予知夢
◆◆◆◆◆
太陽が街の向こう側に沈み込み、辺りを紅葉色に染め上げている。
そこまで急ではないものの、だらだらと長い上り坂。
学校からの帰り道だった。
僕は綾と一緒に歩いている。
歩きながら思っている。
まただ……と。
「ねえ」僕は綾に声をかけた。「正夢って見たことある?」
「正夢?」
綾は頓狂な声をあげた。
その反応さえ覚えがあった。
「正夢って、夢で見たことが現実に起こるっていうアレ?」
僕は頷いた。
綾はしばらく何も言わずに歩いていた。綾はいつも、僕の言うことをまじめに聴いてくれる。とても優しい女子で、毎日一緒に帰っていた。
「うーん……あたしはないな。そんな未来予知みたいなことは出来ないよ」
やっぱり……。
僕には彼女がそう応えるのが分かっていた。そして次はこう言うだろう。『だいいち、夢の内容なんて目が覚めたら忘れちゃうわ』と。
しばらくして綾は口を開いた。
「だいいち、夢の内容なんて目が覚めたら忘れちゃうわ」
僕は確信した。
やはりそうなのだ……と。
「僕は最近ずっと見てるんだ」
その言葉に、綾は目を丸くした。
「えっ……卓くんが?」
「ああ。これって何かおかしいのかな。今日起こったこととか、全部ゆうべ夢で見た通りなんだけど」
彼女は信じられないといった顔をしている。
「予知夢って言ってもいいのかもしれない。とにかく……夢で見た通りなんだよ。起こること全てが。何が起こるか知っているんだ」
綾は不審そうにした。
それはそうだろう。
こんな話を突然されて信じろという方が無理な話だ。
だが……そうなのだ。
こうして彼女に相談することまでもが夢で見た通りだった。
どういうわけか、周りの連中は僕が見た夢の通りの行動をする。僕は僕で、何故か夢でとった行動をそのまま現実でもしてしまっている。だから夢と同じになる。予知夢といっても、起こることを予知して結果を変えることは出来なかった。
それから綾は口をきくことはなかった。
不気味な奴だと思ったのだろうか。
僕は笑った。不気味だと思うのも無理はない。真顔で予知夢が見られるなんて言い出す奴がいたら、誰もが不気味に思うに違いないのだ。実際、ゆうべ見た夢でも綾は同じ反応をしていた。不気味に思われると分かっていたのに、僕は何故同じ相談を彼女にしてしまったのだろうか。気がつけば夢で見たのと同じ行動をしてしまっている自分が不思議で仕方がない。
僕は無意識のうちに夢を再現しようとしたのだろうか?
だとしたらこんなに馬鹿馬鹿しいことはない。
そう思いながらも、僕は結局、昨日見た夢と全く同じ行動をとりながら、一日を終えた。
僕は布団に潜ると、あっという間に意識を手放した。
◇◇◇◇◇
これは夢だな……。
そう思いながら、僕は布団から半身を起こした。
夢はいつだって布団から起き上がるところから始まる。
いつも、妙に現実感のある夢だった。一般的な夢と違って、突拍子のない出来事が起こらない。制服に着替えて、顔を洗い、朝食をとり、学校へ行き、授業に出て、それが終わると帰宅し……といったふうに、ごく普通の一日があるだけの夢なのだ。そして必ず、目が覚めた後はこの夢と全く同じことが起こる。夢とほとんど同じ内容の一日が、現実でも過ぎていく。
僕も僕で、夢の中だからといって大胆な行動をする気にはなれなかった。夢の現実感がありすぎて気後れしてしまう、という理由もある。が、一番の理由は、そうやって僕がとった行動が現実に反映されたらと思うと震えが止まらなくなるからだ。
そんな夢の中の出来事が淡々と消化されていき、放課後になった。
僕は綾と下校していた。
と、彼女が口を開いた。
「ねえ、卓くん。昨日のことなんだけどね……」綾は二、三度咳払いした。「デジャヴーってやつなんじゃないかな。冷静に考えて」
「デジャヴー? デジャヴーって何?」僕は思わず訊いてしまった。
「デジャヴーっていうのは……わかりやすくいうと『実際には体験していないのに既に体験したことのように思える』という感覚のこと。言ってる意味わかる? どういう原理で起こっているかは詳しく分かっていないらしいわ。ただ、デジャヴーが起こるのは、そう珍しくもないことなの。弟もよくあるって言ってた。ふと、ある瞬間に『どこかで同じことをしたような気がする』っていう感覚に襲われるそうよ。だからそう心配する必要はないと思うよ」
「成る程、デジャヴーね……」と僕は相槌をうった。
