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短編集

胡蝶の庭

 山頂高く雲の棚引く霊峰のふもとの村に、ある日使者がやって来た。


 建国四百年を迎えた、この大(とう)帝国の宮廷人の一団である。中心に在るのは、十六代皇帝、祥宗しょうそうの寵の厚い宦官、張円ちょうえん。彼が皇帝の耳元でささやけば、将軍でさえも失脚すると噂されている。鄙びた村には不釣合いな高官だが、目的は明らかだった。

 村人は誰もが蒼白になり、一団を遠巻きに眺めていた。馬のいななきに心を乱される。


 「誰ぞ高家へ。間違いなくあの家だ」


 一人の青年がきびすを返し、その場を駆け去る。彼らが馬を休め、旅の疲れを癒す前に、知らせなければならない。娘を隠せと。


 彼らは後宮に上げる娘を探しに来たのだ。まだ年若く、即位して間もない皇帝ゆえに、後宮も空室が目立つという。こうして、後宮を取り仕切る宦官が地方まで出向き、美しい娘を探すことは歴史的に繰り返されて来た。


 もしその御眼に適えば、皇帝の御子を授かり、一生優雅な生活が待っているかに見える。けれど、実際のところは、皇帝の寵を得るための凄惨な女地獄と言えよう。宦官も娘たちを利用するが、本心では馬鹿にし、寵を失えば見向きもしない。あの表向きだけ煌びやかな場所で、惨めに朽ち果てることもある。

 幸せとは程遠い場所なのだ。だから、村人たちは結託して娘を隠す。



 絶対に連れて行かせはしないと、青年はこぶしを強く握った。幼い頃より共に過ごした仲だ。見捨てることなどできない。


愛真あいしん唯真ゆいしん、いるかっ」


 呼ばれた二人の娘と、その母である孫氏そんしは、ただただ驚いてそのまま動きを止めた。幼馴染の青年、呂准ろじゅんが、息も絶え絶えに駆け込んで来たのだから無理もない。


「一体、どうなさったのです」


 咳をこらえながら体を起こし、愛真は尋ねる。色は抜けるように白く、儚い娘だ。今年で十七になったが、並外れた美貌を備えながらも病弱で、未だ縁付いていない。


「姉さま、起き上がっては体に障ります」


 姉の背を支えながら、心配そうに声をかける娘が妹の唯真だ。姉の分までよく働く元気な娘で、畑仕事に家畜の世話と忙しく働いている。そのため、姉よりも少し日に焼けた肌色をしているものの、その瞳は宝玉のように見る者を釘付けにする。

 唯真はその瞳で呂准を軽くにらむ。


「なんなのですか。たいした用事でもなかったら怒りますよ」


 小娘が生意気な口を利く。孫氏は柳眉を寄せた。二人の母だけあり、三十路をいくつか過ぎた頃だというのに未だ美しくある。未亡人だが、喪が明けるのを待って求婚するつもりだという男たちがいるのもうなずけた。


