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【異世界恋愛2】独立した短編・中編・長編

【コミカライズ】婚約者がいるのに、恋に落ちてしまった。婚約者と。

 イアン・マシューズとルイーズ・バークは、婚約者同士である。


 子どもの頃に両家の親同士が取り決めて、良いも悪いも本人から意見をさしはさむ余地はなかった。

 ルイーズの母は言う。


「婚約者は、面倒避けにはうってつけなのよ」


 美貌で知られたルイーズの母は、そのことにより幼少時から年頃になり結婚するまで、ずいぶんな苦労があったという。

 大人がわずかに目を離した隙に誘拐されかけた件から、美貌が噂になり始めてから金満家が金を積んで家に押しかけ妾や後妻にと迫った件まで、枚挙にいとまがない。ルイーズの母の実家は、祖父の散財で没落しかけて傾いており、父は「娘を売り渡すほど落ちぶれていない」とプライドはあったものの、事業で無理を押し付けられたりするなどして、娘への縁談を断るのにはその都度難儀していたという。


 イアンの母もまた、奇しくも似たり寄ったりの経験をしていた。

 晴れて夫となる相手とめぐりあって婚約を結び結婚をした後、それまでよりぐっと身の回りが安全になったと感じたという。


 こうして両家の母たちは「子どもの頃からナイトがそばにいて、年頃になっても『婚約者がおりますので』のひとことでかわせたら、ずいぶん楽だったのに」との思いを抱いており「面倒避けのためにも、婚約者は早めに決まっていたほうが良い」と意見が一致したとのことだった。


 二人の夫も特に異を唱えることはなく「それなら、こっちは気心の知れた学生時代の友人同士で、子ども同士が結婚したら良いなぁなんて言っていたから」との見解で、婚約はあっさりと決まった。

 イアンのマシューズ家は子爵で、イアンは跡継ぎ。ルイーズのバーク家は伯爵で、長男が家を継ぐのでルイーズは他家に嫁ぐことになる。子爵夫人ならば申し分ない。


 こうして、両家の両親の前向きな考えのもと、物心ついたときにはすでに、二人は婚約者同士だった。


 * * *


 婚約が決まった子どもの頃、イアンとルイーズは定期的に、どちらかの家でセッティングされたお茶会で顔を合わせていた。

 社交シーズンが始まり、領地から王都に戻ってきた頃、招待状のやりとりを経て互いの家を訪問するのだ。

 周囲にメイドや従者がぞろぞろといて、両家の親も顔を見せる中で、形式的にお茶を飲み、最近読んだ本の内容などに関する会話を小一時間程度して終える会である。


 十歳前後になると、まだ社交界デビュー前なので夜会や舞踏会への参加はないものの、内々の晩餐会で学習の進捗報告がてらふたりで合奏を披露するようになった。これは練習や打ち合わせが必要なため、以前より顔を合わせる機会が多くなった。


 イアンはピアノを弾き、ルイーズはヴァイオリンを弾く。あらかじめ曲を決めて練習をしておき、合同練習で合わせるタイミングを確認。会っている時間いっぱいをほぼ演奏に費やしているので、会話はさほどない。終わったらお茶でもという話になることもあるが、たいていは時間が押しているので互いに「後の予定がありますので」と理由をつけて、長居をせずに相手の屋敷を出る。


 十二歳を過ぎた頃、本来ならイアンはルイーズとともに王都の学校へと通う予定であったが、思いがけない事態に直面することになった。

 イアンと同年齢の第二王子クリストファーが異国の学校へ留学することになり、同行する学友の一人にイアンが選ばれたのである。

 期間は五年。長期休暇になっても国に帰ることはなく、留学先を起点として周辺国を巡り、見識を深めるというのがその内容だった。


「そういうわけですので、しばらくお目にかかることはないかと思います。どうぞお元気で」


 旅立つ前の最後となるお茶会で、イアンはルイーズに慌ただしく別れを告げた。

 そのとき、ルイーズがどんな表情をしていたか、イアンはもう覚えていない。「お元気で」という型通りの挨拶を交わして終わった記憶がある。

 手を繋いだりキスをしたりという「恋人感のある」儀式は特に執り行われなかった。


 なにしろ、イアンに求められているのは「ナイトであること」だ。ルイーズにとっては「面倒よけの口実」であり、自分自身が彼女にとっての「面倒」になるなどとんでもないことだと一貫して信じている。

