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第三話

2015/07/19 修正

2015/07/20 誤字修正

2015/10/06 修正

 伊川優子が秋峰怜と出会ったのは、齢五歳の時であった。


 粗筋ならともかく、ゲームシナリオなど詳細は覚えていないし、あっても分からない。持ちうるは、“秋峰怜の婚約者”という吹けば飛ぶような何とも頼りない肩書きだけ。社交界でいくらその名が意味を持とうと、それが本人に通用しないなら価値なんてないではないか。


 前世では大好きな顔と設定だった。とはいえ、そんな中での秋峰怜との邂逅は恐いものがある。あの手この手で先伸ばしにしようとしたが、既に“一生のお願い”に相当するお願いを聞き入れてもらった身としては、拒否しにくい。


 腹を決めて、優子は父と共に秋峰家に出向き、怜と会った。


 父親の背に隠れて凝視する怜に、最初は天使がいるかと思った。が、如何せん表情に問題があった。友好など欠片もない、仏頂面を張り付けた男の子のどこに可愛げがあるのか。


 これ、本物か? 優子は一番に思った。別に、記憶にある“ゲームの怜”との間に差異があったわけではない。ただ、同じ幼少期でも、スチルで眺めるのとは違い、実物を見ても心が動かなかった。胸がときめかないのである。……これに執着したゲームの優子の気持ちが分からない。そもそも、こんな闘争心溢れる目を見て一目惚れする理由って何だ。


 元々婚約者として引き合わせたかったのか、会って直ぐに同じ部屋に入れられた。あわよくば仲良くなって欲しいという魂胆だろう。当時、入るのが難しいと評判の白羽学園付属小学校への受験を控えた怜に付き合い、一緒に遊ぶのではなく、勉強をする事になった。


 両親には、上手く本性を隠すようにときつく言い含められていた。受験に早く備える為、両親には彼等の子供の“異常さ”を見せつけていたからだ。余程秋峰の息子に嫌われたくないらしい。


 しかし、優子に言い付けを守る気はない。怜は幼少の頃から天才と呼ばれていた筈だ。自分が少しくらい規格外でも、珍獣を見る目でも向けられるか、お仲間意識が芽生えるだけだろうと、高を括っていた。


「疲れた……」


 ああ、積分がしたい。どうして、こんな甘ったれのお坊っちゃんに付き合う為だけに、受験勉強を切り上げなくてはならないのか。


「だよな、お前もそう思うよな!」


 優子が呟いた途端、怜がぱっと顔を輝かせ、こちらの問題集を覗き込んでくる。愛らしい容姿に似合わず、存外荒っぽい物言いに、優子はこっそり笑いを噛み殺す。


「って、おい……」


 じっくり問題集を見詰める怜の顔が、どうしてだか凍り付いていく。違和感を覚えた優子は、怜が広げる問題集をちらりと盗み見た。


 埋まらない空欄。端に描かれた落書きの数々。思わず二度見してしまった。……可笑しい、設定では天才じゃなかったか、この男。


 優子の信じられないものを見る目に、怜の顔が不機嫌そうに歪む。


「答え出てるじゃんか!」


 その“天才”に非難されてしまい、優子は目を瞬かせた。完全に予想外だ。


 どうしようかと考えている内に怜に問題集を掻っ攫われる。


「あれ? でも、これ、できてねーな」

「え? ああ、それ……」


 怜が指差したのは、唯一解答のみが書かれた欄だ。簡単な文章問題だったが、それは方程式を使った話だ。……方程式を使わずにどうやって解くのだろうか。小学生ってすごい。


「あ、これは出来てるんだ」


 解けた問題が、優子と全く正反対だ。


 優子の感心した顔に、怜が得意げに胸を張る。


「仕方ないな、教えてやっても良いけど」


 教えたい、の間違いじゃないのか。賢明な優子は心の中だけで突っ込んだ。


 その教えたくてうずうずする怜に根負けし、大人しく教えを乞う事にする。


 が、言っている意味が分からない。いまいち要領を得ないのだ。


 渋い表情の優子に、怜が更に説明しようとする。


「出来ましたか?」


 その時、所用で席を外していた……と思わせて優子達を二人きりにしていた家庭教師が部屋に入って来た。


 丁度良いと思い、優子は質問する。


「これ、どうやって解くんですか?」

「Xの一次式なんてよく知ってますね……」


 外見は五歳児でも、中身は立派な受験生なのだから、知っていて当然である。しかし、そんな事を知る由もない家庭教師は、心なしか顔を引き攣らせながらも、優子の質問に的確かつ分かりやすく答えていく。