「この子は、殿方になんて口の利き方を。……ごめんなさいね」


 呂准はかぶりを振る。それどころではないのだ。

 それから、早口で事情をまくし立てた。三人は再び目を丸くし、唖然と言葉を失くしてしまった。お互いの顔を交互に見ると、三人の顔から血の気が引いた。

 孫氏は口元を押さえる。震える指が痛々しかった。


「隠し……切れるでしょうか……」


 大粒の涙が手を伝って行く。それが、不可能だと理解している証だった。

 そして、唯真は今後会うことが叶わなくなるかも知れない家族の顔を一度も振り返らないままに駆け出した。


「駄目だ、唯真、戻れっ」


 唯真はその声を背で受け止め、押し寄せる感情できしむ頭を振った。唯真の勢いに、鶏がバサバサと音を立てて逃げ出す。必死で走り、結った髪がはらりと解けて背に広がった。

 人ごみの手前で立ち止まり、弾む息を整える。ざわめき、村人たちは唯真に目を向けてしまった。その空気を感じ取った張円が、やや高いよく通る声で言った。


「者共、道を開けよ」


 彼が手を一振りすると、人ごみは刀で斬られたかのようにさっと分かれた。ただ一人、中心に立つ唯真だけがその場に残った。

 張円が唯真を値踏みする。その冷めた視線に身震いしながらも、唯真もまた少しの驚きを感じていた。

 美麗な刺繍の施された、高官の証である緋袍ひほう。一見して気位が高そうな細面に、艶やかな黒髪。歳若く、見とれてしまうような麗容をしていた。

 宦官とはこのように美しいものなのかと一瞬ぼうっとしてしまった唯真は、慌てて礼を取ってひざまずく。

 宦官は唯真の方に向かって歩むと、立てと言った。


「は、はい」


 唯真は言われるがままに立ち上がった。張円はスッと目を細めると、いっそう冷えた声で言った。


「髪のひとつも結わず、薄汚れて粗野としか言えぬが、まあ、磨けば光るやも知れぬ。お前の名と歳を述べよ」

「高唯真と申します。歳は十五にございます。お望みでしたら私はどこへでも参ります。ですが、この村からは私一人で御勘弁いただきますよう、どうかお願いいたします」


 震える声で言った。すると、張円は小さく鼻で笑う。


「陛下のもとに侍る栄誉をどのように心得る。まるで災厄だ。お前は人身御供か」


 その一言で、唯真は凍り付いた。けれど、張円はようやく皮肉っぽくはあるけれど、ほんの少しは血の通った笑みを見せた。


「まあよい。自ら決意したのであれば、来るがよい」


 そうして、唯真は生まれ育った村と家族と、今生の別れをした。



          ※※※



 涙に暮れるようなことはしなかった。

 自らが大切な家族を守ったのだ。胸を張って生きて行こう。

 唯真はそう、背筋を伸ばした。そして、大きく口を開いた門を自らの足でくぐった。



 朱の美しい、贅を尽くした建築。多種多様な蓮の花が咲き乱れる池。仙人、仙女が住まう仙界という場所が存在したとして、ここよりも荘厳であるとは思えない。目に入るものすべてが眩しかった。

 広がる庭には、色とりどりの花のような美女たちが優雅に戯れている。

 この中に入れるものは、女か宦官のみ。


 唯真はこの迷楼ではぐれてしまわないように、張円の後に続いた。

 すると、中年の肥えた宦官が、張円の姿を見付けて駆け寄って来る。


「これはこれは、張内侍ちょうないじ。お戻りでしたか。長旅でお疲れにございましょう」


 宦官なので息子はいないけれど、年齢的にはそれくらいの張円に対し、彼は卑屈なまでに頭を下げる。張円もそれを当然と受け止めた。権力の重みに、唯真は薄ら寒くなる。


「この者、陛下には明後日にお目通りを願う。そのつもりで居るように」

「はっ」


 そう言って頭を下げたけれど、彼が唯真を盗み見た目は、弱い獲物を見るけだもののようだった。

 ゾッとして体を強張らせた唯真に、張円は彼が去った後で言った。


「この伏魔殿、敵は女ばかりとは限らん。特にお前のような、なんの後ろ盾もない娘はせいぜい気を付けることだ」


 宦官を味方に付けるには、きっと金が要る。彼らにとって、それがないものは虫けらなのだ。一見しただけで貧しいとわかる唯真は、陰湿な憂さ晴らしには最適の玩具というところだ。

 ただ、すべての宦官がそうとは思わない。

 この張円は冷たくはあるものの、そういった貪欲さは感じられない。そうなると、この地で唯一信じてもいい人間に思えて来た。


「来い」


 不案内なこの場所を、張円の背を追って歩く。

 唯真に与えられた部屋は、すっきりと整った思いのほかに過ごしやすそうなところだった。過度な装飾がない方が、唯真には好ましい。位が上がれば、もっと広く華美な部屋へ移るのだろうが、移りたいとは思わなかった。