 彼女にとっての自分は「ただの押し付けられた婚約者」であり、自分から必要以上に干渉しない程度でちょうど良いはずと、考えていた。


 別れから、実に五年が過ぎた。

 留学先と故国の間で年に数回、互いの誕生日などにメッセージカードのやりとりはあったが、日常的な内容を綴った手紙のやりとりはなかった。


 イアンには、書くことがなかった。留学の機会を無駄にしないために日々勉強漬けであり、そうでないわずかな時間は男同士の友人関係が楽しい時期でもあった。

 ルイーズからの手紙も、特になかった。書くことがないのだろうと、イアンは気にしてもいなかった。


 留学先で十八歳を迎え、帰国することになった頃、ルイーズから連絡があった。


“イアンさまのお帰りを待って、今季の社交界で皆様にご挨拶をいたします”


 イアンは、ルイーズが自分を「待っている」ことをこのとき初めて意識して、動揺した。

 

「珍しいな! 婚約者殿から手紙か」


 荷造りを終えて、旅立つばかりの状態になったイアンの部屋で、受け取った手紙を呆然と見ているイアンに対して、クリストファーが冷やかすように言う。

 イアンは茶化す空気には一切反応せず、手紙から顔を上げて呆然とした顔で答えた。


「ルイーズは、僕より先に誕生日がくるから、もう十九歳ですよ。この間、誕生日祝いのカードを送ったので間違いないです。まだ社交界デビューもしていないだなんて。こちらの国で、ご令嬢たちの婚約者探しの激しさは目にしていましたが、我が国でも事情はさほど変わらないはずです。これでは、ルイーズは完全に出遅れてしまっていることでしょう」


「……んっ? 何に?」


 イアンのベッドに寝そべっていたクリストファーは、むくっと体を起こして不思議そうな顔をして尋ねる。イアンは、納得がいかない顔のまま、言い返した。


「婚活戦線にですよ。十九歳なんてもう、婚約どころか結婚していてもおかしくない年齢です。いまから社交界に出てもろくな相手が残っていないのではないですか。ルイーズ、大丈夫かなぁ」


 クリストファーは「んっ? んっ?」と首を傾げながら、イアンに確認をするように尋ねた。


「ルイーズ嬢というのは、イアンの婚約者じゃなかったか?」


「そうですよ? 子どもの頃からずっと一緒でした。ルイーズは、おっとりしたところはありましたけど芯が強いというか、真面目で努力家で頑張り屋で、楽器の演奏を一緒にしたときなんて一度ひっかかったところは次に会うときまでにきっちり仕上げてきていて、頼もしかったですね。読書家で聡明な女性だったと思います。五年前の記憶ですが、顔立ちも可愛かったな。今なら本当にものすごく綺麗になっていると思うんですけど、社交界に出ないということは、彼女のことだから他で忙しくしてそうですね。それでも、自分の将来のことはもっと真面目に考えた方が良いです。『結婚だけが女の幸せじゃない』と目を向けないのは本人の自由ですが、世の中には全部を手に入れる女の人だっているわけですから、結婚は結婚で真面目に検討してもいいはず」


「待て、待て。お前は何を言っているんだ。お前の婚約者がお前を待っていて、婚活しないのは普通だろ?」


「えっ」


 完全に、予想外のことを耳にしたようにイアンは言葉を詰まらせていた。クリストファーは微苦笑を浮かべて、優しいまなざしをイアンへ向けた。


「真面目で努力家で尊敬できてかわいい婚約者。わかる。好きなんだろうなぁ……。お前は、たとえ婚約者の目が届かない異国の地にあっても、絶対にどんな誘いにも靡かなかったからな。『婚約者がいますので』の一点張りで、姫君の誘いさえ断りきった。国際問題になるんじゃないかと俺が気を回して『あの、俺で良ければ』と言ったのに、あの気の強い姫様には『それくらいならイアンを引きずってこい』ってぶん殴られかけた。お前の強情さのせいで俺がいつも理不尽な目に遭ったが、お前はいつも素知らぬ顔で『婚約者がいますので』と言い続けてダンスの誘いすら断り続けていた。愛が強い」


