第四話 風の怪盗
――メルクリア王国 王都バリアス――
メルクリア王国第五十六代騎士団長ジルド=サージスは椅子を無造作に引き寄せると、乱暴に腰を下ろして溜息をついた。座った時の衝撃で身につけている甲冑がガチャガチャと音を立てる。しばらくの間、彼は俯いたままであったが、やがてゆっくりと顔を上げると部屋の上方に飾られた一枚の絵に目をやった。絵には第七代騎士団長マニフィックと書かれている。綺麗な金髪を携えた顔は厳しさを感じさせるが、どこか優しさも内包していた。
今、ジルドには悩みの種が二つある。
一つは、世間を騒がせる怪盗の存在。
かつての騎士団長の名を騙る怪盗は、ある日突然この国に現れた。鮮やかな手口で金持ちから金や宝を盗んでいく一方、貧しい人間からは決して盗みをしなかった。所謂義賊というもので、いつも傲慢な金持ちが痛い目に遭うのが受けたのか、一部の民衆からの評判は良い。被害にあった者の中には違法な取引を行っている悪徳商人も含まれており、怪盗のお陰で証拠を押さえることができ検挙に至ったケースも少なくない。
ジルドには、怪盗を完全な悪と断ずることは難しく感じた。もちろん民の安全と財産を守る騎士団の長として、そんなことを口にするわけにはいかなかったが、もう一つの問題に比べれば胸が空くところもある話であった。
ジルドの頭を悩ませるもう一つの問題。
それは、今この国で横行している賄賂の話である。
国の平和が長く続けば、心が緩み規律が乱れる。特に最近は政治の腐敗が酷く、何をするにも金を要求される始末であった。実際、ジルドも騎士団員の訓練内容について大臣に意見具申した際、金品を要求されて唖然としてしまったという経験がある。中央の大臣たる者がそんな感じなのだから、末端の小役人が民衆から金を巻き上げたり、小金で悪事を見逃すのも日常茶飯事と言えた。この先、金を持つ者が徐々に幅を利かせ、政治に介入してくることも大いに考えられる。
(国や人が金で動くようになったら終いだな)
そう嘆息するものの、現実はままならない。
思考から意識を外すとドアをノックする音が聞こえる。ジルドはゆっくりと立ち上がって部屋の外に声をかけた。
「時間か?」
「はい! あと一時間ほどで怪盗が予告した時間になります!」
「分かった。すぐ行く!」
そう返事をしたジルドは机の上の剣を手にすると、頭を軽く横に振った。
どうやら今日も寝られそうにない。
そう覚悟を決めてから、部屋のドアを開けた。
怪盗から予告が届いたのは王城近くに居を構える豪商、ドチック=ショウダーの館である。主のドチックは商会を束ねる辣腕家で、メルクリア王国における流通のほとんどを支配していた。政治の中枢部からの覚えもめでたく、直に爵位を貰うのではないかという話もある。
当然、黒い噂も絶えない。違法な物品、取り分け人身売買をしていると言う者もいる。しかし未だに証拠は無い。容易に尻尾を出さぬ慎重さは「石橋を叩き過ぎて壊す」と揶揄されるドチックの性格を存分に表していた。
予告時間が近づくと流石のドチックも、いらつきを隠せない。特注で拵えたソファーに座っていたかと思うと急に立ち上がり、自慢の口髭を落ち着きなく触りながら部屋の中をウロウロし始めた。
「本当に大丈夫かね?」
この質問は既に十は繰り返している。その度にジルドは「大丈夫です」と答えるのだが、いい加減うんざりしていた。
「警備体制を確認してきます」
そう言ってジルドは部屋を出ることにした。これ以上、同じ問答をしても仕方がない。この館はただでさえ広いのだ。周囲の警戒と連絡手段の確認をした方が、よほど有意義であった。
少ししてジルドがドチックの元に戻ってくる。
「そう言えば金品の方は大丈夫ですか?」
「ああ、君の言った通り地下の倉庫に移してあるが?」
「そうでしたか。それを聞いて安心しました」
それだけ言って部屋を後にする。
また少ししてジルドが戻ってきた。
「怪盗の予告時刻です。変わりはありませんか?」