「今に女官が参る。まずは湯殿へ行け。次に会う時は、もう少し見られる姿で居れよ」


 そう言って立ち去ろうとした張円を、唯真は思わず呼び止めた。


「あの、張円様」


 張円は気安く呼び止められて気分を害したようで、眉間にしわを寄せて振り返った。


「わからぬことがあれば、女官に訊くがよい」

「そうではありません。あなた様は先ほど、私には後ろ盾がないと申されました」

「事実そうであろう。それとも、由緒正しい血族の末だとでも申すか」


 唯真はかぶりを振る。


「いいえ。そうではありません。あなた様が仰る通り、私は後ろ盾も身を守る銭も、何ひとつ持たぬ身です。ですから――」


 言葉を切ると、覚悟を決めた。何も持たぬけれど、それを嘆いている場合ではない。


「あなた様が私の後ろ盾となって下さいませんか」


 一瞬の沈黙の後、張円は世にも恐ろしい形相でつぶやく。


「なんだと……」

「え、あ、その」

「見返りも用意できぬ小娘が、よくそのようなことを申したな」

「で、ですが、張円様は、私が金銭を差し出したら、それがどんなに高額であろうとも、払い除けられたと思います。……違いますか」


 張円は少しだけ険しい表情を解いた。けれど、それは微笑とは程遠い、ようやく真顔になったというだけのことだった。

 何を考えているのか、唯真に読み取れるような人間ではない。それでも、ここで止めては無意味だ。唯真は言葉を搾り出す。


「何も持たぬ身でも、ひとつだけお約束できることがあります」

「ほう、それはなんだ」

「はい。私は、あなた様にだけは決して嘘を申しません。それだけはお約束いたします」


 唯真の言葉に張円はあきれたのか、切れ長の眼で瞬きをした。そして、小さく声をもらす。それを、張円が笑ったのだと認識するまでに時間がかかった。


「おかしな娘だ。この後宮で嘘のひとつもつかずに生きて行こうというのか。愚かな」


 張円の笑みには、明らかに侮蔑がこもっている。けれど、唯真に憤りはなかった。


「まあよい。それも一興か。多少の援助はしてもよいが、陛下の御不興をかうようなことがあれば、それまでだ。それだけは覚えておけ」


 すべてはそれだ。

 生きるも死ぬも、すべてが神に等しい、ただ一人の人に左右される。

 そのことだけは片時も忘れてはならない。

 唯真は深くうなずいた。



          ※※※



 その明後日の夕刻、唯真はされるがままになっていた。女官たちはほとんど口を利かず、事務的に唯真を磨き、飾り立てる。

 今まで化粧などしたこともなかったし、これほど高価な衣に袖を通したこともない。きぬの肌触りなど、生まれて初めて知った。

 けれど、どんなに着飾ったところで、心は暗く重く沈むだけだった。


 女官たちは唯真の初々しさを消さぬよう薄化粧にとどめ、細い体が少しでも魅力的に見えるように工夫を重ねて行く。髪を高く結い、かんざしを挿すと、完成した彼女を眺める暇もなく張円の声がかかる。


「出来上がったのなら、下がれ」


 唯真は首を向けたが、思った以上に髪飾りが重く、首が痛かった。女官たちは張円に一礼すると、さっさと退室する。彼女たちにとっても張円は恐ろしい存在なのだろう。

 張円は出会った時のように、脂粉の香の漂う唯真を値踏みする。唯真は慣れぬ装いの照れと不安と恐怖と、感情が入り乱れすぎて混乱してしまった。

 そんな彼女に気休めひとつ吐かず、張円は冷たく一言、


「まあ、及第点か」


 とだけ言った。それから改めて唯真を見下ろすと、ひとつため息をついた。


「お前は、龍床に侍るとは何を意味するかわかっているのだろうな」

「知らない方がよかったですけど……」


 そのつぶやきを張円は耳聡く拾い、細い眉を跳ね上げた。


「口にも顔にも出すな、この粗忽者そこつもの。お前のように粗野な娘では、房中術など教え込もうものなら、かえって興醒めされそうだ。ただ、陛下に従順で居れ。それだけでよい。玉体に傷ひとつでも付けようものなら首が飛ぶぞ」