 指摘されて、イアンは記憶をたどる。


(そうだな。そういえば、そうだ。僕はいつも「婚約者がいますので」と言っていた)


 ルイーズのためのセリフのはずだが、イアンもたいがい多用していた。とても世話になっていた。だが、自分がそれをどんな気持ちで口にしていたかは、すぐには思い出せない。


「愛? 愛が強い……? 殿下こそ何を言っているんです? 婚約者のいる男が、他の女性の誘いに応じないのは当然ですよ。『婚約者がいますので』は最高の断り文句なのでルイーズも面倒なときにはガンガン使っていてほしいと思います。ただ、僕なんか親に押し付けられた形式上の婚約者ですからね。その気になれば捨てていいわけですから。ルイーズはこれぞという相手に目星をつけるくらいのことはしておくべきだったと思うんですよ。社交界デビューこれからか……」


 深刻に心配している表情をしつつも「国際交流も仕事のうちと、殿下に引きずられて社交の場にはずいぶん顔を出しましたからね。僕が場数を踏んでいる分、エスコートは問題なくできるのは良かったかな」とぶつぶつ言う。

 そこで、イアンはハッと何事か思いついてしまったような顔をした。

 クリストファーは穏やかな微笑を浮かべて「どうした?」と聞く。


「デビューの日は、彼女をエスコートして会場に入場し、最初のダンスを踊ると思うんですが……。そうすると、他の参加者に対して彼女の婚約者は僕だと完全に印象づけられますね……? いいんだろうか。せっかく彼女がこれからというときに、僕が邪魔をしてしまうなんて」


「いいも何もお前、婚約者だろう」


「僕はいいですが、ルイーズはどうなんだろうという話です。こんなことなら、ルイーズがこの五年間どう過ごしているか、確認しておけば良かった。ルイーズは、もっと自分を大切にすればいいのに」


 クリストファーは無言となり、両手で顔を覆った。


 * * *


 ルイーズの婚約者であるイアン・マシューズは、子どもの頃から達観したところのある少年であった。

 十九歳になる時分、ルイーズはかつてを思い出しては「あれはあけすけ話し過ぎた親に問題がある」と考えている。


 母親たちは、とても美しく「若い頃はそれで苦労した」というのを笑い話にはできない貫禄があった。子どものルイーズに対し、自分たちのような思いをしてほしくないという一心で「婚約者がいますので」は強いわよ、と推してくるのも心情的には理解できた。

 男性の誘いを断る正当な理由。


 実際に、年頃になってから、多くの場面でその言葉はルイーズを守った。

 たとえば友人宅のお茶会に招かれた際、参加者や友人の兄弟から誘いを受けても「婚約者がいますので」と、イアンをたてに危うい場面を何度も切り抜けてきた。


 これは本人のみならず、両家の両親にとっても使える言葉だったらしく、なんらかの理由で縁続きになることを目論んで親元へ持ち込まれる縁談を「もう相手が決まっているから」で切り抜けることがたびたびあったらしい。

 イアンが留学する運びとなり本人不在になって以降、この言葉はさらに威力を持つようになっていたのだ。


 なぜなら、イアンは国が学費及び諸経費の全額を出す特待生扱いで、王子の従者として旅立ったのだ。将来を約束されたエリートである。

 しかも「留学先で遊興に耽っている」という悪い噂のひとつも入ってこない。それどころか「真面目な性格そのままに、研鑽に励んでいる」とのことだ。

 そんな相手が娘の婚約者であれば、バーク伯爵家から破談にする理由はない。マシューズ子爵家も、いまのところ婚約解消に動くそぶりもない。「伯爵家の娘よりも」と、身分の高い貴族から持ち込まれる話もあるようだが、宮廷闘争に巻き込まれるのをわずらわしく思っているようで「幼い頃からの婚約者がいますので」を使い続けているとのこと。


