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苦手な方はご注意ください。

射手

作者: 大竹 和竜

この作品が生まれるにあたって協力していただいた方々に感謝。

射手


 彼が物心ついたころには、家族など居なかった。それどころか人間としての姿もなかった。鏡を見れば、黄色く分厚いクチバシと、鋭いワシの目に睨まれたが、生まれたときからそうだったので大して気にならなかった。キメラ症候群とかいうウィルス感染症のせいだが、そういう話は今の彼には余分なぐらいだ。

 まさに今、彼が気がかりなのは、三十メートル先に見えるホテルの窓の中だ。彼は、ホテルの向かいのくたびれた木造アパートから、かれこれ数時間、その窓ばかりを気にかけている。もう深夜も1時を回っていた。

 彼は部屋の電気を消し「しくじるなよ」こうつぶやいた。

 彼――フランシス・カーターは、目を閉じて狙うべき男の顔を思い出す。スーツ姿で、白髪の目立つ髪。深く鋭く刻まれた皺が印象的な男は、先ほどから気にかけている窓にそろそろ現れるはずだ。

 彼は目を開いた。窓を開けて、改めて向こうを眺める。豪雨のせいで向こうのホテルまでの景色は白く霞んでしまっているが、彼がたじろぐことはない。彼にははっきりと見えたのだ。向かいの部屋に動きがあったのが。

 彼は、彼の武器を持ち、しっかりと構えた。弦に矢をつがえ、引き絞る。彼はいつでも、この安っぽい紫色の、アーチェリーの弓だけで仕事をこなしてきた。

 豪雨の向こうを睨みつける。いや、狙う。開け放ったアパートの窓枠はぼやけて消え失せ、向こう側のホテルの窓だけが拡大され、視野に貼り付けられた。雨粒がガラス面を駆け下りている。

 その向こうに、呑気そうにスーツの男がやってきたのを彼の目が捕らえた。タイミングは完璧。

 ワシ頭の冠羽が広がり、両腕の羽毛がざわついた。

 そして、弦を引いていた指を離す。矢は豪雨に打たれながらも、狙い通りの軌道を描き、スーツの男の胸へと向かっていく。そして、ホテルの窓を突き破り、鮮紅色の霧を吹き上げた。

ふと、彼の視界が元に戻る。男が、胸に矢を立てたまま、出窓のあたりでのたうっているのがぼんやりと見える。しばらくそうした後、男は出窓に突っ伏し、痙攣しはじめる。そして、奇妙な姿勢のまま動きを止めた。

 フランシスはそれを確認すると素早く姿勢を低くし、まず弓を細長い鞄にしまう。続いて、まとめておいた荷物を抱えて部屋を飛び出した。アパートの鍵を落ち着いて閉め、素早く階段を降りる。風はないが、部屋の中から見たよりも酷い雨が降りしきっている。雨の音以外には何も聞こえない。

 彼は愛用の弓を、待機していた車のトランクに突っ込んだ。そしてそれに乗り込むと、仲間の運転手に合図を出す。車体はまるで暗殺などなかったかのように、そろそろと発進する。

「よくやった、フランシス。相変わらず鮮やかな手並みだな」

 運転手はやや荒い息で暗殺者フランシスを褒めた。運転手がハンドルを捻ると車体は右折。先ほどフランシスが狙撃を行った窓の下を通る。

 褒められた当人はいい加減な返事をして窓の外を眺めている。ちょうど窓の真下に差し掛かったとき、暗殺者は歩道に何かを見つけた。土砂降りの雨に加え、街灯の光が反射してよく見えなかったが、写真立てであることがわかった。そして、そこに収まっていた写真に、先ほどのスーツの男と女、そして犬頭の若者が写っていたのがかろうじて見えた。見えただけだった。


「よくやった、フランシス君。これで民主和党の連中も我々キメラ第一民主主義、そして我らが指導者の偉大さを思い知るだろう」

 翌日、フランシスは暗殺の成功を報告していた。ワシの視線の先には、軍服を着た、人間の顔をした男性。頬の肉は醜く垂れ、そこに皺が長々とだらしなく伸びている。ブルドッグと見間違えるような顔だ。仕事のてん末を報告するたびにこの顔を見るとなると、つくづく奇妙な気分になる。キメラ症ではないのに、自分と同じぐらい人間離れしたような面構えをしているからだ。なぜ軍服を着ているのか?詳しいことは知らない。

 ともあれ、フランシスのようなキメラ症患者は、本来はこういうような人間の姿として生まれるはずだった。

 キメラ症というのは、人間の遺伝子が、ウィルスによって他の動物のものとすり替えられる病気だ。どんな遺伝子が、どの動物とすり替えられるかは患者によって大いに異なる。フランシスの場合なら、どこぞの国の、カンムリワシとかいう猛禽類の外見がウィルスによってもたらされたようだ。もっとも、どんな種類の鳥か、なんてどうでもいい。確かに知らされてはいたが、その病気で面倒な生き方を強いられていることに比べてはどうでもいいと思っている。

 それでも内心、目の前の軍服のような見た目の人間に生まれないでよかったと思いつつ、彼に向かって一言述べた。「ありがとうございます」と。思っていることと裏腹、というわけではなく、これは心からの言葉だ。

 コンクリートがむき出しのぼろ臭い部屋に、磨きこまれた木製のデスクが鎮座している。軍服の男の部屋だ。窓からは南米の日差しが差し込んでいる。その窓の上を見ると、コンクリ壁にはおよそ不釣合いな瀟洒な時計が掛かっている。それには液晶パネルがはまっており、日付を示してくれている。二〇六〇年、八月十三日、と。

 男はしゃがれた声で語りはじめた。自室の光景に陶酔したのか、映画に出てくる軍の幹部のように。

「君はわが国の未来を、そしてキメラ症の未来を明るく照らすべく、今後とも活躍してほしい。彼ら民主和党に捨て置かれた哀れなキメラ症患者達を救う、我らが主導者の理想を実現するために。」

 軍服の男と同じように陶酔するまいと、冷静にやりとりする。軍服の言うことももっともだとは思うのだが、彼のように無駄に酔ってしまっては、理想の実現からは遠のいてしまう。

 理想というのは、この国のキメラ症患者にも主権を取り戻させることだ。南米にあるこの小国のキメラ症事情は酷い。キメラ症発見の大陸にあるにもかかわらず、キメラ症患者の肩身はことごとく狭い。与党である民主和党という政治派閥の掲げる方針が、キメラ症発見以前の旧体制のままなのだ。それどころか、発展途上のこの国では、キメラ症患者を人間として認識しない風潮すらある。単純に、見た目が違うからだとか、遺伝子が違うので別の生き物だという理由まである。どうやら自分もそのうちの一人らしい。

 これが一般の人間の間での差別だけならまだしも、つい先日のとある裁判は酷いものだった。公共施設は、キメラ症患者の利用を拒否してもよい。こんな判決が裁判所で下ったほどだ。とうとう、司法がキメラ症患者と健常者とを等しく見なくなった、ということになる。三権分立が聞いてあきれるものだ。

 そんな、日々更新される旧体制の下、虐げられたキメラ症患者が寄り集まって出来た政治派閥がフランシスのいるキメラ第一民主主義だ。

「民主和党のあの男は、我らが主導者のやり方を、『行き過ぎた悪性の突然変異だ』などと非難した。我々の主導者の偉大な導きをだ。それに対しての君の制裁は、下されて当然だったのだ。これは誇るべきことだぞ」

 話を続ける軍服は、さらに気分を高揚させて語りだした。あの男、先日ワシ頭をもってして狙撃したスーツの男のことだ。

 国の、キメラ症患者のためとはいえ、この軍服の陶酔具合に彼はどこか気味の悪いものがあるが、一応は上官であるこの男にそれらしい返事をしてみせた。

「我らが主導者は、キメラ症ゆえに優秀。それゆえ、キメラ症はヒトの次の人類なのだ。わかるだろう?進化が停滞してしまったヒトより優れた君たちの身体能力、感覚。私はヒトだが、あのお方の偉大さに惹かれ、こうしてキメラ嫌い共を粛清すべく日々思案しているのだ。」

 椅子から立ち上がる。「だが、君も殺しや報復ばかりが仕事では飽きるだろう。あの男に限っては例外だが、殺しばかりが我々の有能さを示す手段ではない、というのが主導者のお考えなのだ」

 突然話題がずれた。この男にはよくあることなのだが、今日は少しばかりワケが違っている。

 軍服は、これまた演技じみた動作で、机の背後にある窓に向かって立ち、言い放った。

「何が言いたいかというとだな、フランシス君。君に、国際キメラ症スポーツ競技会に出てほしいのだ」

 そう言われて、最初何がなんだかわからなかった。きょとんとして、クチバシは間抜けに開いたままにしてしまった。別に驚いたわけではなく、本当にワケが分からなかった。

 混乱しているワシ頭をよそに、軍服は続ける。

「かれこれ十年前からか、かねてより検討されていた、キメラ症のためのオリンピックがついに行われるのだよ。長いことキメラ症患者のスポーツ競技参加は禁じられてきたが、ようやく我々の力を示す機会がやってきたのだ。和党の連中も、国際的な非難に怯えて参加を決めたしな。君もそろそろ表舞台に出て活躍して良いころだ。我々キメラ主義の星として活躍してほしい。」

 まったくもって、何をすれば良いのか分からない。自分がワシ頭で羽毛を生やした体でしてきたことといえば、弓を使って、キメラ症患者を認めない人間を殺すことぐらいだ。身の回りの世話ぐらいはさすがに自分でやるが、そんな自分に何が出来るんだ。そう思っていた。

「君には、アーチェリーの、我が国代表として出場してほしい。得意だろう?」

「は、はぁ…」

 フランシスの開いたクチバシが、その一言とともにようやく閉じた。

 確かに弓は得意だ。しかし、好きで始めたのではない。暗殺という仕事には、音が出ないから好都合だったのだ。他にも理由はあった。南米の極貧小国の、しかもマイノリティの集まりには減音機つきの狙撃銃を買う余裕がなかったのだ。この時代に、しかも弓一つで暗殺をこなせるのは、このワシ頭に納まったタカの目ならぬワシの目のもたらす――つまりキメラ症のもたらす――強力な視力によるものだ。遠くのものも、近くに見える。

「なに、君の正体はバレていないし、派閥には関係ない者だが優秀なコーチもつけよう。なるべく快適な練習環境も提供する。当面君の仕事はそれになるが、よろしいかな?」

 勝手に話を進められてしまった。

 一瞬戸惑いが沸いた。暗殺以外の仕事なんて初めてなのだ。もはやヒトを殺すことに慣れてしまっていて、普通のことをするのにはためらいというか、得体の知れないものを覚えるようになってしまっている。

 しかし、キメラ症のためとあらば、我慢できる。ものの数秒の戸惑いだったが、その思いだけで完全に消え去ってしまった。

「わかりました。やりましょう。この国の、救われないキメラ症患者のために」

 先ほどまでのきょとんとした間抜け面が信じられないような、精悍な猛禽の顔つきに戻った。まるで髪の毛のように生えている冠羽がぐっと広がり、軍服に勇壮な姿を見せ付ける。

 軍服は、振り返ると、まるで英雄の帰還を見るような目で言った。

「君ならそう言ってくれると思っていたよ。来週から、早速そのコーチと練習する準備が出来ている。今日のところは帰ってゆっくり休み、来週からのトレーニングに備えてくれ。ご苦労だった」

 そう言って軍服は、握手を求めてきた。

 彼はびっしりと羽毛の生えた手で軍服の、皺でヨレヨレの手を握った。

 

 フランシスはキメラ第一民主主義の党本部で、暗殺者としての資料整理を終えた。そして、アーチェリー選手としての彼に今後必要な資料を持って帰宅した。貧しい小国にしては割と大きいマンションの一室が彼の部屋だ。

 居間には複雑な幾何学模様の描かれたカーペットが敷かれている。その上にはちょこんと、木製のテーブルが置かれていて、それなりに豪華に見える。そんな部屋に戻ると、まずは革製の薄い鞄をテーブルの上に置く。少し疲れた気もするが、ため息は我慢して、そのままジャケットを脱いでクローゼットにしまい込んだ。

 テレビを点ける。日本製の中古の液晶のやつだ。先進国ではもっと薄い有機ELディスプレイが出回っているのだが、高くて手が出ない上に、そうほしいものでもない。

ぱっと明るくなった画面では丁度、夜中の国営テレビでニュースが始まったところだ。ソファに座って、足を組む。テーブルの上をみれば、資料の入った封筒が鞄からはみ出していたが、その脇で、羽毛が一枚寂しそうに鎮座していた。彼自身の体から抜け落ちたらしい。なんだか放置する気にならないので、それをつまんでゴミ箱へほいと入れてやると、再び鞄に目を向ける。その封筒を引っ張り出した。

 「スポーツか」そう呟くと封筒を閉じている紐をほどく。中にはアーチェリーのルールや練習法、トレーニングの内容などが書かれた資料が詰められていた。他には、スポーツ選手として、自分がとるべき行動、食生活、などのマニュアルも入っていた。あらかた中身を取り出してから、封筒の底に何か詰まっているのに気付く。羽毛がびっしりと生えた指先に、何か硬いものが当たっているのだ。封筒の縁をトントンとたたいてみれば、それが封筒から滑り落ちてきた。今や古臭いコンパクト・ディスクの入ったソフトケースだった。表面には油性のマジックでこう書いてある。『競技大会の映像。参考にしてくれ』と。軍服の男の字だった。すぐに軍服の男のおせっかいだとすぐ分かったので、気が向いたら見ることにした。

 資料を読み始める。キメラ症患者と、健常者の行う競技の違いから資料は始まっている。キメラ症向けのアーチェリー競技は、最長百十メートルあるということが記されていて、驚いたものだ。普段の仕事では、確実にターゲットを仕留めるのに、長くても四十メートルまでは近づくものだったのだが。

 健常者用のアーチェリーの距離でさえ、長くても男子の九十メートル。キメラ症患者は健常者をさまざまな面で凌駕する能力を持ちうる。それゆえ、健常者よりも長い距離を設定されている、と書かれている。自分の視力みたいなものだろうか。

資料には、アーチェリーについて克明に記されていて驚いたものだった。こんなものがあったとは、と思う。

 少々暑苦しい。ワイシャツのボタンを二、三外す。ふかふかとした羽毛が、こぼれる様に胸元に広がった。この姿では、健常者と同じ格好をするには少々暑い。

 ワシの頭を首の上に乗っけている理由は、キメラ症とはいっても、その二次感染者だからだ。ウィルスを最初にもらった母は一次感染者ゆえ、姿こそ健常者だったらしい。しかし、ウィルスに蝕まれて、彼を産んですぐ死んだ。父も同じらしい。どちらの顔も覚えていないし写真も残っていない。どちらがどちらにウィルスを移したとかも知ったものではない。

何故二次感染者が、自身のようになるのか。母親の胎内で、遺伝子をすり替えられた一つの細胞から体が作られるためだ。一次感染者は体が完成した後にウィルスに感染しているので、体は変化しないまま、身体機能が侵されて死んでしまう。キメラ症は、二十世紀末から流行を始めたエイズに非常に似た感染経路を持つ。すなわち性交渉や輸血、血液製剤などで、体液を介して人から人へ、また動物から人へと感染していく、とのことだ。これはキメラ民主で教育されたことだった。

 感染経路ゆえ、両親のいないトリ頭や犬頭が、施設だとかで育つことも少なくない。

 フランシス自身もご他聞に漏れずキメラ民主の施設で育てられた。そして、いつの日からか、今のような暗殺者としての生活をはじめたのだ。世間のことなどまったく知らなかった。いや今でもだ。だから、今日渡されたこの資料には驚きが詰まっていると思う。しかし、不思議と「やってみたい」と思うことはなく、キメラ症のためにやらなければならない、そう思う。

 そうしてしばらく資料を読みふける。アーチェリー以外の資料、いつも読まされる行動マニュアルだとかも、いつもと違って新鮮だ。食生活まで決まっており、いつも自分で食べている、シリアルと卵ばかりではなく、色の濃い野菜から、高たんぱく低カロリーな食材まで並んでいる。「貧乏小国にありながらここまでするか」と、党の期待が感じられると、珍しく緊張してしまう。

 資料を読み終えるころ、彼は眠気に負けそうになってようやく疲れているのに気がついた。軽い夜食にと、シリアルとミルクを大目にいれたコーヒーを用意した。

 コーヒーをすすると、今になってテレビに目を向ける。テレビのニュース番組が芸能ニュースの放送を終え、事件性のあるニュースに切りかわったところだった。

 中年の白人男性が、神妙な面持ちで原稿を読み上げていく。

「はじめに、先日最高裁判所で、公共機関がキメラ症患者の入場や利用を拒否できるという判決が出た裁判で――」

 このニュースは興味のあるものではあったが、党で散々話を聞いている。それに今は頭が働かない。それより今は何か口にしたい。スプーンでシリアルをすくって口の中へと運ぶ。シリアルのサクサクとした歯ごたえがいい。

 もう一口目をスプーンですくったところでふと、さきほどの資料で読んだ、キメラ症患者と健常者の行う競技の違い、という言葉が浮かんだ。すこし変形すれば、キメラ症患者と健常者の違い、になる。そういえば、テレビに映っている裁判所の前のハトは、くちばしで盛んに地面をつついている。街路樹から落ちた木の実でも食べているのだろうか、やや不器用な感じだ。同じような面構えの自分は、ちゃんと噛んで食べている。そういえば、自分のクチバシには専用の差し歯のようなものが植わっているのだった。たしか自分の細胞から何かの技術を使って作ったものだったか、ちゃんと歯磨きをしないと虫歯になる代物で、さっきの文章にあったような違いなど見当たらない。クチバシの端にも唇がわりの柔軟な組織がはめられ、食事には難儀しない。施設にいたころ、これを党の補助金で体に入れる前はそれは粗悪な矯正具をつけ、コーヒーも温かいものをストローで飲む始末だった。それでもテレビのニュースのように権利は認められないのだろうか――。

 その考えに詰まって、一瞬ぼーっとしてしまったあと、見てみればスプーンからシリアルはすっかりこぼれてしまっていた。再度すくって、味わう。そして気付いた。先ほどまで読んでいた資料には、食生活に注意するよう書かれていたのだ。すっかりそれを忘れていて、思わず苦笑するが、メニューを変えるのは明日からにしようと決めた。

「続いては、今朝、市内のホテルで、民主和党の党員が遺体で発見された事件についてです。発見された遺体は、与党である民主和党の…」

 ニュースは続く。画面は、昨日見た事件現場の光景。端っこには、豪雨の向こうに見たスーツの男の顔が映されていた。

「発見された遺体の胸には、アーチェリー用の矢が刺さっており、道路の反対側から狙撃されたとされています。また、矢からはペースト状の物体と、その中から猛毒が検出されており、何者かによる暗殺と思われております。しかし、死亡推定時刻にはバケツをひっくり返したような雨が降っており、外部からの狙撃が可能とは言いがたく、捜査は難航しているようです」

 それを聞いても特に気に留めることはない。見せしめのための暗殺なのだ。遺体が見つからなければ意味がない。矢を放った当人からしてみればやや滑稽に聞こえるが、そうなるように仕込んだのだ。矢が飛び込んで割れたガラス窓から、ほぼ確実に射撃位置はばれそうなものだったが、予想外にてこずっているようだ。

 コーヒーをもう一口すする。シリアルと一緒にするには甘すぎたようだ。思わず顔をしかめた。

 スーツの男暗殺のニュースは続いている。

「被害者は、民主和党の中でも、キメラ症関連法案について革新的かつキメラ症患者に友好的でした。しかし、キメラ第一民主主義の方針には苦言を呈しており、先日の『キメラ民主の方針は、キメラ症のゆがんだ優越感が肥大した悪性の腫瘍、変異だ』との発言が波紋を呼んでいました」

 この発言には、軍服の男が激怒していたな。そう思い出したが、これまたコーヒーの味に比べればどうでもいいことだった。

 自分自身も多少はこのスーツの男の発言にむかっと来たものがあったが、自分の周りことを考えると分からなくもない。彼の雇い主である、キメラ民主の、ライオン頭の党首は確かに優秀だ。差別されながらもどこかの国のいい大学を出て、弁護士の資格だとかを持っているらしい。しかし彼も自分と同じ、ただのキメラ症患者だと考えると、自分が党首だったら、もうすこし穏やかに事を運ぶだろう。そう思っている。