 今になって泣きたくなる。

 姉を守るためなら耐えられると思った。あの時の自分は、何もわかっていなかった。

 差し迫って初めて死よりも恐ろしいと思うなんて、本当に愚かだ。

 けれど、やはりこの恐ろしさから姉を遠ざけられた事実だけは本当だ。そう考えたら、少しは気持ちが軽くなった。


「泣くと化粧が崩れる。間違っても陛下の前で泣き崩れぬことだ。首が飛ぶやも知れぬぞ」


 二言目には首が飛ぶとうっとうしそうに言う張円を、唯真はにらみ返してやった。これから、もっと偉いお方に会うのだ。張円くらいで萎縮いしゅくしていては始まらない。気を強く持とうと決めた。


「泣きません。いつでも行けます」


 さすがに少し驚いた風の張円だったが、その後すぐににやりと笑う。


「それでいい。では、行くぞ」



          ※※※



 後宮の夜は別世界だった。

 無駄に広いばかりで、薄暗くて恐ろしい。宦官が警備に当たろうとも、まるで土くれの人形のように存在が感じられなかった。


 唯真はその回廊を、壁の灯燭とうしょくの明かりを頼りに歩いた。

 周囲ばかりを見ていたので、先を歩く張円が立ち止まった時、気付かずその背にぶつかってしまった。冷ややかに見下ろされ、そこは素直に謝った。


大家ごしゅじんさま、高才人をお連れしました」


 才人という位は、ぽっと出の唯真には相応しくない。うるさく言いつつも、張円が色を付けてくれた結果だろう。


「許す。入れ」


 短い返答。大きな声を出したわけでもないのに、なんて通る声なのだろう。心地よい低さが染みる。

 ただそれだけで、唯真は向こう側のお方が崇め奉られる存在なのだと、疑うことなく受け入れられた。そして、一度は落ち着いた鼓動が再び速く打つ。

 張円は最後にひとつ、唯真にささやく。


「お前から口を開くことは許されぬ。問われたことのみにお答えしろ」

「問われなかった場合はどうしますか」

「一言も発するな」


 住む世界の違う、神にも等しいお方。人だと思うからおかしいと感じるのだ。皇帝とは、ただの人の子であってはならない。

 唯真がうなずくと、張円は扉を開いた。

 中はやはり薄暗く、皇帝の姿は見えない。ただ、ほんのりと甘い香が焚き染められ、くゆる煙の端が一瞬見えただけだった。

 張円は目で唯真を中に追い立てる。そろりそろりと唯真が歩みを進めると、張円は扉を閉めた。


 ぽつりと取り残され、立ち尽くす唯真の前に、ようやく人影が現れた。

 ぼんやりとした輪郭しかわからない。背丈は張円と同じくらいだが、肩幅はもう少し広い。

 祥宗皇帝はきびすを返し、奥へと戻る。


「これへ」


 唯真はおずおずとその後に続いた。そうして、寝台の上に祥宗は腰を下ろした。窓から漏れる月明かりで、唯真はようやくその姿を目にした。天地が入れ替わることがなければ、これ以上の衝撃を受けることはもうないだろう。


 涼やかな顔立ちは、何故だか張円と似通ったところがある。ただ、決定的な違いは、深く底の知れない瞳だ。誰の理解も及ばない高みに独りで立つ者の証だろうか。

 唯真はそれを一瞬で知り得た。

 そして、それと同時に胸に沸き起こる熱がある。芯から溶け出し、全身に毒のように広がって頭を痺れさせた。


 立ち尽くす唯真の頬に、祥宗は手を伸ばす。なんの感慨も興味もない動き。そのすべてが悲哀に満ちている。唯真は無意識のうちに涙を流していた。その一滴が、祥宗の手に落ちる。