自分の夢なのにどうして自分の知らない知識が飛び出すんだろう、という疑問は、もうとっくにどうでもよくなっている。どうせこの夢は、現実にトレースされるのだ。この夢が予知夢だとしたら、デジャヴーの意味を知るのも予知の一種だ。
僕は綾に言った。
「悪いけど、デジャヴーじゃなさそうだよ」
「どうしてそう言えるの?」
「綾は『ふとした瞬間に』既視感に襲われると言ったけど、僕の場合は『ふとした瞬間』じゃなく常に既視感を覚えているんだ。一日まるごと、全部ね」
綾は言葉を失ったように黙り込んだ。
しばらくして、綾は言った。
「じゃあ、卓くんはこれから起こることが分かってるっていうの? 今日のことは全部、夢で既に体験しているっていうわけ?」
僕は何も言わなかった。
綾は続けた。
「なら、これから何が起こるのかちょっと教えてみてよ。そう……例えば、そうだな。今夜放送するドラマの結末なんかどうかしら。見てるって言ってたよね、あの刑事ドラマ。ちょうど今夜の回で犯人が分かるはずよ。知ってるんでしょ、ドラマの真相を」
僕は言葉に詰まった。
夢の中とはいえ、返事に困ることを言われると辛いものがある。
「それは……言えない」
「言えない? どういうこと? ネタバレとか気にしてくれてんなら心配いらないわよ」
「そうじゃないよ。ただ、これがその夢だから、まだ分からないんだ」
言ってから僕はハッとした。
綾も意味が分からないといった表情をしている。
いくら夢だからといって、相手に「これは夢だ」と言うなんて……僕はなんてバカなんだろう。それにこの夢が明日の現実を予知しているのだとすれば、僕は現実でも『これがその夢だ』なんておかしなことを言うはめになるではないか。
迂闊な発言を後悔しつつ、僕は綾と別れて帰宅した。
リビングでテレビをつける。そしてドラマを見た。綾の言っていた刑事ドラマだ。
ドラマの結末を知ると、僕は布団に身を預けた。目を閉じる。するとこの夢は覚めて、僕は現を取り戻すのだ。
◆◆◆◆◆
僕は目覚めた。
布団から半身を起こす。
僕は、まるで魅入られているように夢でとった行動を繰り返した。全てが夢と同じ光景だった。朝食のメニューも、弁当の中身も、友人が話す内容も、授業の内容も。
放課後。僕は同じように、綾と帰路をともにしている。
そして綾は、夢と同じように口を開いた。
「ねえ、卓くん。昨日のことなんだけどね……」綾は二、三度咳払いした。「デジャヴーってやつなんじゃないかな。冷静に考えて」
「デジャヴー? デジャヴーって何?」僕は訊いてしまった。既に知っていることなのに。
「デジャヴーっていうのは……わかりやすくいうと『実際には体験していないのに既に体験したことのように思える』という感覚のこと。言ってる意味わかる? どういう原理で起こっているかは詳しく分かっていないらしいわ。ただ、デジャヴーが起こるのは、そう珍しくもないことなの。弟もよくあるって言ってた。ふと、ある瞬間に『どこかで同じことをしたような気がする』っていう感覚に襲われるそうよ。だからそう心配する必要はないと思うよ」
「成る程、デジャヴーね……」気がつけば僕は相槌をうっていた。
僕は綾に言った。
「悪いけど、デジャヴーじゃなさそうだよ」
「どうしてそう言えるの?」
「綾は『ふとした瞬間に』既視感に襲われると言ったけど、僕の場合は『ふとした瞬間』じゃなく常に既視感を覚えているんだ。一日まるごと、全部ね」
綾は言葉を失ったように黙り込んだ。
しばらくして、綾は言った。
「じゃあ、卓くんはこれから起こることが分かってるっていうの? 今日のことは全部、夢で既に体験しているっていうわけ?」
僕は何も言わなかった。
綾は続けた。
「なら、これから何が起こるのかちょっと教えてみてよ。そう……例えば、そうだな。今夜放送するドラマの結末なんかどうかしら。見てるって言ってたよね、あの刑事ドラマ。ちょうど今夜の回で犯人が分かるはずよ。知ってるんでしょ、ドラマの真相を」
僕は言葉に詰まった。
夢の中とはいえ、返事に困ることを言われると辛いものがある。
『それは……言えない』
そう言おうとして、ふと僕は思い止まった。
僕はいつも通り、ほとんど無意識のうちに夢でした通りの返答をしようとしていた。だが、このままいくと、『これが夢だからまだ分からない』なんて言うことになってしまう。現実の世界でこんなことを言いたくはない。それに今の僕はドラマの結末だって知っている。