 中途半端な言葉で、暗殺事件のニュースが終わる。明日の天気予報が流れ始めた。どうやら明日の天気は晴れらしい。

 「そろそろ寝るか」

 普段から口数は多くない方だが、家でぽつぽつと、こういった独り言を零すことはある。この一言は寝る前に必ずといっていいほど言っているのだな、と今更ながら気が付いた。

 「あ、あれ見なきゃ」

 しかし、軍服の男に渡された、アーチェリーの映像を見ていないのを思い出してしまう。仕方がないので、ノート型パソコンで、ベッドの上で寝転がりながら見ることにした。


 翌週、彼は街の郊外にあるだだっ広い、ただの空き地のような場所にいた。周囲は汚らしいラクガキを施されたアスファルト壁やら、その向こうの何処に植わっているのか、広葉樹の枝、低いビルが見えるぐらいで、人はほとんど皆無だ。

 先週のあの日、軍服の男に、ここに集合するように言われてここに着た。動きやすい格好で来るよう言われていたので、普段のようなスーツは家に置き去りにして、着古したミリタリーパンツに長袖のTシャツを着ている。あとは適当な、申し訳程度のジャージを羽織っている。暫くクローゼットの奥に眠っていたもので、すこしばかり樟脳臭い。

 家に居てもすることがないので、朝起きてさっさとここにきてみたが、やはりやることもなくただぼうっとするしかなかった。この国は南米でも高緯度地域にあるため、それなりに冷える。雑草と赤土が半々ぐらいで広がっている空き地に風が吹く。砂煙が上がった。

羽毛に砂が絡まりそうで少しうっとうしい。

 この場所まで来るには一苦労あった。自宅のある街から、電車で三十分。更にそこから二十分は歩いたのだ。もう準備運動は十分だ、そう思う。

こんなとき、この国のキメラ症事情を思い知らされる。その辺に倒れていたドラム缶に腰掛け向こうを眺めて見れば、健常者が運転する乗用車。胸の奥が締まる思いになった。

 キメラ症患者には、見た目や症状は様々といえど、人並みの生活を送ることができる者も多い。海外ではキメラ症患者だけを引っかき集めた警察の隊ができたりしたようだが、この国のキメラ症事情は、そんなようなことも関係なかった。キメラ症患者は、症状にかかわらず重度の病人として――もしくは人間ではないものとして――さまざまな権利を奪われている。選挙権はさすがにあるが、公職に着くことは困難だ。さらには運転免許を得ることも出来ない。どん底にもなると、スラムで健常者に蹴られるようなホームレスをやらされかねない。

「車の一つぐらい運転したいな」

 今朝はシャワーを浴びたが、散々歩かされたので体が汗ばんでいる。以前には羽毛が汗を吸って、酷い臭いがしたこともあった。自動車に乗れればこういうこともないだろうに。

 そうして羨ましがりながら、往来する自動車を見るともなく眺めていた。普段使っている弓が入った、くたびれたバッグを抱えたまま。

 そのうち、一台のセダンが往来の中から空き地にそれてきた。運転席には、スポーティな服装の金髪の白人女性がハンドルを握っていた。金髪を前髪ごと後頭部で束ね、団子のようにしたヘアスタイルをしている。かわいらしいでこっぱちだ。助手席にはなんとなくどこかで見たような、犬頭の若者がいた。

 先日、軍服の男にコーチが女性だということは聞いていたが、助手席にいるシェパード犬の頭をした若者のことは聞いていなかった。何か犯罪沙汰のことを起こすわけではないからうろたえたりはしないが、誰だろうか。

 セダンは土煙を上げて適当に空き地の端に止まった。その二人が降りてくる。コーチと思しき女性は白いジャージをぴったりと着こなしている。まだ三十代の前半だろうか。尻尾を生やしたシェパードの若者も、どこか重い表情をしているが、それを隠すかのようにコーチと談笑している。はたから見ると無表情な自分が一番老けているようにも見えるかもしれない。

「あなたが、連絡にあったカーターさんね?今日からあなたのコーチになるリンよ。よろしくね」

 そう名乗った女性は、綺麗な指で握手を求めてきた。爪には透明なマニキュアをしているようだ。

こちらもお決まりのように名乗ると、握手。コーチは続ける。

「こっちが、あなたと一緒に私が面倒を見るヨシュア。キメラ症同士仲良くしてあげてね」

「よろしく、え〜と、カーターさん」

 ヨシュアと名乗った彼とも握手をした。毛皮同士の握手で少し暑苦しい。

「フランシス、でいいよ。皆そう呼ぶし」

「じゃあ、よろしく。フランシス」

 ヨシュアははつらつとした声でそう言った。

 自分の名前を言う程度の、軽い自己紹介を終える。予想外の事態、つまりヨシュアの出現には、混乱というほどのものは起こしていなかったが、戸惑いは覚えていた。

目の前の犬頭は最初こそ、何故か重たい表情を浮かべてはいたが、キメラ症患者にしてはえらく明るいのだ。自分はどうだかよくわからないが、普通ではない人間であることは確かで、この犬頭のようなキメラ症患者も初めて見た。思ってみれば人生で初めての体験だ。

「さぁ、早速だけど二人とも、練習始めるわよ。準備手伝って!」

 コーチはいつのまにやらセダンの後ろ、トランクを開いてなにやら用意している。ずるりと出てきたのは、黄色やら赤やら、カラフルな円形の模様が描かれた大きな紙。アーチェリーの的紙だ。ヨシュアもそこへ駆け寄ると、それとほぼ同じ大きさの板のようなものを引きずり出した。それを抱えて重たそうにしている。彼に続いてそれに近づいて、何かと覗き込んでみると、それは表面に整然と草が編みこまれた、的を貼り付けるための畳だった。畳というものは東洋でしか見ることのできない、エキゾチックなものだと思っていたので、ついついそれに釘付けになってしまう。

 畳を眺めていると、コーチに声を掛けられた。「どうしたのフランシス?ヨシュアの顔に何かついてる?」どうやらヨシュアを見ていたと勘違いしたようだ。

「あ、ああ。なんでもないです」

 アーチェリーなんて今日が始めてで、畳なんて見たことなかった、そう言えるわけもない。この一週間、党本部でアーチェリーのレクチャーやトレーニングは受けたが、用意まで自分でやったわけではないのだ。

 トランクに入っていた、油絵だとかを描くときに使う、イーゼルのような物を引っ張り出す。的を掛ける為の道具だ。かなり年季が入っている。

 半ば間の抜けた声で「え〜?なんかついてますかぁ?」というヨシュアは、もう空き地の中ほどあたりまで畳を運んでいた。


 数分後、だだっ広いだけのただの空き地が、アーチェリー用のレンジに変わっていた。と言っても、先ほどの的を組み立てて、離れたところに置いただけなのだが。的を組み立てているときに、この空き地で練習すると聞かされたときは驚いたものだが、この国なら仕方あるまい、と落ち着いた。

 準備運動を終えて程よく汗をかいているキメラ症患者達。体毛についた赤土をはたいて落としたりもしている。

ヨシュアに体の硬さを大笑いされたが、どう受け答えしていいか分からず、どもってしまった。そのときの表情が変に見えたのか、更に大笑いされた。表情にあまり変化のなさそうな面構えだとは思っているのだが、何か分かるのだろうか。「見た目ほどカッコよくないな」とも言われた。間接的に見た目のことを褒められたのか、ますますどうすれば良いか分からない。面白いやつ、だとか言われたこともない。

 見かねたのか腰に手を当てて仁王立ちしているリンが言った。

「はい、おふざけはそこまで。じゃあ、準備が出来たら、まずはフランシスから射って見せて」

 正直自分のことが分からなくなっているところに、この一言は助け舟となった。ホッとしながら返事をすると、くたびれた鞄から愛用の弓を引っ張り出す。組み立て式でない、すべてのパーツが一つになっているワンピースボウとかいうらしい。党でレクチャーを受けるまでには微塵も知らなかったが。

 しかし、それを見たコーチは「あら…なんでそんな骨董品みたいなもの使ってるのよ。しかも健常者用じゃない」と、まるでリサイクル品店で売られている物を見るように言い放った。

「コレしか買えなかったので。キメラ症用のはちょっと少ないですし…」

 もし聞かれたら、こう答えろ。そういう手筈だった。党でのレクチャーは、アーチェリーよりもこうした身分の隠匿のハウツーが多かった。どうせなら新しい弓をよこせ、とも思った。しかし、金がない、と切実なことを言われてしまえばさすがに従うしかない。キメラ民主が聞いてあきれるものだ。自分たちに合うように作られた弓も買うことができないとは。

 弦の調整などは、普段からやっているので戸惑うことなく準備に入れた。弓を射る前に緊張していなかったのは初めてだ。別の初めて、つまり初めて人に矢を放ったときは数万倍緊張したものだったのだが。

 調整を終えて、羽毛で手が滑らないように革手袋を着け、矢を持つ。コーチの声がかかる。

「まずは、三十メートルね。お手並み拝見といきましょう」

 と、的を設置したときに地面に刻んでおいたラインをまたぐ。そのまま構えたが、コーチに制止された。「ちょっと、スタビライザーも着けないで射るの?」と。

 スタビライザーというのは、矢を射った際の振動を除去したり、弓を安定させたりする装置のことだ。弓の前方に装着する棒状のものである。そう党員に教えられたが、持っていないし、そもそも使う必要もなかった。狙撃地点から逃げるのにかさばって邪魔だったからだ。

 しかし、そんな風に答えろ、とは教えられていない。答える必要もない。「ちょっと買うお金がなくて…」こう答えた。全て金銭面のせいにしてしまえば、この国では多少おかしくても「そうね」で済まされる。コーチは、ヨシュアの弓を使うよう勧めたが、断った。さすがにここまでは指示されていないが、自分の弓を使いたい。

 改めて構えなおし、矢をつがえ、照準から向こうを見る。近くの風景が霞んだ。照準器に重なって的の真ん中、黄色の部分が視界に広がる。それを狙って弦を引きしぼった。同時に「先週の、あの男は動いていたな」と、今朝のニュースにも映っていたスーツの男を思い出した。

 その目は、彼の容貌どおり猛禽類が獲物を狙うものだった。集中力が全身から、弓を引くのに必要な部分にのみ集まっているかのように、彼の羽毛がざわつく。冠羽を広げた勇壮なカンムリワシの容貌に、コーチとヨシュアは釘付けになった。弓のハンドルを握る彼の左腕は、まるでその位置に固定されたかのように動かず、しかし繊細に的を狙っているのだ。

 先週のアパートの中で射った時と同様、体温が上がったような感覚に襲われた。このタイミングだ。そう思った。

 同時に、ボッ、という音と共に矢が放たれる。確信を持って弓を下ろした。

 矢は音を立てると、的の黄色い、最高得点の部分に的中した。彼の冠羽も降り、彼の初めての、スポーツとしてのアーチェリーの射撃も終了した。

 ヨシュアとコーチは息を一つ吐き、おのおのに呟く。

「お見事。スタビライザーなしですごいじゃないか。相当上手いとは聞いていたけど、先輩のオレより上手いんじゃないか?」と、毛皮の生えた手で、ぽふぽふと拍手してくるのはヨシュア。

「上手いわね。キメラ症じゃなかったら、もっと早く、良い選手として活躍してたでしょうに。けど、ヨシュアも負けてないわ。次は彼よ」とコーチ。

 見ると、ヨシュアはいつの間にか小奇麗な青い弓を持っていた。矢の前部には、長い棒が一本出ている。更にそこから彼の手前側にむけて、ちょうどY字をつくるように短いものが二本装着されている。これがスタビライザーだ。

 フランシスは先ほどの位置を空けると、ヨシュアと交代した。

 シェパード頭の男は矢をつがえると、優雅に弦を引いた。弓が限界までしなっても、凛とした表情。それを見ているフランシスには分からないが、彼自身の、殺気を無理やり押さえ込んだような雰囲気とは対照的だ。

 ヨシュアのグローブをはめた指が弦から離れる。弦が空気を切る音が、ぴゅうと響いた。

 放たれた矢は、まるで当然のように黄色の、的の中央部分を射抜いた。フランシスの射った矢の真横に、寄り添うように刺さっている。

「すごいな。ああ、なんて言えばいいんだろう」

 ワシ頭は彼の射形、弓を構える姿に衝撃を受け、そう言った。彼では言葉に出来ない、何か涼やかで、さわやかな印象を受けたのだ。武器を扱う姿ではない。ワシ頭でそう思ったのだろう。

 矢を放ち終え、弓を手首からぶらりと下げたヨシュアは、一呼吸おいてこう答えた。「なに、弓に当てさせてやればいいのさ。矢を、的にね」その表情もさわやかだ。

「ふうん。難しいな」

 眉間にしわを寄せ、そう言った。いまひとつ釈然としない。彼自身、自分の力と、勘を頼りに、殺すべき人間へ矢を放っていたからだろうか。そんなことを知らないヨシュアは「ど真ん中に当てておいて何言ってんだよ」とケラケラ笑った。

 これまたどう対応すれば良いかわからず、クチバシながらにもごもごと口ごもるしかできなかった。見かねたコーチは、彼に再度矢を射るように指示、練習が本格的に始まった。


「よし、整理体操終わり。お疲れ様でした」

太陽が半分ほど、山脈の向こうに沈むと練習が終わる。結局今日は、コーチが選手二人のクセだとかを探したり、弓の調整だとかで、三十メートルでの練習だけだった。照明がないため、日が落ちたら練習は終わりにせざるを得なかったのだ。練習道具を片付け終え、コーチの締めくくりに、ヨシュアはいかにも体育会系な返事をした。一歩遅れてフランシスもそれに倣ったが、しかしスポーツ選手にしては力のない挨拶であった。コーチは苦笑している。

「う〜ん、締まらないわね。まあいいわ。さて、今日は初顔合わせだし、どこか行きますか。お酒でもどう?」

 コーチの一言にヨシュアは跳んで喜んでいたが、ワシ頭は戸惑った。他人と酒を飲むなんて、片手で数えられるほどの記憶しかないからだ。

「なんだよフランシス、コーチがおごってくれるんだぜ?のんでおけよ!」

「ちょっとヨシュア、私はそんな事…まあいいわ。家に帰られる程度にしなさいよ。さ、車に乗った乗った!」

 と、フランシスをよそに話はどんどん進行。ヨシュアはすっかり盛り上がり、彼の手を引いて、コーチのセダンへ向かっていく。

声にならない声を上げていたら、いつのまにか後部座席にちょこんと座らされてしまっていた。どうやらヨシュアに無理やり押し込まれたらしい。当の犬頭は、いつの間にか人様の――フランシスの――鞄を持って、それを後部のトランクに突っ込んでいるようだ。ばん、と勢いよくトランクが締まると、犬頭は隣に入ってきた。それを見ている自身は、クチバシをぽかんと開けたままにしてしまっていた。

 そのままコーチも運転席に入り、車のエンジンがかかった。するりと車体が滑り出す。と思いきや、後輪が滑り、まるで戦車が向きを変えるかのような挙動。

驚いてコーチの座るシートにへばりついて聞く。「ど、ど、ど、どうしたんですか?!」と。今日はいきなりのことばかりですっかり疲れているからか、思わず裏返った声を出してしまった。

それに対して返ってきた言葉は、コーチからではなくヨシュアからのもので「いつもこうしているけどなぁ。びっくりしたか?」と聞こえた。恐ろしい、というよりすさまじいことに、運転手のコーチも、ヨシュアも平然としている。そんな車内の空気に、一抹の不安はぬぐいきれなかった。

「まあ、さすがに安全運転するから安心してね」

 と、コーチはにこやかに宣言した。なんともさわやかな笑顔だ。その言葉の真意を考えるまもなく、車体が公道におどり出た。「ひい」と、身元を隠している暗殺者にしては情けない声を上げて、目を硬くつぶり、縮こまる。

「何してんだよ、フランシス」

 隣から噴き出すのをこらえているようなヨシュアの声。ワシ頭は我に返ると、乗っているセダンが驚くほど静かに走っているのに気づいた。その瞬間、クチバシの先端まで熱くなるほど恥ずかしくなる。コーチは本当に安全な運転をしているのだ。

「はっはは!コーチは、車出すとき以外はああいうことしないよ。まったく、何を想像したんだよ」

 ヨシュアはまたしてもけたけた笑った。

 それに対して大きく息を吐きながら「それならそうだと言ってくれ…びっくりしたじゃないか」とこぼした。

「ま、むかしはちょっとヤンチャもしたけどねぇ」

 コーチの一言はさぞ懐かしいといったものに聞こえた。今と同じようにハンドルを握って、どんなことをしていたのだろうか。

胸をなでおろしながらコーチを見ていたら、ヨシュアに肩をトントンと叩かれた。彼のほうを見てみれば「まともに話せるじゃないか」と言われた。またしてもよく分からないことを言われて、ワシ頭は調子を崩した。

 運転席のコーチもそのやり取りをミラー越しに見て、楽しそうに微笑んでいる。同時に、内心ホッとしていた。先週になって突然、無名の、しかも胡散臭い選手を預かれと頼まれたのだから。それが、現れたのは少しシャイな好青年。やや人付き合いが苦手なようだが愛想は良いので好感が持てる。もちろん、彼女はフランシスの身の上など知る由もないし、どういう素性かを疑う必要もない。そう言う点で、彼女は安心しきっていたと言っても過言ではないだろう。フランシスの態度は、彼女には引っ込み思案に見えており、その点に関して彼女は不安だが。

 すっかり紺色になった空の下、コーチの白いセダンが走る。古臭いナトリウムランプの街灯が、ひび割れてぼろぼろのアスファルトにオレンジ色の光を落としている。周りには電気自動車の出来損ない、ガソリンと電気の両方で動くハイブリッド車が静かに、ときにガソリンが燃えて出た呼気を吐いて走る。

 フランシス自身、先ほどの戦車のような動きに揺さぶられてから心拍があがりっぱなしだったが、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 落ち着いたところでヨシュアからの質問が飛んできた。

「どこに住んでるんだ?」

 答えてみる。

「テオドル通りのマンション」

「今度遊びに行っていいか?」

 これも黙っていたら怪しいので答えてみる。

「いいよ」

「アーチェリーはいつ始めたんだ?」

「ミドル(中学)卒業してから」

「モテるだろ?」

「いいや」

 あまりにもぶっきらぼうかもしれないが、上出来だと思う。ヨシュアも質問するのに夢中なのか、大して気にしていないかもしれない。同じく中学卒業と同時に、コーチとマンツーマンでアーチェリーを始めたことを話したり、仲間が出来たことを喜んでいる。コーチにはもうダンナが居るから、と切なくも面白い恋愛事情も話してくれた。

コーチはそれを聞いて「そういえば、最近ダンナがバイト、クビになっちゃってね」とか言いだした。コーチの夫もキメラ症患者なのだそうだ。この手の失業の話はよくあることだ。キメラ症に理解のある人間が少ないため、キメラ症の失業者は少なくない。自身もそのことは承知しているが、キメラ症のダンナ、という言葉には、なにか不思議なものを感じざるを得ない。

 ヨシュアはその話を何度か聞いていたのか、今度はどうしたのかと聞いた。

「いや、レストランでね、毛が入ってる、って怒られて一発だって。あの人トカゲのキメラ症なのにね」

 コーチは苦笑交じりにそう言った。

 紙皿のように使い捨てられるキメラ症患者も少なくないのだ。この手のことなら話せるので、会話に参加してみる。

「オリンピックでキメラ症のことを分かってくれると良いけどなぁ」

 それを聞いて「言うねぇ」とヨシュアの一言。彼はそのまま、どういう部分がキメラ症の良いところかを聞いてきた。フランシスは、体力、能力的に優れているところ、と安直に答え「それを良いように使うのは、許されないよな」と締めくくる。

 ヨシュアは複雑そうな表情を見せたが「そうだな」と同意した。しかし、フランシスに対してこうも言った。「でもさ、能力、体力ばかりがキメラ症のよさじゃないだろう?」そういった主張をするのはキメラ民主党員みたいだ、と。ヨシュアの表情は真剣だ。

