第六話 笑い声が夕焼け空に沈む
表向き鍵を返すのはついで。しかし、本当の要件なんて持っていない。だからと言ってすぐに職員室から出るとバレる恐れがある。そのため、適当に今日出された宿題の質問を担任の杉山先生と交わす。
本来、先生などと話はあまりしたくないのだが、大仕事をやり遂げた達成感のお陰か、話が思った以上に弾んでしまった。
入室から二十分ほど経ってやっと退出する。
ガラララッ
スライド式の扉を開ける。
「失礼しましたー。……え!?」
――――扉のすぐ横に立ち尽くしている人が居た。
「――松永さん……。もしかしなくても……、待っててくれた?」
「うん。ちゃんとお礼言いたかったから」
先ほどと寸分違わない彼女の姿。
「別にいいのに……」
後悔が滲む。もう少しだけ早く話を切り上げておけばよかった。
「ホントにありがとね」
「……あ、えー……どういたしまして?」
目線をつい反らしてしまう。そもそもこんな顔を向けられて、これまで目と目を合わせられていたのがおかしかったのだ。
それに面と向かってきちんとお礼を言われたことが久しぶり過ぎて、言葉に詰まってしまう。口にして気が付いたが、『どういたしまして』という言葉も久しぶりに発したと思う。
「……」
「……」
空気が静まる。
それはほんの少し前の時間にもあった、あまり仲が良くない人達に生まれやすい会話の空白。でも、あの時とは違う。
「……帰る?」
「うん」
不思議と実感できる。たった一歩。ほんの少し距離が縮まった。そして、松永に不安はなく、僕は達成感に満たされていた。
階段を二人並んで降りていく。体が張り裂けそうなぐらい全力で駆け上がった階段は真逆の心持ちで降りられる。ご褒美にしては恵まれすぎていた。
隣で心做しか軽い足取りで下っていた松永がこちらに視線を向けてくる。
「凄いね」
「……何が?」
「職員室の事。あそこって変な緊張感があるっていうか、何か怖くない?」
「勇気はいるかも」
「だよね! だから、高橋くんが来てくれて本当に助かっちゃった」
苦手なことを肩代わりしたことがいいことなのかは正直なところわからない。松永の成長を考えれば応援するべきだったのかもしれない。だけど、これほど嬉しそうに話してくれる姿を見れるのなら、何度だって彼女のためになりたくなる。
それに、いつか松永はこんなことぐらい問題なくなる。理由のない確信が何故か浮かぶ。
「多分僕が居なくても、松永さんなら普通に行けたと思う。今が無理でもきっとすぐに平気になるんじゃない?」
「えー。そうかな?」
「そうそう」
階段最後の一段を踏み超えて、一階へとたどり着く。後は教室棟の下駄箱に戻るだけ。
この至福の時間もまもなく終わってしまう。永遠に続いてほしいが、終りがあるからこそ、この時間が幸福になる。甘んじて受け入れよう。せめてもの抵抗として歩幅と歩行速度を下げながら。
「……。そういえば、職員室への用って何だったの? 話し込んでたみたいだけど」
「あー、杉山先生に宿題のこと聞いてた」
背筋がヒヤリとしたが嘘をつくこともない。本当に話は聞いていたのだ。しかし、後ろめたさもあって明後日の方向に視線が進んでしまう。
「宿題?」
「漢字覚えるの苦手でさ」
「書くだけだと覚えられないよね」
小学校の頃と比べて全体的な宿題の数は減ったものの、漢字の学習は依然として変わらない。むしろ学ぶ漢字の画数が増えて、毎週小テストも実施されている。頭の痛い話だ。
日本人として漢字を学ぶ大切さは理解しているが、ノートいっぱいに漢字を書くことの必要性は納得できなかった。小学生の頃は文字の綺麗さのためという理由もあったのだろうが、中学生にもなればもっと効率的に覚える方法があるはずなのだ。
後はスマホを使うことの弊害もあるのだろう。漢字は簡単に変換できてしまうため、その機能に頼り切って単純に覚える機会が減っている。
「そうなんだよ」
「テストで高い点を取るためには、やっぱり先生に聞いたほうがいいのかな?」
「まあ、テスト作ってる本人だし」
聞く流れでなんとなく出題範囲が見えてくる場合も多い。特に優しい先生は分かりやすい。
「英語とかも先生に聞いてるの?」
「英語?」
「そう。理恵ちゃんが言ってたから……。得意なんじゃないの?」
「そこそこぐらいだよ。学校の先生に聞くときもあるけど、塾行ってるからそれで」
うちの学校ではテストの成績が張り出されたりはしない。どうして、村上が知っているのか、そしてどれをどうして松永が聞いているのかについて非常に気になるが、今聞くことでもない。
「塾かー」
松永を見れば眉を顰め、何か悩んでいる様子。話の流れからして塾に行くべきかどうかだろう。
「塾の先生は学校の先生より教え方上手いし、点とるためなら一番じゃないかな」
できれば、駅近くの玉脇塾がおすすめだ。僕も通っている。
「塾ね……。ん? なんで漢字は学校の先生に聞いたの?」
「――――。……あ! バッグここに置いといたんだった。忘れるところだったー。あぶねー」
助かった。ほんの少しだけ命の危機を感じたが、下駄箱が見えてきてくれたお陰で話を遮ることができた。
急いで駆け出して、下駄箱前の床にあるスノコに乗ったスクールバッグを持ち上げる。
「その上に置いてたの? そこって土に汚れてない?」
「大丈夫大丈夫。土は払えばなくなるから」
心配そうに近づいてきてくれた松永から払った土を被らないように離し、パンパンとバッグの底を叩く、が……どうにも白い染みとなった土は落ちない、むしろ広まっていくだけ。
「えー。ふふっ。全然取れてないよ」
「あ、ホントだ……」
こらえたように喋る松永。交差する視線。
ただそれだけで、どちらともなく限界がやってきた。
「うふっ、あははははっ」
「んふっ、はははははっ」
二人の笑い声が人気の薄れた教室棟に響き渡る。お腹が痛くなるまで笑って、笑って、笑った。それが収まる頃にはもう、学校の時間も終り。目前に学校の門が広がっていた。
そして、一歩を踏み出す。
「――――」
敷居を跨ぐ足が僕と松永でそれぞれ左右に別れてしまった。心の何処かで願っていた、一緒に下校することは叶わない。
ハッとした顔で彼女の方を見る。松永は慌てることなく笑っていた。
「高橋くん家はそっちなんだ。じゃあここでお別れだね。今日は助けて頂き、ありがとうございました!」
警察官みたいな敬礼ポーズを向けてくれる。
「こちらこそありがとうございました」
敬礼を向けない選択肢を取れるわけがなかった。
「こちらこそ? ふふふっ、私何かしてあげたかな? やっぱり、高橋くん面白いね」
「そう……?」
言われ慣れない言葉。でも、嬉しくて口元が綻んでしまう。
「ばいばい!」
「バイバイ!」
手を降って夕日が沈む。今日は本当に良い夢が見られた。




