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春風侯爵令嬢の領地日誌  ~ひだまり村のパンと蜂蜜~

作者: シオン
掲載日:2026/09/12


第一章 侯爵令嬢、辺境へ行く


 王都では、侯爵令嬢は社交界の花であるべきだとされている。


 美しいドレスをまとい、流行の髪飾りをつけ、優雅に踊り、家格にふさわしい相手との縁談を待つ。少なくとも、王立学院を卒業したばかりの令嬢に期待されるのは、そのような暮らしだった。


「ですから、お父様。わたくし、領地へ参ります」


 侯爵家の朝食室で、エステル・フォン・クラウゼンは静かに宣言した。


 銀の食器が並ぶ長い食卓の向こうで、父のクラウゼン侯爵が紅茶を吹きかけた。


「ごほっ。ど、どこの領地だ」


「北東部のラウム領です」


「なぜ、よりにもよってラウムなのだ!」


 ラウム領。


 クラウゼン侯爵家が所有する七つの領地のうち、最も小さく、最も遠く、最も収益の少ない土地である。


 人口は二千人あまり。主な産業は小麦と羊毛だが、近年は収穫量が落ち、街道も傷み、若者は仕事を求めて外へ出ていく。立派な領主館はあるものの、十年以上まともに使われていない。


「卒業論文で、ラウム領の収支を調べました」


 エステルは一冊の帳面を食卓に置いた。


「昨年度の税収は二千八百リール。そこから管理費と街道維持費を差し引きますと、侯爵家に納められたのは三百六十リールです」


「それだけ残れば赤字ではないだろう」


「街道維持費として計上された七百リールのうち、実際に使われたのは二百リール以下です」


 父の手が止まった。


「……どういうことだ」


「現地の代官が、五百リールを着服しております」


 朝食室に沈黙が落ちた。


 母である侯爵夫人は紅茶を一口飲み、困ったように眉を下げた。弟のアランは、手にしていたパンを皿へ戻した。


「お姉様、それは本当なのですか」


「領内で購入されたはずの石材の量と、採石場の出荷記録が一致しません。人夫の日当も、存在しない者の名前で支払われています」


 エステルは帳面を開き、該当箇所を父に見せた。


 侯爵はしばらく数字を追っていたが、やがて大きく息を吐いた。


「代官は交代させる。しかし、お前が行く必要はない」


「新しい代官を送り込むだけでは、再び同じことが起きるかもしれません。少なくとも一年、わたくしが現地を見ます」


「未婚の娘を辺境へ送ったとあれば、妙な噂が立つぞ」


「社交界で扇の色を褒め合うより、畑の土の色を見分けられるようになりたいのです」


 エステルが微笑むと、父は頭を抱えた。


 彼女の灰青色の瞳は穏やかだったが、一度決めたことを曲げない性格は家族全員が知っていた。


 母がそっと口を開いた。


「あなた、行かせてあげてはいかがですか」


「セシリアまで何を言う」


「この子は幼いころから、お人形の服より使用人の当番表を作るほうが好きでしたでしょう。温室の水道を直したのも、厨房の薪代を減らしたのも、この子です」


「それと領地経営は別物だ」


「では、一年間だけ」


 母は娘を見た。


「一年後に、ラウム領の収益を二倍にできなければ王都へ戻る。そういう約束ではどうかしら」


「二倍ですか」


 エステルは考えた。


 不正を除けば、実際の収益はさほど低くない。街道を直し、農産物に付加価値をつければ、十分に届く可能性はある。


「承知しました」


「エステル!」


「ただし、利益を上げるために領民の税を増やすことはいたしません」


 父は何度もため息をついた末、とうとう認めた。


「護衛を十人つける。侍女も連れていけ。毎月、必ず報告書を送ること」


「ありがとうございます、お父様」


「礼を言うのは一年後にしなさい」


 こうして春の初め、十八歳の侯爵令嬢エステルは辺境のラウム領へ向けて王都を出発した。


 彼女が持っていったのは、豪華な宝石でも、舞踏会用のドレスでもない。


 丈夫な旅行着。


 三十冊の本。


 書類箱。


 温室から分けてもらった薬草の種。


 そして、侯爵家の料理長に頼んで用意した、瓶いっぱいの酵母だった。


     ◇


 王都から馬車で七日。


 ラウム領の入口に着いたとき、エステルが最初に見たものは、ぬかるみにはまった荷馬車だった。


「押せ! もう一度だ!」


 五人の男が車輪を押していたが、荷台に積まれた麦袋は重く、びくともしない。馬は疲れ切って、鼻から白い息を吐いていた。


「止めてください」


 エステルは自分の馬車を降りた。


 護衛隊長のロルフが慌てて後を追う。


「お嬢様、靴が汚れます」


「そのための長靴です」


 エステルは荷馬車の周囲を見回した。


 街道とは名ばかりで、道の中央には深い轍が走り、春の雪解け水がたまっている。商人たちの顔には疲労と諦めが浮かんでいた。


「荷を半分、こちらの馬車に移しましょう」


「しかし、お嬢様」


「空いている荷車が一台あります。村まで運べばよいだけです」


 護衛たちは顔を見合わせたが、すぐに動いた。


 麦袋を積み替え、荷馬車を軽くする。さらに轍へ小石と枯れ枝を詰め、全員で押した。


 泥水が跳ね、エステルの紺色の裾に茶色い染みが広がった。


 やがて車輪が大きな音を立て、ぬかるみから抜ける。


「出たぞ!」


 商人たちから歓声が上がった。


 荷馬車の持ち主らしい白髭の男が、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます。どちらのご令嬢か存じませんが、おかげで助かりました」