 フランシスはぎくりとしそうになったが、ばれるワケには行かない。なにしろ世間での話題は、先週の『アーチェリー暗殺事件』なのだ。傍目には一流の射手である彼が、キメラ民主党員であるとなったら、怪しくて仕方ない。「そ、そうか」と主張を緩やかにした。

「ほら、お前みたいに面白いやつって、キメラ症でもなきゃいないだろ?キメラ症って多様でおもしれ〜!」

 と先ほどの表情から一転、ケラケラと笑い始めた。大きく開いた口からは、イヌ科の大きな舌が零れ落ちそうだ。そして、ワシがオウムみたいに話してるのが面白い、と続ける。キメラ症患者は、再生医療の応用で作られた人工声帯を装着しているので、オウムでなくとも、また鳥でなくとも人間とほぼ同じ発音が出来る。ヨシュアもそうしているはずで、そう面白いものでもないはずなのだが、そう言いかえせるほどワシ頭自身は口が器用でないようだ。

 あまりに笑いすぎるヨシュアを、コーチがたしなめた。笑い上戸も度が過ぎないか、と。これにはヨシュアも、怯えたイヌのような切ない鳴き声を一つ上げて縮こまるしかなかった。

「酔っ払う前に連絡。明日は早速だけど、市内のレンジに行くわ。それと、フランシスの弓、一式買い換えるから、週末の予定、空けておいてね」

「へ〜いへい。何も用事なんてないですよ〜」

 すっかり友達感覚で話しているような二人に、上手く口を挟むことができないが、ヨシュアに肩をぽんぽんたたかれながら、ただ相槌を打っているのに、悪い気分はしなかった。


 週末。フランシスは自宅のソファで、のっそりと起きる。空はまだ青白い。早朝だ。頭がかゆい。どうやら冠羽が変な方向に立ち上がってしまっているようだ。健常者ならこれを寝癖と簡単に言えそうなものだが、羽毛でそう言うのはどこかおかしい気がする。

 跳ね上がってしまったそれを手でとかしながら、ソファに座りなおす彼。トリ頭の目蓋は、光を遮ろうと勝手にせりあがって来る。

 昨日もヨシュアと酒に酔い、良い気分だったのは覚えている。初対面の日、酔っ払った後もこんな風だった。酒の勢いで、うっかり自分の本当の身分を明かさないように注意していたのも覚えている。幸いにして、二回目の今回も、うっかりとした発言はなかったようだ。

 横にあるテーブルを見ると、酔っ払ったミミズが這ったような字で書かれたメモがあった。自分の字でこう書いてある。「早起きして、朝食には必ずサラダを入れること!」

 酔っ払ったワシ頭で精一杯、スポーツ選手の食生活を始めようとしたのだろう。ひどく筆跡がゆがんでいる。それを目にしたフランシスは「野菜は切らしてたはず…」と独り言。

 酔った自分は酷い、そう思いながら彼は冷蔵庫の前へとよろよろ歩く。

 今日は朝早くから買い物なのだ。新しい弓を買いに行く予定だ。弓の値段はあらかじめ調べておいて、党のほうに連絡はつけておいた。資金面に問題はない。金がないとは言われていたが、軍服を呼び出してキメラ症のためだと説得したらあっさり許可が降りたのだ。

 野菜はないからさっさとシリアルと卵で朝食を済ませよう。そう思っていたが、冷蔵庫を開くと仰天した。中に緑色が透けているビニール袋が鎮座していたのだ。酔っ払った勢いで、深夜に思い立って買い物したのだろうか。記憶は薄れているが、嬉々として野菜をレジに通した覚えがあった。そんな自分自身に呆れつつ、また初めての感覚に言い様のないものを覚えていた。

 結局朝食は、袋の中身のトマトやら海藻やらに、ほぐしたゆで卵をまぶしたサラダと、シリアルとなった。クチバシにワカメがしつこくはりついて、食べにくかった。


 紺色の、地味ながらデザインしっかりしたジャケットをはためかせ、フランシスは歩く。革靴の音がマンションのロビーに響いている。

 マンションから出ると、それなりに小綺麗な道路に電気自動車が群れで這いずっていた。どれもこれも先進国からの中古車で古い型ばかりだ。

 ちょいと見上げてみれば、今日も空は青い。南半球の寂しい冬にしては綺麗に晴れ上がったものだ。

 建物はレンガ造りのものが多く、町全体としては赤茶けた色をしている。マンションの窓だとかには、丸い輝きを放つ、つややかな陶器の鉢に可憐な花が植えられていたり、洗濯物が干されていたり、はたまたベランダには大きく伸びをしている白人男性。もちろんこういう表現をするからには、その彼は健常者だ。

 そんな見慣れたはずの風景を、どうしてか仰いだフランシスは、再び前に目を向けた。休日とはいえ、彼の住むマンションは繁華街に程近いので、人通りは多い。

 彼と同じような格好をした健常者が、コンビニエンスストアに入っていく。何か奇妙な感じだが、彼も一応は出かける前に何か飲み物でも買っておこうと思い、その健常者に続いた。

 自動扉を抜けると、よくあるコンビニの風景。飲み物は、やはり奥においてある。

 何を買おうか考えながら、雑誌コーナーを通り過ぎる。棚に溜めこまれている文字は「日本のキメラ症警察部隊、増員へ」だとか「石油枯渇 出来損ないのハイブリッド自動車で先進国は儲け」果ては「アーチェリー暗殺事件、国外犯の可能性も!?」とかいう見出しだった。

 そういった本を立ち読みしている健常者の若者の後ろをすり抜けようとしたら、その若者が舌打ちした。こういうことは大して気にするほうではないが、気持ちよくはない。

 陳列棚の前に立って、飲み物を選ぶ。コーヒーか、紅茶かで悩んだが、コーヒーを手に取った。メーカーは、日本の有名なところだ。

 振り返ってみれば、先ほどの若者の後ろを、先ほどの自分と同じ格好の白人男性が通り過ぎていたが、若者は何一つ不満そうな顔をしていなかった。

 フランシスは「ああ、やっぱりな」と思いながら、その若者のいる通路とは違う通路を通って、レジへと向かった。

 レジの前には人は大して並んでおらず、すんなりと清算に入ることが出来た。フランシスより二、三年下だろうか、若い女性が応対してくれた。彼女が釣り銭を返すとき、心なしか手を引っ込めるのが早い気がしたが「普通の人間でも、きっとこうなのだろう」と、無理やり思うことにした。

 コンビニを出て、再び歩き出す。人の群れは先ほどよりすこし密になり、活気付いてきている。

 路地に入っていく者、バス停で立ち止まる者、道端で新聞を読む者などさまざまだ。もちろん、それだけの人間がいれば、何かに急ぐものもいるだろう。フランシスは、路地から飛び出してきた中年男性と危うくぶつかりそうになった。すんでのところで事なきを得たが、頭髪の薄いその男性は憤怒した。

「気をつけろ!キメラめ!クチバシがぶつかって伝染したらどう責任を取ってくれる!」

 無駄に叫び散らすその男性に、どう対応すれば良いか分からないフランシスは眉間にしわを寄せていた。「どうしよう」と。

 実際のところ、フランシスは知らないが、そう簡単にキメラ症ウィルスは伝染しない。空気だとか、口の中の唾液だとかにすら非常に弱いのだ。クチバシからの感染は、よほどのことがないかぎりありえない。

 しかし、そういった説明すら必要なく、フランシスの表情を見て、男はたじろいだ。そして、「な、なんだ、その目は。私は急いでいるのだ。相手してられん!」と、たどたどしく捨て台詞のようなものを吐いて、さっさと行ってしまった。

 フランシスはぽかんとしていたが「今日も、こんなのばっかりか」と思うと、とぼとぼと歩き始めた。


 駅前からコーチのセダンに乗って数分、市内のスポーツ用品店に到着した。最初に聞こえた音はセダンのタイヤが悲鳴にも似た声を上げ、すべる音。

「ひいぃ!」

 それに続いたのはフランシスの情けない悲鳴だった。彼は物凄い形相で、シートの上で硬直していた。はたから見ると、着ている小奇麗なジャケットまでも台無しにする姿だ。

 コーチの運転はいつもこうなのか、隣のヨシュアにそう尋ねた。返ってきたのは「もう慣れたな」という驚愕の回答。あの暴走戦車のような動きに慣れるなどということは到底信じられない。それがかえって、ずっとこういう運転を続けるのだろうという恐怖をワシ頭の脳髄に埋め込んでしまったようだ。

「さあ、ついたわよ。ほらフランシス、今日はあなたのためにここに着たんだから、青ざめてないの!」

 女コーチ、リンの声に促され、ずるずると這いずるように車外に出た。コーチは彼のことを青ざめていると言ったが、バックミラーで見た自分の顔は、じっさい羽毛のおかげで顔色なんてよく分からない。

 彼がよろよろと視線を上げると、そこには小汚い外観のスポーツ用品店。建物は小さいわけではないが、年季が入っている用に見えた。

 駐車場には、コーチの白セダン以外には、ボケたような古い型の電気自動車が一台だけ。それを併せてみれば、年季というよりは店が潰れる寸前の切ないものをも漂わせている。

 ヨシュアがセダンの影から長い鞄を持って現れた。フランシスの弓が入っているものだ。彼は「ほれ、おやじさんに見てもらいな。この弓じゃ、お前のいいツラと腕前が本当に出てるかどうか怪しいしな」そう言った。相変わらず、この男の明るさに調子を崩しそうになったが、この間ほどではない。「ああ、そうか」と返事をすると、鞄を受け取り、ヨシュアについて駐車場を横断する。先にコーチがガラス戸を空けて待っていたので、そろそろと店内に入った。

 入って見えたのは、ログハウス調の壁に掛けられた大量の弓。それと二十メートルぐらいありそうなアーチェリー用のレンジだった。そして右手には、レジの置いてあるカウンター。その向こうには中年の、小太りの男性がいた。見た目にはただの健常者。

「お、リンちゃん、新しい生徒さんかい。いいツラしてるなぁ。」

 どうやらコーチとなじみのある人物のようだ。名前だけの簡単な自己紹介をする。

「俺ぁ、ルドウィグってんだ。リンちゃん…もといコーチとは、コーチが学生のときからの付き合いでな。弓のことならまかせてくれ」

 店主と思しきその男、おやじさんは、大きな手で握手を求めてきた。はたして、二日という短期間にこれほど多くの握手を交わしたことがあっただろうか。そのことに驚きながら、握手に応じた。

 羽毛越しに感じる健常者の手は柔らかく、また暖かく感じられた。

「でだ、カーターさん。早速だが弓を見せてくれないか?なんでも化石みたいなんだってな?」

 両手をカウンターについて、いかにも店主らしい態度で聞いてくる。その顔には、長いシワが刻まれていたが、どこぞの軍服とは違って暖かい印象が受けられる。

 そう思っていたフランシスは虚を突かれたのか「ああ、はい。ど、どうぞ」と、どもってしまった。そのまま鞄をおやじさんに渡す。

 おやじさんは、太い指で鞄の口を開くと、丁寧に弓を取り出した。ほう、だとか唸りながら弦の張りや照準をチェックしている。しばらくそうして、なめまわすように観察すると、口を開いた。

「どれ、一本撃たせてくれ。いいかい?」

 フランシスが了承すると、カウンター脇の、蝶番つきの板を蹴り上げて出てくるおやじさん。

「あれ、でも何をするんです?」

 と、答えた後になって、彼は素朴に思って聞いた。それに答えたのはコーチだ。

「コーチ…じゃなくておやじさんはね、選手の弓で一本射てば、その選手に合う弓が大体分かるのよ。一応、あなたのクセとか見て、あらかじめ教えておいたけど、これが一番早いって言ってね」

 どうやら、おやじさんは、コーチに昔アーチェリーを教えていたらしい。もうずいぶん昔の話だよ、と、おやじさんは寂しげに笑っていた。

 おやじさんはレンジに入ると、矢を一本、弓につがえる。フランシスが見ている脇で、ヨシュアが口を開いた。

「お前もすごいけどよ、おやじさんはもっとすげーぞ。一回しかやらないからよく見とけ。参考になるぞ」

「ヨシュア、あんまり買い被りすぎるなよ。集中できないだろう」

 おやじさんは苦笑すると、すう、と弦を引いた。一見無造作だが、反り返る弓の動きはまるで生き物のようにも見える。しばしの静寂。そして、まるで弓と一体化したような動作で、おやじさんの指が弦から離れた。

 矢は、まるで絵に描いたような軌道で的の中央、それこそコンパスの針をおくような位置に命中した。

「な、すげーだろ?」

 と、まるで父親の自慢でもするかのようなヨシュア。尻尾はゆっくりと、しかし嬉しそうに揺れている。

「ふむ、よく使い込まれてる。だがスタビライザーなしの、ワンピースじゃあな。まあ、あの辺が妥当か…一応、カーターさんが射るところも見せてくれ」

 レンジから出てきたおやじさんは、頭の中で自分に合う弓を模索していくれているようだ。だがそれだけでは足りないのか、弓を渡してきた。彼はおやじさんの弓を射る姿に呆然としていたので、慌てて弓を受け取ることになってしまった。

「どうしたんだい?まあ、いつもやってるように頼むよ?」

 親父さんはそう付け加え、背中をぽんぽんとたたいてきた。

 彼は弓を持ってレンジに入る。「緊張すんなよ!」とヨシュアがニヤニヤしている。「しないよ」と一言返すと、的を見つめる。視野に的だけが拡大される。弓を肩まで持ち上げ、矢をつがえた。やはり今回も、弓を持つ両の手が、シャツの下でざわつく。鷹の目ならぬ鷲の目で的を見据え、そこに当たるように弦を引く。そして、矢が飛んだ。

 今日もまた中央の黄色い部分に的中。しかしそこは、おやじさんの射った矢からは程遠い、黄色い部分の端だった。

「やるじゃないか。狩りをしてるみたいでおっかないが、リンちゃんの言ってたとおり良い腕だ。そうだな、ちょいと待っててくれ。あの辺の弓がよさそうだ」

 と、壁にかけられた弓の群れに近づいていくおやじさん。どうやら、思い当たる弓があったようだ。狩りという言葉には一瞬どきりとさせられたが、ばれていないようだと一安心。

 しかし、コーチは安心できていなかった。「ねえフランシス。もう少し落ち着いて狙えないかしら。弓っていうのは的と戦うんじゃないんだから」と。先日の、市内の大型レンジでの練習のときから、このことを言われ続けているのだ。

「やろうとはしてますが、まだ、よくわかりません…ね」

 未だにコーチやヨシュアの言う感覚がつかめない、というよりむしろ理解できない。口々に弓にあてさせる、とか、弓を体の一部にする、とか言ってくるのだが、そんな感覚があることなど信じられない。

「まあまあ、リンちゃん、焦らなくったっていいじゃないか。まだ一週間経ってないんだろう」

 おやじさんはそう言ってコーチをなだめると、壁から弓を三本取った。それを重たそうに抱えてのこちらへ持ってくる。今まで使ってきたぼろ弓とちがって、金属光沢がまぶしい。確か、テイクダウンボウというやつだ。彼は思い出す。持ち手であるハンドルと、弦を引いたときにしなるリム部分が分けられる、組み立て式の弓、と党で習った。

 引き心地は似てるはずだと言うおやじさんから一本目の弓を渡されて、射る。二本目も続けて射った。両方とも黄色の部分には的中したが、安定しない。フランシスは相変わらず、両手の羽毛をざわつかせ、体温を上げながら矢を射っていた。

 見ていたおやじさんが、一言呟いた。「まあ、どれも多分一緒かも知れんな。今のカーターさんにとっては」と。フランシス自身にも、弓の違いはよく分からなかった。

「もっと言やぁ、どれでも変わらないカーターさんはすげぇんだが…まあいいか。弓じゃ腕前なんざ大して変わらんからな。性能は良いもん揃えてるから、あとはカーターさんが納得するものを選んでくれ」

 そう言われて、疑問に思いながらも三本目の弓を引いて、矢を放った。これは的の中央の黄色の部分を、わずかにはずしてしまった。


 夕方、フランシスは市内の大型レンジで新しい弓を引いていた。昼間の小奇麗なジャケットとは違って、ジャージを着て、スポーツ選手らしい格好に着替えている。ここは、キメラ症アーチェリー用の、百メートルまでの距離が取れるレンジだ。ここの経営者はキメラ症関連のスポーツに歓迎的らしく、他にもちらほらとキメラ症のスポーツ選手が見える。

 購入したのは、三本目の、黄色の部分をはずした弓だった。ヨシュアは、耳をぴこぴこ動かしながら、何故当たらなかった弓を選んだのかと彼に聞いてきた。フランシスは、単に自分にとって引きやすかったから、と答えたらヨシュアは不思議そうな顔をしていたが、あの後も何度か弓を引いた上で決めたのだ。

 五十メートル先の的に向けて、弓を放つ。矢は的の黄色い部分の端、赤い部分との境界に突き刺さった。今のところ、黄色の部分に当たることの方が多いが、まれに赤い部分に刺さる。

「フランシス、どう?新しい弓は。スタビライザーがあると大分違うでしょう?」

 休憩用の飲み物を仕入れに行っていたコーチが戻ってきた。大きめのプラスチックボトルを手に持っている。それは、汗をかくかのように結露していて、スポーツの後には気持ちよさそうだ。差し出されたそれをフランシスは受け取り、答えた。

「いいですね。まだ慣れませんけど、気持ち良いです」と。手に持つのは真紅のテイクダウンボウ。ヨシュアの弓と同様、前方には長い棒、スタビライザーが一本伸びる。その根元から、手元に向けて枝分かれするかのように、二本の補助スタビライザーも伸びて、アルファベットのYのような形をつくっている。

 それを見たヨシュアは「似合いすぎてて腹立つな。俺も負けちゃいないけど」と笑っていた。フランシスはようやくヨシュアの話し方に慣れたのか、ヨシュアも確かに似合っている、と言うぐらいはできるようになっていた。

 ヨシュアは「サンキュ」と、嬉しそうに答えると青く輝く弓に矢をつがえ、最初のときと同じく優雅に放った。しかし矢は、弓と同じ青い部分、的の外側に当たってしまった。

 「ありゃ、浮かれちまったか」

 と、頭を掻くヨシュア。それを見たコーチは、そろそろ休憩かと呟いた。


「それじゃあフランシス、お疲れ様!」

「おつかれ!今度は俺も家に上げろよ!」

 ヨシュアとコーチはマンションの前に車を泊め、後部座席から降りるフランシスを見送った。彼は再びジャケットが似会う服装に着替え、弓の入った鞄を二つ抱えている。辺りはすっかり暗くなり、マンションの入り口からの光ぐらいしかない。

 彼は一言、「お疲れ様です」と答えると、一つお辞儀をした。車が発進する。ワシ頭がマンションに入る姿がだんだん小さくなっていくと、ヨシュアは後部座席にどっかりと座りなおした。そして一言「あ〜、楽しかった」と嬉しそうに言った。

 コーチはハンドルを捻りながらヨシュアに尋ねる。「本当に楽しそうね。どう?彼は」と。

 ヨシュアは疲れているのか、犬歯が丸見えになるような欠伸の後にこう答えた。「弓はスゲーうまいし、見てて面白いやつだな。弟ができたみて〜だ」と。

 コーチは暫く黙った後こう言った。

「お父様が亡くなって、あなたも辛いでしょうに。ムリしてない?」

「ああ、親父のことか。自慢の親父だったしな…殺したヤツのことは心底憎い。ただ、フランシスとは関係ないだろ?コーチ。親父の事件のことは、ケーサツに任せておくしか、俺には出来ないし」

「そう…ごめんなさい。こんなこと話しちゃって」

「いいさ、和党の中で白い目で見られながら、キメラ症の俺を拾って育てて、しかもキメラ民主の党首にまであんな、な。親父も覚悟してただろう。親父の代わりといっちゃ何だが、弟みたいなヤツができたから、俺もなんとか平静でいられるしな、今は前向きでいたい」

 車内に気まずい沈黙が広がる。ヨシュアの育ての親は、先日殺害された。彼の父は、この国の政治家であったらしい。キメラ症で揺れ動き、下手をすれば内戦に突入しかねないこの国では、発言一つで政治家や著名人が殺されることは、珍しくないのだ。

