前編
新居のドアを開けると、
「……ども」
知らない男の人が、
「……」
「……あれ? オレのこと、見えてるん——」
座っていました。
「きゃあぁああぁっ!!!!!」
◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆
週末金曜日。
終業のチャイムが鳴り終わった直後の午後六時過ぎ。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
勤務先の事務所を出て、駅へと向かう。そのまま電車に揺られること約十分。最寄りの駅から自宅までの所要時間は、徒歩で五分程度だ。
閑静な住宅街の一角にある、築三年の十階建てマンション。その三階の一室が、わたし——如月紅羽の部屋である。
二十五歳にして、人生初となる一人暮らしをスタートさせた。
そう、一人暮らし。
「あ、おかえりなさいッス」
一人暮らし。
「……た、ただいま」
……の、はずだったのに。
事の始まりは、一週間ほど前。木の葉が色づき始めた、十一月上旬のことだった。
南向きで日当たり良好。間取りは1LDK。家賃は少々お高いけれど、わたしはこのマンションに即決した。
白樺風のフローリングといい、真白く清潔感のある壁といい、デザインから附属のインテリア雑貨にいたるまで、すべてがわたし好みだったのだ。
一人暮らしに抵抗がないわけではなかったが、入居を決めてから実際に引っ越すまではあっという間だった。
なかば実家から逃げるようにして始めた新生活。それでも、多少なりとも心は弾んでいた。
彼と目が合う、あの瞬間までは。
「今日も夕飯自炊なんスね」
「……う、うん。外で食べると、どうしてもお金かかっちゃうから」
「そッスよね」
当たり前のように会話を交わしている自分に頭がクラクラする。もはやどこからどう突っ込んでいいのかわからない。
入居日に玄関ドアを開くと、彼がいた。わたしよりも一足先に届いた段ボール箱に埋もれるように座り込み、わたしに声をかけてきた。
大家さんにお願いし、引っ越し業者さんのために鍵は開けておいてもらったけれど、わたしが到着したときは再度大家さんによってきちんと施錠されていた。
開錠し、いるはずのない存在に気づいたわたしは、
——ども。
——……。
——あれ? オレのこと、見えてるん——
——き……
——……き?
——きゃあぁああぁっ!!!!!
当然のごとく、悲鳴を上げた。
「料理得意なんスね」
「ど、どうだろう。嫌いではない、かな」
「すげー手際良いし、美味そう。オレ、食べらんないけど」
わたしの手元を覗き込むように首を伸ばしてきた彼。くんくんと、匂う素振りをして見せた。
栗色の短髪に三白眼。身長は、百五十八センチのわたしよりも、二十センチくらい高め。けっして派手ではないが、身に着けているものに注目すれば、今どきの若者といった感じだ。
人間というのは不思議なもので、かつ、慣れというのはある意味恐ろしいものである。
自身の思考のキャパを超え、頭の中の何かが振り切れると、あらゆる事象に対し、異常なまでに寛容になれるのだから。
「わたしがご飯食べてる間、テレビでも見てる?」
「うす」
ダイニングテーブルに一人分の夕食を準備すると、その足でリビングへと赴き、わたしはテレビのスイッチをつけた。
テレビの向かい側には、快適にそれを楽しむために設置した、ふかふかソファ。引っ越す際、輸入家具店で一目惚れし、購入したものだ。
しかし、彼はそこに座らない。……否、座れないのである。
一見すると、胡座をかき、ソファに腰掛けているようにも見える。が、注視すると、彼の体とソファの間にわずかな隙間が見て取れる。
浮いているのだ。
ふよふよと。
「チャンネル、変えたくなったら言ってね」
「あざます」
どうやら彼は、いわゆる〝幽霊〟とか、そういう類のものらしい。
初対面で悲鳴を上げたとき、思わず手に持っていたバッグを彼めがけて投げつけた。だが、それは彼をすり抜け、壁に跳ね返って床に落ちた。
そこで再び悲鳴を上げることとなったのは、言わずもがなだ。……具体的な状況説明は、割愛しておく。
触れないし匂えない。温度も感じなければ、お腹も空かない。知覚する手段は、見ることと聞くことだけなのだそう。