 かように、イアンは両家にとって、実に「都合の良い存在」だった。


(問題は、それを子どもの頃からあの方に言い過ぎたことだと思います……。大人の打ち明け話なんて、子どもが成長してからで十分なのに、両親が気を回して早い段階で説明してしまったから「自分は誰かの都合のために存在している」と、思い込んでしまっているところがあるように感じました。子どもの頃の私はその違和感をどうしてもうまく説明できませんでしたし、声をかけてあげたいと思ったときにはすでに、あの方は遥か遠く……)


 彼のために、自分にできることは何かあるかしら? とルイーズとて考えてみたが、さしあたり何もないというのが現実であった。

 顔を合わせないまま、自分の気持の高ぶりのままに情緒的で内容のない近況を手紙に書き連ねたところで、勉強に励んでいるイアンにとっては迷惑になりかねないだろう。

 もっと言えば、イアンは昔からそのさっぱりとした性格もさるところながら、見目の良い少年で周囲から注目を浴びていた。当然のこととして、留学先でのロマンスも考えられる。

 燃え上がるような恋に身を焦がしているときに、いちいち故郷の婚約者のことを思い出させるのも、申し訳ない。

 むしろ、忘れさせておくくらいで良い。


(私は、申し訳ないと思いつつも、男性絡みで面倒事の気配があるとあなたの名前を利用してしまっています。留学中に婚約解消の話は出ませんでしたが、帰国の際にはきちんと話し合いましょう)


 もとより、ルイーズは「婚約者がいますので」と誘いを断り続けてきたことにより、浮いた話などまったくない。

 イアンには自由に生きて欲しいと願いつつも、自分は婚約者として彼の帰りを待ちたい思いが強く、社交界デビューもギリギリまで遅らせてきた。

 貴族社会を生きる上で、避けては通れないと理解していたが、参加すれば男性たちのダンスに応じる必要が出てくる。割り切ろうと思いつつも、子どもの頃から心に刻み込まれた「婚約者がいますので」の信念は、どうしても曲げられなかったのだ。


「最初のダンスは、婚約者(イアン)と踊りたいんです」


 このルイーズの思いを、否定する者はいなかった。当初は「さすがに出遅れすぎじゃない?」と気にかけていた友人たちも、本人の強い思いを目の当たりにして「イアンくん、かっこよかったものね。五年もたって帰ってきたら、すごくかっこいいだろうし、他に目が向かなくても仕方ないよね」と言い合い、応援にまわっている。

 通常、社交界デビューを済ませてしまえば話題の中心がそちらに移り、夜会にも晩餐会にも顔を出さない令嬢など爪弾きにあいそうなものだが、ルイーズの友人たちはお茶会を続けており、イアンの帰国が近くなったいまとなっては、その話題でもちきりという状態であった。

 仲の良い令嬢のひとりが、今日も「デビューはイアンを待って」というルイーズに対し、にこにことして言った。


「ルイーズは、すごくイアンくんのこと好きよね?」


 焼き菓子を頬張っていたルイーズは、まったく予想外のことを耳にしたとばかりに、大きく目を見開いた。


「好……き? 私が、イアンのことを?」


 この反応には、テーブルを囲んでいた他の令嬢たちも「あ、あら?」という妙な空気になった。

 果敢に、ひとりが確認のために問いを繰り返した。


「好きよね?」

「婚約者です」


「会話になってませんことよ?」

「婚約者……なので。婚約者がいるので、他の方の誘いはお断りしますし、最初のダンスは婚約者と踊りたいというのは、普通なのでは?」


「普通ね。その普通のことを十年以上一度も疑わず、五年間離れて暮らしていても少しも変わらず、自分のデビューの時期をずらしても彼の帰りを待ち続けている。これを愛と言わずして、なんというの?」

「愛……!?」


 ルイーズが絶句したことにより、テーブルについた他のご令嬢たちも絶句した。

 沈黙が辺りを覆った。

 さすがに責任を感じたルイーズは、自分の偽らざる心情の説明を試みた。


「愛着のようなものは、あると思います。ですが、私たちは恋をする前から一緒にいて、好きだと思う前に離れ離れになり、ずっと顔を合わせていないのです。婚約を解消していないから婚約者なだけであって、私は彼から申し出があればすぐにでも解消する心づもりでいます。これは……愛というよりも、後始末への責任感と言いますか……」


