第2 後宮の思い出①
お嬢様に付いて後宮にきて早一月が経つ。
慣れない慣習に最初は戸惑うことが多かったが、ようやくここでの生活にも慣れてきたところだ。
帝には後宮にきた初日に少しだけお目通ししたきりで今のところお嬢様のところへ来訪する気配はない。
私とお嬢様は時折他の妃候補に呼ばれてお茶をすることもあるが、基本的に特にすることもないので日がな一日窓際で刺繍をして時間をつぶす日々が続いている。
「ねぇ、翠蘭。私、こんなことしていていいのかしら。こちらに来てからもう手拭いが5枚もできてしまったわ。」
お嬢様は刺繍の手を止めてため息をついた。
見事な薔薇の刺繍が施された手拭いがお嬢様の膝の上に広がっている。
「良いのですよ。呼びつけたのは帝なのですから、来ただけでお嬢様、失礼しました、桜鈴様は十分責務を果たしていらっしゃいます。」
「…翠蘭、私たちだけのときはお屋敷みたいにしてちょうだい。なんだか、さみしいわ。」
奥様ゆずりの美しい顔が悲しそうに眉を下げた。
透き通るような白い肌に黒檀の髪、微かに色づいた桃色の頬に大きな瞳。
お嬢様は、街ですれ違えば誰もが振り返るそれはそれは美しい少女へと成長していた。
さらに、見た目はもちろん、礼儀作法や教養も身につけている上に、それらをひけらかすことなく常に謙虚でいるという本当に素晴らしい御人であった。
「そんなこと言って、つい外でお嬢様~なんてお呼びしてしまったら恥ずかしいじゃないですか。」
「そうですよ。ここではどこで誰が聞いているかわかりませんから、常に気を付けておくに越したことはないです。」
長身を屈めながら部屋に入ってきたのは、共に後宮へきた使用人の紫釉だった。
見回りに行ってきたはずなのに、なぜか果物が入った器を抱えている。
「紫釉、見回りご苦労様。あら、それはどうしたの?」
「ありがとうございます。その…よその女官に押し付けられました。断ったのですが、逃げられてしまい…。」
「また?これで何度目よ…」
後宮で私はあくまでお嬢様に仕える女官の中の一人という立ち位置であり、常に一線をひいた振る舞いをする必要がある。と、後宮を仕切っている女官長にきつく言われたのだが、それから一月が経ってお嬢様に仕える女官は私一人になってしまった。
それは、お嬢様が基本的に一人でなんでもできる方であり、お世話係があまり要らなかったということもあるのだが、その最たる原因は、この男であった。
眉目秀麗が文字どおり歩いているといえばいいのか、容貌が整いすぎているのだ。
切れ長の目に筋の通った鼻筋、それに加えて少し色素の薄い瞳の色がその容姿の美しさを引き立てている。肩まで伸ばした髪をただ無造作に束ねているだけなのに、なぜか妙に色気があり、後宮で働く老若男女問わず虜にしているという噂までたっているくらいだ。
お嬢様に仕えていた女官たちも漏れなくこの魅力にやられてしまったらしく、お嬢様のお世話そっちのけで紫釉に取り入ろうとし始め、仕事にならなかったので女官長に言って別の部署に移してもらった。
「俺だって好き好んでもらっているわけじゃない。大体こんなどこの誰かわからない奴からもらったものを桜鈴様にお出しするわけにいかないだろう。」
「でもまぁ、果物に罪はないじゃない。あ、桃がある!お嬢様、桃を剥きましょうか。」
「あっ、こら、言ったそばから。毒見役を呼んでからにしろ!」
「まぁ、あらあら…ふふふっ」
お嬢様の笑い声でふと我にかえる。
そうだここはお屋敷ではなかった。
「申し訳ありません。お嬢様のお好きな桃があったので、つい…」
「いいの、二人の掛け合いがお屋敷にいたときのようで落ち着くわ。二人とも私に対してももっと砕けた話し方をしていいのよ。」
お嬢様が茶目っ気たっぷりに言う。
そんなお嬢様の様子に紫釉は慌てて姿勢を正した。
「いいえ、そのようなことはできません。桜鈴様は私の主人です。どうかご容赦ください。」
「まぁ…残念だわ。では、一緒に桃を食べましょうね。翠蘭、お願いしてもいいかしら。」
「はい、お嬢様、じゃなかった…桜鈴様。」
きちんと毒見役に検分してもらった桃は大変甘く、お嬢様も大層喜んでくださった。
桃をくれたどこぞの女官に感謝しなければ。
お腹も満たされ、3人で食後のお茶を楽しんでいたとき、突如その報せはやってきた。
帝から今晩の夕餉を一緒に食べないかとのお誘いがあったのだ。こちらにお越しになるというのだから3人とも大いに慌てた。