 彼もコーチも、次に来る言葉を選んでいる。ふと、ヨシュアの耳がピクリと動いた。

「それにしたって、アイツはすげえな。あの弓を射るときの迫力と言ったらさ」

「そうかしら。アーチェリーっていうスポーツに関しては、あなたの方がスジはいいわ。彼のは、なんていうのかしら、彼が、彼の力で、的を射抜いてるのよ。スポーツの弓に見えないわ。見てて苦しくなるじゃない?」

 ヨシュアも今気づいたようだ。目をぱちくりさせている。

 コーチは、彼、ヨシュアに、フランシスの面倒を見るようにと続けた。コーチはフランシスの才能を、あのような形にさせておくのは危ない、と踏んだのだ。それにどこか、フランシスの性格に素直なものを感じられていないのだ。ただ受身で、淡々と的の中央に当てる精密作業のためだけに日々をすごしているような気がしてならないのだ。幸い、ヨシュアに対しては気を許してきている様なので面倒を見てほしい、と。

 ヨシュアはそれを快く引き受けた。彼自身の、父の死に揺れ動いていた心が、フランシスと矢を射っている時にだけは落ち着いてくれるからだ。

 コーチのセダンは、広い道路に出ると、弓から出る矢のごとく加速。南米の小さい都市の車列に溶け込んでいった。

 一方のフランシスは、自室のソファに座りこんで、二つの弓を眺めていた。

 そして思う。今まで使っていた紫色のぼろ弓は、暗殺の道具だったはず。この国の救われないキメラ症患者を救うため、あえて人を殺すという凶器。ともすれば、今日買ったこの紅い弓はいったい何なのだろう。

 今まで弓を引くときといったら、外すことの許されない極限の状況であった。当たれば成功、外せばキメラ症の人間が救われるすべが減り、自らも破滅する。

 しかし、この一週間で引いた弓は、何かが違う。キメラ症も何も関係ない、別の何かが感じられている。ヨシュアの弓を射る姿や、おやじさんと呼ばれたあの中年男性の姿は特にそうだ。しかしフランシスにはあの方法で矢を射るということは信じられない。あんなに優雅で余裕があるのでは、ターゲットを射抜くことは不可能だ、と。

 頭がこんがらがりそうになったフランシスは、こう思って寝ることにした。自分はキメラ症の強さを知らしめるため、弓を引いているんだ。この紅い弓もそう使わなければ、と。

 あまりに無理やりであったため、心に何かが引っかかったままになっていたが、気にする前に寝てしまっていた。


 それから数ヶ月、南半球の冬も終わって、季節は春。コーチはキメラ症の選手の二人、フランシスとヨシュアを先に家に返して例の空き地にたたずんでいた。彼女の目の前には、二つの的。片方は、中央部分に矢がまとまって刺さっている壮観なもの。もう片方は、まるでやけになったかのように、ばらばらに矢が刺さっているものだった。西に傾いた陽にあてられて、影もまばらに落ちている。

「なんで出場決めてこうなっちゃうかしらね…。ようやく新しい弓に慣れたって言うのに。」

 だだっ広い空き地に、小さくたたずむ彼女はそう呟いた。

 それまで優秀だったフランシスの調子が崩れ始めたのは、初めて出場したアーチェリーの大会が終わってからだった。オリンピックの選考会でもあったその大会で、二位のヨシュアに次ぐ三位で表彰台に乗って、本戦出場は決まった。しかしその次の練習からは散々なものだった。

 的の中心、黄色の部分に当たらない。弓と同じ赤い色の部分ぐらいにしか当たらなくなったのだ。集中して集中して、いつものように両腕の羽毛をざわつかせても当たらない。気休め程度に黄色の部分を射抜くことはあったが、ほとんどと言っていいほど当たらなかった。

 そんな状態が一週間続いた今日、フランシスの内心は酷いものになっていた。フランシス自身にもその原因は分からず、酷く混乱していた。見かねたコーチが、ヨシュアを付き添わせて先に帰らせたのだ。

 今、フランシスはヨシュアと一緒にいつもの飲み屋のカウンター席に座り、杯を交わしている。ヨシュアが、酷く落ち込んでいるフランシスを見かねて誘ったのだ。

 カクテルを一杯飲み干して一息ついたヨシュアが話しかけてきた。「どうした、フランシス。あの大会から、お前変だぞ」と。

 グラスからクチバシを離したら、こう答える。「わからない」と。「いくら、今までみたいに当てようとしても当たらないんだ。集中しても集中しても、ね」そう続けた。すっかりヨシュアには心を開いているのか、以前に比べて非常に饒舌だ。

 グラスに再びクチバシをつけて、ぐいと飲み込む。中身は、ブラッディ・マリー。勢いがよかったからか、クチバシの端から少しこぼれた。それを拭う。

「そうだな。お前、ちょっと力入れすぎじゃないか?トサカおったてちゃってさ。お前、なんでそんな風にいっつも肩に力入れてるんだよ」

 まったくもってそんな自覚は無かった。おもわず目をきょろきょろとさせて顔を上げた。そういえば、この男はいつも優雅に、しかし軽やかに弓を引いていた。彼は自分のことよりも、そのことが気になってきた。しばらく言葉を選んで、クチバシを開く。

「わからない。ヨシュアはどうしてそんなに、落ち着いて弓が引けるんだ?」

 疑問をそのままぶつけた。ヨシュアは突然の質問に驚いたのか、それともこんな質問がワシ頭から出た、ということに驚いたのか。耳をぴんと硬直させて、眼を見開いていた。そうしてしばらく考え込んだあと、こう答えた。弓を引くことぐらいしか、自分にはできないから、と。加えて、それしか出来ないから、弓を引いていると落ち着いていられる、と言った。「どうした、不思議か?」氷しか入ってないグラスをカラカラ鳴らしながら締めくくった。続けざまに質問。「そういえば、お前ってどうして弓やってるんだ?」

 ここでこんな質問をされるとは思ってもみなかった。しかし、こういうときにしては、彼の頭は冷静に働いた。いずれはされる質問だったのだろう。根拠はないがそう思った。しかし、素性を明かすわけには行かない。落ち着いて、彼の弓のことを話すことにした。

 彼は、彼がキメラ症の優秀さを示すために弓を引いていることを話した。彼がキメラ民主党自体に世話になっていることも。この国のキメラ症患者が不憫でならないから弓を引いていた、と。ヨシュアは黙ってそれを聞いている。「今まで、俺の弓っていうのは、そのためだけにあった。」その話をこう結んだ。

 そう言い切ると、沈黙。店内に流れているジャズが、重くのしかかる。

 カラカラとグラスの氷を鳴らしていたヨシュアが、ふとカウンターの奥に向かって声を掛ける。

「すんません、ウィスキー、ロックで」

 返す言葉を考えているのか、酒を頼むのは、間を潰すためだろう。

 カウンターの向こうで、アルバイトの人間だろうか、健常者の若者がグラスに氷を放り込んだ。そこに琥珀色の液体が注がれる。そして若者は、それを荒っぽく犬頭の前に置いた。ウィスキーは激しく揺れて、グラスの端から少しこぼれる。

 ヨシュアはそれを「ど〜も」と受け取ると。一口飲んだ。カウンターの向こうの若者は、返事一つしなかった。

 フランシスは、初めて人に明かした、明らかになった自分の頭の中を整理するかのように、グラスの中のブラッディ・マリーを喉に流した。

「お前さ」

 ヨシュアがそう発して、一呼吸置く。そしてこう続けた。「前も言ってたよな。キメラ症は優れてる、だなんて。今もそう思ってるかどうかはわかんないけどな。でもよ、俺もお前も、所詮ただの人間じゃないか?」ただの人間に、できることは少ない。そもそも自分の弓が揺らいでいるようでは、何もできっこない、と。「そうなるとだな、お前の弓が揺らいでいる原因を探さなきゃならん。わかるな?」そう締めくくった。長い犬顔を向け、普段はくりくりしている目で彼をきっ、と見据えた。

 できっこない、などといわれた直後に原因探しときたものだから、混乱しそうになる。一息ついて聞き返した。出来ないのに何で原因探しなんだ、と。

 ヨシュアは、先ほどまでの真剣な表情から一転、柔和な表情を見せた。そして「おまえならできるって俺もコーチも思ってるからだ。俺はお前に負けたくないが、お前には負けて欲しくないからな。もしお前がキメラ症のために頑張るってんなら、まずは自分から見つめなおせ。協力するから」そういって肩ぽんぽんと叩いてきた。自分の言葉が恥ずかしかったのか、ケラケラ笑いながら。

 頷いて返答すると、ヨシュアはウィスキーをくいと一口流しこんだ。そうして、二人は話し始めた。

「結局、あの大会がきっかけだよな」

「多分」

「お前、表彰台でなんか暗かったけど?」

「わからない。なにかショックだった」

 ふたたび矢継ぎ早のやり取り。二人の話し合いというのは、いつもこういうものらしい。

「そうか、何を思った?」

 ここで言葉が止まる。犬頭は、ここだと思ったのか、黙っている。その間にも、考えをめぐらせるワシ頭に酒を勧めたり、つまみを食わせたりしてきた。

 数分して、ワシ頭はようやく口を開く気になった。言葉を選んで、しっかりと意見を紡いでいく。

 「あの大会で、選手全員が涼しい顔をして矢を引いてるのを見て、驚いたんだ。ヨシュア、お前を見たときもそうだった」弓を引いていれば落ち着く、その感覚が理解できず、しかしそれでも矢がしっかりと当たるのにショックを受けていたのだ、と続けた。そして更に、自分の身の上まで話した。暗殺者のことについては触れられないが、身寄りが無く、キメラ民主に世話になり、そのために弓を引いていた、と。

 それを聞いてヨシュアは、耳をひこひこと動かしながらこう返した。「そうだったか。つーとあれだ。お前の弓は、まずはおまえ自身のために引くべきだな。脅迫されてるんだかなんだかわからないが、お前もあんなライオン頭はイヤだろう。さっきも言ったが、ただの人間のクセにエラぶってな」そして「おまえの才能は、あんな間違った党首のために使われるべきではない。もっとれっきとした使われ方を、おまえ自身によってされるべきだ」こう結んだ。ヨシュアは持っていたグラスから一口煽ると、それをテーブルに置いた。

 フランシスは、それでいいのか、と悩んだ。自分のために弓を引くなんて、想像したことも無い。しかし、少しばかり頭の中をひねってみれば、こういう言葉がクチバシからでてきた。「今まで、自分の目標とか、考え方とか無かったな」と。そして、それがないのにキメラ症のために何か出来るわけ無いのだと、彼は納得した。

 ヨシュアはにっこりと笑って頷くと、フランシスに再びつまみを勧めた。何か納得してしまった時は、それを喜ぶべきだ、これもさっきよりうまいはずだぞ、と。

 フランシスは皿の上のチーズを一切れつまむと、クチバシに放り込んだ。そして「うまい」と一言こぼした。

 ようやく、今の弓を手にしたあの夜の、心に突っかかっていた何かが落ちてくれた。思わずため息をついて頭を垂れる。ふと、ワイシャツの襟についた赤いしみが目に入った。

「まったく、かっこいいナリしてるのに、ボケてんなぁ」

 ヨシュアがいつものようにけたけた笑いながら、紙ナプキンを差し出してきた。それを受け取ると、襟をぬぐう。赤いしみは落ちなかったが、多少は薄くなったようだ。

「まったく、まるで動物ドキュメントだな。ハゲワシの食事シーンじゃないんだぞ」

「うるさいなぁ。犬頭め」

 このやりとりにフランシスは、人生で初めてではないかと思うほど、心の底から笑った。


 それからしばらくしたとある休日、家でだらだらとしていたワシ頭に電話がかかってきた。犬頭からではなく、コーチからだ。何事かと思いつつ話しを聞いてみれば、会わせたい人間がいる、とのことだ。

 先日のバーでの一件をヨシュアが伝えたのだろうか、コーチなりに考えているキメラ症のことを伝えたい、とも言っている。

「と、いうわけで、今日の夕方、駅前にね。いいカッコしてきなさいよ」

「はい」

「もう、もうすこし嬉しそうにしなさいよ。実はこれ、うちでやるパーティのお誘いなのよ?」

 コーチはケラケラと、どこかの犬頭に似たような笑い声を上げていた。それを聞きながらちょっとばかり考えると「楽しみです、とても」と答える。

 電話口でコーチが一瞬だけ黙りこんだが、すぐに「そうそう、そうやって答えればいいの」と楽しげな声が返ってきた。

 そうして電話を終えると、ふと窓の外を見る。昼下がり。向かいのマンションでは年配の、健常者の女性が洗濯物を取り込んでいるのが見える。今日もいい天気だ。

 パーティと聞いて、彼は初めての体験に内心うきうきしていたが、何も持っていけるものが無いことに気付いた。まだ日が傾くまで時間はある。なので、買い物に出ることにした。

 家でぼうっとテレビを見ているよりはましだし、彼なりになにか持っていったほうがいいと結論づけたからだ。

 しかし、何のパーティだろう。そう思ったのは、靴を履き替えて、玄関の鍵を閉めてからのことだった。

 

 夕方、フランシスは百貨店の紙袋を抱えて、駅前のベンチで足を組んでいた。袋の中身は、箱に入ったシャンパン。彼でも一応、祝いごとというものに頓着はあるのだ。

 夕焼けに黄色く染まった駅前には喧騒。家族を迎えに来る人や、これから出かける人。そんな健常者にまぎれてキメラ症患者がちらほらと歩いていた。猫のような容姿の者、南米に住むラクダの仲間のような面構えや、人間の顔なのに瞳孔が細長いものなどだ。そうしたキメラ症患者たちは、別段周りに避けられているというわけではなく、また近寄られてののしられているわけでもない。ただ漫然と、見た目には不自然だが、確かに周りに溶け込んではいた。

 そういえば、今日行った百貨店でも、いつぞやの朝のような不快感はなかった。店員の接客態度は、機械的でどこか淡々としてはいたが、それでも他の客と同じように対応してくれていた。ワシ頭はそんなことを思い出して、どこか感慨深げに目の前の雑踏を眺めていた。

 雑踏がわずかに途切れた向こう、赤信号に足止めを食っている自動車の群れに、すっかり見慣れたセダンを見つけた。中には、コーチが一人だけ。彼女はこちらに気付いたようだ。

 すっくと立ち上がると、軽やかに雑踏をすり抜け道路の方へ。

 セダンの横にまで駆け寄ると、コーチが運転席から助手席のドアを開けてくれた。フランシスはそこにするりと入り込むと、ドアを勢いよく閉めた。

「どうも」

 ばん、という音に続いてそう挨拶した。シートベルトを締める。紙袋ががさがさと鳴く。フロントガラスの向こうには、赤く光る車の尻の群れと、その向こうに赤信号。

「あら、お土産ね、結構結構」

 コーチはそういうと、中身はなにか、と尋ねてきた。シャンパンだと答えると、彼女はたいそう喜んだ。祝いの席にはぴったりだ、と。

 信号が青くなったのか、コーチがやや荒っぽくアクセルを踏んで車体が発進した。またあの戦車のような動きをするのかと身構えたが、意外なことに穏やかに発進したので肩透かしを食らってしまった。多少シートに押し付けられはしたが。

 快音を上げて加速する車体。車の少ない裏道に入ると、コーチは「やっぱりこの道よね。落ち着いて運転できるわ」と気持ちよさそうにしている。

 エンジンの音が落ち着き、静かになったあたりでコーチに質問をぶつけてみる。家を出た時に思った、何のパーティなのか、と。

「ああ、そうね。向こうに着けばわかるわ。楽しみにしてなさい」

 コーチはにこやかにそう言った。ワシ頭は、内心何が起こるのか、緊張のような変な感情を抱いていたが、とりあえず「はい」とだけ返事はしておいた。

 二十分ぐらいだろうか、街中をすいすいと進んでいくと、マンションの駐車場にコーチのセダンが落ち着いた。

「さ、ここよ」

 コーチはそう言うとサイドブレーキを引いて、さっさとエンジンを切ってしまった。羽毛の生えた手を滑らせないよう気をつけながら、シートベルトを外す。使い込んであるのか、シートベルトがすぐに巻き取られない。彼はせっせと手でたぐってそれを戻すと、先に車外に出ていたコーチに追いすがった。

 やや年季の入ったマンションだ。入ってみれば、ロビーはいまどき信じられないようなリノリウム張り。入り口のオートロックをコーチが鍵を使って開ける。それを見てようやく事情が読めてきた。

「ああ、コーチの家でしたか」

「そう、我が家でホームパーティよ」

 ロビーには二人の声が響く。観葉植物だとかが気持ち程度に居座っており、あとはくたびれた金属製の郵便受けがいるぐらいのそこは、普段は寂しいのだろう。しかし、今は西日が入りこんで、どこか華やいでいる。

 がこん、という古臭い音を立てて開いた自動ドア。その先に吸い込まれていく二人。吸い込まれてると感じるのは自分だけかもしれないが、とにかく彼は今なんともいえない感覚に包まれているのだ。

 むき出しのコンクリがそのまま廊下になっているので、革靴の音がえらく響いている。コーチは何故だろうか、めかしこんで来いといった割にはジーパンにスニーカーという格好だ。

 階段は上らず、一階の廊下をそのまま奥へコツコツと進んでいく。行き止まりになるだろうすこし手前、奥から二番目の部屋で止まった。

「ここよ」

 何か言おうと考えている間に、コーチは扉を開いて「ただいま!やっともう一人の主役の登場よ!」と声をあげた。

 中から、さながら山彦が返ってくるかのようなタイミングで「お、来たな!」という声とどよめきが上がった。かなりの人数が中にいるようだ。

 彼がぽかんとクチバシをあけていると、コーチに手を引っ張られてそのまま部屋に上げられた。金属の扉が重い音を立てて閉まると、そこに広がっていたのは確かにパーティの風景だ。テーブルの上に並ぶ大盛りの料理に、立ち並んだグラス。そして、テーブルの傍に立つ人、人、人。健常者の人影が多い。皆、何人かでより固まってそれぞれ談笑している。

「よう、やっぱ主役は最後に来るんだな!」

 人ごみの中から飛び出してきて、そう声をかけてきたのはおなじみの犬頭、ヨシュア。

「お、大分いいツラ構えになってきたな、カーターさん」

 その横にでてきたのは、弓屋のおやじさんことルドウィグ。弓を買い換えてから何度かあったぐらいで、もう何週間も会っていなかった。

 ほかの皆はそれぞれで話していて、自分を見たのは部屋に入った最初だけだったが、その中から目を引くような大きな男が一人、ぬぅとでてきた。

「やあ、はじめまして。いつもリンがお世話になってるね。カーター君」

 そう声をかけてきたそいつは、自分やヨシュアより一回り大きく、太い体格をしたキメラ症患者だった。ゆったりとしたフード付きのパーカーを着て、のしのしとこちらに近づいてくる。そいつの顔は前方に長く、イヌのような額は無いともとれる。さらにそこはガサガサとした茶色のウロコがびっしりと敷き詰められ、ムチのような尻尾がジーンズの後ろから飛び出している。

 トカゲのキメラ症患者。話に聞いていたコーチの夫だ。

 彼はフランシスに向けて手を差し出してきた。ここまでもウロコがびっしりと生えている。

 挨拶に答えると、その手をしっかと握り握手に応じた。羽毛のせいでよくわからないが、やはりウロコの張った手は少々硬く感じられた。

「うん、話に聞いてた通り、いい男だな。女の子とかにもてそうだね?」

「ダンナさんダンナさん!俺は?」

 そう割り込んできたのはヨシュア。ダンナさん、と呼ばれたコーチの夫は、ヨシュアに対しても同様に「いい男だ」と答えている。

 ヨシュアはニヤついて喜んでいたが「ああ、フランシスにはガールフレンドいないですよ」と、けたけた笑い始めた。

 ようやく参加者全員が揃い、コーチが指示を飛ばしてきた。グラスを持て、と。威勢のいいその声に、皆は静まり返って、一様にグラスを体の前に構えた。ワシ頭には、ヨシュアから空のグラスが渡された。そしてコーチは、いつの間にやら持ってきておいたワインを、フランシスのグラスにさっと注いだ。

「はい、どうぞ」

「あ、どうも…」

 静まりかえったその部屋で、その声だけがやや目立っている。

 グラスの中には、よく冷えた白ワインが揺れている。それを手にしたまま突っ立って、何のパーティだろうかときょとんとしていた。しかし、コーチに楽しみにしていろと言われていたので、そのままでいることにした。