「エステル・フォン・クラウゼンと申します」


「クラウゼン……」


 男の顔が固まった。


「まさか、新しい領主様ですか」


「正式には領主代理です。今日からラウム領でお世話になります」


 男はエステルの泥だらけの裾と、街道とを交互に見た。


「侯爵令嬢が、荷車を押した……」


「押さなければ動きませんでしたから」


 エステルは当然のように答えた。


 その日の夕方にはすでに、ラウム領の新しい領主代理は、到着する前から泥まみれになって荷車を押したらしい、という噂が村中へ広がっていた。


第二章 空っぽの領主館


 領主館は丘の上に建っていた。


 石造りの三階建てで、遠くから見ればなかなか壮麗である。しかし門をくぐると、庭は雑草に覆われ、噴水は枯れ、窓の鎧戸が二枚ほど外れていた。


 玄関前では、老執事が深々と頭を下げた。


「お待ちしておりました、エステルお嬢様。わたくしは家令のバルトでございます」


「よろしくお願いいたします、バルト」


「こちらがメイド長のマルタ。料理人のネーレ。庭師のエノクです」


 紹介された使用人は、それだけだった。


 かつて三十人が働いていた館を、四人で維持しているらしい。


「ほかの方々は?」


「代官様が経費削減のために解雇なさいました」


「その代官はどちらに」


「今朝、町を出たとのことでございます」


 エステルは微笑んだ。


「逃げましたね」


「おそらくは」


 護衛隊長のロルフがすぐに追手を出した。


 エステルは旅装も解かず、館の執務室へ向かった。そこには数年分の帳簿が積まれていたが、重要な書類の一部が抜き取られている。


「逃亡を予想して、王都を発つ前に主要街道の関所へ手配書を送っておきました」


「さようでございましたか」


 老執事は目を丸くした。


「ですが、お嬢様。着いたばかりで申し上げにくいのですが、館には問題がございます」


「雨漏りですか」


「それもございます」


「暖炉の煙突」


「二本が詰まっております」


「井戸水」


「濁りが出ております」


「食料庫」


「ほぼ空でございます」


 エステルは少し考えた。


「それでは今夜は、使える暖炉の前に全員集まって食事をしましょう」


「お嬢様と使用人が、同じ場所で、でございますか」


「暖炉が一つしか使えないのでしょう?」


「はい」


「ならば、仕方ありません」


 その日の夕食は、厨房脇の小さな食堂で取ることになった。


 大鍋で煮た豆と塩漬け肉のスープ。黒パン。林檎を薄く切って干したもの。


 長い旅を終えた護衛たちも、館の使用人も、同じ鍋からよそって食べた。


「お口に合いますでしょうか」


 料理人のネーレがおそるおそる尋ねる。


「とてもおいしいです。豆が柔らかくて、肉の塩気もちょうどよいですね」


「豆しかございませんので」


「豆があるではありませんか」


 エステルは黒パンをスープに浸した。


 固いパンが汁を吸って柔らかくなり、素朴だが身体の芯から温まる。


「明日の朝、この地方の市場を見たいと思います」


「市場と申しましても、広場に農家が十軒ほど集まるだけでございます」


「だからこそ見たいのです。どんなものが作られ、どんなものが足りないのか、帳簿だけでは分かりませんから」


 翌朝、エステルは簡素な灰色の服に着替えた。


 侍女のリタが用意した帽子をかぶり、護衛二人だけを連れて町へ下りる。


 市場には、蕪、玉葱、豆、卵、固いチーズが並んでいた。品数は少なかったが、どれも王都で見るものより形が不ぞろいで、香りが濃い。


「この卵を十個ください」


 エステルが銅貨を出すと、売り手の老婆は慌てた。


「領主様からお代はいただけません」


「わたくしが食べる卵を、領民に献上させるつもりはありません」


「けれども」


「毎週十個買います。少し安くしてくださるなら嬉しいです」


 老婆はしばらく迷った末、卵を一つ余分に籠へ入れた。


「では、これをおまけします」


「ありがとうございます」


 隣の店には蜂蜜が置かれていた。


 小さな壺一つで銀貨二枚。王都より高い。


「こちらで採れた蜂蜜ですか」


 店番の若い男が首を振った。


「南の領地から持ってきたものです。この辺りじゃ蜂を飼っていないので」


「花は多いようですが」


「花なんて、腹の足しになりませんから」


 市場の裏手にある斜面には、白や黄色の小花が一面に咲いていた。果樹園にも林檎と梨の花がある。


 けれど蜂蜜は遠方から買っている。


 その一方で、小麦は収穫したそばから安く売られ、領外へ運ばれている。


 エステルは帳面へ書き込んだ。


 一、小麦を粉ではなく加工品にする。


 二、養蜂を試す。


 三、街道の修繕。


 四、水はけの改善。


 五、食料庫を満たす。


「最後だけ、お嬢様個人の希望ですね」


 侍女のリタが帳面をのぞき込んだ。


「空腹では、よい案も浮かびません」


「それは確かでございます」


 二人は顔を見合わせて笑った。


第三章 領主様の相談日


 三日後、逃亡した代官が関所で捕まった。


 男の屋敷からは銀貨と宝飾品のほか、偽造された領民名簿が見つかった。不正に徴収した税の一部も残されていた。


 エステルはそれを没収すると、半分を街道修繕費へ、残り半分を各村へ返還すると決めた。


 すると家令のバルトが困った顔をした。


「返還するとなりますと、どの家からいくら多く徴収されたのか調べねばなりません」


「調べましょう」


「村々を回り、一軒ずつ証言を取ることになります。ひと月では終わらないかもしれません」


「では、ひと月かけましょう」


「それほど手間をかけて返す領主は、聞いたことがございません」


「取るときには一軒ずつ取ったのでしょう。返すときだけ面倒だとは言えません」


 この言葉を聞いた若い書記のセインは、翌朝から嬉々として村へ出かけていった。


 彼は代官の下で働かされていたが、不正を知りつつ止められなかったことを悔いていた。帳簿の写しを密かに残し、侯爵家へ匿名の手紙を送ったのも彼だった。


「あなたのおかげで不正が分かりました」


 エステルがそう言うと、セインは首を横に振った。


「もっと早く告発すべきでした」


「職を失えば家族が困る。脅されていたとも聞きました」


「それでもです」


「ならば、これから正しく働いてください。過去の後悔は、今後の仕事で返すものです」


