いに来る人そうそういないんだよ」


 衝撃発言が飛び出した。


「毎月毎月青い顔してやって来て、ドリンク飲むと助かったーって顔で帰っていく。どれだけ美味しいのか気になって1回試してみたら地獄のように甘かった、死ぬかと思った」


 芦屋くんは屈託無く笑う。

 じゃあもしかして最初の自販機前の出会いは偶然ではなかったのかと恐る恐る尋ねると、


「ん? あの日はさ……鷲尾さんが買い間違えてぐぬぬ、ってなってるのが目に入ったからちょっと人助けしようかと」


 などと言われた!

 何それ。恥ずかしすぎる。いや助かったけど──!


「辞書の日は偶然。でも話してみたら鷲尾さん面白くて。どんどん知りたくなっていって」


 どうしよう、自分の鼓動が早鐘のよう。ドキドキ、バクバク、ドクンドクン。累乗的にテンポアップしていって血流が追い付かない。息ができない。私の顔、赤面を通り越して蒼白になっている気がする。


「鷲尾さん俺、」


 コーヒーを飲んだ時の比じゃない。なにこれ苦しい。心臓が口から飛び出しそう。凄い勢いで動悸が胸元からせり上がって来て……


「ちょっとごめん吐きそう……」

「わわわ、大丈夫? 鷲尾さんしっかりして!」

「具合の悪い子相手に何やってるのー‼」


 戻って来た女神に芦屋くんがしこたま叱られた。



 *



 そんな訳で、反省した私は後日仕切り直すことにした。

 放課後の人気のない中庭で、念のために美術室からも死角になる位置を確認して待ち合わせをし、芦屋くんと向かい合う。

 ええい女は度胸、自分の気持ちを正直に告げてしまえ!


「虎を見て決めましたいつか私のために人狼描いてもらえたら死ぬほど幸せです報われなくても頑張る所存なので寛大に交友してください!」

「待って鷲尾さん、早口なうえ告白が斜め方向に高度過ぎて意味が分からない」


 至極真面目な表情で芦屋くんにテイク2を求められ、私はあえなく失速した。


「えっと、つまり」

「うん」

「ええと」

「うん」

「え……と……」

「うん?」

「……これからも仲良くよろしくお願いします?」


 私の気合いは途中で折れた。勢いって大事なんだと痛感。むしろ何を言おうとした自分! 付き合って下さい(意訳)とか、身の程知らずか!


「うん分かった。よろしくお願いされちゃいます」


 けど、まあそれでもいいかなって思った。芦屋くんが笑って頷いてくれたから。

 こっそり私が好きでいる分にはいいよね。友達でいられるよね。時々本を貸し借りしておしゃべりをして。叶うなら、芦屋くんの描いた作品をまたいつか見せてもらいたい。今はそれだけで充分な気がした。


「ねえ鷲尾さん」

「はい?」


 呼ばれて俯いていた顔を上げると、何故だろう、正面の芦屋くんの笑顔が一段階深みを増していた。いつでも人当たりの良い芦屋くんだけど、この人あの虎の作者なんだよなぁと納得してしまうものを微量に含んでいる、それはそういう表情だった。


「俺ら、もっとすっごいメチャクチャ仲良くしていこうね。手始めに、そうだなあ、名前で呼び合ってみるとかどう?」

「え?」

「それが駄目なら手でも繋ぐ?」

「ええ⁉」

「だってさっきの告白だったんだよね、分かりづらかったけど。俺そのつもりで了承したよ?」





 そして私は、カフェイン摂取した訳でもないのに治まらない動悸と、この日から長い長いお付き合いをしていくはめになるのだった。

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