 コーチは白ワインのボトルを、テーブルの上のワインクーラーに突っ込んで「よし」と一言。グラスを持って、部屋の皆の前に立った。

「まず、今日集まってもらった近所の皆、どうもありがとう!今日は楽しんでちょうだい!」

 部屋に集まった皆から、拍手が飛ぶ。

「そして、今日の主役二人を紹介するわ。フランシス・カーターと、ヨシュア・ワトソン。私の自慢の教え子よ。ほら二人とも、こっちに」

 皆の注目の中、コーチが手をばたばたと振って二人を呼んだ。ヨシュアはそれに応じてさっさと前に。フランシスは一瞬躊躇したが、そのあとからそろそろと、縮こまってついていく。

「皆も知ってると思うけど、二人は、次の国際キメラ症スポーツ競技会に出場することになったわ。二人とも、がんばってね!出場おめでとう!」

 それを聞いたコーチのだんなさん、おやじさん、そして参加者からより大きな拍手。ヨシュアはそれをうけて誇らしげに笑顔を振りまいていたが、フランシスには拍手を受けるなんて初めてのことだ。照れくさい気持ちでいっぱいになり、うつむいてしまった。それでも、照れ笑いぐらいは浮かべていた。

 ようやく彼は気付いた。そう、このパーティは、選手二人の五輪出場を祝う祝賀会だったのだ。コーチの最後の一言が飛ぶ。

「あと、私たち夫婦の結婚生活十周年もついでに祝ってね!それじゃあ、乾杯!」

 ワシ頭がその中身を整理し終える前に、コーチの号令で皆がグラスを掲げてしまった。フランシスも焦ってそれに続いた。

 再び始まる喧騒。近くにいた友人同士や、知り合い同士でグラスを打つ音がする。どこから入ってきたのか、西日がグラスの中のワインに入りこんで、部屋の中へと跳ね回る。

「じゃ、二人とも、ごゆっくり。これから私はダンナと…」

「二人とも、出場おめでとう」

 コーチが言い切る前に、ダンナさんの言葉が割り込んできた。彼女は「ダンナと二人で」と言おうとしたのだろうが、ダンナさんからこちらに近寄ってきてしまっていた。

 彼女は「わぁ!びっくりした」と一瞬飛びのいた。ダンナさんはそれを大げさだとか茶化してニコニコとしていた。

 夫婦二人は、互いの見た目の差異など全く無いように、ぴったりと寄り添っている。

 ダンナさんは片手にグラスを持ち、もう片方の手ですうとコーチを抱き寄せた。そして、そのままワインを一口。

「こちらからも、結婚十周年、おめでとうございます。ダンナさんはいいなぁ。こんな美人と十年いっしょだなんて」

 そう切り出したのはヨシュアだった。それに続いて、ワシ頭もオウム返しのごとく祝いの言葉を述べた。

 目の前にいるダンナさんはトカゲ顔ながら、ウロコのすぐ内側は柔らかいのか、まさに柔和な笑みを浮かべて喜んでいた。

「ありがとう、ちょっとこれから皆に挨拶してこなきゃいけないから、暫くは二人で酒を楽しんでてくれないかな?」

 彼はにこやかにそう言った。選手二人がそれを了承すると、コーチと寄り添って喧騒の中に入り込んでいく。その後姿は、いつも党本部で見るキメラ症患者のような、どこか鬱屈としたものはなく、堂々としたものがあった。尻尾は力なく地面を引きずっていたが、クセか何かだろう。

 二人を見送ったワシ頭とイヌ頭は、今日始めての会話に入る。

「ああ、びっくりした」

 五輪出場を盛大に祝われて驚かざるを得ない。むしろ驚ききれていないかもしれない。それを聴いてヨシュアが声をあげた。「なんだ、コーチから何も聞いてなかったのか」と。

彼はそう言ったあと、やはりけたけた笑っている。一応、何かのパーティの誘いだとは聞いていたが、まさか自分が、こんな風に祝われるとは思っていなかったし、コーチの夫といきなり会って、結婚記念日とは夢にも思わないだろう。ワシ頭はそう伝えた。ワインを一口、クチバシに流し込む。ぶどうの酸味に、アルコールがつんと心地いい。

「お、主役二人が隅っこで何やってるんだい。大会のこととか、聞かせてくれよ」

 と、話に割り込んできたのは弓屋のおやじさんと、はじめて見る健常者の男女。おやじさんによると、その二人はどうやらおやじさんの店の常連で、近所の大学でアーチェリーをやっているらしい。そういえば、おやじさんの店で何回かすれ違ったような記憶がある。彼らはコーチの遠い後輩にあたるのだとか。そう自己紹介してきたのだ。おそらくカップルだろうか、その男女は、キメラ症スポーツの試合がどんなものなのかを聞いてみたいというのだ。

 そうと聞いたヨシュアは一歩前に出ると「喜んで」と二人に微笑みかけた。そして「な、フランシス?」と振り返り、肩越しに聞いてきた。彼は一言「あ、ああ」と了承する。

「知ってるかもしれないけど、キメラ症のアーチェリーってのは、弓から違ってね、これがまたエラく硬いんだ。キメラ症でもこんなの引けるかよってぐらいに」

 ヨシュアが語りだした。健常者の、それもまだ若い人間の前で堂々と誇らしげに。フランシスはそれを見て不思議に思っていたが、すぐにでもヨシュアの話に巻き込まれて、話題についていくのに手一杯になった。


「ふう」

 思わず出るため息。

 夕焼けの色もすっかり青黒くなってしまっていた。室内は暖かい色の照明がともり、ちょっとした社交の場といった雰囲気を纏っていた。人影こそ大分消えたが、まだまだ騒がしい。

ワシ頭はグラスの中身をシャンパンに変え――自分で持ってきたものだが――喧騒の端っこで一休みしていた。カウンター式になっているキッチンのそばから見ると、ヨシュアはまだまだ楽しげに話をしている。先ほどのカップルに続いて、今度はコーチ夫妻のお隣さんと話しているのだとか。コーチとふたりで、選手生活のことを面白おかしく脚色している。このお隣さんは、まだ社会に出て三年ぐらいの青年で、もちろん健常者だ。

 フランシスがグラスを傾ける。最初のワインが効いてきているのか、グラスの中身が殆ど無くなっているのに気付かなかった。ぴりりとした炭酸は大した量でなく、ほんの少しクチバシの中に入ってきた程度だ。

 次が最後の一杯。そう決めて、まだ大分中が残っているシャンパンのボトルを、クーラーから引っ張り出そうたした。しかし茶色いウロコの塊がそれを持ち去ってしまった。同時に声。

「どれ、僕がつぐよ」

 見ると、いや見上げると、ダンナさんがボトルを持っていた。その手は体同様大きく、ビンを掴む、という言葉よりも、ビンを持つ、と気軽に言った方が適切なほどだ。もう片方の手は、こちらに向けて差し出されている。

「あ、どうも」彼はそのウロコの張った手にグラスを手渡した。

 手に持ったグラスに、ゆっくりとシャンパンが注がれる。黄金を淡く引き伸ばしたような色がグラスの中に躍り、小さな真珠のような泡が、グラスの口まで押し上げられて、そして消えていく。

「参ったね、リンといったら、僕はあんまりアーチェリーのことはわからないのに、ヨシュア君と一緒に盛り上っちゃって。はい、どうぞ。」

 グラスが戻ってくる。たっぷり一杯分。グラスの細い足を指でつかむ。

 ダンナさんは、フランシスがボトルを受け取ろうとする前に、自分のグラスにさっさと注ぎ始めてしまった。「あ、俺が…」と声を掛けて見るが、ダンナさんは「気にしないでいいよ」とを注ぎ終えていた。

 そうして、二人でシャンパンを楽しむ。自分もそうなのだが、ダンナさんも細長い口へと器用にシャンパンを流しこんでいる。

「どうしたんだい、カーター君。君みたいないい男が、こういう場所でしゃべっていないのは不思議だよ?」

 ダンナさんはそう切り出した。もう少し輪に入ろう、とは言わないが、なにやら言いたげな表情だ。

「すこし、驚いちゃって。疲れてしまったみたいです」

「へぇ。何に驚いたんだい?君はもう少し社交的なヒトだと思うけどなぁ。見た目にはね」

 一瞬きょとんとすると、笑い混じりにダンナさんが答える。グラスを傾け、シャンパンをもう一口。

「あ、ああ…こんなにも身近に、健常者と居られるのに、ですね」

 ヨシュアとコーチが、お隣さんと談笑している方を見る。ヨシュアがけたけたと笑うと、お隣さんもこれまたにこやかに笑っていた。コーチがヨシュアの笑い方をたしなめると、これまたお隣さんは腹を抱えていた。

「なんだい、君はこういうことがあるのを知らなかったのか。」

「ええ、施設で育ったもので」

 周りはキメラ症ばかり。ダンナさんはそう繋いだ。

 一つ頷く。

 グラスを再度傾けた。シャンパンの中には、気泡の列の数々が美しい曲線を描いて踊っている。うねり、縄のように絡まる。その縄は、ちょっとグラスを揺すれば形を崩してしまった。

「健常者と話したことは、僕もあんまり無かったな。」

 ダンナさんの、顔に比してつぶらな瞳がフランシスを見る。堅そうなまぶたが、一度ぱちりと瞬きをした。

「でも、話してみれば意外と普通だったよ。リンは特にそうだった」

 ダンナさんはグラスをカウンターに置き、懐かしそうに目を細めて、談笑しているヨシュアとコーチ、いやリンの方を眺めている。フランシスも同じ様にそちらに目を向ける。トカゲ頭は、お隣さんと話す二人を見て「目のある、というか、ちゃんと区別が出来てる上に理解があって、それを認められるのはいいことだ」こう呟いた。

「どういうことですか?」

 フランシスはよく理解できず、素直に聞きかえす。

「そうか。君は、自分が何でヒトと違うか、って考えたことはあるだろう?」

「ええ」

「それに答えは出たかい?」

「覚えていません…。考えたことは覚えてるんですが」

「そう。その疑問っていうのはね、やっぱりその程度のものなんだ。だって、こう生まれちゃったんだから」

 思わず押し黙る。

「いつまでもいつまでも、皆がそんなことを考えてたら、お互いがいつまでたっても違うまんまでね。実は大した違いが無いことに気付けないんだ。」

 ダンナさんは、ジーンズの後ろから垂れている尻尾をぐいと手で持ち上げて前に持ってきた。生き物の一部であるはずだが、どこかぐったりとして、生気がない。

「僕が一番気にしてたのは、これだね。ほら、神経が通ってないんだ」

 それを軽くぶらぶらとゆすって手を離すと、尻尾はだらりと垂れてしまった。カウンターの壁にごん、とぶつかる。キメラ症とはいっても、完璧ではない症例も多い。ダンナさんは、尻尾は出来てもそこに通う神経まではうまく作られなかったのだ。彼はそう教えてくれた。

「キメラ症ってだけでも大分白い目で見られるのに、機能不全ときたもんだ。気にしたよ」

 自分も鳥のキメラ症だが、尾羽が作られていないのに気付いたことはあった。彼はグラスを傾ける。

クチバシなどまるで無いように器用に。

「でも、リンにはそれが無かった。気にする、なんてことは無意味なんだ。時にはビンタされて教えられたよ。ヨシュア君も、いい育ち方をしたのかな。気にしただろうけど、気にしないってこともできている」

 思わずグラスを傾けるのを止めた。驚いたのかむせてしまう。シャンパンの強い炭酸が気管に痛い。

「大丈夫かい、ちょっと気をつけないとすぐそうなっちゃうよなぁ」

 と、ダンナさんは「よくあるよくある」そう笑っていた。

 グラスのシャンパンをこぼさないように、押し込むような咳をする。落ち着いたころには、涙目になって鼻水までたらしていた。

「はぁ、苦しかった」

 ようやく落ち着いたところに、けたけたという笑い声とともに声が飛んできた。「クチバシがシャンパンで溶けたか?」と。ヨシュアだ。

「そんなわけないだろう。あ〜痛い…」

 目の前のイヌ頭は、ようやくお隣さんとの話が終ったのか、立ちっぱなしで棒のようになった足をほぐすように歩み寄ってくる。コーチも一緒だ。彼女も「一休み」といった表情で伸びをしている。

 彼女は、ダンナさんのほうへ歩み寄ると「ごめんなさい、あのヒトがどうしても、って言って聞かなかったの」と申しわけなさそうに言った。

「いいや、気にしないよ」ダンナさんの返答はこうだった。

「じゃあ、私も気にしない。」

 そういってコーチはダンナさんに寄り添った。ダンナさんも肩を抱いてやる。

 それを茶化すヨシュア。「二人とも今年でいくつでしたっけ?」と。

「まあ、気にしないよ。俺は」

 ワシのくちばしからそんな言葉が転がり落ちると、イヌ頭もコーチもきょとんとしてしまった。しかし、ダンナさんだけはニコニコとしていた。ウロコの顔で、柔和に。

「おい、主役さんよ!ゲストはちゃんともてなせよ!こんなオヤジ一人に酔っ払いの面倒は見させないでくれ!」

 見ると、おやじさんが顔を真っ赤にしていた。どうやら喋っている間に酒をたらふく飲んでしまったらしい。

「じゃあ、俺が行こうかな。」

 きょとんとしたままの二人を尻目に、グラスを持って踏み出した。

「むせないように気をつけるんだよ」

 ダンナさんの声が送ってくれた。


 一ヶ月だろうか、二ヶ月だろうか、それぐらいの時間が経った。冬に向かうにつれ、徐々に彼――フランシス――の弓の腕前が戻りつつある。屋内レンジで、今日も弓に矢をつがえ、引き、放っている。視界に映る黒く湿った鼻の先の数メートルのところで、茶色い羽毛のスマートなヤツは、ようやく元気になったようだ。

 視線の主、ヨシュアのそばに居る彼は、自分のために引く弓というものに、まだあまりピンときてはいないようだ。それでも何らかの変化が起きつつあるのは犬頭にもわかる。。弓を引く時の羽毛の逆立ちやら、異常な目つきやらがなくなっているからだ。

 実は今は休憩時間なのだが、フランシスといったらまだ弓とにらめっこをしているのだ。

 一方の犬頭といえば、ベンチでぐったりとしていた。ボトルに突き刺さったストローをくわえ、中の飲料をすする。フランシスが弓を引いている間、ハードな筋力トレーニングをこなしていたのだ。彼がこうもバテているのはキメラ症の、体毛で覆われた体では放熱が上手くいかないからだ。普通の動物とは違って全身からきちんと汗は出るが、熱が体にこもるのだ。そういうわけで、彼のようなキメラ症患者が運動するには、定期的な休憩が必須だ。彼は首だけ起こしてフランシスを眺める。そこで弓を引いているワシ頭も例外ではないのだが、元気だ。思わず「頑張るなぁ…」と呟いた。

 フランシスは矢をすべて放ったのか、レンジの向こうへ歩いていくところだ。それを眺めつつ、しばらく喉を通る冷たい快感を楽しんでいると、ズボンのポケットに入っていた携帯端末が震えだした。「なんだよ、せっかく気持ち良いのに」ともらしながらそれを取り出す。そして、液晶パネルの表示を見て、更に腹持ちが悪くなる。口角がつりあがって、まぶたがヒクヒクとつる。しかし、しぶしぶとポケットからイヤホンを取り出して、頭のてっぺんに付いた耳に突っ込むと、通話ボタンを押して、不快の主と話す。

「ああ、あんたらか…」と飽き飽きしたような声で話し始めた。


 レンジの向こう百メートル、的のそばで、フランシスは的紙に突き刺さった矢を眺めていた。弓の調子が完全に戻るまであと僅か。黄色の部分、的の中央にだいぶ当たるようにはなってきたが、どうも納得がいかない点がある。ここは一つヨシュアに何か聞いてみよう。コーチは今、ちょうど外に買い物に出かけていってしまっているのだ。そう思った彼は矢を引っこ抜いて、てくてくとレンジの端っこまで戻っていく。

 ベンチで寝転がっていたヨシュアが大きく見えるようになり、声を掛けようとしたところで、彼が飛び起きた。携帯電話を逆向きに、モニターの方を持ち、なにか不機嫌極まりない表情でマイクに怒鳴りつけている。大きな耳には、イヤホンが突っ込まれている。

「親父のこと、あんな目で見ておいてよくもそんな…。しかも俺にも手伝えだ?…わかったよ。俺だって憎い。…わかった」

 そんなようなことを呟いていたのが聞こえた。いつものヨシュアと違う雰囲気にワシ頭は驚いてしまったのか、彼の前まで来て突っ立ったままになってしまっていた。

 ベンチに背筋を曲げて座っている犬頭は、ため息を一つついて通話を切った。両手を長い鼻っ面に当ててうつむき、「参った」と言わんばかりの体勢だ。しかし、フランシスにすぐ気づいたのか、すぐに頭を上げた。

 ワシ頭は、彼に何があったのか心配気に聞いたが「家庭のことだ」と言う程度にしか答えてくれない。彼はイヤホンのケーブルを引っ張って、力任せに外していた。

あの笑い上戸で、何をしてもケタケタと忙しかったヨシュアがこうなっているのに、彼は心配になった。

 帰り際のコーチの車の中でもそれは同じで、ヨシュアは助手席で腕を組んでうつむいたまま。ときおり耳が不機嫌そうにぴくぴくと動いている。フランシスが何かを聞くには重い雰囲気で、車を降りる時の挨拶まで結局一言も話せずじまいであった。

「また明日」

「ああ」

 ヨシュアにしてはぶっきらぼうな返事だ。彼はそう思ってますます心配になるも、何か言いたくなったときには、既にコーチの車は消えうせてしまっていた。

 その日の深夜、日付も変わる頃。そろそろ寝ようかというフランシスは、ソファの上でテレビのリモコンをいじくっていた。ニュース番組も、芸能人のスキャンダルやらで、見ていても面白みがない。ヨシュアのおかげで自分の弓を引けそうになっているとはいえ、やはり彼らはキメラ症。そのことで揺れている国のメディアが、キメラ症の頭文字のひとつも出さないことに、フランシスは嫌気が差していた。

 チャンネルを切り替えていくと、見たことのある風景が現れた。画面下には「五輪まであとわずか」とテロップが映し出されている。思わず見入るフランシス。そう、キメラ症スポーツ競技会はオリンピックとパラリンピックが終った後に、同じ会場で行われるのだ。

「ここでも、キメラ症は無視、か。」

 フランシスはそう呟いて、あきれ果てた。その瞬間、電話が鳴り響く。この時間に誰だろうか。彼が党へ定時連絡をするのは明日なのだ。そう思いながら受話器を取る。

 電話に出て見れば、久しぶりに聞くしゃがれた声。軍服の声だ。この声を聞くと嫌でも、あの頬の肉が醜く垂れた顔が、フランシスの頭をよぎる。

 しかし、今日の軍服の声は何かが違う。話を聞いてみれば、詳しい事情は明日話すので、明日の夜に本部まで来てほしい。とのことだ。いつもの無駄に大きい態度が感じられないその声は、嫌な予感がした。


 翌日の夕方、練習を終えたフランシスは、ヨシュアたちとの会話もそこそこに切り上げて、キメラ第一民主主義の本部に現れた。弓や必要な用具の入った鞄を携え、軍服の部屋の前にいる。

 ノックをすればすぐにあのしゃがれた声が返ってきた。「入りたまえ」と、偉そうに。

 扉を開けて入ってみれば、これまたいつかのように、彼は窓の外を見ながら立っていた。軍服はフランシスの方に向き直ると、ソファを勧めた。その手が指す先、デスクの横には、黒い革張りの応接セットがある。

 軍服の態度自体は普段と変わらないものであったが、沈みかけた日のせいか、それとも昨夜の電話のせいか、空気が重い。

 フランシスはソファの横に荷物を置いて、腰掛けた。ぼすり、と、羽毛が入っているのだろうか、ふかふかとした感触だ。

 目の前の軍服も、膝に手をついてゆっくりと座った。腹の出た、五十代近いであろう体にはややきつい動作のようだ。軍服は、背中を曲げ、両手を膝の間で組んで、神妙な面持ちをしていたが、最初に口から出た話は他愛もないものだった。フランシスがソファの横に置いた鞄に視線を移して「新しい弓はどうかね。突然の出費だったが」と。