 説明が終わり、ほぉ、と優子が感嘆の息を漏らす。


「そんな風にやるんですねえ」


 そうして、怜に構って無かったのが悪かったのか。


「俺を仲間外れにすんなよ!」


 不意に、癇癪を起こした怜が腕を振り上げた。持っていた鉛筆が運悪く優子の頬に刺さる。奇跡的に、それほどの痛みは無い。


 不幸中の幸いか、落書きに使われた鉛筆の先は丸くなっていた。お互いの立ち位置の関係もあり、事なきを得たが、一歩間違えれば大変な事になっていた。


 ゲームでの彼の行動が甦る。これが、かの暴悪の原点だろうか。


 胸にひやりとしたものを抱えながら、優子は一応歳上なのでにこりと笑って見せた。……大分引き攣っているだろうが。


「…………人に尖ったものを向けたら駄目だよ。危ないから」

「煩い、お前が悪いんだろ!?」


 取り敢えず注意をしたら、逆ギレされた。どこをどう解釈したら、この状況で“優子が悪い”なんて言葉が出るのか。軽はずみに責任をなすり付けないで欲しい。いや、これが子供だったか。


「伊川さん、大丈夫ですか?」


 遠い目をした時、家庭教師があわあわと優子の顔を覗き込む。怪我の様子を見ようと言うのだろう。


「大丈夫です、お気遣いありがとうございます」


 精神年齢が歳を重ねた分だけ高くなるのなら、優子は当時の時点で、アルバイトをしていた家庭教師よりも上だった。詰まり、その場に置いて優子は一番“大人”だったのである。


 大人は子供の八つ当たりに動じない……筈なので、優子は渾身の力を以て、殺意にも似た怒りを隠し通した。


 ただ、口元に笑みを張り付けようとも、目が笑っていないのか、気が弱そうな家庭教師の顔が少しだけ泣きそうになる。


「本当に大丈夫ですね?」

「はい。……それと、この事は誰にも言わないで下さいね。私も悪かったので」


 優子の言葉に、家庭教師が瞠目した。まさか、無かった事にするとは思わなかったらしい。


 無論、何ともなかったから許しているのだ。怪我をしていたら、躊躇なくやり返している。


 家庭教師は顔を青くさせている。恐らく、怜の様子を全て報告するようにと言われているのだろう。ただ、報告すると監督不行き届きと判断されるかもしれない。そうなったら、ほぼ間違いなく馘首かくしゅされる。


 金持ちの家庭教師程、実入りの良い仕事はない。大学生の主力収入源だろうから、相当の痛手だ。


 優子の読みは当たっていたらしく、家庭教師が分かりやすく葛藤している。


 もう一押し。優子は意図して柔らかい声を作った。


「先生にとっても良い事なんて無いでしょう?」


 もし、彼に報告されたら。優子は言い付けを破った為に叱られ、怜は他所様の娘に暴力を振るって怒られ、家庭教師は馘首される。誰も良い思いをしないなら、無かった事にするのが一番だ。


「……それに、先生が報告したなら、私“色々”言ってしまうかも知れません」


 有る事無い事吹き込もう。怜の父親には「利発な子だ」と随分と気に入られたので、きっと信じてくれる。


「……分かりました」


 最終的には、優子の圧力が決め手になった。


 家庭教師の抱き込みを首尾良く終わらせ、怜の顔を見る。


「えっと……」


 そこで、名前を初めて呼ぶ事に気付く。何と呼ぶが一瞬迷ってしまった。


「怜君も、それで良いでしょ?」


 そう言った時、怜の顔に浮かんだ複雑な表情が、妙に優子の胸をざわめかせた。


 ◇


 それから、どれだけの時間が経ったのか。


 怜は微動だにせず、責めるような目付きで優子を見下ろしている。


 表情の一切が削ぎ落とされた能面みたいな怜の顔を見ていると、どうしても昔、鉛筆を振り上げた姿が目に浮かぶ。その度に、ゲームの怜が脳裏に蘇り、彼が非道になれるのだと理解するのだ。


 大分時間が経っているが、未だに怒りは収まらないらしい。嫌な想像をして、優子は顔を強張らせた。


 どうしよう、穏便に済ませられる気がしない。


「早く答えろ」


 何の話なのか分からない。……そんな事言ったら、火に油を注ぎそうだが、聞かずには答えられない。


 意を決して口を開いた矢先。


「ちょ……何であんたがそこにいんのよ……」


 呆然とした声に、ここがどこであるかを思い出す。はっと周囲を見渡して、姫希と目が合った。

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