 セインは頭を下げ、それ以来、誰よりも熱心に働いた。


 エステルは毎週水曜日の午後を「相談日」と定めた。


 身分にかかわらず、領民が領主館を訪れ、直接話のできる日である。


 最初の水曜日、訪れたのは三人だけだった。


 一人目は、隣家の鶏が畑へ入ってくると訴える老婆。


 二人目は、川へ落ちた橋板を直してほしいという粉屋。


 三人目は、領主館で下働きをさせてほしいという十二歳の少女だった。


「名前は?」


「ミナです」


「学校へは行っていますか」


「冬だけ。春から秋は羊の番をします」


「館で働きたい理由は?」


「弟に薬を買いたいんです」


 ミナの弟は七歳で、冬から咳が続いているという。


 エステルはすぐに館の医師を向かわせた。幸い肺の病ではなく、栄養不足と風邪が重なっていた。


 少女を正式に雇うことはせず、週に二度、薬草園を手伝ってもらうことにした。報酬は銅貨と、家族四人分のパンである。


「どうして毎日じゃないんですか」


「毎日働けば、勉強する時間がなくなります」


「勉強しても、お腹はいっぱいになりません」


「勉強すれば、パンを作るだけでなく、売ることも、店を持つこともできます」


「わたしがお店を?」


「あなたが望み、努力すれば」


 ミナは半信半疑の顔をしながら、パンを抱えて帰っていった。


 二度目の相談日には、十五人が来た。


 三度目には三十人。


 四度目には、玄関前に列ができた。


 羊の放牧地の境界。


 共同井戸の順番。


 嫁入り道具を作るための糸車。


 屋根を修理する木材。


 酔って喧嘩をする夫。


 野菜を盗む山羊。


 相談の半分は領主が扱うまでもない小さな問題だったが、その小さな問題こそが領民の日常を困らせていた。


 エステルは村長たちと話し合い、村ごとに五人の評議役を置いた。井戸や家畜の争いは、まず村の評議会で解決する。橋や街道、税、犯罪に関する問題は領主館へ報告する。


 領主館で何もかも決めるのではない。


 村で決められることは、村で決めてもらう。


 代わりに、決定の内容を記録し、誰にでも見える場所へ掲示する。


「字が読めない者はどうしますか」


 セインに聞かれ、エステルは答えた。


「日曜日に教会前で読み上げましょう。それから、冬の学校を大人にも開きます」


「大人が子どもと机を並べるのですか」


「恥ずかしいという方は、夜に別の教室を設けます」


「教師が足りません」


「わたくしも教えます」


「領主様が?」


「数字と読み書きなら教えられます」


 その話が広まると、夜の教室には予想以上の人が集まった。


 最初の授業に来たのは、農夫、羊飼い、パン職人、行商人、兵士、それに市場で卵を売っていた老婆である。


「孫から手紙をもらったんですがね」


 老婆は照れくさそうに言った。


「人に読んでもらうんじゃなくて、自分で読みたいんです」


「では、そのお手紙を教科書にしましょう」


 エステルは老婆の隣へ座った。


 一文字ずつ、指でなぞる。


 初めて自分で「おばあちゃんへ」と読めたとき、老婆は何度も瞬きをした。


「字っていうのは、不思議なもんですね。遠くにいる子の声が聞こえる」


「ええ。時間がたっても、消えない声です」


 その夜、エステルは自室で父に報告書を書いた。


 街道修繕は北区間から開始。


 不当に徴収された税の返還作業は三割完了。


 夜間学校の生徒は二十六名。


 養蜂候補地を三か所選定。


 支出は当初予算より銀貨十二枚超過。


 最後に、少し迷ってから付け加えた。


 領民は怠けているのではありません。


 努力が報われると信じられず、疲れていただけなのだと思います。


第四章 パン工房の朝


 ラウム領の小麦は、質が悪いわけではなかった。


 寒暖差のある土地で育つため、粒は小さいが香りが強い。しかし農家は収穫した小麦をそのまま商人へ売り、商人は領外の都市で粉にして高く売っていた。


「こちらで粉にして、パンにすればよいのです」


 エステルの提案に、粉屋のゲオルグは腕を組んだ。


「言うのは簡単ですが、町の連中が食う分だけなら今の水車で間に合います。外へ売るほど粉を挽くとなれば、石臼を増やさなきゃならん」


「増やす費用は領主館から貸し付けます」


「借金は嫌ですな」


「返済は三年後から。利子は収益の一割です。水害や不作の年は免除します」


「ずいぶん都合がいい」


「代わりに、粉の価格を勝手に上げてはなりません。村の農家には市価より一割安く売ってください」


「領主様は何を得るんです?」


「税収と、おいしいパンです」


 ゲオルグはぽかんとした後、腹を抱えて笑った。


「分かりました。おいしいパンのためなら、石臼を増やしましょう」


 次に必要なのは、大きなパン工房だった。


 町には三軒のパン屋があったが、いずれも家族経営で、大量のパンは焼けない。エステルは使われていない領主館の倉庫を改装し、共同の窯を作ることにした。


 職人たちは煉瓦を積み、煙の流れを確かめ、大きな半円形の窯を完成させた。


 最初の火入れの日、町中から人が集まった。


 エステルは王都から運んできた酵母を、地元の小麦粉と混ぜた。ぬるま湯、塩、少量の蜂蜜。何度もこね、布をかぶせて待つ。


「本当に膨らむんですか」


 ミナが鉢をのぞき込む。


「酵母が元気なら」


「生きてるんですよね、これ」


「ええ。小さすぎて見えませんけれど」


「見えないのに、どうしているって分かるんです?」


「パンが膨らむからです」


 しばらくすると、生地は丸く膨らんだ。


 ミナが歓声を上げる。


「太った!」


「元気な証拠です」


 成形した生地を窯へ入れる。


 やがて香ばしい匂いが漂い始めると、見物人たちの表情が変わった。子どもたちは窯の前から動かず、大人たちも用事を忘れたように鼻を動かしている。


 焼き上がったパンは、外側がきつね色で、中は白く柔らかかった。


 エステルが最初の一個を切り分け、集まった人々へ配る。


「柔らかい!」


「うちの黒パンと全然違うぞ」


「麦の匂いがする」


 料理人のネーレは一口食べて、厳しい顔をした。


「塩が少し足りません」


「そうですか?」


「外へ売る商品にするなら、もう少し味を強くしたほうがよろしいかと」


「蜂蜜を増やしてみましょうか」


