第四話 放課後の大失敗
疑問が心に残ったまま午後の授業を過ごしていく。しかし、モヤモヤとした気持ちなら後悔より百倍マシだ。
僕は今日やっと、松永と話をすることができた。それだけで満足だった。
納得させようとしても、全く授業内容は入ってこない。これまで永遠と思えた学びの時間が瞬きの間に過ぎていく。ノートを見れば真っ白のまま。
鐘の音が響いて、使われることなく無意味に伸ばされていたシャーペンの芯を仕舞う。学生の本能故か、この音だけは意識を取り戻すきっかけとなるみたい。なんと都合の良い肉体なのだろうか。
程なくしてHRが開かれて、本日の学校生活の終了を告げられた。
まさしく水を得た魚。授業という檻から解き放たれた獣は教室中に若さを撒き散らしていた。特に金曜日ともなれば他の曜日と比べれば三割増しの元気が現れる。普段は僕もそんな獣の一人として暴れているのだが、今日だけは気分が乗らない。
「んじゃあな!」
「昼休はありがとな、じゃまた明日」
陽気に部活動へと出かけていった友人の背を見送ってぼーっと人が減っていく教室に残る。
たった一言二言言葉を躱しただけでここまでの達成感。一体連絡先を交換すればどうなってしまうのだろうか。もしかしたら、それで満足して一切連絡を取らないかもしれない。
しかし、教室に残り続けたら最後の一人として教室の戸締まりを任されてしまう。それは面倒だ。僕は真面目な振る舞いを心がけているが、優しい人である必要はないと考えている。日直でもないのに、行きたくもない職員室に誰が行くというのか。
今日の日直が誰だか分からないが、声をかけられる前に撤退しなければいけない。
頭を振って気を引き締め直す。机の中の教科書を取り出すと、横にかけていたスクールバックに仕舞い込む。五教科の教科書を学校に置いておくことはしない。置き勉がダメなことだとは思っていないが、学校側が禁止しているのであればそれに従うだけ。
席を引いて、立ち上がる。と、同時に気が付いたことがる。
「――――やらかし、た」
ちょうど席から立ち上がった瞬間、教室最後の一人になってしまった。僕とは別に残って話をしていた一団が運が悪く……いや、多分これは僕が出ていくような動きを見て、自分たちが鍵を閉めることになる前に出ていったのだ。
あの一団と僕の二つになった時点でこの敗北は必然だったらしい。
「マジか……」
肩を落としながら、いつもより十倍重く感じるバッグをずり落ちないよう右肩にかける。そのまま教室の鍵がある教卓へと進んでいく。
無視することはできない。こんなつまらないことで怒られるよりは、さっさと職員室に行ったほうがましだ。そもそも、日直が鍵を閉めるから出ていくか、残って最後に鍵をかけるかをこれまでのように聞いてくれていれば……。
「めんどっ……」
愚痴が溢れるが一概に日直を責められない部分もある。
規則がしっかりしてくれていればいいのだが、『教室の戸締まりは日直か、最後まで残っていた者』それだけしか表されていない。多くの場合は日直が声をかけてくれるのだが、その例外のやや不真面目組はさっさと居なくなってしまう。結局こういう人間の良心に則ったルールには穴が大きいということだ。
教卓の中から鍵を取り出して、教室の扉へと向かう。
無駄に居座った罰。良いことがあった揺り戻し。
そう思うことにした。全くもって日直に恨みはこれっぽっちも、微塵も感じていないが念の為日直の名前をついでに確認する。一応。
そこに書かれていた名前は――。
「……」
「あれ? 教室もう誰も居ない?」
透き通るような声が僕しか居ない教室に響き渡る。音の源はこれから閉められようとしていた扉の方。
「今のなし」
「え?」
「……ううん、なんでもない」
――『松永』そして、今ここに現れた女性の名前でもある。
……………。
情報量が多すぎて思考が滞る。
驚きのあまり口走った言葉は自分ですらよく分からない。
松永はキョトンとしながらも扉近くにある自身の席、その壁側に隠れるようにかけられていたバッグを提げる。
「そう……? あ、鍵ありがとう。他にカバンもないし、もう誰も帰ってこない、よね?」
「……うん。多分」
持っていた鍵を手渡し終えると、一足早く教室から進み出る。なんとなく鍵が締め終わるまでここを離れてはいけないような気持ちに駆られて、松永を待つ。
ガチャリッ
鍵は大きな音を立てて働きを終えたことを告げる。
もう教室に用はない。これから行うのは家への帰宅だけだ。僕がここで立ち止まっているのは学校の終わりに与えられた、ささやかな幸運を噛み締めているだけに過ぎないのだが……。
「……」
「……」
松永も同じように立ち止まっている理由はなぜだろうか。