 この問いに対してフランシスは、良い引き心地で感謝している、と答えるも、話がすぐに途切れてしまった。やはり相当重い話題なのだろう。ワシ頭は覚悟して軍服に聞いた。何があったのか、と。

 軍服は、タバコに火をつけて一口ふかすと口を開いた。

「去年の君の最後の仕事を、覚えているかね?」

 フランシスが毒矢で暗殺した、スーツの男の事件のことらしい。フランシスはもちろん、覚えていると答えた。

「あの日、君が現場から逃走する時、車を運転していた彼が、亡くなった。」

 トリ頭は引きつるかのように息を一つ吸って、目を見開いた。彼の死の意味するところが何か、彼にはわかっているのだ。

 軍服は、交通事故だったと続けたが、それに続けてこうも言った。「彼は別の仕事にも携っていたが、いずれにせよこうなるということは、既に気付かれているかもしれない」と。「君の仕事は完璧だった。今のところ、感付かれるような要素はほぼ皆無だ。警察も無能だしな。ただ最近、和党はあの男が死んだことに乗じて、キメラ症に対して多少寛容になっている。あの男の人気を利用して国民をひきつけようとしているらしいな。無様なものだ。あの男を持ち上げるということは、当然ヤツのカタキを探し出して、つるし上げようとするだろう」運転手の彼は、その一人目かもしれない、と。

 フランシスは黙って話を聞くぐらいしか出来ない。ようやく弓を引くのに集中できると思った、まさに矢先の出来事なのだ。頭を切り替えても、上手い言葉が出てこない。しかし、警戒しなければいけないのは誰よりもよく分かっていた。

汗が羽毛の下でたらりと流れるのを感じた。

 そうしているうちに、軍服が、応接用のテーブルの上に何か黒い、鉤状のものを置く。それはごとり、と重い音を立て、テーブルの上に寝そべった。それを見たフランシスは、まさかここでこんなものを渡されるとは思っていなかったのか、思わず軍服に問いただした。「これはいったいどういうことですか」と。

 普段は無駄に高慢な軍服だが、このときばかりは冷静に答えた。「もし、君のことが和党側に割れていたとしたら、君は運転手の彼よりもっと直接的に、より残虐に殺されるだろう。見せしめとしてな。そのときに備えての、万が一の手段としてこれを使うんだ。突然襲われるかもしれないのに、身を守るのが弓じゃあどうしようもないだろう」

 この数ヶ月間、暗殺者としての生活から離れていたフランシスには、この黒い物体、拳銃は限りなく異質に見えた。いや、殺すための飛び道具として、以前に弓を扱っていたのは確かだから、そう違和感はないはず。彼自身もそう思った、思いたかった。しかし、今彼の隣に佇んでいる弓は、武器ではない何か別のものに生まれ変わろうとしているのだ。今この拳銃を握ったらどうなるのか。彼には小気味悪い予感しかしない。

「今、君は死にたいか?今君が――」

 死にたいか、という軍服の一言を聞いた瞬間フランシスの頭にあの光景がよぎった。軍服の言葉は途切れてしまい、何も聞こえない。

 浮かぶ光景は、豪雨の向こうに見えたホテルの窓。その中で、胸に矢を突き立て、もだえ苦しむスーツの男。自分が手を下したように、こんな風に狙われるのだろうか。そう思うと、うなじの羽毛の奥、地肌に直接矢じりを突きつけられたような、凍てついた感覚に襲われてしまった。

「と、言うわけで、弓には邪魔かもしれんが、これは持って行ってくれたまえ」

 いつの間にか、軍服の話は終わっていた。重要なような、そうでもないような話をしていたが、恐怖にとらわれたフランシスは、拳銃をさっと手に取った。安全装置がかかっているのを見ると、ジャケットの後ろ、ズボンのベルトに挟んだ。話の内容など、この怖気に比べればどうでもよかった。


 それから数日間、フランシスは練習の時以外は拳銃を肌身離さず身に着けていた。ジャケットの裾の下、ベルトについたホルスターに、それは納まっている。練習の時だけそれを持たないのは、矢を射るときぐらいその恐怖と関係なくいたいし、練習中は実際に恐怖を感じなかったからだ。

 週末の今日、練習は午前中で終了した。フランシスの弓の調子は悪くなく、練習中は件の恐怖も感じなかった。しかしただ一つ気がかりなことがある。ヨシュアの弓の調子が崩れてきていることだ。彼にしては珍しく、的の中心から外せば牙をむいて舌打ちし、苛立ちを隠せていなかったのだ。

 見かねたコーチは練習を早めに切り上げ、夜中に食事に行くことを提案した。「それまでゆっくり休みなさい。もう本番も近いんだから」


 現在彼は、フランシスはコーチの車の中にいる。コーチの愛車は、今日に限って何故だかおとなしく発進したが、ワシ頭はそれに気付かなかった。ヨシュアが心配なのと、彼自身への報復がいつ来るかで頭が一杯だったのだ。しかし、シートにもたれかかってすこし安心したところで、別のことには気がついた。進んでいく方向が、繁華街とは逆なのだ。

「あれ、コーチ、ご飯なら向こうに・・・」

 軽く身を乗り出してコーチに尋ねるフランシス。平然と運転しているコーチを見て、やや不安になった。しかし、コーチはこれまた平然と答えた。「ダンナも一緒に行きたいんだって。迎えにいってからね」

 しばらくして、駅の前に車が近づいていく。入り口の辺りに、何かを待つような人影が見えた。茶色く、カサカサしたウロコをまとった肌。やはりダンナさんは大きい。

「それにほら、あなたたち、最近なんだか浮かない表情してるしね。ちょっとうちのダンナを見て笑ってもらおうと思って。仕事が見付かって落ち着いたことだし」

 コーチの車がするりと止まる。扉を開けて助手席に入ってきたそのトカゲ男は「やあ、久しぶり。」こう挨拶した。彼がその巨体を助手席に落ち着けると車体が揺れる。

「む、座りにくいな」同時に彼はそうつぶやいた。

「あなた、尻尾」

 見ると、ダンナさんは自分の尻尾をシートにおかしな形ではさんでしまっていた。トカゲのキメラ症患者特有の太く丈夫な尾は、車のシートに座るには不便だ。海外ではこういった患者に配慮のあるデザインがなされていたりするのだが、この国の自動車産業においてはその配慮がまったくないため、このようなことが良く起こる。

「ああ、また忘れてたか。」

 と、彼はその神経の通っていない尻尾を手でぐい、と、運転席と助手席の間にずらした。そしてそれが挟まらないように、運転席側の脚を、反対側の脚に組んだ。

 その光景を見たフランシスは、一瞬警戒した。彼の動作は、ちょうど腰に携えた拳銃を引き抜くような動作に見えたからだ。しかし、そうでないとわかって安堵した。よくよく考えれば、キメラ症患者であるダンナさんがそんなことをするわけがない。

「どうしたんだいカーター君。目玉きょろきょろさせて。何かおかしいことでもしたかな?」

 と、おっとり話すその口調に、なんでもない、と答えるフランシス。

 ダンナさんはシートが窮屈だったのか、足元のレバーを引っ張って座席を前後させている。

 車が再び発進する。ダンナさんが思い出したように言った。「そういえばヨシュア君、珍しく元気が無いな」椅子の位置を決め、シートベルトを締めながら。

 ヨシュアは、単に弓の調子が悪いだけだと答えた。当然、フランシスはそれに納得がいかない。しかし、朝から声をかけられないでいた。数日前の一本の電話以来、ヨシュアの機嫌がすっかりよくないのだ。あの電話がヨシュアのどこかに引っかかっているのだろうか。

 前席のコーチ夫妻が、後席の選手二人に話しかけるというやり取りは、目的地のレストランに着くまで続いていた。選手二人同士での会話は何故だかなく、コーチとダンナさんが話しかけていないとき、二人の間の空気はずっしりと重かった。

 食事の席についても、その重苦しい空気は二人にまとわりついていた。先日のパーティの空気が嘘のようだ。並べられたイタリア料理も、喉を通るには重い。特にヨシュアは自分で頼んだトマト味のリゾットを一口二口程度で止め、皿を見つめたままになってしまっている。フランシスも、周りの人間の動きが気になって仕方がない。

 コーチはそんな二人を見て「冷めちゃうわよ」と、まるで自分の子どもに言うかのような声だ。

「どうしたんだい二人とも。食わなきゃ重たい弓は引けないだろう?」

 ダンナさんは一方、間延びした声だが、心配げに言った。そして、トカゲの長い口に、丸めたスパゲティをつっこむと「うまい」と一言。

 ヨシュアはスプーンを再び手に取ったが、リゾットを掬って、それだけだった。

 フランシスも、目の前のシーザーサラダをボウルに取るが、クルトンをクチバシでかじるのが精一杯だ。

「二人とも、何を気にしているんだい?」

 二人の様子に不安になったのか、話し始めた。「周りを見てみなよ。たしかに僕らのことをチラチラ見てはいるけど、それぐらいだ。そりゃあ、三人もキメラ症が集まってれば誰だって見てみたいものだろう?キメラ症だって、色々生活に支障はあるけれど、ある程度は社会に溶け込めるものじゃないか。ヨシュア君は特によくわかっていたはずだろう?気にしないんだ。カーター君も」

 この言葉を聞いて、ヨシュアが動く。彼はリゾットの端にスプーンを泳がせていたが、顔を上げてダンナさんの方を見た。その表情は、いかにも複雑な事情を抱えているというものだった。眉間の毛皮に皺がよっている。

 これを受けてダンナさんは「そんな顔をするだなんて、君らしくないじゃないか。君のお父様は、そうじゃないと君に教えたはずだろう?」と穏やかに言った。僕とリンを見てみろよ。と。

 ヨシュアは再び顔をテーブルの方に落とした。スプーンがかちり、と、食器に力なく落ちる音が聞こえた。

彼はこう言う。

「確かに、親父はそう言いました。けれど、俺と同じキメラ症側があんなにエラそうにして。しかも親父の仲間は親父をいいように扱って、今度は俺まで…」

 そこで彼の言葉は止まってしまった。

「君の――」

 ダンナさんは一瞬何かを詰まらせたが、話し始めた。「君のお父様の事は、本当に残念だった。しかし、君のお父様は君にこんなことでくよくよして欲しいと思うかな?君にも、君のお母様にも、お父様は分け隔てなく接していただろう?」

 ヨシュアは黙って聞いていたが、それだけだった。「もう少し、整理してみます」そう呟いて返事をしていたが、何か様子が変わったようにも見えない。

「すまないな、フランシス。家のことばっかり話しちまって」

 彼は隣にいるワシ頭に声をかけた。

「あ、ああ。構わないよ…」


 重苦しい空気の食事は長続きせず、コーチが無理やり選手の二人に料理を食べさせる形に終わった。

 行きの車と同じように、帰りの車内も重苦しい空気が充満していた。窓には小さな水滴。ぽつぽつと雨まで降り出してきたようだ。

 フランシスは、いつものようにマンションの前までコーチの車で送ってもらうと、まだ小ぶりの雨の中、挨拶もそこそこにマンションの中に入る。そして、ロビーの扉をカードキーで開け、部屋まで戻った。

 それから一時間近くだろうか、荷物の片付けもせず、ただ拳銃のホルスターだけは外して、部屋の中でぼうっとと考え事だけをしてしまっていた。一つには、報復のことだ。パーティの時には「気にしない」。食事の時には「健常者とは意外と溶け込める」と、ダンナさんに言われたものの、何しろ自分は暗殺者だったのだ。今もそうなのかもしれないが、どちらにせよ、報復は警戒しなければならない。事実、今までにも二度三度、こういう事態はあったのだ。

 気にしない、わけにはいかない。

 もう一つには、ヨシュアのことだ。悩みについて聞けば、家庭のこと、としか答えてくれなかったが、どうもかなり深刻な内容らしい。何故言ってくれなかったのだろうか。フランシスが察するに、彼の父に不幸があり、その周囲でのゴタゴタがヨシュアを揺るがしているのだ。

 この二つの悩みを、ワシ頭の中でただ引っ掻き回すだけにもラチがあかなくなった。窓を打つ雨の音が激しくなったのに気づいて、ようやく彼はクチバシを前に向けた。彼はソファからするりと立ち上がると、窓際の小さなテーブルにおいてある電話を手に取った。窓からは酷い豪雨の風景が。雨粒が風にあおられて、空中に白波が立っているように見える。あの日そっくりの光景だ。電話の子機だけ持って、再びソファへ。こんな窓際で、電話はしたくない。

 電話機のボタンを押していく。彼は普段、めったに電話を使うことなどないのだが、この番号に電話をかけることはまれにあった。

 雨の音を掻き消すかのように、フランシスは呼び出し音に聞き入る。

 しばらくして、呼び出し音が中途半端に切れ、人の声が聞こえてきた。

「もしもし」

 ついさっきまで聞いていた、若い男の声。普段はケラケラとうるさい覚えのあるその声に、フランシスは答えた。「ヨシュアか、俺だ。フランシス」

 電話をかけた先は、ヨシュアの携帯電話だった。

「珍しいな、お前から電話なんて。どうしたんだ」

 ヨシュアは憔悴しきったような声で、しかしいつもと同じ口調で話している。

「あ、いや。お前にしては元気が無いな、って思って。大丈夫か?なんで親父さんのこと、話してくれなかったんだ?」

 フランシスは、いつぞやの自分がされたように、ヨシュアに向けて矢継ぎ早に質問を放った。今度は自分の番だ、とばかりに。

「親父が死んだのも、大分前だしな。お前が、オレ達と一緒に弓を引き始める、ちょっと前。その時には出てなかった問題が、今更になって沸いて出た、それだけさ」

 まったくもって呆れたものだ、とヨシュアはくくった。フランシスは、それにしたって様子がおかしかった、とクチバシから発した。

 しばらく、ヨシュアは黙り込んだ。

 フランシスの耳に入ってくる音は、殆ど何もない。雨は降っているはずなのに、雨音はいつのまにかどこかに消えうせてしまっていた。

「まあ、自分で整理するさ。お前に心配されるなんて、オレもどっかオカしくなったかな。思うようにやってみるよ」

 しばらくしてヨシュアは、多少明るくなったような声でそういった。フランシスの頭には、ヨシュアが何をしようとしているのか、どこか煮え切らないものが残ったかもしれないが、彼はその声を聞いて少し安心した。

「ところで」ヨシュアが切り返してきた。「お前、大事なもん忘れてないか?荷物、見てみろよ」

 それを聞いたフランシスは、ソファの後ろ、壁際に適当に置いた荷物を見た。何かが、足りない。いつもより荷物の背が低いのだ。

「あ、弓…」

「まったく、自分の相棒忘れるとか、お前もどうかしてるぞ。コーチから明日渡すように頼まれてるから―」

「わかった、取りに行くよ」

「お、そうか。オレから行こうかと思ってたが、なら頼む。正直、明日は家から出たくなくてな」

 そのヨシュアの一言は、声色にこそ元気は戻っていたが、やはり相当辛いようだ。ため息まで漏らしている。フランシスはイヤでもそう思わされた。しかし、言葉が出ない。

「なんだよ、黙っちゃって。明日、ちゃんと来いよ。じゃあ、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 短い電話ではあるが、フランシスが電話する時はいつもこうなのだ。電話番号を聞いてきたのはヨシュアからだったのだが、向こうから電話がかかってくることはなく、最初に電話をかけたのはフランシスだった。何故かけたかは覚えていない。最初はほんの些細な用事だったかもしれないが、今ではどうでもいいことだった。

 弓を忘れてしまったのには自分でも呆れたが、そういえば、ヨシュアの家に行くのは初めてだと思うと、これもまたどうでもよくなった。気にしないでいられるようになった。


 とあるマンションの前。昨日から降り続いている雨は、雨足は弱まったものの、まだ水溜まりを揺らしていた。

塗装のあちこちがはげた年季の入ったコンクリートの階段を上がり、余り日の当たっていないような廊下を奥に行ったところにフランシスは立っていた。目の前には、同様に年季の入った金属製の扉。

 ここに来るまでにも、彼は拳銃を手放さず、また神経も削った。しかし、流石に本番、オリンピックも近いので弓を放っておくわけには行かなかった。

 毛皮でフサフサとした指で、呼び鈴のスイッチをつつく。左手には紺色の傘。先端からはちたり、ちたりとしずくが垂れている。

 古めかしい呼び鈴の音に呼び出されて、犬頭が鍵を開いた。そして扉が開き「入っていいぞ」と声。顔を見せたヨシュアは、心なしかいつもより毛並みが悪い。

 ワシ頭はそれを見て、あまり長居出来ないと思ったが、部屋に入ってみれば、窓際にあるダイニングテーブルの上に紅茶まで用意されているのだ。

「お前、オレの家に来るの、初めてだろ。さすがにもてなさないとな。まま、座れ」

 ヨシュアはそう言ってニッと笑ってみせた。そして、体躯のよいキメラ症患者には狭苦しく見えるキッチンから、電子レンジで温めておいたのか、スコーンを持ってきた。

「あと、お前の弓、そこだ。もう忘れるなよ」

 テーブルに暖かいスコーンを置くと、フランシスの背後を指さした。振り向いてみれば、見慣れた細長いかばんが立っていた。フランシスはそれを手に取ると、ヨシュアに礼を言った。

 弓を忘れないように、座った椅子に寄りかからせると、二人は話し始めた。昨日の電話の続きというわけではなく、二人にとって当たり障りのない会話から。

「お前の弓、ちょっと引かせてもらったけど、いいな。今度貸してくれよ」

「じゃあお前の弓もな」

「出来ればお前のあのでっかい部屋も貸して欲しいな〜、なんて」

「家賃は払えよ」

 スコーンをかじって、紅茶をすすりながら。どうやら二人とも落ち着きを取り戻してきてはいるらしい。弓の話をして、二人でこうしてたわいもない会話をすることに、フランシスは安心していた。そして、隣にある弓を軽く握れば、腰の拳銃なんかよりずっと安心できる。

「いよいよ、だな。来月か」

 カップを置いたヨシュアが、しんみりと言った。「えらく早かったな。色々あったが、最終調整、がんばろうな」

 フランシスは口に運ぼうとしていたスコーンを一旦とめて、頷いた。

 思えば、軍服に頼まれて、競技としてのアーチェリーを始めて、そろそろ1年がたつ。ヨシュアの部屋のカレンダーは、七月と八月のページを見せていた。

 しかし、目の前のヨシュアの顔色を見て、フランシスは素直に頷けていなかった。やはりいつもより毛並みが悪く、まぶたは腫れぼったい。そのくせ、毛皮があるのに目の下に隈があるかのようにもみえる。

「本当に大丈夫なのか?辛そうだぞ」

 フランシスはカップを置いてヨシュアを問い詰める。テーブルに手をついて、身を乗り出した。

 ワシ頭に睨まれても動じないヨシュア。決して良いとは言えない顔色だが、何か決意を固めたような表情をしていた。

「あの電話の後一晩、何もしないで考えるだけ考えてみたけど、親父のこと、決心ついた。だから、あとはやってみるだけだ。弓の練習には大して影響しないから、大丈夫だ。心配すんな。」

 フランシスは、目の前のシェパード頭の態度に、しっかりとした芯が入っている、と確信した。「わかった」そう答える。

「俺の親父な、健常者なんだ。ガキんころに身寄りのなくなっちまったオレを、養子で拾ってくれてさ。周囲の反対も押し切って、自分の意見突き通してさ。なのに、ちょいとやりすぎちゃってな、トラぶって死んじまった。俺にそのツケが回ってきたって言うのかな、悩んでたのはソレなんだ」

 語るヨシュアに、フランシスはしっかりと耳を傾けた。

「親父、民主和党で、キメラ症のために頑張ってた。それが、コロッと死んじまってな。和党の石頭はすっきりしただろうけど、親父の人気を利用して、方針を変えちまった。俺を後釜に仕立てよう、って腹積もりらしい。近々オレも行動するから、その時は、しっかり見てくれよ。親父は党に使われてるつもりは微塵もなかっただろう。だからオレも」

 ヨシュアは、そう言い切った。その表情は晴れやかだ。

 しかし、この話を聞いたフランシスの頭には、何かが引っかかり始めていた。「民主和党」「死んで方針が変わった」「やりすぎてトラブルになった」どれもどこかで聞いたことのある話、いや、フランシスのごく身近にあった事件だ。フランシスの脳裏に、今の天気のような、もしかしたら、あの日の天気のような雲がかかり始めていた。