「値が上がります。干した林檎を煮て混ぜるのはいかがでしょう」


「林檎なら、形の悪いものが余っています」


 そこから試作が始まった。


 干し林檎パン。


 チーズパン。


 炒った胡桃を混ぜたパン。


 玉葱と香草をのせた平焼きパン。


 失敗も多かった。生地が膨らまなかったり、窯の火が強すぎて焦げたり、欲張って具を入れすぎ、持った瞬間に崩れたりした。


 エステルが作った最初の林檎パンは、見た目こそ立派だったが、中心が生焼けだった。


「少しくらいなら食べられませんか」


「お腹を壊します」


 ネーレは容赦なく取り上げた。


 ミナは隣で笑いをこらえている。


「領主様でも、失敗するんですね」


「もちろんです」


「何でもできるのかと思ってました」


「何でもできる人などいません。できないことを知っている人が、できる人を集めるのです」


 パン作りはネーレ。


 窯の管理は町のパン職人。


 会計はセイン。


 材料の仕入れは商家の娘であるカーラ。


 エステルの役割は、それぞれの間をつなぎ、仕組みを整えることだった。


 共同工房で働く者には固定の日当を支払い、売上の一部を月末に分配する。小麦は領内の農家から一定価格で買い取り、不作時にも極端に値下がりしないよう保証する。


「売れなければ、領主館が損をしますよ」


 セインは心配した。


「ええ。だから売り先を見つけましょう」


 エステルは街道修繕に来ていた人夫たちへ、試作品のパンを昼食として配った。


 さらに近隣領の宿屋へ無料で届け、客の評判を聞いた。


 干し林檎パンは日持ちがよく、旅人から好評だった。チーズパンは農作業をする者に人気があり、平焼きパンは温め直すとおいしいため、宿屋の主人がまとめて注文してくれた。


 初めて外へ売る日、荷車には三百個のパンが積まれた。


 カーラが御者台に座り、ミナが荷台で商品の数を確認する。


「三百一個あります」


「一個多いですね」


「領主様の朝ご飯です」


 ミナが布包みを差し出した。


 少し形の曲がった林檎パンだった。


「売り物にならないので、わたしがもらったんです。でも、半分あげます」


「ありがとうございます」


 二人は館の階段へ並んで座り、まだ温かいパンを分けた。


 表面は少し固く、中には甘酸っぱい林檎が入っている。


「おいしいですね」


「昨日のよりおいしいです」


「昨日のものは、わたくしが成形しましたからね」


「じゃあ、今日は売れます」


 遠ざかる荷車を見送りながら、エステルは笑った。


 その日の夕方、カーラは空になった荷車で帰ってきた。


 三百個のパンは、すべて売れていた。


第五章 蜂の王国


 初夏になると、ラウム領の丘は花で覆われた。


 野苺、クローバー、白詰草。果樹園には林檎と梨の花が咲き、森の縁には紫色の香草が群れている。


 エステルは王都から養蜂家を招いた。


 やってきたのは、イザークという無口な青年だった。日に焼けた顔に眼鏡をかけ、馬車から木箱を六つ降ろした。


「その中に蜂がいるのですか」


「はい」


「何匹ほど?」


「一箱、一万から二万ほどです」


 後ろで見ていたミナが、さっとエステルの背中へ隠れた。


「一万?」


「時期によります」


「六箱だから、六万?」


「多ければ十二万です」


 ミナは館へ帰ろうとした。


 エステルが襟をつかむ。


「薬草園を手伝うのでしょう」


「お花の世話だって聞きました。蜂の世話とは聞いてません」


「花も蜂も、同じ畑で暮らす仲間です」


「領主様は刺されたことがないから、そんなことを言うんです」


 その日の午後、エステルは刺された。


「痛いです」


「動くからです」


 イザークは平然と針を抜き、冷やした布を差し出した。


「蜂の前で腕を振り回してはいけません」


「追い払おうとしたのですが」


「蜂から見れば、巨大な生き物に攻撃されたことになります」


 ミナは安全な距離から言った。


「領主様でも、刺されるんですね」


「ええ。蜂は身分を気にしません」


 最初は怖がっていたミナだったが、次第に巣箱へ近づけるようになった。


 蜂は理由もなく人を襲うわけではない。花を探し、蜜を集め、巣へ戻る。女王蜂を中心に、それぞれの役割を果たしている。


「領地みたいですね」


 ミナが言った。


「女王蜂が領主様で、働き蜂がわたしたち」


「それでは、わたくしは卵を産むだけになってしまいます」


「違うんですか?」


「違います」


 そばで作業していたイザークが、珍しく声を立てて笑った。


 養蜂は、すぐに利益が出る仕事ではない。


 蜂が土地になじみ、十分な蜜を蓄えるまで待たなくてはならない。病気や害虫にも気を配り、冬を越すための蜜を残してやる必要がある。


 エステルは計画を急がず、最初の年は六箱だけにした。


 農家には、作物に害のない野花を畑の周囲へ残してもらった。果樹園の主人たちには、花の時期に強い薬を使わないよう頼んだ。


「雑草を抜かないで、収穫が減ったらどうする」


 反対する農夫もいた。


「試験区画を決めましょう。花を残す畑と、従来どおりの畑。収穫量を比べます」


 秋になり、思いがけない結果が出た。


 蜂が多く訪れた果樹園では、林檎の実が例年よりよくついたのである。形のよい実も増えた。


「蜂蜜だけが利益ではないのだな」


 果樹園主は赤い林檎を磨きながら感心した。


「蜂が花粉を運んでくれますから」


「こんな小さい虫が、大した働き者だ」


 初めて採れた蜂蜜は、琥珀色に輝いていた。


 全部で大壺八つ。


 イザークが巣枠から蜜を取り出す間、エステルたちは息を詰めて見守った。


 匙へ一滴たらし、味を見る。


 最初に野花の香りが広がり、後から林檎に似た甘みが追いかけてきた。


「おいしい……」


「この土地の味です」


 イザークの言葉に、皆が黙った。


 パンも小麦も林檎も、以前からラウム領にあった。花も蜂も、目を向けられなかっただけで、ずっとそこにあった。


 何か特別なものを外から持ってこなければ、領地は豊かにならないと思われていた。


 けれど、本当に必要だったのは、すでにあるものの価値を見つけることだったのかもしれない。


 蜂蜜の半分は冬越し用として巣箱へ残した。


 残りは小瓶に詰め、領主館の印を押した紙を巻く。