さらに不思議なことに、わたしだけが、彼を認識できているというのだ。
まさか自分がこんな事象に遭遇することになるなんて……人生何が起こるかわからない。
「……オレ、やっぱ死んじゃってんのかな」
テレビに視線を結びつけたまま、彼がぽつりと呟いた。
「まだ、思い出せないの?」
「……」
背中を丸め、無言で項垂れる。肯定の意だろう。
わたしが彼を追い出そうとして追い出せなかった最大の理由。それは、記憶喪失だった。
幽霊が記憶喪失。そんなことが本当にあるのか否か。そもそも、今わたしが見たり聞いたりしている事象が実際に起こっているのか否か。これらを解明することは、限りなく不可能に近い。
けれども、どこから来たのか、どこへ行けばいいのか……第一、自身の名前さえわからないという目の前の彼を、この寒空の下(寒さは感じないのだろうが)放置することなどできなかった。
昔から、周囲には『お人好し』だと言われ続けてきた。今思えば、みんな呆れていたんだと思う。
今回だって自覚はあるし、彼にもそう言われたけれど、できないものはできないのだから仕方がない。だって、なんだか犬を捨てるみたいで憚られたんだもの。
言葉数は少ないし、話し方は淡々としているけれど、なんとなく中型犬っぽいんだもの。それも、日本犬。
「気がついたら、この部屋の中にいたんだよね?」
「え? あ、はい。……目が覚めて、しばらくしたら、引っ越し業者が荷物運びに来て、話しかけても、誰もオレに気づかなくて……」
あれから一週間。
わたしが仕事に行っている間、彼はこの周辺を散策しているが、手掛かりになるようなものは何一つ見つかっていないらしい。
彼の言っていることが真実とは限らない。だが、嘘を吐いているようにも見えなかった。この現状を打破するためには、やはり彼の記憶を取り戻すことが先決のようだ。
「明日、ほんとは休みなんだけど、午前中少しだけ出勤しなきゃいけないの。でも、仕事終わったら、わたしも一緒に手伝うね」
「え? いいんスか?」
「うん。二人で動いたほうが、きっと早く見つかると思う」
わたしの提案に、彼の顔がぱっと明るくなった。さながら、耳を立てて喜ぶ犬のように。
「ありがとう、ございます」
照れくさそうに微笑みながら、彼はわたしにお礼を言った。その頬が、ほんのりと薄桃色に染まる。
彼は確かにそこにいる。
根拠はもちろんないけれど、わたしは、なぜだかそう確信することができたのだ。
◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆
土曜日。
ロールスクリーン越しに陽光が広がる午前十一時。
「悪いな、如月。せっかくの休みだってのに」
職場のデスクでパソコンと睨み合っていると、ねぎらいの言葉とともに、芳しい珈琲の香りが漂ってきた。
「あっ、すみません……!」
わたしの手元にさり気なく珈琲を置いたのは、わたしの上司でこの事務所の責任者——榊真琴だ。
集中していたせいで、彼が室内に入ってきたことにまるで気づいていなかった。
グレーのPコートに黒のジーンズという、一見すると大学生のような格好をしているが、紛れもなくこの事務所の所長である。
榊さんは、わたしの隣の席に腰を下ろすと、自身の分の珈琲を一口啜った。
この近くの珈琲専門店でテイクアウトしてくれたのだろう見慣れたカップ。彼が飲むよう促してくれたそれからは、柔らかく細長い湯気が立ちのぼっていた。
「用事はもう済んだんですか?」
「あー、まあ、なんとか。……あとは俺がやっとくから、キリのいいところで帰っていいぞ」
艶やかな黒髪。凛とした目元。モデル顔負けのルックスだが、当の本人はまったくといっていいほど自覚していない。
さばさばとした物言いといい、明朗な性格といい、学生の頃から相変わらずである。
この日、急用ができたという彼の代わりに、いわば〝繋ぎ〟として急遽わたしが出勤することになった。彼が戻ってきたということは、これにてお役御免だ。
「もう少しで終わるので、そうしたらお言葉に甘えて退勤しますね」
「ん? 終わるって……まさか残ってた書類全部整理したのか? 一人で?」
「はい、一応。まだ、チェックはできてないんですけど」
