10 母の名は
このお誘いは、俺にとっても実は渡りに船だった。
もう何日もコネっているだけで店の外に出たことが無い。
出ようとすると、ブラコン兄貴が足を引き摺って追い駆けてくるから、申し訳なくてすぐに引き返していたのだ。
しかしこれなら大義名分が立つ。
まさか領主のお嬢様を無碍にはできないだろう。
俺が一応母さんを見ると、腕を組んで仕方なく頷いていた。
「分かりました。ご一緒します」
「本当ですか、助かります」
両手を胸の前で握りしめて、とても嬉しそうに笑うお嬢様。
こんな程度で喜ばれるのなら気分も悪くない。
お嬢様が店の前の野次馬の海を、モーゼのごとく割って出るのに俺は続いた。
「このまま少し歩きますので付き合ってください。町の様子を見ておきたいのです」
母さんにもそんなことを言っていたな。
馬車も店の前にはないので、どこか別の場所に置かれているのだろう。
きっと領主の娘として、市井の状況を知ることに真面目なのだ。
と思ったら、そこら中で買い食いをしているぞ、このお嬢様・・・・・・。
「マルセル、あそこの店は少し味が落ちたようです」
「承知しました」
「あちらは、メニューが増えてお客も多く居ました」
「承知しました」
「こちらは、モグモグモグです」
「承知しました」
今ので通じるのか?
せめて喋るのは口から物がなくなってからにしろよ。
しかしマルセルと呼ばれた執事さんは、真剣にお嬢様の言うことを逐一メモっている。
あれには何の意味があるんだ?
異世界版食べ歩きブログでも作っているのか?
後でモグモグモグのところを見せてもらえないかな。
そして俺の視線に気づいたお嬢様は、急に顔を真っ赤にして食べ物をマルセルさんへ預けた。
・・・・・・完全に俺のことを忘れていたな。
「け、ケントさん」
「はーい」
思わずシラーっとした空気をしっかり出してやった。
「じ、実はあなたを連れ出したのは、お聞きしたいことがあったからです」
「何でしょうかー」
「剣の試合の時のことを覚えていますか?」
「はい―――いぃ?」
あ、あっぶねぇ!!
うっかり『はい』って答えそうなってしまった!
お嬢様の食い意地に呆れて完全に気を抜いていた。
マルセルさんの視線が何だか厳しいが、聞き直しの疑問形で何とか誤魔化せたよな?
「やっぱり覚えていませんか?」
「はいぃー、申し訳ありません」
よしっ、少し失礼かもしれない言葉遣いだが、さっきのと併せて自然な感じにつながった―――と信じたい。
「いえ、そうですよね。ても本当にすごいです」
「何がでしょうか?」
こちらの世界へ来てまだ日も浅いのに、バカなことはいくつもしでかした自信はあるが、感心されるようなことをした記憶は何もない。
言っていて少し悲しいけど。
「もしわたくしが、ケントさんの立場になったら、そこまで落ち着いては居られないと思うのです」
「記憶がないことですか?」
「はい。とても不安で、きっと泣いて暮らしていたと思います」
言われてみれば、普通はそうなのかもしれない。
急に自分が誰だか分からなくなったら、どんなに不安だろう。
・・・・・・ヤバい、しくじったか?
俺ってば、まったく焦る様子もなく、普段どおりに生活しているよな?
記憶もないはずなのに、パンをコネコネしたりもしてるし。
「きっとミウさんやジノさんが、気を配ってらっしゃるのでしょうね」
「ミウ?」
「ああ、お母様のお名前も忘れているのですね」
「母さんは、ミウって言うのですか?」
「ええ、ミウのパン屋さんって、町では有名です」
有名にしたのはあなたでしょう、と突っ込みたくなったが、今更ながら初めて知った。
バカ兄貴の名は、試合の関係で否が応でも聞かされていたが、母さんは母さんだったから気にもしてなかった。
「ミウさんのお店のある通りと、こちらの大きな通りが交差する四辻を右に曲がって、しばらく坂を上ると、わたくしの屋敷があります」
お嬢様はその四辻で立ち止まった。
しばらくってどんだけよ?
すんごい坂の向こうに、何だかお城が見えるような気がするのは蜃気楼か?
俺は、お嬢様に目線で尋ねる。
記憶喪失と信じているのだから、きっと分かったはずだ。
「あのお城がわたくしの屋敷です。やはり何もかも忘れてしまっているのですね」
そう言って、少し肩をすくめたお嬢様は、小さく溜め息をついた。
そこからマルセルさんが何処からか回してきた馬車に乗って、俺達は城へ向かった。