扉を締めてそのまま閉じた扉を見つめ続けている。ほとんど真後ろに立っている僕には彼女の表情は見えず、何を考えているか想像もつかない。
「……高橋くんって、部活動とか何かやってるの?」
「え?」
「部活何かやってる?」
「ああ、別になにもやってないかな」
この学校は部活動への参加が強制されていない。全体で言えば八割ほどの生徒が何かしらに所属しているが、逆に言えば二割はしていない。僕はその二割の内の一人。
困ると思われがちな話で言えば、部活によって生まれる先輩との繋がりが無くなってしまうことだが、全く無いこともない。小学校が同じ先輩とは既に交流がある。そこからテストの過去問などは回ってくる。
僕が部活に入らない理由は単純にやりたい部活がなかったから。
「えー、意外。そうなんだ」
「もしかして、どこに入るか悩んでる、とか?」
「うん。運動部がいいと思ってるんだけど……」
「いいんじゃない?」
この学校にある運動部で女子が所属しているのはテニス、バスケ、バレー、陸上。運動部全体で言えばサッカーと野球もあるが部員は全員男子。このご時世、入部が認められないことはないが、色々と大変になるのは目に見えている。
部の内情を知らない僕はどこかをすすめることはできない。こういうのは結局自身の好きなものを選ぶのが最善だ。
「前の学校はバレー部に入ってて、でも、この学校のは複雑じゃない?」
「あー、誰か言ってたな。なんだっけ?」
「人数が少ないから隣の学校と合同で一緒に活動してるみたいでさ。週の半分は体育館が大きく使えるその学校までいかなきゃいけないのが、ちょっとなーって」
「そうだそうだ。別に送迎があるわけでもないから、家が遠い人は大変だって言ってたな。一応距離的なあれで通学時に自転車を使えない人でも、その日は自転車が使えるから朝は楽だって聞いたけど、流石に辛いか」
朧気だった記憶が蘇りつい長々と口走ってしまう。
未だ扉を見つめ続けている松永の感情は読み取れないが、今の言葉のさなか彼女が息を飲んだような気配を感じた。
「――大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。期限も無いし、ゆっくり考えてみる」
ふるふると首を振って否定するが、何か思うところがあるのだろう。
部活動でそこまで悩むことも無いと思うが、それは僕の考え。彼女にとっては大切なことなのだろう。
「じっくりゆっくり考えてくれ」
「うん。そうする」
くるりとこちらを振り返る松永。花のような微笑み。
明るい声音は背中を向けていた時に感じていた陰りを思わせない。しかし、これは作られた笑みだ。彼女が本気で笑えば『花のような』とした表現では不十分すぎる。
「……」
「……」
会話は終了した。会話を初めてしたその日のうちにもう一度会話をすることができたことに喜ぶべきなのだろうが、そんな空気でもない。
淀んだ空間。僕の失言が尾を引いている、とも思えない雰囲気。これは僕がそう思いたいだけではなく、彼女のソワソワとした様子から不安感というより、緊張感に近い様子を感じ取ったから。
松永が悩んでいることは部活動のことではなくてもっと身近なものなのかもしれない。
例えば、転校してすぐの生徒が陥るそこはかとない危機的状況。それも、日直の日に。
「じゃ、じゃあ。また明日」
「バイバイ」
まだ僕達は友達とも呼べない関係で、無理に聞き出すことはできない。これこそ、気持ち悪がられる。僕にとって彼女にそう思われることは死ぬことの次に嫌だ。
「ばいばい……」
「…………、……? 帰らないの?」
――思い当たることがあった。余計なお世話なのかもしれない。それでも彼女が、もしこれで困っているのであれば、助けられる。ここには僕しかいない。僕だけが助けることができる。
だから、どう思われたとしても、これを聞かずに帰る事はできない。
「あ、帰る。帰るんだけど……。その、松永さんって職員室の場所とかって、分かる?」
「え? あ、知ってる知ってる。ごめん、それは知ってる、んだけど……」
死んだ。
急速に顔が熱を帯びていく。何が『思い当たることがあった』だ、全然の全然ではないか。
どこかの大きな穴にでも入って隠れたい気分だが、生憎と近くに便利な穴はない。
早急にここから離れたい体を押さえつける。最後まできちんと会話を終わらせなければ。
「だ、だよな。そうだよな。もうこっち来てから結構経ったし。お節介すぎた。すまん」
「いやいや、ありがと。高橋くん優しいんだね、私は平気だから」
「そっか。じゃあ……、帰るわ」
焦点の定まらない視点をどうにか制御して足を動かす。そうして、まともに顔を見ることなく松永から離れて行った。