 泣けば首が飛ぶと言った張円の言葉を、唯真は忘れていたわけではない。けれど、今はそんなことよりも、目の前にいる人のことしか考えられなかった。

 困惑したように唯真を見上げる。そこには初めて感情があった。


 当たり前のことが、唯真にはひどく嬉しかった。涙を拭うよりも先に笑みがこぼれる。

 祥宗は唯真の心など知る由もなく、ただ呆然として二人の間には沈黙だけが流れた。

 自ら話しかけてはならないと言われている唯真は、迷った挙句に身振り手振りで弁明する。それは、ただのおかしな動きだった。

 わからないけれど、祥宗は苦笑する。


「許すから、話してくれ。それではわからない」


 ようやく呼吸を許されたような気分だった。思わず深呼吸してしまう。


「あのですね、これは悲しいとか嫌だとか、そういった涙ではありません。ですから、忘れて頂けませんか」


 すると、祥宗は落ち着いた口調で言った。


「悲しいだとか、嫌だとかで落涙する娘は珍しくもない。別に構わぬ」


 あの宦官。大げさなことばかり吹き込んだな、と唯真は軽く腹が立ったが、今はそれどころではない。


「……むしろ、苦痛を強いるこちらが悪いのだ。けれど、これもさだめ故、致し方ない」


 皇帝とは、このようなことを考えるものなのだろうか。人民の頂点に君臨し、すべての命運を握るはずなのに、どうしてこんなにも諦観が漂うのだろう。

 この人だけが特別なのだろうか。どちらだかわらかないけれど、唯真は苦しくなった。さだめと口にしながらも、自分自身が割り切れていない。そんな苦悩の中にいる。


「正直に申し上げます。実は私、ここに来るまで、本当は悲しいだとか嫌だとか、そんなことばかり考えていました。逃げ出せるのなら逃げ出していたと思います」


 張円が聞いていたなら、首が飛ぶと言っただろう不敬な言葉だ。それでも、上辺だけ取り繕った言葉ではこの人には届かない。


「けれど、陛下のお姿を拝見した時、涙がこぼれた理由は別なのです。言い様のない懐かしさというのでしょうか、そういったものを感じて、自然に涙があふれていたのです」

「懐かしいとは……」

「私にもわかりません。何故なのでしょう」


 ふふ、と唯真は笑った。後宮へ来て、こんな風に笑うのは初めてかも知れない。祥宗もそんな唯真に笑みを返す。


「懐かしい、か。そんなことを言われたのは初めてだ。けれど、不思議と嬉しいものだな」


 その柔らかな声が微笑が、唯真にとって何にも代えがたい宝物となる。

 自分はここへ来るべくして来たのだと、そう思えた。この人に出会うために来たのだと。

 この人を神でも皇帝でもなく、一人の人間として見てしまう自分は、限りなく不敬で不忠なのだろう。それでも、この人の心に触れたいと思う。


「ここに座るといい。少し話そう」


 そうして、二人は夜通し語り合った。

 唯真は家族や、自然の豊かな故郷のことを。祥宗は、数ある美しい庭園や異国の珍しい献上品の話など、話が尽きることはなかった。



          ※※※



 翌朝、唯真は張円の凛とした声で目を覚ました。


「大家、お目覚めでしょうか」


 慌てて飛び起きた。祥宗は椅子にゆったりと腰かけている。どうやら、語りながら眠ってしまった唯真を気遣ってそっとしておいてくれたのだろう。

 入室してきた張円は、ちらりと唯真を見やる。一瞬びくりとしたが、よく考えてみれば、言わなければ昨晩のことなどわからないはずだ。


朝餉あさがれいの支度が整いましてございます」

「高才人のものも用意するように」


 その一言に張円は片眉を跳ね上げたが、今までに目にしたこともないくらいに祥宗の機嫌がよかったせいか、しぶしぶ引き下がる。

 恐ろしい量の陳列された朝餉に、貧しかった唯真は卒倒しそうだった。