 商品名は「ラウムの花蜜」。


 王都の侯爵家へ送ると、母からすぐに返事が届いた。


 蜂蜜はたいへんおいしく、茶会で出したところ、どこで買えるのかと尋ねられました。


 ついては百瓶ほど送ってください。


 エステルは手紙を読み終え、イザークを見た。


「大壺四つで、何瓶になりますか」


「小瓶なら八十ほどです」


「足りませんね」


「足りません」


「お母様には、今年は三十瓶だけと返事をします」


「侯爵夫人でもですか」


「蜂の分を奪ってまで売ることはできません」


 イザークは少し目を見開いた後、静かにうなずいた。


「よい領主です」


「まだ早いですよ」


「蜂にとっては」


 その褒め方が妙に嬉しく、エステルは蜂蜜の瓶を一本、自室の棚へ大切にしまった。


第六章 雨の日の決断


 順調に見えたラウム領を、夏の終わりに長雨が襲った。


 三日三晩、雨は止まなかった。


 修繕が終わっていない南街道は川のようになり、低地の麦畑が水につかった。川の水位は上がり、古い木橋が激しく揺れた。


「橋を封鎖してください」


 エステルは領主館の執務室で命じた。


「向こう岸の村が孤立します」


 ロルフが地図を指す。


「渡って橋が落ちれば、人が死にます。食料は上流の石橋を回って運びましょう」


「半日の遠回りです」


「構いません」


 館の食料庫を開き、干し肉と豆、小麦粉を各村へ配った。共同パン工房は夜通し窯を動かし、保存のきく固焼きパンを作る。


 雨の四日目。


 南の斜面が崩れ、一軒の農家が土砂に埋まったとの知らせが入った。


 家族は避難して無事だったが、納屋には家畜が残されている。


「わたくしも行きます」


「なりません」


 ロルフが即座に反対した。


「現場は危険です」


「だからこそ領主館から指示を出す者が必要です」


「それは私が行います」


「ロルフは救助隊を指揮してください。わたくしは村の教会に拠点を置き、避難者と物資の管理をします」


 侍女のリタが雨具を差し出した。


「止めても無駄でございましょうから、せめてこちらを」


「ありがとう」


「夕食までにはお戻りくださいませ」


「努力します」


「必ず、とおっしゃってください」


「必ず戻ります」


 教会には二十世帯ほどが避難していた。


 濡れた服の子ども。


 震える老人。


 家畜を心配して外へ出ようとする農夫。


 エステルは暖炉へ火を入れ、パンと温かいスープを配らせた。誰がどこから避難したのか、家族全員がそろっているか、家畜を何頭残してきたかを記録する。


 ミナも母親と弟とともに避難していた。


「領主様、薬草畑が水につかっています」


「残念ですが、今は人が先です」


「蜂は?」


「巣箱は高いところへ移しました。イザークが見ています」


「パン工房は?」


「丘の上なので大丈夫です」


 ミナは少し安心したが、すぐに顔を曇らせた。


「うちの羊が二頭、足りません」


「どこで放していましたか」


「西の柵です。戻ろうとしたら、お母さんに止められて」


「止めて正解です」


「でも」


「羊のために、あなたが流されたらいけません」


「羊だって家族です」


「分かっています」


 エステルはしゃがみ、少女と目線を合わせた。


「雨が弱くなったら、護衛が探します。あなたは羊の特徴を教えてください」


「一頭は耳の先が黒くて、もう一頭は鼻に白い星があります」


「名前は?」


「ポポとメルです」


 エステルは名簿に、行方不明、羊二頭、ポポ、メルと記した。


 夕方、土砂に埋まった納屋から牛三頭と馬一頭が救出された。


 夜には雨が弱まった。


 翌朝、捜索へ出た護衛が二頭の羊を連れて戻ってきた。泥だらけだったが、怪我はない。


 ミナは羊の首へ抱きつき、泣きながら何度も名前を呼んだ。


 雨が完全に止んだのは、五日目の朝だった。


 被害は大きかった。


 麦畑十二枚が浸水。


 家屋三軒が半壊。


 南街道の一部が崩落。


 木橋は中央の板が流され、通行不能。


 幸い、死者は一人も出なかった。


「緊急支出を合わせると、今年の利益の大半が消えます」


 セインは青ざめていた。


「それどころか、予定していた税収を得られません」


「浸水した農家の税は免除します」


「さらに減ります」


「種麦も無償で配ってください」


「お嬢様」


「領民が来年の種を食べてしまえば、再来年の収穫もなくなります」


「それは分かります。しかし、侯爵様とのお約束はどうなさるのです」


 一年で利益を二倍にする。


 水害の復旧費を使えば、その達成は難しくなる。


 エステルは窓の外を見た。


 雨上がりの庭で、使用人と避難してきた者たちが泥をかき出している。パン工房からは煙が上がり、焼きたてのパンが各村へ運ばれていく。


「約束を守るために領民を見捨てれば、何のための領地経営か分かりません」


「では」


「父には正直に報告します。利益は諦めます」


 エステルの決定に、反対する者はいなかった。


 その日の午後から、復旧作業が始まった。


 領主館は修繕に参加する者へ日当と食事を出した。農家、職人、商人、護衛が一緒になって泥を運び、石を積み、溝を掘った。


 ゲオルグの水車は半分壊れていたが、町の大工たちが無償で直した。


 パン工房の屋根を作った職人は、自分の家より先に浸水した隣家を修繕した。


 卵売りの老婆は、避難中の子どもたちへ毎朝ゆで卵を届けた。


 返す余裕がある者が、困っている者へ少しずつ返す。


 春から積み重ねた小さなつながりが、領地を支えていた。


 エステルは泥まみれになって働き、夜になると数字を計算した。


 予算は足りない。


 木橋を元どおり架け直すだけでは、次の大雨でまた流される。石橋にすれば安全だが、その費用は木橋の四倍である。


「王都から借りるしかありません」


 エステルは父へ借款を求める手紙を書こうとした。


 そのとき、カーラが帳面を抱えて飛び込んできた。


「領主様。橋の費用、借りなくてもよいかもしれません」


「どういうことですか」


「商人組合が半分を出します」


「商人組合が?」


「新しい北街道が使いやすくなって、荷車の修理費と宿泊日数が減りました。石橋ができれば南の町への道も安定します。だから将来の通行料を十年間割り引く代わりに、建設費を共同で負担したいと」