 おかしなことを言ったつもりはない。

 だが、真剣に聞いていた令嬢のひとりがやがてくすっとふきだし、他の令嬢たちもくすくすと楽しげに笑い出した。

 ルイーズの隣に座っていた令嬢は、笑いすぎて涙まで浮かべながら、ルイーズの腕に手を置いて言った。


「二人の再会を、私たちもずっと心待ちにしていたのよ。十日後の王宮での夜会を楽しみにしているわね」


 * * *


「ルイーズ嬢というのは、社交界デビューしていないにもかかわらず、ずいぶん有名らしい。学校を卒業するときの成績が優秀で、いまは助手の扱いで残っていて、遠からず授業を持つことになるとか。学校外では、社交をしていないから時間があると言っては、養護院へ通って子どもに文字を教えたり、楽器を持っていっては演奏を聞かせたりしているとかで、才色兼備のご令嬢として評判だそうだ」


 帰国の途上で、故国の事情にも通じたクリストファーから聞くルイーズの話は、イアンにとっては初耳のことばかりであった。だが、驚くというよりも「そうだろうな」という納得が勝つ。


「子どもの頃から、あまり変わってないですね。よく読書の話をしていたんですが、彼女の感想を聞くと、すぐにその本を読みたくなってしまって、毎回本の貸し借りをしていました。楽器に関しても熱心だったから、いまはすごく上手くなってそうです。社交界に出てもいないのに有名って、さすが。それじゃあ、なおさら彼女がどんな相手と結婚するかは注目されているでしょうね」


 げふ、とクリストファーが変な咳をして、むせた。

 馬車で並んで座っていたイアンは、背中を撫でながら「殿下?」と生真面目な口調で尋ねる。

 

「どうしてなんだ……。お前は五年の留学期間に各国の要人とそつなく交流の基盤を築き、論文をいくつも書いていたほどの優秀さで、将来を約束された逸材のはずなのに。どうして婚約者のことになると、得体のしれないポンコツになるんだ」


「なんの話です?」


「こっちの話だよ! 説明する気もない!」


 イアンは黙った。

 そのとき、生木の裂けるような軋み音とともに、馬車が大きく揺らいだ。


 * * *


 いよいよ、ルイーズのデビューとなる夜会の前日。

 マシューズ子爵家からは「イアンの帰国が遅れていて、まだ到着していない」という知らせが届いた。


「どうするの? 欠席する? 五年も待ったのだから、数日の遅れなんてたいしたことないわよ」


 ルイーズの母は、珍しくおろおろと部屋の中を歩き回り、言葉を尽くして娘をなぐさめたが「お母様、そういうわけにはいきませんわ」とルイーズはきっぱりと告げた。


「参加は、すでにたくさんの方にお伝えしています。私自身が病気をしたわけでもないのに、いきなりの欠席では貴族社会における信頼関係にもひびが入るというもの。その……エスコートは、お父様かお兄様にお願いできたらと思います」


 イアンに迎えに来てもらうことは、諦めざるを得なかった。それでも、ルイーズの母は心配でたまらないというように言い募る。


「ダンスはどうするの。あなたずっと、相手はイアンさましかいないって」


「もし誘ってくる方がいたら、その場で対処します。私は良い年齢ですから、そのくらいのことは自分でどうにかできます」


 割り切ろうと決め、ルイーズは腹をくくって夜会へと向かった。

 王宮に着き、伯爵家の馬車を降りて入口の大階段へと向かうと、周囲から視線が集中するのが感じられる。


「イアンが良かったよね」


 ルイーズをエスコートする兄が、申し訳無さそうに言った。


「お兄様で良かったです。これは本心ですよ。イアンさまとは久しくお会いしていませんので、婚約者とはいえ、当日顔を合わせてすぐに二人で行動するというのは、勇気がいることでしたから」