 急に鳴り響く電子音。ヨシュアの携帯電話だ。彼はフランシスに一言断ると、玄関の方に出て行って電話に出た。

 フランシスは、頭の中の曇天を振り払うかのように、部屋中を見回した。ヨシュアの、別のことについて話せばこの雲も晴れる、そう思っていた。

 ふと、ワシの目が、棚に乗っている写真立てを捕らえた。それを見た瞬間、フランシスの頭にかかった雲から、あの日のような豪雨が降り始めた。

 写真立てには、スーツを着た、鋭いシワが印象的な男と、女。そしてその間に立つシェパード犬のキメラ症患者。あの日に、こんな写真を見なかっただろうか。頭の中に降る豪雨の間に、似たような写真が濡れていた。

 背筋が凍るような、怖気のような、かつて無い感覚に彼は襲われた。思わず弓を握り締める。

 ヨシュアが戻ってきた。突然の電話について、すがすがしい表情で侘びを述べた。「黙って話聞いてくれてたのに、すまないな」と。

「あ、ああ、だ、大丈夫、だ」

 動揺を隠せないフランシス。ヨシュアは変なものを見たような顔をして何か言おうとしたが、フランシスが遮った。

「す、すまない。用事を思い出した」

 言葉を詰まらせながらそう言うと、弓の入ったカバンを持って席を立った。

 ヨシュアは不審がったが、それならしかたない、とフランシスのジャケットをハンガーからとってやる。

 ワシ頭はそれに袖を通すと、玄関までつかつかと歩く。

「おいどうしたんだ?そんなに急ぎだったのか」

 そう聞くヨシュアに、適当に返事をするフランシス。一刻も早く、この場を離れたかった。

 震えそうな手を隠して、ノブをねじ切るかのようにドアを開く。そして次は精一杯冷静を装って「じゃあ、また今度」と言葉をひねり出した。

 ヨシュアの返答が聞こえる前に、エレベーターに向かって歩く。

 一階にもどって、外に出る。雨はもう止んでいたが、フランシスはもういっそのこと土砂降りの雨に降って欲しいぐらいだった。この黒くにごった曇り空は、雨が降っていないと、おぞましいぐらい不気味に感じられる。

 水溜りがあろうとおかまいなく、フランシスは早足に家へと進んで行った。

 ここに来なければ良かった。息を震えさせながら、そう思うしか出来なかった。


 あの日の写真に写っていたのは、確かハスキー犬のキメラ症患者ではなかったか?いやそもそも写真なんてあっただろうか?フランシスは来る日も来る日も、あの日の記憶を掘り返し続けた。

 頭の中の雨は晴れない。いや、晴れなくて正解なのだろう。あの日も雨だったのだ。あの写真も雨にぬれていて、そこには確かに、ヨシュアと、スーツの男、そして女が一人写っていた。

 大会へ向けての弓の最終調整は、それでも順調に進んでしまっていた。弓を引いている間は、かろうじて落ち着いていられる。しかし、射る矢の何本かに一本、フランシスの目の前には、あの日のような雨の映像が入り込んでくる。なんでもない天気の日でも、突如として雨が降っているような風景が目の前に広がるのだ。

 曇り空の下、今日もいつもどおりの練習。そうだとよい。フランシスはそう思いたくて仕方がない。

 背後にいるヨシュアは、いつぞやのような笑顔を取り戻しつつある。しかし、フランシスの目には何かが違って見えてしまう。

 彼は、自分が殺したかもしれない人間の息子なのだ。自分は、その仇。軍服の言葉が頭に蘇る。

「――カタキを探し出して、つるし上げる――」

 フランシスは、そのしゃがれた声を振り切るかのように、弓のハンドルを握り、弦を引く。まだヨシュアがそうだと確信できるだけの証拠もないのだ。

「自分のために引く弓、これはそのはずなんだ。いつかそう決めたはずだ」そう思いながら弦から指を離す。弓がしなり、鈍く空を裂く音が響く。

 黒く小さな影になって、矢が飛ぶ。七十メートル先の的に当たる。黄色。最高得点だ。

「気にしないことに、決めたはず」そう念じる。

 目の前が白く霞むような雨が降り始めた。

 二本目。弦から指が離れる。辺りが、突然暗くなった。目の前には四角に切り抜かれた窓のようなものがあり、そこの向こうに的が見える。命中。先ほどの矢の隣、黄色だ。

 三本目。弦から指が離れる。窓の向こうに見えていた的も、窓のようになっていた。ガラスの割れるような音。矢が当たる。赤い色が爆ぜた。

 四本目。弦から指が離れる。黄色い何かに命中。窓の向こうを見ると、自分の顔、クチバシに矢が刺さっていた。次の瞬間、目の前の窓はいつの間にか割れていて、先ほど自分が間近で見ていた窓が、白く曇った風景の向こうに見える。

 少し下を見れば、スーツを着た誰かが、出窓に突っ伏している。前を再び見れば、白く曇った風景の向こうに、弓を構えたヨシュアが居た。

「おい、フランシス!どうした!フランシス!?」

 ヨシュアの呼ぶ声に、彼はハッとした。一つ息を大きく吐くと、肩を上下させてぜいぜいというフランシス。どうやらしばらく息が止まっていたようだ。四本放った矢は、黄色に三本、赤色に一本的中していた。

「あ、あ、ヨシュア。雨は?」

「どうしたんだよ、お前。すごい形相で弓引いてたぞ。雨?そんなもん降ってない。」

 辺りを見回すと、単なる曇りの天気。水たまり一つ無い。いつも練習しているレンジだ。

 フランシスは、膝から崩れるようにしゃがみこむ。彼は自分の頭がどうかしたのだろうかと思った。目の前に曇り空がうねっている。それにまぎれて、彼の弓ははっきりと写っている。

「大丈夫!?フランシス!」

 それを見たコーチが駆け寄ってきて、フランシスの肩をとった。ヨシュアもそれにならう。

「最近のあなた、様子が変よ?スランプなんかじゃないわ!」

 抱えられてよろよろと歩き、ベンチに座らされるフランシス。何も答えることが出来ない。

 コーチは飲料の入ったボトルをフランシスの手に握らせると、こう言った

「しばらくそうしてなさい。もう来週には出発なんだから。あとは体調と精神だけが大事なのよ」

 いよいよ来週には国外に出て、オリンピック選手村へ行く予定なのだ。コーチの言うとおり、体調だとかは最優先すべきなのだろうが、彼にはそれ以前に、命の保証がないのだ。


 二日後、練習を終えて家に帰っても、フランシスは恐怖と罪悪感に怯えていた。雨戸を閉め切って、ソファに座って背中を丸めている。手に持つのは、自分の弓。これさえあれば、何とか平静を保てるが、矢をつがえて引きたくは無い。

 もうこうして何分だろうか、何時間経っただろうか。ようやく落ち着いたところで、テレビをつける。ゆるゆるとリモコンを取って、ボタンを押した。自分では気づかなかったが、手に持ったリモコンが震えている。手が震えているようだ。

 つけた番組は、やはりニュース番組だ。

 いつもどおり、芸能関連のニュース、天気予報と続く。しばらくして、コマーシャルの前にキャスターがこう述べた。「続いては、あの事件から、およそ一年です」と。

 何の事件だっただろうか。その前に飲み物でも入れよう。そう思ったフランシスは、ソファから立ちあがって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取ってきた。

 ボトルのキャップを開けて、一口水を飲み下す。オリンピックを応援する食料品の宣伝が終ると、ニュースキャスターが再び画面に映った。画面下には、暗殺からおよそ一年、と。

 フランシスは、息を飲んだ。

「昨年の八月に、民主和党議員が、毒矢で暗殺されてから、来月でおよそ一年となります。これにあたって今日、議員の親族が会見を開きました」

 画面が、どこかのホテルのホールに切り替わる。画面が会場の大写しから、壇上の親族に近づいていく。

 写ったのは、シェパード犬のキメラ症患者。

「今日午後八時、都内のホテルで会見を開いたのは、ヨシュア・ワトソンさん。キメラ症患者で、国際キメラ症スポーツ競技会に出場するアーチェリーの選手であり、亡くなった民主和党議員、ライオネル・ワトソンさんの養子です」

 カメラのフラッシュがしつこく光る中で、ヨシュアは語りだす。

「来月、父が殺されてから、一年になります」

フラッシュが雨のように焚かれた。

「父はキメラ症患者と健常者が融和すべく、内外に敵を作りながらも、その目標に向かって邁進しておりました。私は、父の途絶えた目標を継ぐべく、こうして、この犬頭で会見を開くことと相成りました」

 フランシスは、それを見て呆然としていた。ボトルの中の水は、かすかにその水面を揺らしている。

「民主和党は私の父の遺志を継ぎ、この国のキメラ症患者と健常者の融和を目標に、これからまさに生まれ変わろうとしています。しかし、父が殺されたように、この国には、キメラ症が健常者より優位だと考えている人間が潜んでいるようです。父を殺した人間を許すわけには行きませんが、キメラ症患者と健常者、どちらも同じ人の子です。いがみ合っていては何も改善されません――」

 ヨシュアの発言はそこで止まり、キャスターによるナレーションが始まった。画面は切り替わって、事件当時の現場の画面。あの時の、あのホテルの、あの窓が写り、そして、スーツの男の顔写真。

 その時だった、電話が鳴り響いたのは。現実から逃げるように振り返って、窓際の受話器を取った。雨戸は閉じているので、多少は安心感がある。

 電話口から聞こえてきた声は、余り聞き覚えの無い声。確か、軍服の上司、つまりキメラ民主上層部の人間だ。どこか冷淡なその声は、フランシスにある事実を伝えた。

 軍服が亡くなった、と。

「彼の自宅で、今朝遺体が見つかってな。毒殺だそうだ。君が、あの男の暗殺に使ったのとまったく同じモノでな」

 そして、彼の遺体の傍に、アーチェリー用の矢が置いてあった事も伝えてきた。「いよいよバレているみたいだ。君の安全の為に、来週の国外渡航には、ささやかながら護衛もつけよう。何、選手村の中を着かず離れずでうろうろさせるだけだ。君は弓に集中したまえ。では失礼する」彼がそう言ったら、すぐに電話が切れた。

 無責任に放り投げられた言葉と、テレビから伝えられた事実。自分への報復の手は、着実に迫ってきている。それも、フランシスが弓を引いているすぐ隣までだ。

 ヨシュアの父を殺してしまったことの後悔と、今までに殺してきた人間すべての報復が自分に帰ってくる。そう思うと、全身が震え出した。


 深夜。棚の上の写真を見ながら、ヨシュア・ワトソンは考えていた。テーブルの上には、紅茶が一杯。ホテルでの会見を終え、民主和党のリムジンで家まで送られている時は、正直息が詰まる思いだった。

 彼は、今日の会見は本当に正しかったのだろうかと必死で頭の中をかき回していた。

 フランシスから電話を貰ったあの日、一晩必死に考えていたのは会見についてのことだったのだ。

 最初に連絡を受けた時は、父の人気に乗じた民主和党の無方針で、下種な思い付きだと思っていた。キメラ症の理解を放棄して、与党たたきに踊っていた人間が、父の死をいいように使おうとしている。自分はその代わりとして担ぎ出されただけ。最初はそう思っていた。

 しかし、こうして父と母、そして自分の映っている写真を眺めて考えてみれば、もはや自分がしっかりするしかないのだ、そう思わされた。考えてもみれば、父の考え方、つまり、キメラ症と健常者は融和すべき。これをしっかり理解しているのは自分と、ごく一部のヒトしかいないのだ。母が大分前に他界してしまったのが悔やまれる。

 父は、ヨシュアにこう教えていた。「キメラ症も人の子。健常者も人の子だ。見た目やできることが違うのは、当然だろう」そしてその話の最後に、いつもこう言っていた「お前は、自分で考えて、自分でできることをやりなさい」

 彼は父の教えをそのままつぶやいて、ネクタイを緩めた。どうやら、今日の会見は、あれで正しかった。そう思ったようだ。

 彼は着替えようと席を立つ。その前に紅茶を一杯すする。

 カップを傾けて、紅茶を喉に流し込んだ。香りは、何故だかイマイチだった。

 ポケットに突っ込んだ携帯電話が震えだす。彼は折りたたみ式のそれを開いて、通話ボタンを押した。

「ああ、アンタたちか。なんだって」

 ヨシュアの表情が曇る。声を荒げた。

「どうしてそこまでやった?!親父は人殺しをしろだなんて一言も言ってないぞ!なに、親父の?そうか。わかった。考えさせてくれ。それまで何もするな」

 彼は通話を切ると、携帯電話を持った手を力なくだらりと下げた。

「親父、フランシス、どうすりゃいい」


 季節は逆転し、真夏の北半球。二重らせんを幾重にも張り巡らせたような構造の柱が立ち並ぶのは、オリンピックの陸上競技場だ。国際キメラ症スポーツ競技会は、オリンピック、パラリンピックなどに続いてここで行われる。キメラ症スポーツ競技会とオリンピックが同時開催というだけあって、競技場は遺伝子のカタチというものを強く意識したものになっている。

 開会式には、実にさまざまな国からの代表選手が登場した。フランシスやヨシュアのように、単純に動物の容姿が混ざった者。容姿はヒトだが、代謝経路が変貌して携帯の点滴が欠かせない者。猫のように夜目が効きすぎるのか、夜なのにも関わらずサングラスをしている者もいる。変わったところでは、見た目は人間なのだが、はいているズボンが変に曲がっている者もいた。脚部の形成にキメラ症が見られるケースだ。

 二人は自国の、他の競技の代表と一緒に、選手団の開会式用の衣装を着て行進に混ざる。

 フランシスはなんとか今日まで、何事もなく生活を送ってこれた。神経こそ削れ、疲れ果てたものの、弓の調子だけは崩すことはなかった。ヨシュアとは、上手く話すことが出来なかった。自分自身の罪悪感や、あの時に見えたヨシュアの幻影と、本物のヨシュアが重なり合って、萎縮してしまったのだ。

 行進の中でも、彼は隣に並んだが、いつも居るヨシュアではないような気がしてならなかった。観客に向かって笑顔で手を振る彼は、見た目こそヨシュアだが、中身は以前のヨシュアではないかもしれない。

 ハスキー犬の頭をした聖火ランナーが、二重らせんを描いた特に大きい柱の前まで走ってきた。アンカーである彼は、その柱の根元にある台座にトーチを置いた。

 二重らせんのほつれていた端っこが、油圧ポンプでの動きだろうか、トーチの先端で揺れている聖火に近づく。炎が膨らみ、二重らせんが燃え上がり、先端にある聖火台にまで炎が登っていく。そして、会場を包む喝采。

聖火台に火がともった。同時に花火が上がり、風船が飛んだ。

 それらを見上げるフランシスとヨシュア。数ヶ月前までは、この聖火の下で、単に弓を引いて競いあいたいと思っていただけだった。


 予選ラウンドがついに始まった。各国の強豪たちの間で、政治的に不安定な小国からやって来た二人組は、目覚しい活躍を見せていた。最長百十メートルまで、さまざまな距離に用意されたターゲットに、殆ど中央を外すことなく命中させていくのだ。ヨシュアは優雅に、弓と一体化したように矢を放ち、予選通過を決定させていた。

 フランシスは今、百十メートル先の的と相対していた。すでに的には三十五本の矢が刺さっている。残り一本。二・三本は中央から外してしまっていたが、この一本を中央、黄色の部分に叩き込めば文句なしの予選通過だ。

 矢を番え、弦をぎりりと引く。冠羽が広がり、腕の羽毛もざわつく。百十メートル先の的に照準を合わせ、弓をその位置に固定させる。そして、皮手袋をはめた手を、弦から離した。

 矢は風を切り、的に向かって飛ぶ。それを見るフランシスの目には、雨が降り始めていた。的に命中。ガラスの割れる音。いつかのように、その窓の中に自分は居なかったが、的はいた。的中箇所は、黄色だった。

 拍手が溢れる場に、フランシスは汗をたらして佇んでいた。

 流石に大差をつけて、とまでは行かなかったが、大国からの優秀な選手達についで二人は予選通過を果たした。

 競技場の端に、フランシスたち代表は集まって、明日に備えて最後のアドバイスをコーチから受けていた。

「二人ともよくやったわ。ここから先、お互いに悔いが残らないように頑張りなさい。今日私が言えるのは、それぐらい」コーチは二人の活躍をたたえて、こうまとめた。

「ういっす」

 フランシスの横で、馬鹿に明るい声が響いてきた。見てみれば、ヨシュアが精悍な面持ちで立っていた。笑みすら浮かべているようにも見える。ヨシュアはフランシスの肩をたたいてこう言った。

「この日の為に頑張ってきたんだろ、明日はお互い全力で行くぞ」

 それを受けたフランシスは、茫然とした。軍服が殺されて、暗殺の犯人とか、首謀者だとかも、和党側に明らかになってなっているはず。そして、民主和党のカオとして、しかも父を殺された悲劇のヒーローとして出ているとなれば、自分が仇であることを知らないはずが無い。

「どうしたんだよ、最近良く喋ると思ってたら、またいつかのフランシスか?鳩が豆鉄砲食らったみたいだ」

 フランシスには、彼の意図はわからなかった。しかし、彼の笑顔は、フランシスから矢を引くことのためらいだけは取り除いてくれたようだ。

「あ、ああ…そう、だな」

「さ、さっさと部屋に戻ろう。今日はもう休もうぜ」

 コーチはまだやることがあるから、とそのまま人ごみに消えていってしまった。

 残されたフランシスとヨシュアは、コーチと反対側に向かって歩き出す。目指すのは選手村だ。

 二人は並んで、黙って会場を歩く。運営スタッフには健常者も多いが、それよりもキメラ症の選手のほうが目立っていた。

「面白いな、こんなに一杯、キメラ症ばっかだ」

 最初に口を開いたのはヨシュアだった。弓を入れたかばんを担いで、辺りを見渡しながら感慨深げだ。「キメラ症だって、健常者と同じようにルール守って、正々堂々とスポーツできるもんなんだな。やっぱ。国に帰ってこのことをしっかり皆に伝えたいな」

 この話に、フランシスは「そうだな」と答えた。何かうまいことを言えるような状況ではないのに、ヨシュアは何故こうもベラベラと話せるのか、そういう考えで頭が一杯だった。

 そうしてしばらく、選手村の喧騒に二人でまみれていく。二人の言葉の代わりに周りの喧騒が話しているかのようだ。

 宿舎が見えた辺りだろうか、人ごみも薄れてきた中で、ようやく二人に言葉が戻ってきた。

「なあ、フランシス、俺の会見、見てくれたか?」

 ヨシュアに戻ってきた言葉は、これだった。フランシスはその言葉を聴いて、心臓が破裂しそうになるほど高鳴った。フランシスは、クチバシを何とか開いて「見た」そう答えた。

 ヨシュアは「そうか」と言って、一呼吸置く。そして、意を決したかのように語りだした。

「オレの親父な、殺されたんだ。知ってるだろ?去年のアーチェリー暗殺事件。あれ、オレの親父なんだ。民主和党で、キメラ症関連で必死こいてた」フランシスと目を合わせず、前を向きながら話している。

 フランシスは、それを聞いてとうとう時が来てしまったか、と内心震えだした。空いている左手を腰に持っていく。しかし、護身用に持っていた拳銃は、今は部屋に置いてきてしまったのだ。それを確認して背筋に氷を落とされたような感覚にとらわれる。

 ヨシュアは続ける。「ただ、親父も言い過ぎちまったしな。殺したやつのことは正直許せないが、同じ手段で報復なんてのは、オレならしたくない。犯人には、できればしっかりと、罪を償って欲しいと思ってる。多分、キメラ民主で変に育てられちまった人間だろうしな。そうするしかない事情もあったんだろう」

 フランシスは、思わず立ち止まってヨシュアのほうを見るだけになってしまっていた。ヨシュアもそれに合わせて立ち止まる。

「暗殺されたから、暗殺し返す。差別されたから、変に優位な気になって見下して、差別し返す。不毛だろう?親父は俺に教えてくれたんだ。キメラ症も、健常者も人の子だって。できることとか見た目が違うのは、当たり前のことだ、ってな。だから、オレも同じようにそうしたい。この犬頭も、お前みたいなワシ頭も、たいして気にしない。だから、オレはあの会見を開いたんだ。オレに出来て、オレがやるべきことだったからな」