 粥だけで十分ですと言った唯真の茶碗に、鳳凰を象った拼盤もりあわせの羽やら尻尾やらが放り込まれる。祥宗は楽しそうにそばに控えていた張円を呼んだ。


「今夜も高才人を所望する」

「……御意に」


 どうやらまた会える。それだけで、唯真は一日を幸せに過ごせる。



 ただ、ばれていないと思っていた昨晩のことが、この宦官には筒抜けだった。考えが甘かった。


「お前にはあきれてものが言えぬ」

「それはどういう――」

「勤めを果たして居らぬどころか、不敬の限りを尽くしていたな」

「ええっ」

「龍床のそばには宦官が控えて居る。私だからよかったようなものの、ひとつ間違えれば首が飛ぶぞ」


 ようするに、聞き耳を立てていると。複雑な心境の唯真に張円は嫌味でも言うのかと思えば、意外な一言を漏らした。


「だが、あのように楽しげにしている大家は初めてだ。お前を連れて来たのは、間違いではなかったのだろう」


 その言葉で、張円の忠誠の深さに気付かされた。それは、皇帝に対するものというよりも、祥宗個人に向けられているような気がした。

 この人もまた、彼を人として扱う数少ない人間なのだ。同志と言ってもよい。

 ほんの少し、この宦官に親しみを覚えた。



          ※※※



 その晩もその次の晩も、唯真は祥宗のもとへ召された。初めて出会った晩のように、語り明かす。祥宗は唯真に触れようとはしなかった。それは、特別には違いなかった。

 女人に淡白だとささやかれていた皇帝が、日の高いうちから後宮に顔を出すことなど、これまでは考えられなかった。そうして、唯真が続けて召されるうち、高才人が皇帝の寵を得たと後宮では噂されるようになった。妃妾たちにとって、唯真が邪魔な存在となったことを意味する。


 唯真の身分は低く、背後には厄介な一族もいない。他の妃を幸されるよりはましだが、このままでは自分たちが寵を得る機会がなくなり、御子を授かることができなくなる。

 本来ならば、嫌がらせの限りを尽くされるところだが、張円が目を光らせているので、表立ったことはできず、ほんの些細な陰口程度で済んでいた。ただ、それでも先のことはわからない。

 表立って手が出せぬからこそ、呪詛じゅそされるという可能性もある。禁忌であろうと、手段を選ばぬやからがあふれる場所なのだから。


 祥宗が唯真に安らぎを感じているのなら尚のこと、手を打たねばならなかった。

 張円は祥宗に提案する。表立って祥宗が庇えば逆効果だが、違う方法を取れば守ることができる。それを伝えたかった。


 そうして行くうちに、唯真が召される頻度ひんどは減り、代わりに他の妃妾が龍床に招かれるようになった。

 その理由を唯真は張円から説明された。けれど、少しも嬉しくはなかった。胸が千切れそうな痛みしかない。

 それから数日が経ち、ようやく唯真の番が巡って来た。


「唯真」


 二人だけの時、祥宗はその名で呼ぶ。ほっとしたような笑顔を前に、微笑み返そうとしたつもりが、唯真は何故だか涙が止まらなかった。


「どうした、どこか痛むのか」


 心配そうに顔を覗き込まれる。唯真は弱々しくかぶりを振った。


「そうではありません。……ごめんなさい。笑ってお会いしたかったのに」

「――朕は唯真の笑顔を見たい。どうしたらその憂いを取り除けるのだ」


 そんな風に言われると、余計に涙があふれた。


「私が悪いのです。私の醜い心が」


 祥宗は唯真を寝台の隣に座らせた。唯真は下を向いたまま、ぽつりと切り出す。そうすると、もう止められなかった。


「陛下が他の方と夜を過ごされるのは私を守るためだと、張円様は仰いました。けれど、私にはそれがつらいのです」

「唯真……」

「私と過ごす時のように語り合うだけでないことくらい、わかっています。陛下が私を大切にして下さっていると知りつつも、私に触れようとしないあなたを疑う気持ちもどこかにあるのです」