「マジか……ほんとできる子だな、お前は」
オフィスチェアに腰を深く沈めながら『お前をウチに誘って良かった』と笑った榊さん。その表情には、どことなく懐かしさが滲んでいるように見えた。
榊さんは、わたしよりも三歳年上の二十八歳。同じ大学の出身で、かつ、法学部の先輩にあたる。わたしが入学したとき、彼は四年生だった。
在学中に合格率一桁パーセントの国家資格試験に合格し、この若さで独立開業した優秀な事業家なのである。
「ここにはもう慣れたか?」
「はい、おかげさまで。皆さん、とても丁寧に接してくださるので」
「そうか。なら、よかった」
ふわりと笑う彼に、つられてわたしも破顔した。同時に、胸がきゅっと締めつけられる。
二年前。大学を卒業したばかりのわたしは、外資系企業へ入社した。しかし、入社直後からいろいろなことが重なり、今年の三月に退職してしまったのだ。
精神的にも落ち込んでいたため、しばらくは実家で養生していたのだが、このままではいけないと一念発起。
それから約二ヶ月後の今年七月。再就職先を探していた矢先に、この春事務所を立ち上げたばかりの彼に拾ってもらったというわけである。
「よし。じゃあ、それ飲んだらもう帰れな」
「え? チェックは?」
「俺がやっとく。一人暮らしって、何かとすることあるだろ? 気にしなくていいから、もう帰れ」
そう言って立ち上がると、榊さんは、飲み終わった二人分のカップを纏めてごみ箱に捨てた。彼の所作一つひとつには、何気ない優しさが滲んでいる。本人はとくに意識していないのだから、本当に頭が上がらない。
彼は、わたしの憧れだった。
彼の言葉に甘えて、帰り支度を開始する。パソコンは閉じなくてもいいと言われたので、軽くデスク周りだけを整頓することに。
頂いた珈琲のお礼を伝え、退社しようと事務所の扉を開けた。
そのとき。
「あ、そうだ」
「?」
「アオが嘆いてたぞ。『ベニが家にいなくて寂しい』って」
「っ!!」
血の気を失ったわたしの体は、一気に硬直した。
向き合いたくなかった現実が、眼前に押し寄せる。胸の奥に蓋をしていたはずの感情が、ドロドロと溢れ出した。
「お前らほんとに仲いいよな。俺、一人っ子だからさ。羨ましいよ」
「……」
どんなことをしても、絶対に逃げることなんてできはしない。実家を出たって、一人暮らしをしたって、現実が変わるわけじゃない。そんなことくらい、わかってる。
彼の口から出た〝アオ〟とは、わたしの双子の妹——如月碧羽のことだ。
二人は、一月ほど前から付き合っている。
彼の顔をまともに見られないほどには動揺していた。けれど、なんとか平静を装い、どうにか挨拶をして、事務所をあとにした。
白昼の眩しさも、冬の寒さも、クリスマス前の街の喧騒も。
今のわたしには、何も感じることができなかった。
◇✳︎◆✳︎◇
「大丈夫スか?」
「……へっ?」
不意に、わたしの瞳と例の幽霊くんの三白眼がぶつかった。彼に顔を覗き込まれたため、反射的に足が止まる。
意表を衝かれて出した声は、自分でも驚くほどに素っ頓狂なものだった。
「帰ってきたときからずっとぼーっとしてるから……具合、悪いんスか?」
「あ、ううん、大丈夫だよ。……ありがとう」
わたしが笑ってそう答えると、安心した様子の彼は少しだけ口角を上げた。止まっていた足を再度動かし、通りを進む。
昨夜約束したとおり、仕事を終えたわたしは、彼の記憶探しに同行した。この日は、いつも彼が行動しているという範囲よりも、広い範囲で探索してみることに。
「……改めて見ると、やっぱりすごいね」
「? 何がスか?」
「その移動の仕方」
並んで移動しているわたしと彼。だが、地面を踏みしめて歩いているわたしとは対照的に、彼の足は地を捉えていない。膝を曲げ、前傾姿勢で飛んでいるのだ。道と並行に。すいーっと。
「普通に歩く格好できますけど……したほうがいいッスか?」
「う、ううん。いつもどおりでいいよ」
「うす」
「ごめんね。意識させちゃって」
「いや、べつに。……思ったことは、なんでも言ってほしいッス。こんな状況だから、とくに」
「……どういうこと?」
予期せぬ彼の返答に首を傾げる。自分の謝罪でこの会話は終了するのだと、てっきりそう思っていた。これ以上、会話が広がることはないのだと。