夢とは発言を変えてみようか……。
そんな考えがよぎったのは、予知夢を見始めて、初めてのことだった。今までは、そんな発想さえなかった。そんなことを思うより前に夢と同じことを行っていた。
僕は唾を飲み込み、ドラマの結末を話した。犯人もトリックも動機も次回予告の内容も全て。
すると、とたんに綾の表情が険しくなった。
先ほどまでの優しい眼差しとは似ても似つかない、冷たい目だ。醜い怪物を見るような目だ。
「えっ……何? どうしたの?」
彼女は応えず、嫌そうに目を細めた。
「怪物……」ぼそりと綾が呟いた。
怪物とは何だろう。そう思っていると、綾は忌々しげに口を開いた。
「あんたのことよ。やっぱりあんたは怪物だったのよ」
「それってどういうこと?」
僕は思わず綾に歩み寄った。
「近寄らないでよ」綾はにべもなくそう言うと、僕を突き放した。「怪物のくせに」
僕は呆然と立ち尽くした。
何故、綾がいきなりこんなことを……。
「怪物」
綾は繰り返した。僕を心の底から軽蔑するような目で。
その目に耐え切れず、僕はその場から逃げ出した。一刻も早く綾から逃れるため、必死に地面を漕いだ。
何が起こったのだろうか。どうして綾はあんなことを言ったのだろうか。『夢』とは違う返答をしたことに関係があるのだろうか。ドラマの結末を話したりしなければ、『夢』と同じように平穏な一日に終わっていたのだろうか。考えれば考えるほど頭痛がする。治りかけの傷口を掻き毟られたような痛みが走る。
家に戻ると、全速力で自分の部屋に飛び込み、布団に潜って目を閉じた。絶対にそうしなければいけないような気がしていた。
そして、そのまま眠りに落ちた。
◇◇◇◇◇
僕は、夢を見ていた。
布団から半身を起こし、着替え、学校へ向かう。
そんないつも通りの夢だった。
僕が意識的に行動を変化させなければ、この夢で起きた出来事はそのまま現実でも発生する。行動を変えてみた結果、怪物呼ばわり――こんな馬鹿なことがあるだろうか。僕にはもう何も分からなかった。ただ戦慄を感じながら、夢の中の一日を過ごしていた。
僕は今日も綾と一緒に帰った。
夢の中の綾は平常通りだった。いつもと同じ、優しい綾だ。
この夢が翌日の現実を予知しているのであれば、この夢の綾も『僕に怪物と言った綾』と同じでなくてはならないはずだ。なのに、彼女はそのことについて触れない。普段通りの綾だ。
「綾……」僕は思い切って彼女に訊いた。「昨日はどうしてあんなことを言ったんだ?」
夢と現実で行動を変えた結果が何故ああだったのか、僕はどうしても知りたかった。
だが、綾は怪訝な顔をした。
「あんなことって何?」
「だからその……僕を怪物だって」
「昨日に? 言ってないよ、そんなこと」
……どういうことだ?
この夢は、明日の現実と全く同じではないのか。
綾は苦笑いしながら言った。
「夢でも見たんじゃないの?」
「夢でも見たって……これがその――」夢じゃないか、とうっかり言いそうになった。「ああ、いや。何でもないよ」
僕は戸惑った。
明日くる『現実』がこの『夢』と同じものなら、このやり取りも同じになるだろう。現実でも綾は僕を怪物呼ばわりしたことを否定するのだろうか。
「あっ、もしかして……」綾が目を見開いた。「あたし、あなたがどうして予知夢を見るかが分かったわ。というか……あなた、本当は予知夢なんて見てないのよ」
綾は何を言っているんだ? 今こうして見ているのが"予知夢"ではないか。今までも、夢で見たことがそのまま現実になっていた。今は夢だからいいものの、彼女は現実でもこんな世迷言を言うのだろうか。
「たぶん、あなたは今、夢を見ていると勘違いしているのよ」
「えっ?」
いよいよ意味がわからなくなってきた。
「いい? これは現実なの。卓くんの見ている夢なんかじゃないの」
僕は思わず声を荒げた。
「わけの分からないことを言うなよ! これは夢だろ! 僕は、これとは別に現実で生活をしていて……」
綾はため息をついた。
そして抑揚のない声で言った。
「そうじゃない。卓くんが『現実』だと思っているものこそが『夢』だったのよ」
「まさか……」
大粒の汗が全身を流れる。
僕が『夢』だと思っていた方が『現実』で、『現実』だと思っていた方が『夢』だったというのか。
じゃあ、これは本当に現実……?