 皇帝の寵を競う後宮の女たちを、以前は冷めた気持ちで眺めていた。けれど、気付けば自分も同じだ。

 嫉妬ばかりが渦巻いている。そういった感情は、祥宗の最も嫌うものだと気付きながらも。


「朕は、唯真に触れるのが恐ろしいのだ。他の妃たちと同じような扱いをしたくはない」


 祥宗の声は、優しく唯真を包み込む。唯真はその困惑した顔を濡れた瞳で見据えた。


「そのお気持ちがあれば、同じにはなりません。もっと特別になれるはずです」


 返事はなかった。その代わり、ふわりと横顔に柔らかなものが触れる。唇が、唯真の涙を拭った。

 どちらともなく寄り添う。被帛ひはくが床に、音もなく滑り落ちた。



          ※※※



 翌朝、張円にじっと見下ろされ、唯真は顔から火が出るほどに恥ずかしい思いをした。


「意外と女だったな、お前も」

「っ――」


 唯真は涙目になりながら、この宦官の背を叩いた。それでも、張円は笑うのを止めなかったけれど。

 張円とも随分打ち解けた。初めて会った時の恐怖は、すでに跡形もない。



 それから、四月よつきの時が流れた。唯真も後宮での暮らしに随分と慣れた。そんなある日、異変は起こる。


「う……っ」


 このところ、ずっと気分が悪かった。けれど、そのうちに治るだろうと軽く考えていた。その矢先に強い嘔吐感を覚え、部屋の隅で吐いた。そのうめき声が聞こえたのか、張円が部屋へ踏み入って来る。


「少し、気分が悪くて……」


 口元を押さえてふらりと立ち上がった唯真に、張円は今までに見たこともないような柔らかな笑みを向けた。皮肉屋の張円らしくない。

 唯真が驚いていると、張円はその足元にひざまずいた。


「御懐妊、おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます」

「かいにん……」


 信じられない思いだった。この身に、皇帝の御子が宿っていると。

 実感はわかない。けれど、じわじわと湧き上がるのは、紛れもない幸福感だった。

 きっと、喜んでくれると信じた。



          ※※※



 そうして、唯真は祥宗の腕の中でそっとささやいた。祥宗は一瞬表情をなくし、それから張円と同じように温かな笑顔を唯真に向けた。


「朕と唯真の子か。それは何にも換えがたい宝だ」


 腕の力をそっと緩め、唯真の腹部に手を当てる。そして、つぶやいた。


「守らねばな。なんとしても」


 唯真にもその覚悟が伝わる。けれど、その覚悟は唯真が思う以上に強いものだった。


珠徳じゅとく、これへ参れ」


 その名は祥宗が張円に付けた名だった。二人の時にのみ、その名で呼ばれた。それが親愛の証なのだと、張円は理解している。張円は礼を取ると入室した。


「お呼びでございますか」


 祥宗はおもむろにうなずく。


「お前に頼みがある」


 命令ではなく頼みごとである。けれど、張円に断るという選択はない。


「なんなりと」

「では、唯真を速やかに後宮の外へ。そして、朕に代わり唯真と子を守ってくれ」


 唯真はその言葉の意味がわからなかった。祥宗は改めて唯真に向き直る。


「朕には男児がおらぬ。故に、我が子を孕んだ唯真に危害を加えようとする者が現れるやも知れぬ。……もし無事に産まれたとしても、自由もなく常に命の危険にさらされながら権力闘争の道具とされる。朕がそうであったように――」


 底知れない闇がこの若き皇帝の中に渦巻いていた理由を、唯真はようやく知った。その闇を払うために出会ったのだと思えたのに、祥宗は唯真を突き放す。


「外へ出てしまったら、もう陛下に会えないのでは……」


 声が震えた。けれど、祥宗はうなずく。

 それから、ゆっくりと心地よい詩を詠うような声で言った。


「唯真、朕はこの狭い庭の中に根付いた草木なのだ。自らの力ではどこへも行けぬし、何もできぬ。だからこそ、この庭に舞い降りた、胡蝶のように自由なお前に惹かれた。外の世界に憧れながらも、決して飛び立つことのできない朕の一端を、唯真が外へと運んでくれる。こんなに嬉しいことはない」