彼の口から告げられた内容。その真意に、わたしは胸を絞られるような疼きを覚えた。
「普通じゃないから。この状況。オレと過ごすってだけで普通じゃないのに、これ以上負担かけたくないっていうか、回避できることは回避したいっていうか……」
訥々とした口調で彼が語る。前に向けられていた目が、ほんの少し伏せられた。
彼は、わたしのことを気を遣ってくれているのだ。自分が……自分のほうが、大変な状況にもかかわらず。
なんて優しい人なんだろう。
「うん、わかった。思ったことは、ちゃんと口にするね。……でも、わたし負担だなんて思ってないよ」
ありがとうと目を細めれば、彼も小さく頭を下げた。彼の頬が、紅く染まっている。ひょっとして照れているのだろうか。
なんだか、胸がくすぐったい。
木枯らしが、街路樹の落ち葉を巻き上げながら走ってゆく。さすがは初冬。青空が広がっているとはいえ、肌にあたる空気はやはり冷たい。
街の景色を眺めながら、行き交う人々に視線を移しながら、わたしたちは可能なかぎりひたすら動き回ってみた。
「何か思い出した? よく通ってたお店とか、よく喋ってた友だちとか」
「……いや、何も」
「そっか」
けれど、結局何も収穫は得られなかった。
およそ三時間。日も傾いてきたため、残念ではあるが、今日のところはいったん切り上げることにした。しだいに茜色に色づく空の下、元来た道を引き返す。
「すんません。せっかく時間割いてくれたのに」
「仕方ないよ。……よくわからないけど、たぶん、焦るのは良くないと思うの。だから、ゆっくり探そう」
焦りは禁物。何事にもそう言えるのだから、今回のことについても、きっと同じことが言えるはずだ。
彼のほうを見上げ、『ねっ』と微笑みかけると、彼は申し訳なさそうに頷いた。まるで耳を伏せた犬のように、しょげ返っている。
寒さの増した帰り道。往路よりも、明らかに彼の口数が少ない。横目でちらりと様子を窺えば、何やら思案に沈んでいるようだった。
「……大丈夫?」
往路とは対照的に、今度はわたしが彼の顔を覗き込んだ。不安が色濃く滲む彼の三白眼に、わたしの顔が映り込む。
次の瞬間。
「オレがいなくなって、困ってる人いるのかな……?」
「……え?」
彼の瞳の中のわたしが、大きく目を見開いた。
「記憶は取り戻したい……けど、やっぱちょっと怖くて。家族や友だちはいたのかとか、何やってたんだろうとか……誰か、他人を傷つけたりしてないか、とか」
ここまで話すと、彼は口を噤んでしまった。唇を引き結んだまま、ふいと顔を背ける。
彼の視界からわたしが消えた。けれども、彼が今どんな顔をしているのか、なんとなくわかる。
彼のその不安を少しでも取り除けるように。
わたしは、ゆっくりと口を開いた。
「君はたぶん、真面目な学生さん。周りのことがよく見えて、周りのことが気遣える、とってもとっても優しい子。……大丈夫。君は一人なんかじゃないよ」
わたしのこの言葉に応えるように、彼がこちらへと顔を向けた。その顔は、少し驚いているようにも見受けられる。
学生という点に関しては、申し訳ないが、それほど根拠はない。しかし、彼の周りには、人が、優しさが、たくさん溢れていたはず。
だってこんなにも、彼が優しい人だから。
マンションに到着した頃には、とっぷりと日が暮れていた。濃紺色の空が頭上を覆う。
歩き過ぎたせいだろうか。踵が痛い。足も棒のようになってしまっていた。日頃の運動不足が身に沁みる。
「?」
と、玄関ホールへと向かう道すがら。わたしは、見覚えのある人影を見つけた。
街灯の下で佇むその人物のもとへ、足早に近づく。
「……アオ?」
「あっ、ベニ!」
暗がりでもわかるほどに、彼女はぱっと顔を華やがせた。
手入れの行き届いたロングヘアに、くっきりとした目鼻立ち。白いトレンチコート姿が様になっているモデル風のこの女性こそ、わたしの双子の妹——碧羽である。
「どうしたの? 来るなら来るって連絡してくれれば良かったのに。風邪引くよ?」
「あっ、うん。ベニどうしてるかなって気になって……仕事帰りに寄ったんだ。元気にしてる?」
「え? うん、元気にしてるよ。……中入る?」
「う、ううん、もう帰る。元気なら、それでいいの」