「残り半分は?」


「粉屋組合、パン工房、果樹園主、それに羊毛商が出資します」


「領内の事業者だけで?」


「足りない分は、町の人から小口の出資を募ります。一口銀貨五枚。橋の通行料から毎年少しずつ配当を出します」


 エステルは驚いて帳面を受け取った。


 出資予定者の一覧には、商人や職人だけでなく、農夫や料理人の名前もある。卵売りの老婆は一口。家令のバルトは三口。料理人のネーレは二口。


 侍女のリタまで一口を申し込んでいた。


「聞いていませんでした」


「ご相談すれば、お嬢様は止めると思いましたので」


 リタは平然と答えた。


「危険な投資ですよ」


「お嬢様が橋を造るのでしょう?」


「わたくしだけでは造れません」


「だから、皆で造るのでございます」


 新しい橋は、領主のものではない。


 そこを利用する人々が金を出し、皆で造り、皆で守る橋になる。


 エステルは計画書を閉じた。


「進めてください。ただし、出資の危険性を全員へ説明すること。生活費まで差し出そうとする者からは受け取らないこと。会計は毎月公開すること」


「承知しました」


 石橋の建設が決まった日、町の酒場は夜遅くまで賑わった。


 誰かが新しい橋の名前は何にするのかと聞いた。


「エステル橋でよいだろう」


「いや、侯爵令嬢橋だ」


「長すぎる」


「花蜜橋はどうだ」


 さまざまな案が出た末、ミナが言った。


「おかえり橋がいい」


「なぜです?」


 エステルが尋ねる。


「橋があれば、向こう側へ行った人が帰ってこられるから」


 皆は少し黙った後、それがよいとうなずいた。


 こうして新しい石橋には、「おかえり橋」という名前がついた。


第七章 冬支度


 秋の終わり、ラウム領には早い雪が降った。


 畑には刈り取られた麦の切り株が並び、丘は白い薄布をかぶった。新しい石橋はまだ建設途中だったが、頑丈な橋脚が川の中央に立っている。


 水害を受けなかった畑の収穫は豊作だった。


 蜂のおかげで果樹園の実りも多い。


 パン工房は忙しく、干し林檎パンに加えて、蜂蜜を薄く塗った祝い用の丸パンを売り始めた。


 問題は、冬である。


 ラウム領では冬になると農作業が減り、仕事を失う者が多かった。若者が領外へ出ていく最大の理由でもある。


「冬にできる仕事を作りましょう」


 エステルは評議会で提案した。


「除雪以外に何がありますか」


 村長の一人が尋ねる。


「羊毛があります」


 ラウム領の羊毛は、長い間、刈り取ったまま領外へ売られていた。


 エステルは使われていない館の一室へ、糸車と織り機を並べた。近隣都市から織物職人を招き、希望者へ技術を教えてもらう。


 最初に集まったのは、農家の女性たちと、怪我で畑仕事ができなくなった男たち、それに夜間学校の生徒だった。


「女の仕事だろう」


 片脚の悪い元猟師が不満そうに言う。


 職人は肩をすくめた。


「糸車は男が回しても動く。銀貨に男も女もない」


 元猟師は渋々座ったが、ひと月後には誰より細く均一な糸を紡げるようになった。


 染料には地元の植物を使った。


 玉葱の皮から黄土色。


 胡桃の殻から深い茶色。


 森の木の実から灰紫色。


 薬草園の余った葉から柔らかな緑色。


 派手ではないが、どれもラウムの風景になじむ温かい色だった。


 最初に作った商品は、幅広の肩掛けである。


 雪の日でも身体を包めるよう厚く織り、端に小さな花模様を入れた。


 王都の侯爵夫人へ送ると、今度は二百枚の注文が来た。


「お母様は、少々極端です」


 エステルは手紙を見てため息をつく。


「売れるのですから、よいことではありませんか」


 リタは嬉しそうだった。


「職人の数と納期を考えなければなりません。すぐに二百枚は無理です」


「何枚なら作れますか」


「春までに五十枚ほどです」


 エステルは母へ、品質を落とさず作れるのは五十枚のみと返事をした。


 すると侯爵夫人から、五十枚すべて買い取るという返事とともに、王都での販売価格に関する助言が届いた。


 エステルたちが考えていた価格の、三倍だった。


「こんなに高くて売れるのでしょうか」


 織り手たちは不安がった。


 母の手紙には、こう書かれていた。


 安く売れば、買う者は安い品だと思います。


 よい材料を使い、よい仕事をしているなら、その価値が伝わる値をつけなさい。


 ただし、作り手へ正当な賃金を払いなさい。


 エステルは工賃を計算し直した。


 一枚売れるごとに、材料費、販売費、領主館への設備返済費を差し引き、残りの半分を織り手へ分配する。


 初めての支払いの日、元猟師は受け取った銀貨を信じられないように眺めた。


「冬に、家へ金を持って帰れるとはな」


「あなたの腕で稼いだお金です」


「もう、いらない人間だと思っていた」


「必要のない人ではなく、合う仕事が見つからなかっただけです」


 男は返事をせず、何度もうなずいた。


     ◇


 領主館でも冬支度が進んでいた。


 窓の隙間へ布を詰め、薪を積み、食料庫へ根菜と豆を運び込む。燻製肉が天井から下がり、棚には林檎の砂糖煮と酢漬け野菜の瓶が並んだ。


「壮観ですね」


 エステルは満足して食料庫を見回した。


 到着した日の空っぽの棚が嘘のようである。


「こちらは領主館の冬越し分。こちらは災害時の予備。奥は孤児と高齢者へ配る分でございます」


 バルトが説明する。


「予備は定期的に入れ替えてください。古くして捨てることのないように」


「承知しております」


 ある雪の日、エステルは厨房で蜜入りのパンを焼いた。


 この冬、初めて領地に残った養蜂家イザークも招かれていた。彼は巣箱を藁で包み、雪や風から蜂を守っている。


「冬の間、蜂は何をしているのですか」


「巣の中央に集まります」


「眠るのではなく?」


「身体を震わせて熱を作り、女王蜂を守ります。外側が冷えると、内側の蜂と場所を交代します」


「誰か一匹だけが、暖かい場所を独占するわけではないのですね」


「そうすれば、外側の蜂が死にます」


「領地も同じかもしれません」


 イザークはエステルを見た。


「領主が中央で守られているからですか」


「わたくしは女王蜂ではありません」


「ミナはそう言っていました」


「ミナの話は忘れてください」


 焼き上がったパンへ蜂蜜を塗る。


 表面がつやつやと輝き、甘い匂いが部屋いっぱいに広がった。


 そこへミナが飛び込んできた。


「領主様、お客様です」


「どなたです?」


「侯爵様です」


 エステルは蜂蜜の刷毛を落としかけた。


第八章 父の訪問


 クラウゼン侯爵は、雪をかぶった外套姿で玄関に立っていた。


 護衛と馬車を連れているが、事前の知らせはなかった。


「お父様。どうしてこちらへ」


「娘の領地を見るためだ」


「代理です」


「同じようなものだろう」


 侯爵は館へ入ると、修繕された壁や新しい絨毯には目もくれず、真っ先に執務室へ向かった。


「帳簿を見せなさい」


 再会の挨拶より先に帳簿を求めるのは、いかにも父らしい。


 エステルは今年度の収支表を机へ広げた。


「現時点での税収は、昨年より二割増加しています。パン工房の利益、粉屋への貸付金利、蜂蜜と織物の販売契約を含めますと、来年はさらに増える見込みです」


「今年の侯爵家への納付額は?」


「予定より減ります」


「理由は」


「水害復旧費と、被災農家の減税です」


「約束の二倍には届かないな」


「はい」


 エステルは父の目をまっすぐ見た。