 これで良かったんです、とルイーズは笑ってみせる。

 ホールに入って挨拶をしていると、早速近づいてきたのはクセがあるで有名な公爵であった。白いドレスを身に着けたルイーズをじろじろと見て、にやりと笑う。


「婚約者とは一緒ではないらしいと、すでにひとの噂になっていたよ。こんな大切な日に姿を見せないとは、君の婚約者もたいした男ではないね。長年の思いをふいにされた感想は?」


 公爵は以前からルイーズに関心を寄せている素振りがあり、図書館や養護院といった出先でなぜか顔を合わせては、何度かこうして絡まれたことがある。

 ルイーズは、一緒にいる兄に口を出さないようにとすばやく目配せをして、公爵へと向き直った。


「ふいにされたとは考えておりませんが?」


 イアンがこの場に間に合わなかったのは理由があってのことだと考えているし、予定通り出席すると決めたのはルイーズだ。気落ちするようなことは、ひとつもない。

 剣呑な表情をしたルイーズを前にして、公爵は鼻白んだように言った。


「ほう? しかし君にとって、今日は大切な日だったはずだ。ファーストダンスは特に大きな意味を持つ。さて、頼みの婚約者が不在とのことだが、なまじの相手を選んでもこれまで断り通してきた相手に角が立つというもの。どうかな、ここは私が君を誘ってあげよう」


 身分が高く権力もあり、いかなる案件でも優先的な待遇を当たり前に受けられると思っている者の態度だ。

 ルイーズは険しい表情のまま、そっけなく答える。


「婚約者がおりますので、他の方の誘いはお受けできません」

「いないではないか!」


 勝ち誇ったように言われ、ルイーズはさらに眉をひそめて言い返した。


「いまこの場にいないだけで、私の心の中にはずーっといます! お見せできるものならぜひ見せてさしあげたいですわ。私の心の中で、どれほど婚約者のイアン・マシューズの占める位置が大きいものであるか! 他の方が入る余地はまっったくありませんの!」


 しん、と辺りが静まり返った。

 遠くで流れていた楽の音すら、止まっていた。


(……?)


 さすがに静か過ぎではないかと、ルイーズはちらりと兄の様子をうかがう。目が合った兄は「あ、そうなんだ。へえ」と小声で言った。


「何も……おかしなことは言っていないかと……。婚約者がいるのですから、婚約者を一番に思い、他の方の誘いに応じないのはごく普通のことだと考えているのですが」


「うん。普通だと思う。堂々としていて、すごく良いと思う」


 兄はそう言って、ひとり頷いている。

 その反応に妙な不安を覚えて、ルイーズは公爵へと視線を戻した。


「ご納得いただけましたでしょうか? 私にはイアン・マシューズがいます。この場にいなくとも、彼を裏切るようなことは絶対にしません。私はずっと、彼の存在によって守られてきましたから」


 五年間一度も会っていないとはいえ、ルイーズはこれまで幾度となく「婚約者がいますので」で難局を切り抜けてきたのである。それは、彼の存在あってこそだ。恩という言葉だけでは言い尽くせないほどの、重い気持ちがある。

 ルイーズの真摯な視線をぶつけられた公爵は、ふん、と鼻を鳴らしてつまらなそうに言った。


「人を小馬鹿にしおって、失礼な娘だ。納得などするものか。それほどの相手であるならば、どうしてこの場にいない!」


 そのとき、ひとの間をかきわけるようにしてひとりの青年が進み出てきた。


 * * *


 王都へもう間もなくというところで、馬車が故障して立ち往生となった。修理や代わりの馬車の手配に手を尽くしたものの、行程の遅れは避けられなかった。

 しかし、約束を果たさなければならないイアンは諦めない。


「馬を乗り継いで向かえば、ぎりぎり間に合うはずです。殿下、何か殿下の身分証になるものをください。王宮に直接向かって、殿下の危機を伝えつつ夜会に参加します。絶対に行きます」


「あ~……? 忠臣? 俺のことはついで扱いか?」


 ぼやけた返事をしつつ、クリストファーも即座に準備を整え「一緒に行く」と言い張った。


「乗馬ならお前にひけをとらないし、王宮に乗り込んで夜会に間に合わせて身なりを整えたりするなら、お前自身は誰かと話をしている暇も惜しいだろう。俺の救援なんかすっかり忘れるだろうから、俺の話は俺がする。お前は夜会にだけ集中しろ。愛しの婚約者(ルイーズ)のために」