 ヨシュアはそして、こう続けた。「今回の競技会は、その第一歩。いずれ健常者と一緒に弓を引いてみたいと、オレは思ってる。世界で、とは言わずとも、国の中でぐらいはな。そのためにも、親父のことの犯人には、堂々と出てきてしっかり罪を償って欲しいもんだ」

 それを聞いたフランシスは、どうしようかと悩んだ。僅かな沈黙。決心を固めたフランシスが語ろうとするも、遮られてしまった。

「それより、腹が減ったな」と、彼はフランシスの肩をぽんぽんと叩いた。そして「飯でも食いに行くか」と言ってフランシスのジャージの襟を掴んで、宿舎の前から先ほどの喧騒の中へと引っ張っていく。

 フランシスはよろめきながらも、ヨシュアの言葉を噛み締めていた。

「さ、お前はどうせまたサラダだろ?」

「多分ね」


 翌日、太陽が高く上った中、決勝ラウンドは、小さな大詰めを迎えていた。

 百メートル先の的に向かって、選手二人が十二本の弓を交互に射る形式で、三位決定戦となった。

 矢を射るのは、フランシス・カーターとヨシュア・ワトソン。奇しくも同じ国からの選手二人の対戦となった。二人とも、諸外国からの強豪に準決勝で敗退し、最後の一つのメダルを争うことになったのだ。

 最後に同じチームでの試合となってか、両選手とも力むことなく、存分に実力を発揮しあっていた。

 所定の本数を射ち終えた時点で、両者とも同点。三回ある延長分の矢も、そのうち二回は同点であった。よって、メダルは最後の一本をより中心に近い矢を射った者に与えられることになった。

 決勝とは違う、独特の緊張感に包まれながら、ヨシュアがまず的に対峙した。

 フランシスは、それを別の位置から眺めていた。高鳴る鼓動。

 ヨシュアが矢を、静かに弓につがえた。そして優雅に、力強く弦を引く。屋外の会場には、もはや風の音しか残っていない。

 それすらも消えた瞬間、ヨシュアの弓が跳ねた。フランシスのワシの目は、放たれた矢の軌跡を追う。

 かすかに、タン、という音が聞こえた気がした。ヨシュアを見ると、弓をするりと垂らしたまま、瞳を閉じたところだった。表情は、何かに自分をゆだねたような、安らかなものにも見える。

 的を見れば、矢は的を縦に二つに折った線上、中央から遠くもなく近くも無い黄色の部分に立っていた。

 ヨシュアは目を開け、的の前から離れた。そして、的に向かっていくフランシスとすれ違う。

 一瞬、ヨシュアと目があった。「負けるなよ」だろうか「勝負だ」だろうか、そんなようなことをその目は伝えてきた。

 いよいよフランシスが的と対峙した。

 矢をつがえる。目の前の風景は、的と、そこまでに広がった芝生の空間だ。

 弦を引く。以前に体を包んでいた熱はなく、変にざわつくこともない。

 放った。フランシスは弓をそのままだらりと、自然に任せてぶら下げた。

 フランシスは、こういうことか、と何かを実感し、そして矢の軌跡を見届けた。ガラスの割れる音ではなく、タン、とヨシュアの矢が当たるのと同じ音が聞こえた。見ると、フランシスの矢は、ヨシュアの矢に寄り添うように、しかし確実にヨシュアのものより中心に立っていた。

 フランシスはヨシュアのほうを振り返り、そして一つ微笑んだような表情をしてみせた。キメラ症の、しかもトリの顔では口角が上がらなかったが、それでも確かに微笑んでいた。ヨシュアも、どこか悔しそうだったが、ニッと笑ってみせた。


 その日の夜、宿舎のフランシスの部屋。二人とも着替えを済ませ、いつもの服装で二つのメダルを眺めていた。一つは銅色の、もう一つは透明なクリスタルのメダルだ。

「おい、そのメダル、オレにも見せろよ。オレだってほしかったんだ。拝むぐらいさせろ」

 ヨシュアは本当に悔しそうに、まるで子どものようにメダルに手を伸ばしてきた。フランシスはためらいながらも、それをヨシュアに渡した。それもヨシュアの首にかけて。

「お、いいねいいね。似合う?」

「まあ、俺はそっちの透明のは、着けるつもりはないけどね」

「なんだよ〜」

 そうしてふざけながらも、お互いをたたえあう。ようやく目標を達成した二人の、昨日までの溝は少しずつ浅くなってきているようだ。

 ヨシュアは銅メダルをつけたまま、部屋のベッドにどさりと寝ころがった。そして、自分も表彰台でこれを着けたかったと悔しがっていた。ここぞと言うところで集中力が切れる、と自分の弱点が直り切っていなかったことも反省している。

 フランシスはそれを見ながら、自分も何か言うべきことがあるのではないか、昨日のヨシュアの言葉に、なにか言葉をもって返答をするべきではないのかと思っていた。

 それをさえぎるように、ヨシュアが飛び起きて声をあげた「おい、フランシス、まだそのシミつけてるのかよ。クリーニング出したのか?」

 気づいてみれば、着ていたワイシャツの襟には赤いシミが。いつぞやの酒の席でついたまま、放置してしまっていたようだ。

「ああ、面倒でね、出し忘れてた。何回か洗濯はしたけど、結局落ちなくてね。血、みたいだよな」

「なにおっかないこと言ってるんだよ」

 ケラケラと笑うヨシュアに、フランシスは意を決して、昨日の返答にと、語ることにした。

「なあ、ヨシュア。弓もなんとか終ったし、国に帰ったら、俺も、俺にできる、やるべきことをやってみようと思うんだ。」

 これを聞いたヨシュアは両手を膝の間で組んで「そうか」と一言。そしてこう続けた。「その時は、俺も協力しよう。力になる分だけの人脈はあるしな。親父の残してくれたもんだ。最悪は免れるだろう」と。

 フランシスは一言「ありがとう」と返した。

「さ、そろそろ銅メダルも飽きたな、返す」と、ヨシュアはフランシスに、首から提げていたメダルを返した。「やっぱりお前のところに居るべきだな。悔しいけど」そういってヨシュアは心惜しげにフランシスの手の中の銅メダルを眺めていた。

「やることやる前に、別の大会で決着つけるかな?」フランシスは冗談めかしてそう言った。

「それもいいな、次は決勝で勝負だ」ヨシュアも冗談か本気か、そう言った。

 そうして二人で笑いあっていると、部屋にノックの音が響く。誰だろうか、フランシスはそう思って返事をする。返ってきたのは、母国語で「こちらカーターさんの部屋でしょうか?」という言葉だ。フランシスはそれに答え、扉まで歩いていく。

 フランシスはヨシュアに「ちょっと待っててくれ」と声をかけて扉を開けて玄関まで出て行った。ヨシュアは一瞬何か考えて、フランシスに叫んだ。聞き覚えのあった声なのだ。

「待て!フランシス!」

 フランシスにはその言葉がうまく聞こえず、玄関まで出た。出てしまった。

 目の前にいたのは、オリンピックのスタッフ衣装を着た健常者の男。男は「カーターさん、ですね?」と確認してきた。フランシスは「はい、そうですが」と答える。

 その瞬間、ぼすん、と重くくぐもった音が響いた。

 フランシスの胸に、熱い何かが突き刺さっているのを、彼は感じた。彼は、そのまま玄関の中に仰向けに崩れた。その時、健常者の男の手に見えたのは、変に銃身が伸びている拳銃。どうやら自分は、そいつで撃たれたらしい。

 彼はのたうち、自分の息が引きつっているのを感じながら、こう思った。「ついに来てしまったか」と。がくがくと首を動かしながら自分の胸を見てみれば、ワイシャツには、襟だけだったはずの赤いシミが無数に増殖していた。酒の席で自分の為に弓を引くと、このワイシャツを着てそう誓ったが、やはりキメラ民主の暗殺者、こうなることは避けられなかったのか。そう思っていた。

 せめて一矢報いよう、私服の腰に付けていた拳銃を震える手で取ろうとする。

 その時だった。

「お前っ!何してる!なぜここでこんなことを!待て!誰か!誰か!」

 飛び出してきたのは、ヨシュアだった。健常者の男はフランシスの狭い視界から消え去り、走り去る足音だけが聞こえる。

「フランシス!おいフランシス!しっかりしろよ!ちゃんと罪を償うんだろ!やることやるんだろ!?死ぬな!せっかくお前のこと、頑張って許したのに!許せたのに!」

 ヨシュアの必死の表情を、ワシの目はぼーと見つめていた。

 どやどやと様々な音が聞こえてくる。女性選手の金切り声、本物のスタッフの、救急を呼ぶ声。そして、弱くなっていく自分の鼓動と、ヨシュアの必死の叫び。

 目の前には、再び雨が降ってきた。「おかしいな、部屋の中なのに」フランシスは遠のく意識と、目の前の雨の向こう、必死になっているヨシュアを見ながらそう思った。


 目が覚めた。

 雨はいつの間にか止んでいて、胸の熱さも消えていた。

 かわりに少し、喉が窮屈になっていた。

「フランシス!目が覚めたの?!」

 次に聞こえたのは、聞きなれた女性の声。コーチだ。

「…コーチ?…ヨシュアは?」

「それより今はあなたよ!先生!フランシスが!」

 コーチはいつもの態度と違う、必死の様相で叫んでいた。


 どうやら、ここは病院らしい。そして自分はどうやら、助かったようだ。

 手術の執刀を行ったという医師によれば、フランシス自身のキメラ症で、内臓の位置が微妙に違って、すんでのところで一命を取り留めたらしい。喉が苦しかったのは、流動食やらのチューブが鼻に突っ込まれていたからだ。

 一通りの事情説明のあとで、医師は部屋から立ち去った。どうやら2ヶ月ほど気を失っていたらしい。

「良かったわ、あなたが意識を取り戻してくれて。」

 コーチと、ベッドを隠しているカーテンの内側で、二人きりで話す。意識をなくした日にできなかった弓のことだとか、メダルのことだとかを話した。コーチは実に嬉しそうに、笑顔を溢れさせている。

 フランシスは、その話は自分のするべき話ではないと思い、コーチに切り出した。

「あの、ヨシュアは…」と。

 コーチは、そう聞いた瞬間、先ほどの笑顔を曇らせた。そして言った。「ヨシュアなら、隣よ」と。

 フランシスはまだ重い体を無理やり動かして、ベッドからはいずり出る。コーチが必死に静止するのを、のたうって振り払うと、カーテンを引き払って隣を覗き込む。

 そして、フランシスは自分の目を疑った。

 自分を助けようとしていたはずのヨシュアまでもが、自分と同じようにベッドに寝かされていたのだ。チューブに繋がれ、心拍を計測する装置がついている。

 フランシスは、ヨシュアの寝ているベッドに崩れ落ち、力なく声をあげた。

「ヨシュア、起きろよ、ヨシュア!俺のやることを見てくれるんじゃなかったのかよ!?起きろよ!?何があったんだよ!?」

 そういった瞬間、フランシスはある言葉を思い出した。―ささやかながら、護衛もつけよう―

「あのあと、ヨシュアもあなたと同じように撃たれたのよ。人ごみの中から、ヨシュア・ワトソンを始末しようとする、キメラ民主の暗殺者に」

 フランシスの予感は、コーチの言葉によって確信に変わった。同時に、激しい後悔と絶望の念。筋肉が落ちて、すっかり細くなった腕が震えだす。

「あなたのこと、ヨシュアから聞いた。ショックを受けたわ。ただ彼から、必死に頼まれたわ。あいつは自分でやりたくて、親父を殺したんじゃない、って。キメラ症の為に頑張ろうとしていたのを利用されているのかもしれない。だから、わかってやってくれ、って」

 コーチは、フランシスのあずかり知らぬことを語り始めた。

「あなたは今、裁判にかけられているわ。ライオネル・ワトソンの殺害容疑で、あなたの上司と一緒にね。弁護士さんは、キメラ症に理解のある、ヨシュアのお父様と仲の良かった方よ。ヨシュアもしっかり頼んでいたみたいで、あなたのこと、頑張って弁護してくれてるわ」

 フランシスは、それを聞いて、ヨシュアのほうに向き直った。いつもなら、こんな大真面目な話をしたあと、ふざけてケタケタ笑うのが、彼なのだ。

「ヨシュア…俺、俺…」

 犬頭のおふざけも、ケタケタと少し下品な笑いも、聞こえなかった。

 フランシスは叫びたいのを噛み殺して、引きつるように泣いた。いくら後悔しても、悔やみきれなかった。


 エピローグ


 

「カーターさん。いよいよ今日で最後です。今日までにやることは全部やりました」

 目の前にいる健常者の弁護士が、タバコを灰皿に押し付けながら言った。壮年で、白い口ひげを蓄えているが、ハリと風格がある。何ヶ月か続いた裁判ですっかりお馴染みの紳士だ。

「あとは、最後の証人の証言と尋問。あと、証拠が一つ。それで、判決です。」

 被告人、アーチェリー選手のフランシス・カーターはこの日、殺人事件の判決を受けることになっている。一年前に世間を騒がせたアーチェリー殺人事件が、ついに解決を迎えることになるのだ。

 フランシスには、判決を受けることに対して心残りは大して無い。一応、やるべきこと――自分の罪を受け入れることを出来ているのだから。ただ一つ、言葉を交わせないままの状態で分かれてしまったヨシュアがフランシスにのしかかる。彼が自分の裁判を見届けられないのが、願って止まないが叶わない心残りだった。

 待合室で、手錠を掛けられている手を、きゅっと組む。羽毛が手錠に引っかかって、すこしばかり痛い。

 法廷の係官は、無論健常者。たまにチラチラとこちらを見てくるが、彼には気にならない。

 心残りはないとは思っているが、やはり自分は暗殺者。殺意を持ってヨシュアの父ライオネルを殺したことは、自他共に明らかになっているので、重い刑は免れない。足が、少々震えた気がした。

 す…と弁護士が立ち上がる。

「さあ、入廷です。カーターさん、今日の証人は心強いですよ。安心してくださいね」

「え?ええ…」

 今までの証人は、コーチ夫妻の二人、弓屋のおやじさんなど、自分になじみの深い人物。検察側の証人は、同じマンションの住人だとか、どこで会ったのだろうか、中年の男性だとか、どこか縁遠い健常者ばかりだった。皆、口々に「周囲との関係が希薄」だとか「何をしているのかわからない」「思えばあの時の外出は殺しのためだったのか」と、どこか恐ろしげな視線で彼を見ていた。判事の心証は、どうだろうか。とりあえず、極刑が選択肢から消えていないのは、ほぼ間違いないだろう。

 法廷への扉が開く。フランシスは立ち上がった。


 辛気臭いそこの空気がどよめいた。傍聴席は満席。健常者にまぎれて、キメラ症患者が一人二人と見える。うち一人は、ダンナさんだ。隣にコーチもいた。

 テレビ中継のカメラも入っている。それもそうだ。国を揺るがした大事件の犯人が、オリンピックのメダリスト。しかも国内でも強硬な政治派閥の暗殺者で、さらにはそれが、オリンピック会場で暗殺未遂に遭って発覚したのだから。傍聴券は、まさに飛ぶように無くなったらしい。

 フランシスは、いつものようにジャケットを羽織った小綺麗な服装で入廷する。革靴の音は、心なしかゆっくりと、法廷に響く。

 被告人席につく。この数ヶ月間、何度もこちらを睨みつけてきた検事も、先ほどの弁護士もそれぞれの席に。

 どよめきは、まだおさまらない。

 判事が現れて、開廷を宣言したところで、ようやくどよめきは収まった。ぴん、と空気が張り詰める。

 フランシスの手錠が外された。

 何度も行われた、人定質問。フランシスは、自分自身の生年月日やら住居やら、淀みなく答える。検事の起訴状の朗読、黙秘権など、必要な手続きが終わる。フランシス自身、自分の罪の重さを重々承知させられている。罪は認めているのだ。後悔の念が、彼の胸を、酸のように焼く。

 小難しい検事の主張――冒頭陳述――や、それに対する弁護士の意見が交わされる。キメラ民主に育てられた驚異的な暗殺者が、果たして本当に罪を悔やめていて、社会的な生活を営める人物であるのか。どうやらそういうことらしい。

「被告人はキメラ民主の思想に染まっていた。殺害は限りなく反社会的な意図に基づいている」

「彼の生活には、そういった優越や思想はもはや見られない。」

 双方の主張が出揃った。いよいよ、この法廷最後の尋問となった。先日の公判で、検察側は最後の証拠――軍服から渡された拳銃――を提出していたので、今日は弁護側の最後の証拠の提出、もとい証人への尋問だ。

(誰だろうか?)

 フランシスはふと気になった。そういえば、留置場に面会に来たヒトは、全員証言台に立っていたな。と。

「弁護側の最後の証人は、被告人を最もよく知る人物です」

 弁護士の声が響くと、弁護側の扉が開いた。

足音ではなく、金属の軋む音が法廷に響く。車椅子の車輪の音だ。出てきたのは、キメラ症患者。茶色い毛並みの、若々しい犬頭。

 フランシスは、目を見開いた。

 ワシ頭の目に映っているのは、見まごうことなく、ヨシュア・ワトソン本人だった。

 犬頭は、フランシスに一瞬だけ眼を合わせると、かすかに微笑を浮かべたかのように見えた。そして、瞬きをひとつして、証言台に向かう。

 きぃ、と車椅子の車輪がきしんだ。

「ヨシュア・ワトソン。アーチェリー選手です」

 どよめきが起こった。


「彼は、私のテレビでの演説を全て聴き、彼自身の罪を、私に、打ち明けてくれました。選手としての彼自身が選手としての役目を終えたときに、自分ができることをやろうと思う。と。」

 そして彼の口から、まるで演説でもするかのように語られるのは、この一年間の鮮やかなあらましだった。オリンピックの国内予選のあと、フランシスが、一般のキメラ症患者のあり方に驚きを隠せていなかったことをまず述べた。

「フランシスは、一人の人間としての生き方を知らずにいたのでしょう」

 そして、フランシスのキメラ症への思いが、キメラ民主によってゆがんだ優越感にすりかえられていたことも語る――あのときに付いたブラッディ・マリーのシミだけが、鮮やかに赤く残ったワイシャツも、証拠品になっていた――。

「彼が僅かに知りえた社会への望みと、彼の能力を、キメラ民主が利用していたのは明らかです」

 また、フランシスが意識したことのなかったことを――つまりは彼が本心から起こした行動を――語った。

「もし彼が、キメラ症の歪んだ優越感の持ち主なら、私をキメラ民主に勧誘していたでしょう。しかし彼はそうはしなかった。それどころか、彼が殺したとはいえ、私が父の身辺整理で参っていたときに、彼は私を心配する電話をかけてきてくれたのです」

 ここで弁護士から、証拠品の提出が提案された。ヨシュアの携帯電話だ。証拠品は受理され、弁護士が証拠品の解説をする。

「これには証人と被告人との会話が録音されています。証人は、父の身辺整理に必要な会話を、すべて電話で録音していましたが、これはその合間に偶然録音された会話です。内容は、お聞きいただければわかります」

 折りたたみ式の携帯電話が開かれ、操作される。ハンズフリーの状態で、マイクの前におかれたケータイから、聞き覚えのある声がノイズに混じって聞こえてくる。ノイズは、雨の音だった。

『もしもし』

『ヨシュアか、俺だ。フランシス』

『珍しいな、お前から電話なんて。どうしたんだ?』

『あ、いや。お前にしては元気が無いな、って思って。大丈夫か?なんで親父さんのこと、話してくれなかったんだ?』

『親父が死んだのも、大分前だしな――』

 彼らがおやすみと挨拶を交わして、証拠品の提出が終了した。

 そしてヨシュアは、こう結ぶ。

「以上のことから、彼はもはや暗殺者と言う狭い人格から脱出し、社会性を持ち合わせた一人の人間であると、私は証言します」

 車椅子に座って一礼するヨシュアの背中に、フランシスは呆然としていたが、なんだか認められた気がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 弓を射るシーンの描写が大変かっこいいです。 独特な世界観の説明は過不足なく感じられ、一気に読みました。 [一言] キャラクターに感情移入してしまい、中盤以降は読みながら「どうかバッドエンド…
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