「約束どおり、王都へ戻る準備をいたします。ただ、事業の引き継ぎに春までお時間をいただけませんか」


 侯爵は返事をせず、帳簿を一枚ずつ確認した。


「この石橋建設費は何だ。領主館の負担が少なすぎる」


「住民と商人の共同出資です。将来の通行料から返済します」


「税の返還に、これほど人件費を使ったのか」


「正確に返すためです」


「学校の費用は?」


「領主館の事業収益から出しました」


「食料備蓄が多いな」


「次の水害や不作に備えています」


 侯爵は最後まで帳簿を読み、閉じた。


「町を案内しなさい」


 エステルは父を連れ、雪の町を歩いた。


 水車小屋では、新しい石臼が音を立てている。


 共同パン工房では、十人ほどが生地をこねていた。窯から次々とパンが出され、領外へ送る箱に詰められていく。


 織物工房では、色とりどりの糸が並び、機織りの音が響いていた。


 夜間学校では、卵売りの老婆が孫への返事を書いていた。


 建設途中のおかえり橋には雪が積もっていたが、橋脚は川の流れをしっかり受け止めている。


 父はほとんど何も言わなかった。


 夕食は、使用人も職人も同じ大食堂に集まり、長い卓を囲んだ。


 豆と肉の煮込み。


 林檎と人参のサラダ。


 焼いたチーズ。


 柔らかな白パン。


 蜂蜜を塗った丸パン。


「初日に食べたものと似ていますが、ずいぶん豪華になりました」


 エステルがバルトに言う。


「食料庫が満ちましたので」


 侯爵はパンを一口食べた。


「うまいな」


 厨房の入口で聞いていたネーレが、こっそり拳を握った。


 食事の後、父娘は執務室へ戻った。


「お前は、約束を覚えているか」


「一年で侯爵家が得る利益を二倍にできなければ、王都へ戻るという約束です」


「私は利益と言った。税収とは言っていない」


「同じではありませんか」


「違う」


 侯爵は窓の外を示した。


「人口が流出し、街道が壊れ、不正が放置された領地を持つことは、侯爵家にとって損失だ。反対に、収入が安定し、住民が働き、災害に備え、商人が集まる領地には価値がある」


「ですが、今年の納付額は」


「目先の銀貨だけを利益と呼ぶなら、畑の種麦も売り払えばよい。来年は何も実らないがな」


 エステルは黙って父を見た。


「ラウム領の土地評価額を、王都の財務官に計算させた。街道、工房、長期契約、来年度の収益見込みを含めれば、昨年の二・四倍だ」


「二・四倍……」


「約束は果たされた」


 父は一通の書状を差し出した。


 クラウゼン侯爵家当主の印が押された正式な任命状だった。


 エステル・フォン・クラウゼンを、ラウム領の領主代行に任命する。


 任期は定めない。


「ここに残ってよいのですか」


「お前が望むなら」


 エステルは任命状を持ったまま、しばらく動けなかった。


「お父様は、最初からこのつもりだったのですか」


「まさか。一年で泣いて帰ってくると思っていた」


「ひどいお話です」


「泥にまみれて荷車を押したと聞いたときも、ひと月で音を上げると思った」


「その噂まで届いていたのですね」


「お前の母が、報告を楽しみにしていてな。夜間学校の老婆が手紙を読めた話では、三日ほど皆へ自慢していた」


 エステルは額へ手を当てた。


「お母様らしいです」


「ただし、条件がある」


「何でしょう」


「年に一度は王都へ戻りなさい。お前の母が寂しがる」


「お父様は?」


「書類が正確なら、どちらでもよい」


「では、報告書を少し減らします」


「毎月送れ」


 二人は顔を見合わせた。


 先に笑ったのは父だった。


第九章 春祭り


 翌年の春、おかえり橋が完成した。


 淡い灰色の石で造られた橋は、荷馬車二台がすれ違えるほど広い。欄干には、ラウムの花をかたどった小さな彫刻が刻まれている。


 開通の日は、春祭りとなった。


 橋の両側に屋台が並び、焼きたてのパン、羊肉の串焼き、林檎酒、蜂蜜菓子が売られた。織物工房は色鮮やかな肩掛けを飾り、子どもたちは花冠をかぶって走り回っている。


 橋の中央には一本のリボンが張られていた。


「領主様、お願いします」


 村長から鋏を渡されたエステルは、首を横に振った。


「この橋は、わたくし一人が造ったものではありません」


 彼女は出資者と職人たちを橋の中央へ呼んだ。


 商人。


 農夫。


 石工。


 粉屋。


 パン職人。


 機織り職人。


 卵売りの老婆。


 侍女のリタ。


 家令のバルト。


 そして、ミナ。


「皆で切りましょう」


「こんなに大勢で切ったら、鋏が足りません」


 ミナが笑う。


「では、代表を一人決めます」


 人々の視線がエステルに集まった。


「やはり領主様だ」


「領主様が切るべきだ」


「最初に荷車を押した人なんだから」


 またその話ですか、とエステルは苦笑した。


 結局、ミナと二人で鋏を持つことになった。


「せえの!」


 リボンが切れる。


 歓声が上がり、楽士たちが笛と太鼓を鳴らした。


 最初に橋を渡ったのは、二台の荷馬車だった。一台にはパン、もう一台には織物と蜂蜜が積まれている。


 橋の向こうからも、別の商人たちがやってきた。


 人と品物が行き交う。


 行った者が、また帰ってくる。


「よい名前ですね、おかえり橋」


 隣に立ったイザークが言った。


「ミナがつけたのです」


「知っています」


 冬を越した巣箱では、蜂たちが活動を始めていた。イザークは今年、養蜂を希望する農家へ技術を教える予定である。


「イザークは、今年もラウムに残るのですか」


「そのつもりです」


「王都からは戻るよう言われていたのでは?」


「断りました」


「なぜです?」


「蜂が、この土地を気に入っています」


「蜂が?」


「私もですが」


 エステルは返事に迷い、橋の下を流れる川へ目を向けた。


 春の日差しが水面で輝いている。


「それは、ありがたいことです」


「領主様は?」


「はい?」


「この土地を気に入っていますか」


 エステルは橋の上を見渡した。


 小麦の袋を運ぶ者。


 屋台でパンを選ぶ家族。


 肩掛けを自慢する織り手。


 孫からの手紙を自分で読めるようになった老婆。


 すっかり元気になった弟と走るミナ。


 一年前には知らなかった人々が、今ではそれぞれ名前と顔のある、大切な領民になっている。


「もちろんです」


 エステルは答えた。


「帰る場所だと思っています」


     ◇


 春祭りの終わりには、領主館の庭で長い食卓が用意された。


 領民は料理を一品ずつ持ち寄った。


 豆の煮込み。


 香草入りの腸詰め。


 山羊のチーズ。


 酢漬けの蕪。


 春野菜のスープ。


 林檎パン。


 蜂蜜菓子。


 食卓は皿を置く場所がなくなるほど満ちた。


「領主様、乾杯の挨拶を」


 村長に言われ、エステルは杯を持って立ち上がった。


 にぎやかだった庭が静かになる。


「わたくしがラウムへ来た日、街道にはまった荷馬車を見ました」


 あちこちから笑い声が上がる。


 すでに領民なら誰でも知っている話だ。


「道は泥だらけで、領主館の食料庫は空っぽでした。市場には品物が少なく、若い人々は外へ出ていくことばかり考えていました」


 エステルは一度、言葉を切った。


「けれど、ラウムには初めから何もなかったわけではありません。よい小麦があり、甘い林檎があり、暖かな羊毛がありました。丘には花が咲き、森には木の実があり、川には橋を架けられる石がありました」