なんだかいつもと様子の異なる妹。いつもなら、わたしの名前を呼んだ時点で間違いなく飛びついていた。声のトーンも、もう少し高いはず。
……いや、違う。わたしが実家を出る前から、もうずっとこんな状態だった。
「……あ、あのね、ベニ」
心が、
「その……ごめんね。マコさんのこと……」
ざわつく。
「……どうして謝るの? 謝らなくていいよ。わたしのは、ほら、憧れみたいなものだったし」
妹の謝罪に、わたしは笑ってこう言った。語調も普段どおりのものだった、と思う。
妹にかけた言葉。これは、わたしの本心だ。妹がわたしに謝る必要なんて微塵もないし、そもそも罪悪感を覚える必要すらない。榊さんに対する自身の感情が、憧れだったのも事実だ。
「そ、そっか。……ごめんね、急に。体に気をつけて、仕事頑張ってね」
「うん、ありがとう。アオもね」
互いに小さく手を振って、わたしと妹は一応笑顔で別れた。これまでの姉妹歴を振り返ってみても、こんなにぎこちない関係はいまだかつて経験したことがない。きっと、妹も同様に感じているのだろう。
胸の奥にぽっかりと開いた穴。一人暮らしを始めても、妹から距離をとってみても、この穴が塞がることはない。
「あの……」
「……あっ、ご、ごめんね、待たせちゃって。寒いし、中入ろっか」
「え? いや、オレは全然寒くないんスけど……」
「あ、そっか。そう……だったね」
わたしが妹と話をしているあいだ、彼はずっと隣で浮いていた。一言も発することなく、ただ黙ったまま。妹には、やはり彼の姿が見えていないようだった。
寒さを感じないとはいえ、彼には悪いことをしてしまった。また、気を遣わせてしまったかもしれない。
マンションの中へ入り、エレベーターを利用して三階へと上がる。体が怠い。エレベーター特有の浮遊感が、内臓までをも支配した。
ようやく辿り着いた自分の部屋。履いていたブーツをもたもたと脱ぎ、鞄とコートをどうにか引っ掛け、おぼつかない足取りでリビングへと直行した。
「……大丈夫スか?」
そのままソファへと沈み込んだわたしに、心配そうな声色で彼が問う。わたしから少し距離をとった場所——部屋の隅——に身を置き、眉をひそめていた。やっぱり、気を遣ってくれているみたいだ。
「うん、大丈夫。……わたし、向こうでご飯食べてくるから、君はここでテレビ見てて?」
わたしがそう言うと、彼は遠慮がちにソファへと近づいてきた。テレビのスイッチをつけ、彼と入れ替わるように立ち上がる。
「……さっきの人って」
「え? ……ああ。あの子は、わたしの双子の妹」
「双子……二卵性?」
「そう。全然似てないでしょ? あの子、わたしと違って美人だし、明るいし、社交的だし……だから……」
だから……榊さんは妹を……。あのとき、妹と彼を会わせたりなんかしなければ……。
頭によぎった言葉を、ぐっと抑え込む。自分のこういう鬱屈とした部分が、わたしは大嫌いだった。
妹は何も悪くない。悪いのはわたしだ。勝手な劣等感で家を飛び出し、妹までも傷つけた。……最低だ。
「ベニさん」
「…………へ?」
本日二度目。意表を衝かれて発した声は、過去最大級に素っ頓狂なものだった。
「……って呼んでもいいスか? さっき、妹さんがそう呼んでたから」
突然のことで驚いたが、そういえばと思い返す。そういえば、彼にまだ名乗っていなかった。会話をするときは必然的に二人きりであるため、とくに不都合を感じたことがなかったのだ。
彼に許可を求められ、わたしは一度だけ首肯した。拒否する理由は何もない。が、こんなふうに改まって口にされると、なんだかとても緊張する。
「今日はありがとうございました。ご飯食べて、ゆっくり休んでください」
おそらく、この短時間で彼は感取してしまったのだろう。つぶさではなくとも、わたしと妹の関係を。妹に対する、わたしの劣等感を。
本当なら、誰にも知られたくはなかった。だけど、今は不思議と心が凪いでいる。
「……うん。ありがとう」
彼が幽霊だから、自分にしか見えない存在だから、安心できているのだろうか。それとも、彼の優しさに、自分は甘えてしまっているだけなのだろうか。
わからない。けれど、これだけははっきりとわかる。
この日。彼の存在に、わたしは大きく救われた。