第38話(オリヴィエ視点)だってわたくしは
振り上げた剣を下ろした瞬間、不意に、視界の端にイレーヌが映る。
セシリアに支えられてなんとか立っている彼女は泣いているように見えた。
「余所見してる余裕なんてあるの?」
フェデリコの剣は軽い。しかしその分、次の技を繰り出すまでの間隔が短い。途切れることのない攻撃には、さすがのオリヴィエも疲れてしまう。
先程、フェデリコの剣先が頬にあたった。既に血も止まっている程度の軽傷だが、これ以上攻撃を受け続けるのは避けたい。
剣を握る手に力を込め、思いきりフェデリコの剣を押し返す。単純な力勝負ではオリヴィエに分があるのだ。
そのためフェデリコは一度距離をとり、打ち合いを始めようとしてくる。
だが、それは読めていた。
「……これで終わりだ」
フェデリコの突きを真っ向から受け止め、彼が退こうとした隙に渾身の力で押し返す。そして、自分もバランスを崩してしまうことを覚悟の上で、ひたすら押し続ける。
「オリヴィエ! オリヴィエー!」
自分の名前を呼ぶ観衆は多いはずなのに、耳に届くのはイレーヌの声だけだ。
殿下は俺を応援してくれると言った。
殿下はきっと、俺を信じてくれている。殿下の信頼を裏切るわけにはいかない。
騎士として、そして、一人の男として。
俺は、誰にも負けるわけにはいかない。
フェデリコは剣を両手で掴み、倒れないように必死に抵抗する。しかし、力比べの状況に持ち込んだ時点で、オリヴィエの勝利は確定していたようなものだ。
見ていてください、殿下。
貴女の騎士は、誰にも負けませんから。
全身の力を込める。苦悶の表情を浮かべたフェデリコがわずかに足をもつれさせた瞬間、急に剣を引く。
完全にバランスを崩したフェデリコが倒れる寸前、目にもとまらぬ速さで突きを繰り出す。
そして、勝負は決まった。
オリヴィエが馬乗りになって剣を構えた瞬間、ラッパの音が鳴り響く。試合終了の合図だ。
わああっ! と耳を塞ぎたくなるほど大きな歓声が響く。華やかな演奏が始まったのと同時に、イレーヌが駆け出したのが見えた。
重そうなドレスを持ち上げ、イレーヌが必死に橋を渡ってくる。
「殿下!」
勝ちましたよ、とオリヴィエが報告するよりも先に、イレーヌが胸に飛び込んできた。オリヴィエを見つめる瞳には涙がたまっているし、頬には泣いた形跡がある。
真っ赤になった瞳は、まるで子兎のようだ。
「オリヴィエ! 貴方、血が出てるじゃない……!」
「……血?」
イレーヌが背伸びをし、オリヴィエの頬に手を伸ばす。どうやらイレーヌは、オリヴィエの頬にできた小さな傷を気にしてくれたらしい。
「殿下。これくらいどうということはありません。騎士に怪我はつきものですから。痛みもありませんよ」
「そういう問題じゃないのよ!!」
聞いたことがないほど、イレーヌの声は大きかった。
あまりのうるささに地面に座り込んでいたフェデリコが顔を顰め、楽団が演奏を中止したほどである。
「オリヴィエ、貴方、わたくしがどんな気持ちで決闘を見ていたと思ってるの!? どうして模造刀を使わなかったのよ!」
イレーヌの綺麗な瞳から、次々に涙があふれてくる。
殿下はなんで、こんなに取り乱しておられるんだ……?
真剣での決闘は危険とはいえ、騎士同士の決闘である。実力がある者同士だからこそ、命を奪うような攻撃はしない。
「……ですが殿下。騎士団での訓練も真剣を使っておりますし……」
模造刀を使うのは、実力の低い貴族たちくらいだ。オリヴィエにとってはそもそも、真剣の方が馴染み深い。
そのためイレーヌへ報告する必要性も感じていなかった。
「訓練と決闘は違うじゃない! それに相手はフェデリコ王子なのよ!?」
急に名前を呼ばれたフェデリコも、気まずそうな顔をしている。イレーヌに実力を評価されたのは嬉しいが、負けた身では発言しづらい……といったところだろうか。
そもそもフェデリコ王子は、落ち着いた状態の殿下しか見たことがないはずだ。
取り乱した殿下を見て混乱しているのかもしれないな。
オリヴィエですら、イレーヌの様子に驚いているのだ。イレーヌのことを表面しか知らないフェデリコが動揺するのも当然だろう。
「殿下。ひとまず落ち着いてください。皆の目もありますから」
「落ち着けるわけないじゃない!」
まずい。なんとしてでも、殿下を落ち着かせなくては。
「殿下。前にも言ったでしょう。俺は誰にも負けません。どれほどぼろぼろになろうと、危ない状況に追い込まれようと、倒れたりしませんから」
だから安心して戦うところを見ていてください……と、オリヴィエは続けようとしたのだが。
「そうじゃないの! わたくしは貴方に、怪我一つしてほしくないの! だって、だって……!」
泣きながら怒るという器用な真似を披露したイレーヌは一度口を閉ざし、大きく息を吸い込んだ。
「だってわたくしは、オリヴィエを愛しているんだもの!」