 皆が静かに聞いている。


「そして何より、働く人がいました。パンを焼ける人。石を積める人。糸を紡げる人。文字を学ぼうとする人。困った隣人のために、手を差し伸べられる人がいました」


 ミナが得意そうに胸を張る。


「領地を豊かにするのは、領主一人ではありません。誰か一人が、すべてを救うのでもありません。小さな力を持ち寄り、今日より少しよい明日を作る。それを毎日続けることが、領地を育てるのだと思います」


 エステルは杯を掲げた。


「ラウム領と、ここで暮らす皆さんの未来に」


「未来に!」


 いくつもの杯が上がった。


 林檎酒を飲み、料理を分け合い、音楽に合わせて踊る。


 エステルもミナに手を引かれ、踊りの輪へ加わった。王都の舞踏会とはまるで違う。決まった型もなく、相手の家格を気にする必要もない。


 足を踏まれて笑い、回りすぎてよろめき、最後には芝生へ座り込んだ。


 空は茜色に染まっていた。


 夕暮れの光の中、蜂が一匹、白い花の上へ降りる。


 小さな羽音を立て、蜜を集め、巣へ帰っていく。


終章 領主様の普通の一日


 それから五年がたった。


 ラウム領の人口は、二千人から三千五百人に増えた。


 共同パン工房は三つになり、干し林檎パンは街道沿いの町で知られる名物になった。


 養蜂箱は六箱から百二十箱へ増えた。ただし蜜を採りすぎないという最初の約束は、今も守られている。


 織物工房の肩掛けは「ラウム織」と呼ばれ、王都の商店にも並ぶようになった。元猟師は工房長となり、若い職人たちへ糸紡ぎを教えている。


 おかえり橋の出資金は、予定より二年早く返済された。


 通行料の一部は、橋の修繕と学校の運営に使われている。


 ミナは十七歳になった。


 夜間学校で学んだ後、領主館の奨学金を得て近隣都市の商業学校へ通い、今ではパン工房の販売責任者である。


「領主様、南の町から追加注文です。林檎パン五百、チーズパン三百、蜂蜜菓子百箱」


「納期は?」


「二週間後」


「無理です」


「やっぱり?」


「品質を落とさず出せる数を計算してください。断ることも商売の一部です」


「はい」


 ミナが返事をし、執務室を出ていく。


 入れ替わりにイザークが入ってきた。


「今年の蜂蜜です」


 机へ小瓶を置く。


 春の花蜜は色が淡く、柔らかな香りがした。


「今年は林檎の香りが強いですね」


「果樹園の巣箱を増やしたためです」


「冬越しの分は残しましたか」


「最初に確認しました」


「ならば安心です」


 イザークは五年前と変わらず無口だが、領内ではすっかり頼られる養蜂師になっている。


「夕食はどうしますか」


「なぜ、わたくしに聞くのです?」


「領主館で食べるか、私の家で食べるか」


「今日は相談日です。遅くなります」


「終わるまで待ちます」


「待たなくても」


「待ちたいので」


 五年の間に、二人の関係も少しずつ変わっていた。


 劇的な求婚があったわけではない。


 雨の日に傘を差し出してくれたり、蜂蜜の味見を一緒にしたり、冬の夜に帳簿が終わるまで暖炉のそばで待っていてくれたりした。


 そんな日々が積み重なり、いつの間にか、隣にいることが自然になっていた。


 結婚式は次の春に予定されている。


 王都の母は盛大な式を望んだが、エステルは領主館の庭で開くことにした。料理は領民が持ち寄り、引き出物には小さな蜂蜜の瓶を配る。


 なお、ミナは式の責任者を任され、侯爵夫人と予算を巡って手紙で激しく争っている。


「では、夕方に」


 イザークが出ていく。


 午後の鐘が鳴り、相談日が始まった。


 最初に来たのは、隣家の山羊が畑へ入ってくると訴える老人。


 次は、新しい糸車を借りたいという娘。


 三人目は、学校へ行きたくないという八歳の少年と、その母親。


「どうして学校が嫌なのですか」


「字が難しいから」


「わたくしも、最初から帳簿を読めたわけではありません」


「領主様なのに?」


「領主でもです」


「蜂に刺されたこともある?」


「あります」


「パンを焦がしたことは?」


「何度もあります」


 少年はじっと考えた。


「じゃあ、明日だけ行く」


「まずは明日だけで構いません」


 相談は夕方まで続いた。


 大きな事件はない。


 王国を揺るがす陰謀もない。


 山羊が畑へ入り、子どもが勉強を嫌がり、パン工房では納期を巡って言い争いが起きる。


 春には種をまき、夏には蜂を見守る。


 秋には収穫を祝い、冬には糸を紡ぐ。


 壊れた屋根を直し、道の穴を埋め、空腹の者へパンを渡す。


 領地経営とは、英雄物語のような仕事ではない。


 誰にも知られない小さな困りごとを、一つずつ減らしていく仕事だ。


 最後の相談者を見送ると、窓の外は夕焼けに染まっていた。


 エステルは帳簿を閉じ、立ち上がる。


 領主館の門の前では、イザークが籠を持って待っていた。


「今日の夕食は?」


「豆のスープと、焼きたてのパンです」


「五年前と同じですね」


「蜂蜜があります」


「それは豪華です」


 二人は並んで丘を下った。


 町の家々から夕食の煙が上がっている。


 パン工房の窓には明かりがともり、おかえり橋の上を、最後の荷馬車がゆっくり渡っていた。


 道ですれ違った人々が頭を下げる。


「領主様、おかえりなさい」


「ただいま戻りました」


 エステルは笑って答える。


 初めてこの地へ来た日、彼女は立派な領主になろうと思っていた。


 けれど今は、少し違う。


 完璧な領主でなくてもよい。


 失敗したら学び、分からないことは尋ね、できる者の力を借りればよい。


 領民が明日のパンを心配せず、遠くへ出た人が帰りたいと思える土地であればよい。


 そして自分自身も、一日の仕事を終えた後に「ただいま」と言えるなら、それで十分だった。


 春風が丘を渡る。


 白い花が揺れ、どこからか小さな蜂の羽音が聞こえた。


 ラウム領の一日は、今日も穏やかに暮れていく。


 明日の朝には、また新しいパンが焼ける。


 花の上では蜂が働き、畑では誰かが種をまく。


 領主館の相談室には、きっと新しい困りごとが持ち込まれる。


 それを一つずつ、皆で考えていけばよい。


 急がず、焦らず、諦めず。


 昨日よりほんの少しだけ、よい明日へ。


 エステルは夕日に輝く町を見渡し、隣を歩く人へ微笑んだ。


「帰りましょう」


「はい」


 二人の前には、焼きたてのパンと、温かなスープと、花の香りがする蜂蜜が待っていた。


 そして、何より大切な、いつもの日常が待っていた。


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