「ああ、特に何もないが……君も大概落ち着きのない男だな。部屋を出たり入ったり」
ドチックは呆れたように言い放つ。
どの口が言うのか、とも思ったがジルドは首を傾げた。
「警備体制を確認すると言って出てから、私がこの部屋に来るのは初めてですが?」
「えっ!?」
初めはキョトンとしていたドチックの顔が、少しずつ青ざめていく。
「まさか!?」
勢いよく部屋を出たジルドは、廊下を見張っていた部下に詰問した。
「おい! さっき私がここに来なかったか!?」
自分でも今一つ要領を得ない質問であることは承知していたが、ジルドは部下に確認した。部下は一瞬戸惑いながらも答える。
「は、はい! 先程、地下の倉庫を確認すると言って向かわれた後、再び来られて屋上の方へ行かれましたが……」
「馬鹿者! そいつが怪盗だ! すぐに人を集めて屋上に向かうぞ!」
悪い予感は的中した。ジルドが館の周囲を見張る人員だけ残して屋上に向かうと、果たしてジルドがもう一人そこにいた。
「おやおや、まあまあ。これは騎士団長殿、遅いご到着で」
悪びれた様子もなく笑ってジルドに声をかける。手には書類らしきものが握られている。
「観念しろ! 怪盗マニフィック! もう逃げ場は無いぞ!」
ジルドは腰に差した剣を抜きながら距離を詰め通告する。館の屋上は切り立った屋根に覆われ、地上は騎士団員によって固められている。ジルドの言う通り逃げ場は無い。
「ふふ。目に見える物だけが、全てではありませんよ?」
怪盗マニフィックは慌てることなく屋上の欄干を越えると、何の躊躇いもなく飛び降りた。
「馬鹿な!?」
ジルドがそう驚くのも束の間、怪盗マニフィックの体は地面に打ち付けられるどころか、下から吹き上げる上昇気流に乗って空高く飛び上がった。
「飛んだ!?」
「何の道具も無しに人が飛んだぞ!? 魔法か!?」
ざわめく騎士団員を余所にジルドは怪盗マニフィックを凝視した。
「それでは御機嫌よう」
その言葉が闇夜に消え入る少しの間ジルドは茫然としていたが、すぐに気を取り直すと部下に向かって叫んだ。
「呆けるな! すぐに後を追え!!」
命令を受けた騎士団員は皆一様に夜の帳へ駆けだしたのだった。
レーヴェとミスティアを乗せた魔導車が王都バリアスにたどり着いたのは、怪盗がドチック邸に現れる直前のことであった。日はすっかり沈んでしまい、城塞都市と呼ばれた王都は静まり返っている。
そんな静寂の中、レーヴェは少し嘔吐きながら魔導車を降りた。
「うっ……気持ち悪い……」
「馬鹿ねえ。車の中ではしゃぐから、そうなるのよ」
生まれて初めて乗った魔導車で横を見たり後ろを向いたりした結果、レーヴェは敢え無く車酔いを経験する羽目になった。
「宿に行って横になった方がいいわ」
ミスティアはレーヴェの背中を少し擦ると、宿に向かって歩き出した。その後をレーヴェは少しよろめきながら追いかけていく。
(今後、車の中では大人しくしよう)
レーヴェは心の中で固く誓った。
魔導車の到着場から少し歩き角を曲がると王都のメインストリートに出た。歩行者の姿はほとんど無いが、通りに沿って立ち並ぶ店や住居の中は煌々(こうこう)と照らされており、賑やかだ。
そのメインストリートの中程まで足を進めた時、レーヴェは自分の頭上に魔力を感じた。
上をふと見上げると、屋根にいる影と目が合った。
(男?)
レーヴェがそう思った次の瞬間には、その影はどこかへと立ち去ってしまっていた。レーヴェが見ている空間には、もう何もいない。
「ちょっとレーヴェ! 置いてくわよ?」
「ん? ああ、すまない。すぐ行く」
ほんの一瞬のことではあったが、レーヴェは今感じた魔力に覚えがあった。とは言え、今の体調では追いかけるわけにもいかない。ミスティアに急かされたレーヴェは大人しく宿へ向かった。
宿にたどり着くと、レーヴェは夕食も取らずに横になった。遠い意識の外で何かを探す男達の声が聞こえた気がしたが、そのまま深い眠りへと誘われた。