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一枚の初恋は、八時三十分から現実に  作者: 覡天狐


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第三話 初めての会話は愉快的

 松永の転校から一週間。今日、この昼休憩の時間。僕は透の奮闘により、またとないチャンスを手にした。彼女の方からこちらにやってきてくれるとは想像も出来なかった。


 カツンカツンカツン


 松永と思しき足音が昼の休憩時間という喧騒の中、確かに近づいてきている。


 しかし、どうしたものか、今僕は机に突っ伏している。起き上がるタイミングは重要だ。その後の振る舞いも。


 彼女がこちらに進んでいるということは後ろ歩きでもしていない限り、既にその視線を一直線にこの身に向けているはず。向こうがこちらの様子から僕が会話を聞いていたと気が付けば、僕の評価もドン底もドン底に落ちてしまう。


「私達の会話を盗み聞きしてたの……」

「え、キモ」

「高橋くん……もう、ウチらに関わらないで」


 最悪の場合こうなる。多分ならない。


 だが、これに近い状況になる可能性は捨てきれない。


 取るべき行動は決まっている。特段難しい訳では無い。何気なく、自然体。それが一番。変に取り繕ったり、知らない振りをすることはない。いつも通りにやればいい。


 よし、何気なく起き上が――。


「おーい! 高橋くん、起きてる? 寝てる?」


 遅かった。


 頭上のすぐそこから澄み渡るような声が掛けられる。


「……」


 起き上がるべき、なのか? 


 べきだろう。だが、今から? 


 今からだ。なんて言えば?


 ありがとう、だ。


 瞬時に脳内を駆け巡る自問自答。何より顔を上げなければ始まらない。しかし、動かない。動かないのだ。重すぎる。頭が誰かに押さえつけられているみたいだ。


 もうほんの少し遅く来てくれれば。済ました顔で受け答えが出来た。でももうダメ、途中からなんて更にハードルが上がっている。


「寝てる……? ここ、ペン置いておくね」


「――――」


 ――何をしているんだ僕は!


 心と体が繋がらない。


 机から数センチの暗い視界が再び色を失っていく。ダメだ、ダメだ。折角の機会を、透が作ってくれた時間を無駄にしてしまう。


 心臓が耳の横にあるんじゃないかと錯覚する心音がもう聞こえない。拳に力が入っても、顔を上げる勇気は湧いてこない。今を逃せば僕は絶対この夢を掴み取ることは出来ない。そんな確信を持ちながら、今だけの恐怖に体が竦む。


 思い出せ。これに似た恐怖を昔一度味わった事がある。



『ねぇ、お父さん。このお姉さんって誰なの?』


『……ああ、この子か。ごめんな、分からないんだ』


『分からないの?』


『うん。この街で偶々出会った人なんだよ。その場所で写真を撮って、そのまま名前も聞かず、別れてしまったんだ』


『ふーん。じゃあ、いっぱいこの街をお散歩したらまた会えるかな?』


『…………。そうだね。会えるかもしれないよ』

 


 あの時の父の顔が忘れられない。もしかしすると、僕と同じだったのかもしれない。


 ――――。


 あんな顔をしたくない。


 ただの一言だけ。これで声帯が引きちぎれてもいい。硬直した頭を押し上げる力だ、それぐらいは仕方ない。


「あ! あ、り――!」


「やっぱり起きてた。おはよう、高橋くん」



 手を伸ばせば届く距離。

 


「…………、ありがとう……松永さん……」


 綺麗――。


 楽しげに眺める空の青。碧眼が輝いて、その先に僕がいる。それがこの上なく嬉しかった。恋人になれなくても、これがずっと見られるのなら、壁に生まれ変わっても不満はないだろう。


 ペンを机に置いて直ぐに去ることなく、松永は僕の机の上の端っこに腕を組んで、そこに顔を載せてこちらを覗き込んでいた。


 上げかけた顔とちょうど同じ目線で。


 突き抜けた愛嬌は最早魔性の域に達していると言っても過言ではない。


「うん。ちゃんと返したから」


 瞬く間に夢は解かれていく。


 僕の顔を確認することが目的だったのか、立ち上がると手を振りながら、彼女自身の席へと帰っていく。


「…………」


 その背中を目で追って、ようやく意識が追いついてくる。


 ちゃんと言葉を交わせた。物の受け渡しであっても、一度会話のラリーは行われた。


 よかった。これで、――――いいのか?


「――――」


 松永は止まることなく離れていく。何の変哲もない歩き方で僕らの教室を進んでいた。


 そんな姿が無償に焦燥感を掻き立てる。もう二度と振り返ることもなく、近づくこともない永劫の別れのように心を揺らす。


 こんなものは勘違い。分かりきっている。欲をかいているだけ。一目だけでも会いたい、一言だけでも言葉を交わしたい。達成すればするほど、それ以上を求めてしまう。悲しき人間の性なのだ。


 だからこそ。


 これで、いいわけがない。


「松永さん!」


「ん? どうしたの?」


「あ、えっと」


 簡単に彼女は立ち止まり、半身を後ろに向けてくれる。消えかけた幻想は留まり続けていて、その事実に言葉を失ってしまう。


「…………」


 松永は静かに言葉の続きを待ち続けてくれる。


 返答を急がなければ。しかし、考えなしの頭にはあまりにも目の前の光景が眩しすぎて何も出てこない。


 この空白が続けば、彼女の中に疑問が生まれる。自分の弱さは理解している。聞かれてはいけない。『どうしたの?』の一言で僕は浮かぶはずだった次の言葉が永遠に消失することがよくわかっている。


 何でもいい。


 何でもいい。


 何でもいいのか?


 何でも、――あ。


 彼女の口が微かに揺れた。


 言わせない。言葉を失うわけにはいかない。

 

「――ど」

「――おはよう……!」


 出たのはそんな取り留めのなさすぎる言葉。


 自分でもあんまりだと思う。発声している途中で気が付いていた。呼び止めてまでかける言葉ではない。遮ってまで言うものじゃない。


 視界が歪む。何も言わないよりは何十倍もマシだと分かっていながら、もっと別の言葉があったと嫌になる。


「――――」


 振り返ってくれた彼女は何一つ言葉を発さない。呆然と瞳を見開いている。当然だ。わざわざ終わった会話を引き戻してまでしたことが挨拶。これでは何を言ったらいいのかわからない。


 松永もかなり返答に困ってい――。

 

「……うふふっ。ごめん、ちょっと、んふっ、あははははっ!」


「松永さん?」


 なぜだか爆笑し始めた松永。後ろを振り返っても、自分の後ろで彼女を笑わそうとしている人はいない。つまり、この笑いは僕が発端となっているはず……だ……。


「ホントに、ご、ごめんね。おかしくて。ふふっ。――はーっ、高橋くんって面白いね。あ、でも、授業中は寝ちゃダメだよ?」


「うん……」


 腹を抱えながら途切れ途切れに発された忠告を静かに受け止める。

 

「じゃあね」


「お、おぅ」

 

 涙が出るほど笑ったのか、目尻を指で拭うと二度目の別れを告げられた。そして、スキップでもしているような楽しげな足取りで、いつもの席へと戻っていく。


 次は何も後ろ髪を引かれる思いはない。ただただ疑念が残るのみ。


「何が、面白かったんだ……?」


 どれだけ考えても答えは降ってこなかった。


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