 イアンは一瞬真顔になり「ああ、そうか。殿下へ救援がまわるように、詳しい話をしている時間はたしかに惜しいでしょうね」と答えて、クリストファーの不安を的中させた。


 そのまま二人で帰国の一団から離脱することになり、馬もひとも死なない程度に命がけで駆け続けて当日の夕方にからくも王宮へ到着。

 クリストファーが「馬車が壊れたが、火急の件で戻った!」と関係各所に話を通し、なんとかイアンを湯浴みさせて衣装を整えさせる一方、子爵家や伯爵家に使いを出したものの、行き違った様子。

 ならば直接会場に出向いてルイーズと合流するまでと慌てて向かえば、会場には何やら不穏で落ち着かない空気が流れていた。

 その理由を探る前に、どこかのご令嬢のひとことで文字通り完全に静まり返ってしまった。


「いまこの場にいないだけで、私の心の中にはずーっといます! お見せできるものならぜひ見せてさしあげたいですわ。私の心の中で、どれほど婚約者のイアン・マシューズの占める位置が大きいものであるか! 少なくとも、他の方が入る余地はまっったくありませんの!」


 おい、あれルイーズ嬢じゃないか、とクリストファーはイアンを肘で小突いた。そして、どんな顔をしているのかと、にやにやしながらその顔をのぞきこんだ。

 イアンはといえば、顔を真っ赤にして、片方の手のひらで口元を覆っていた。


「イアン?」


 こそっとクリストファーが耳打ちをすると、息も絶え絶えの様子でイアンが呟いた。


「かっこ良……。僕の婚約者、かっこよすぎませんか……!」

「あ? ああ。おう。そうだな。うん」


 しかしどういう反応だ? とクリストファーが首を傾げているところに、さらに澄んだ声が響く。


「ご納得いただけましたでしょうか? 私にはイアン・マシューズがいます。この場にいなくとも、彼を裏切るようなことは絶対にしません。私はずっと、彼の存在によって守られてきましたから」


 うっ、とうめいてイアンはその場にうずくまってしまった。耳まで赤い。


「イアン……? おーい、大丈夫か?」

「かっこよすぎる……。さすがルイーズ、惚れる……。婚約者がいるのに、婚約者に惚れてしまうなんて。でも、あんなの好きになるしかないって。どうしよう、好きだ」

「んん? んん? ちょっと意味がわからないな。何を言っているんだ?」


 さかんに首を傾げているクリストファーを無視して、イアンはすくっと立ち上がった。

 とても良い表情で振り返り、告げる。


「せっかくここまで来たので、婚約者に挨拶してきます!」

「挨拶だけ? もうひとこえ何かあるだろう」

「はい!!」


 噛み合っているのかいないのか、威勢のよい返事だけをして、イアンはひとの間をかきわけて進んでいった。

 そして、開けた場で中年の男と対峙している美しい乙女を見つける。

 五年前に別れた婚約者の面影があるその相手を、イアンは見間違えることはない。


「遅れてごめん、ルイーズ。今日まで待っていてくれて、ありがとう」

「イアン……!」


 白いドレス姿のルイーズの驚いた表情が、徐々に笑みへと変わっていく。

 花開くようなその変化を瞬きもせずに見つめて、イアンはかすかに震える声で告げた。


「ルイーズ、僕と踊ってください」

「はい」


 はっきりとした声で、ルイーズが答える。

 イアンはそこで安堵の息をもらし、毅然とした調子を取り戻すと続けて言った。


「僕以外とは、踊らないでください。婚約者以外の男性と二曲以上続けて踊るのははしたないと言われることだそうですが、僕たちは婚約者ですので何も問題ありません。承諾いただけますか?」


 人垣の間で、クリストファーは「はいはい」と苦笑しながら頷いていた。

 ルイーズは、目を丸くしてイアンの発言を真剣に聞いていたが、視線を絡めたままくすりと笑うと、承諾の旨を口にしたのだった。

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