「二度と会えなくなるというのにですか」

「そうだとしても、お前の存在を忘れることはない。唯真と我が子が健やかであれば、朕はそれだけで心安らかに居られる」


 ぼろぼろと涙を流す唯真をそっと抱きしめると、うつむいたままの張円に目を向けた。


「珠徳、お前に栄達の道を捨てさせる、朕の勝手を恨んでもよい。けれど、お前の他に託せる者はおらぬ。すまない……」


 張円はかぶりを振る。


「いいえ。栄達など望んだことはございません。親族が私を虚勢児として家畜のように先帝に謙譲した時、私の孤独を理解しようとして下さったのは大家だけです。大家のお心が安らぐのであれば、お望みのままに。ただ――」


 そこで言葉を切ると、祥宗の眼をまっすぐに見据えた。それは、最初で最後のことだった。主君と家臣という間柄で許される行為ではない。ただ、立場は違えど、つらい幼少期を送った二人がお互いを支えとし、そして今、別れを迎えたからこそ、張円は祥宗の姿を眼に焼き付ける。それを、祥宗は静かに受け止めた。


「おそばに居れぬことで大家の身にもしものことが起こらぬか、それだけが心配でなりません」

「わかった。十分に気を付けよう」


 それ以上、言葉はなかった。

 この夜、三人の決意は固まった。



          ※※※



 その数日後、高才人は急な病に倒れた。伝染性の病の恐れがあり、その亡骸は都の外へ埋葬されることになったという。

 けれど、そんなものは小事といえるほど、後宮を揺るがす異例の人事があった。内侍省の従四品、内侍監の張円が地方へ左遷されたのだ。宦官でありながら、紫袍しほうに手が届くともされた張円が、何故急に失寵してしまったのか、誰にもわからない。


 色々な憶測が飛び交い、皇帝の幸姫、高才人の死に過失があったという説が有力だった。とにかく、その転落を喜ぶ者は多かったのだが。


 その後、張円は送られた僻地で妻帯し、男児を養子に迎えたという。その男児は不思議と張円に面差しが似ていたそうな。


 それから、三年ののち、祥宗皇帝の御世は終わりを告げた。壮健であった歳若い皇帝の崩御は毒殺を疑わせた。けれど、確たる証拠はなく収束する。立太子はないまま公主が一人。男児に恵まれなかった祥宗の弟宮が即位する。未だ齢六つだというが、穏やかな性質の祥宗も傀儡同然であったから、市政に特別な変化はなかったと言える。


 祥宗皇帝の御世を懐かしむ者もなく、その名は埋没する。


 けれど、皇帝崩御の凶報が僻地へ伝わった時、緑豊かな花咲く野で、幼子と戯れる胡蝶を目にし、美しい母親とその夫は涙を流した。


                      【了】



 作中で、皇帝を「大家(ご主人様、旦那様の意)」と呼んでいますが、これは唐代の中宗皇帝以降、内々では親しみを込めて皇帝をそう呼ぶようになったそうなので、使ってみました。

 玄宗皇帝と高力士のイメージです。それにしては皇帝が弱いですが……。


 後宮が舞台ですが、恋物語だと思って書きませんでした。

 三人の男女の、運命を共有する話だと思っています。

 だから、バッドエンドのつもりではないのですが、受け取り方はそれぞれですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 また読みに来ます( 〃▽〃)
[良い点] 遅ればせながら、胡蝶の庭 拝読させていただきました。 中国的宮廷の華やかさの中で繰り広げられる切ないストーリーですね。 確かに、これは恋物語ではなく、時代や位、立場に翻弄された三人の男女…
[一言]  >>ほんの少しは血の通った笑みを見せた  なんてシン好みな……。  いえいえ、前半のその台詞だけでなく、何から何まで。  伏魔殿たる後宮にも、こんな純真な想いがあるのだと、自然にそう信…
感想一覧
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