「つまり、あなたは正夢を見ていたわけではなく、現実で起きた出来事を夢で再現していただけ、ってわけ。……ねえ、あたしの言ってる意味わかってる?」
くらくらしてきた。
頭の中がいやに熱っぽく、全身が凍りのように冷たい。
「『明晰夢』って知ってる? 簡単にいえば『自分の意思でコントロールできる夢』のこと。あたし、卓くんの見ていた『夢』は明晰夢の一種だと思うのよね」
彼女の声はほとんど届いていなかった。
僕は呆然としていた。
「普通の人は明晰夢を見ているときは『これは夢だ』と自覚できるものなんだけど、卓くんはそうならなかったみたいね。あなたは夢を見ながら、現実で起こった出来事を思い出して再現していたのよ。さらには、それを『夢』ではなく『現実』だと勘違いするようになってしまった。そして『現実』の方を『夢』だと思い込んだ。そうでしょ?」
「……そう、か……」
そうだ……その通りだ。
これが現実なんだ……。
僕は甚だしく動揺するとともに、安堵していた。
綾は僕を怪物だなんて思っていないんだ。綾が僕を怪物呼ばわりしたのは夢の中の出来事だったんだ。
僕は綾と別れ、自分の部屋で考えていた。
では、どうしてこんな勘違いをしてしまったんだろうか……。
現実と夢を取り違えていただなんて、自分でも信じられない間抜けさだ。
こうなったきっかけを思い出してみる。
だが、記憶を遡ると、頭が痺れるように痛んだ。
霧なようなものに記憶が阻まれている。
……そういえば。夢の中で綾に怪物呼ばわりされた。『現実』で起こったことを再現しているはずの『夢』で『現実』とは違う行動を、僕がとったせいだろう。『現実』では綾にドラマの結末を話してなどいないのだから、その先の記憶があるわけがない。記憶を再生しているだけの『夢』で記憶にないことをしたら、その先は……
頭が痛い。とても痛い。
だが、もう少しで思い出せそうだ。
『夢』の中、記憶にないシーンを埋め合わせるようにして、綾が僕を怪物呼ばわりする場面になった。ということは……
そうか。
思い出した。
それは決して思い出したくないことだった。
あの日、僕は綾に告白した。
いつも僕に優しくしてくれる彼女が大好きだったからだ。
「ごめん、それは無理よ」
綾は、はっきりと言った。どこか疲れているように見えた。
ショックだった。愚かな僕は彼女が断らないと信じていたらしい。
「でも……こうして一緒に帰ってるじゃないか、毎日」
彼女はかぶりを振った。
「それは特別支援学級の先生に頼まれてるからよ。卓くんを一人で帰すのは不安だってね」
「そんな……。でも……」
僕は愕然としていた。
「卓くんは小学校の頃から一緒だったから放っておけなくてね。でも、好きとかとは違うよ、全然違う。道中で何かやらかされても寝覚めが悪いから、こうして毎日面倒みてあげてるんじゃない……。あたしだってほんとは、友達と帰りたいよ。でもみんな卓くんがいると気味悪がるし……」
言っている意味がよく分からなかったが、僕はとても嫌な気分になった。
そうこうしている間に自宅まで辿り着いた。
綾は帰ってしまう。
「じゃあね……」
綾が踵を返した。
「ま、待ってくれよ!」
僕は焦って彼女の手首をつかんだ。このまま二度と会えないのではないかと思った。僕の綾は永久に戻ってこないような気がした。
だが綾は汚物にでも触れたかのように、僕の手を振り払った。
その瞬間の綾の目を、僕は見てしまった。
それは冷たい目だった。醜い怪物を見るような目だった。
僕は、自分の中で信じていた存在が音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
死にたくなるほど後悔した。
思い上がって無様に告白なんてしなければよかった。綾が僕をどう思っていたかなんて、知らなければよかった。本当のことなんて知らずに、偽りの幸福に浸っていればよかった。綾が僕を思いやってくれていると、馬鹿みたいにそう信じ込んでさえいればそれで幸せだったんだ。だって実際、今日までは幸せだったのだから。
今日がなかったことになればいいのに。いっそ、今日のことは全て『夢』だったということになればいいのに。そうだ、夢だったらいいんだ。夢なら何の問題もないだってただの夢なんだから。よく考えるとこれは夢ではないだろうか。夢だったような気がしてきた。そうこれは夢だ夢に違いない……
僕はあの日を境に、現実を『夢』だと思い込んだ。その代わりに、『夢』を現実だと思うことにした。それが『夢』と『現実』を取り違えるきっかけだった。
◆◇◆◇◆
今日も僕は、暗鬱な気分で綾と下校していた。
これは夢だろうか、それとも現実だろうか。
僕はもう、どちらが現実で、どちらが夢なのかも分からなくなっていた。
しかし、そんなことはどうでもいいことだ。
何故なら、現実の世界にも夢の世界にも絶望しかないからだ。
現実にいても、夢にいても、僕は綾を信じることが出来ない。もう綾のことを都合良く思い込むことなんて出来ない。
僕は……怪物だ。