忘却の世界
朝、目覚めたセキがダイニングへ行くと
イゼルがソファにいるのが見えた。
「イゼ……」
その肩を叩こうとして躊躇ったのは
彼がソファの肘掛に凭れて
眠っているのに気が付いたからだ。
イゼルがこんな所で眠っているのは珍しく、
セキは自分の上着を掛け、自分は床に腰を
下ろし貴重な寝顔を眺めることにした。
(君が寝ているところを初めて気がするな)
いつも自分の前では気を張っているせいか
隙を見せてはくれない。
「こんな所で寝てると風邪を引くよ、イゼル」
起きてる時は何時も何か考え込んでいる様に
張り詰めた表情をしていることが多く、
多分かなりの疲れが溜まっていたのだろうと
想像しながらイゼルの名を声にする。
その時、イゼルは呟いて口元が
薄く笑った様に見えた。
「言えばよかった……か。
気軽に言ってくれる」
「……!?」
さっきの声は聞こえていなかった筈だと
分かっていても、自分が起こしてしまった
のではないかと錯覚し、セキは一瞬焦った。
(え、今の寝言?)
判断がつかないままその顔を覗き込むと
イゼルは横になったままゆっくり瞼を開けた。
が、それはまだ焦点の定まらない目つきで
夢うつつの状態だろうイゼルの指が徐に
セキの頬へ伸びたかと思うと輪郭を軽く撫でた。
「君は肝心なことを何も知らない。
尤も記憶を抜いた僕が言う台詞ではないな」
「イゼル?……起きているのか?」
途端、驚いた顔をしてイゼルは飛び起きた。
恐らくさっきまでの言動は無意識で、
しきりに辺りを見回し、自分を改めて見た後
気不味そうに視線を外らしたことから分かった。
「夢を見てたんだな、イゼル」
「こっちが……」
現実か、とトーンの低い声に夢の内容が
少なからず彼にとって幸せなものだったの
だろうと推測しても口にはしなかった。
「記憶がどうのって言っていた。
本当に隠し事だらけだな、
俺を信用……好きならもう言えるだろ。
君のこと過去のこと全部」
「…………断ると言ったら?」
「今の俺は……嫌いか?」
「……ッ」
今の一言はイゼルを追い詰めると
分かっていながら敢えてセキは
その言葉を使った。
「随分、意地の悪い聞き方をするんだな」
「手段を選んでる余裕が無いからな」
過去の自分が知っている君を全部知りたい。
時折見せる君の辛そうな顔の意味を知りたい。
セキはイゼルの指先を取って小さな指先に
キスを落としてそう告白した。
「此処の事も僕の事も
何一つ思い出せないのが不満?
僕に申し訳ないとでも思ってるのか?」
「…………」
「気に病むことはない、僕がそうしたんだから」
「消したって事か?何故」
わざわざ消す必要があったのか?と
セキは問い詰めそうになった。
「僕がしなくてもどうせ自分の世界に戻れば
此処での記憶は全てを失っていた。
世界間移動の場合、自分の元いた世界の記憶は
失われることは少ないとされてるが、
無論個人差がある為、移動時に脳への衝撃が
大きければその分の浸潤が影響を及ぼし
結果記憶障害が生じる。
辛うじて並行世界、同次元、君らの世界でいう
ところの所謂パラレルならまだしも、
それに全く属さない世界で経験した事を
人間の脳が記憶として留めるには耐えられず、
それらの記憶は容赦なく切り捨てられる、
もともと許容量以外の余計なモノとしてな」
淡々と話すイゼルの声に乱れはなかった。
セキが口を挟まなかったのは
事実を知りたいと思ったからだ。
それが例えどんなに理不尽なことであろうとも。
イゼルはそんなセキの様子を見ながら
再び話し始めた。
「少しでも残存すれば気が触れるか、
記憶の一切を手放すの
どちらかを脳が自動的に選択するんだ。
大抵は、本来いた世界に戻った瞬間から
急激に記憶崩壊が始まる。
当の本人は記憶を消されてる事も
別の記憶を植え付けられている事にも
気付くことはない」
だが、とイゼルは黄金の瞳を
揺らすことなく、
「僕の力は君の世界にまでは及ばない、
別の意思によって消されるくらいなら
僕がこの手でやりたかった。
どの道、君は此処に戻っては来ないから
下手な記憶はいらないだろ」
と言い切ったのに、
セキは堪らず言い返していた。
「でも戻ってきた。
何でも勝手に決めるな、選ぶのは俺だ」
「―――君も同意した」
「嘘だ、そんなはず無い」
一瞬、間があったのはそういうことだろう、
と指摘した所で、今更そんな事を言い合っても
無意味だと逆に冷たく窘められてしまった。
「セキ、聞かなくていいのか?
僕が今も昔も記憶を消してる肝心な記憶を」




