第5話 王妃アゼリー
「イレーヌ! 待ちくたびれたわ、もう!」
部屋に入るなり、イレーヌを強く抱き締めたのはアゼリー・フォン・ティーグル。イレーヌの母親にして、この国の王妃だ。
病弱な国王に代わってあらゆる権力を持っておきながら、一切政治に関心のない王妃。
処刑回避を目指すイレーヌにとっては、厄介な存在だ。厄介な存在ではあるのだが……。
「ああ、わたくしのイレーヌ! 今日も世界一可愛いわ!」
力強い抱擁にイレーヌが顔を顰めても、アゼリーは抱擁をやめない。
お母様って、本当にわたくしのことが大好きなのよね。
上流階級の女性の中には、自分で産んだ子に関心を示さず、育児を乳母に任せきりにしてしまう女性も多い。
しかしアゼリーはこの国で最も高貴な女性ながら、一人娘であるイレーヌを溺愛し続けている。
そのためイレーヌも、アゼリーのことは純粋に好きなのだ。
王妃としては問題のある人だけれど、母親としてはすごくいい人なのよね。
「最近、イレーヌが忙しくしていて寂しいのよ? この前だって、一緒にオペラを観に行こうと誘ったのに断ったじゃない」
「勉強が忙しかったんですわ、お母様」
「勉強なんて面倒なこと、しなくていいのに」
前のイレーヌであれば、そうですわね! とすぐに頷いただろう。しかし今は、勉強をサボる恐ろしさを知っている。
一度でも正当な理由なく授業を欠席すれば、せっかくよくなった印象が再び下がってしまうだろう。
「お母様。わたくしは王女として、勉学も頑張ろうと決めたんですの」
「イレーヌ……! なんて立派な子なの!」
さすがだわ! とアゼリーはまたイレーヌを抱き締めた。
「お母様、今日はドレスの仕立てがあるんですわよね?」
「そうよ。国中から、大量の商人を呼び寄せたわ。イレーヌにぴったりな、最高級のドレスを作るために」
得意げな顔でアゼリーが両手を広げる。部屋の隅に控えている商人たちは、いずれも衣服や装飾品を専門にしている者たちだ。
イレーヌが着ている服は基本的にどれも特注品だが、今回のドレスに関しては、アゼリーはずいぶんと前から気合を入れて仕立てると言っていた。
「本当に楽しみだわ。わたくし、もう何年も前から、この日をずっと待っていたの。イレーヌが社交界デビューする、15歳の誕生日を!」
恍惚とした表情で叫ぶと、アゼリーは年甲斐もなく飛び跳ねて喜んだ。
少し前まで、わたくしもその日を待ち望んでいたわ。
美しいドレスで社交界デビューをし、ありとあらゆる男性たちの注目の的になり、令嬢たちを従えるようになる日を。
でもそんなの、意味がないって気づいちゃったの。
美しさも、王女という権力も、有効なのは平和な時だけ。
イレーヌをちやほやしていた男たちは、誰一人としてイレーヌの命を救おうとはしてくれなかった。
わたくしを守ってくれたのは、オリヴィエだけ。
オリヴィエがイレーヌ付きの騎士になったのは、イレーヌが16歳になる少し前だ。つまり、約一年後である。
それまで、オリヴィエとの間に面識はなかった。舞踏会で一緒になったことはあるかもしれないが、少なくともイレーヌがオリヴィエを認識したことはない。
……今度の誕生会、オリヴィエもくるのかしら?
「イレーヌ? ぼーっとして、どうかしたの?」
「い、いえ、なんでもありませんわ。それより今日は、お母様にお願いがありますの」
「お願い? なんでも言ってちょうだい。愛するイレーヌの頼みなら、なんだって叶えてあげるわよ」
頼もしい言葉と、力強い笑顔。
間違いなく自分への愛情を感じるだけに、申し訳ない気持ちになる。
でも、ちゃんと言わなきゃ。わたくしの社交界デビューを失敗させるわけにはいかないもの。
「ドレスを仕立てるのを、やめたいんですわ」
「……え?」
「特注のドレスではなく、既製品がよいのです。そうすれば、その分値段が抑えられるでしょう?」
「えっ、な、なにを言っているの、イレーヌ。どうしてお金のことなんて……!」
アゼリーが狼狽えるのも無理はない。彼女にとってお金は無限に沸いて出るもので、費用を抑える、なんて発想はないのだから。
しかし、イレーヌは知っている。というか、セシリアから、嫌と言うほど聞かされた。
ティーグル王国の財政状況は良好とは言えないのだ。逼迫している、というほどではないが、無駄遣いが許される状況でもない。
なにより、イメージが大事なのよ。
社交界デビュー時の印象は、ずっと語り継がれるんだもの。
華やかな特注のドレスで登場すれば、イレーヌには一生、そのイメージがついてまわるだろう。
前のイレーヌならだからこそドレスに気合を入れたが、今は違う。
「浮いたお金を、わたくしは別のことに使いたいのです、お母様」
「……別のこと?」
「王都にある、平民が通う学院へ寄付したいんですわ。貧しい人でも、きちんと勉強できるように」
イレーヌの言葉に、アゼリー付きのメイドたちが感動したのが分かった。商人たちは焦った顔をしているが、それは仕方がない。
「わたくし、最近できた友人に聞きましたの。才能があっても、貧しくて十分に勉強できない人がいると。そうした人材を失うのは、王家にとっても損ですわ」
真に優れた人物であれば、どのような環境におかれても芽を出すものだ。
実際革命の主犯の中には、平民上がりの有能な人物もいた。
そんな彼らに前もって恩を売っておけば、好感度が上がって、処刑を回避できる可能性が上がるわよね!
「イレーヌ、貴女……」
大きな目に涙をためて、アゼリーは感動しきった顔で娘を見つめた。
20代にしか見えない美貌の王妃は、単純で娘に甘い。宮殿に住む全員が知る事実である。
「なんて優しい子なの!?」
ごめんなさい、お母様。
優しいわけじゃなくて、わたくしはとにかく国民からの好感度を上げたい一心なの。
「貴女の言う通りにするわ。でもせめて、既製品の中で美しいドレスを選ばせてちょうだい。母として、それだけは譲れないわよ」
「もちろんです、お母様」
◆
王妃の命令により、すぐにイレーヌの名で王立学院への寄付が行われた。
イレーヌの名を冠した奨学金制度は国中に広く宣伝され、学問を志す者の間で、イレーヌは賢者として名を上げたのだった。