普段お嬢様の夕餉は私が作っていたため、まさか自分の料理を帝に食べさせることになるかと思い気を失いそうになったが、さすがに帝が口にするものということで、夕餉は帝お抱えの料理人が作ったものが運ばれるとのことで一安心であった。
そこで、ひとまず私はお嬢様の身支度を、紫釉は部屋の片づけをするということで各人大慌てで帝を迎える準備を行った。
そして、ついに約束の刻限に帝がお嬢様のお部屋にいらっしゃった。
以前お見かけした時にも思ったが、今の帝は驚くほど若い。おそらく私とほとんど変わらないか少し年下くらいではないだろうか。
「突然の来訪ですまない。ようやく時間ができたので急ぎ訪問させてもらった。」
「とんでもございません。お忙しい中お時間を作っていただき感謝いたします。」
お嬢様が完璧な作法で丁寧に礼をする。
帝は席につくと、あろうことか私と紫釉も着座するように指示をした。
もちろん一度は辞退したものの、人払いをしてあるといって半ば無理矢理帝と同じ卓を囲むことになったのであった。
「そんなに気を張らないでほしい。最初に言っておくが、今日は其方等と話がしたくてきたのだ。」
そんなことを言われても、私や紫釉のような者が帝と軽々しく話ができるわけがない。下手をうつと首が飛びかねない。
「此度の後宮入りの件、詳しい話は聞いているか?」
話、というのは、今回お嬢様が後宮に来ることになった経緯のことだろう。
なんでも今世の帝は、妃を一人しか娶らないと決めたそうで、現在その妃候補としてたくさんの貴族の娘が後宮に入っているという前代未聞の状態なのだ。
なぜそのように決めたのか、というのは先帝の時代まで話が遡る。
今の帝の父君にあたる先帝には4人の妃がおり、5人の皇子がいたという。
第一、第三、第四皇子はそれぞれ母が異なるが、第二皇子と第五皇子は兄弟であった。
先帝が健在の折には特段兄弟仲は悪くなく、皆が順当に第一皇子が次の帝であると考え、そのように振舞っていた。
しかし、先帝が崩御の際、第二皇子を次の帝に指名したために事態は一変した。
第一皇子の母である第一妃は、非常に身分の高い貴族出身であった。その一方で第二皇子の母の第二妃は平民の出であったが、その美しさと聡明さから大層帝の寵愛を受け、その子供もまた母の聡明さを大いに継ぎ、非常に優秀であったという。
先帝の遺言に世継ぎ問題は大いに荒れた。
平民の子が帝になるなど許されるわけがない、と第一妃を始めとした他の妃は結託し、第二皇子を宮中から排除した。暗殺したとも流罪にしたとも言われているが、第二皇子の行方はいまだ分かっていない。
そのことに第二妃は心を病み、亡くなったという。
その後は、残った第一、第三、第四妃の間で帝の座が争われ、それはそれは凄惨な争いが繰り広げられたらしい。どれくらいひどかったかというと、その争いのせいで国政がまともに機能しなくなり、飢饉が発生し、幼い私が野垂れ死にそうになったくらいだ。
世継ぎ争いは国中の民の生活をないがしろにして長い間行われた。
そうして、最終的に帝の座についたのは、何がどう転んだのか最年少の第五皇子であった。
つまり、今私たちの目の前に座っているのが、その争いを生き抜いた第五皇子もとい今世の帝であった。
「余は身をもって学んだ。妃同士の争いは国を民を疲弊させる。ならば、余の妃は一人とし、きちんと自分の目で見極める。」
帝はそこで一旦言葉を切ると、お嬢様に向き直りその手を取った。
「試すような形にはなってしまうが、余は共に国を豊かにすることを考えられる者を妃にしたいと思っている。しばらく不自由をさせるが、辛抱してほしい。」
「はい、主上のお考えがよくわかりました。…このようなことを言うべきではないかもしれませんが、ここにいる二人もかつての飢饉で親を亡くしております。あのような事態を防げるのであれば、いくらでも見極めてくださいませ。」
今の帝はとても視野が広く柔軟な方のようだ。
少なくともお嬢様を害するような方ではなさそうで安心した。
紫釉の反応が気になり隣に目をやると同じことを考えていたのだろう、紫釉も安心したという顔でこちらを見ていた。思わず笑ってしまう。
「其方等はとても仲が良いのだな。いつも三人でいるところを見かける。」
「ええ、翠蘭と紫釉は私の自慢の家族なんです。離れたくなくて屋敷から連れてきてしまいましたの。」
「そうなのか、其方等の…家族の話を聞かせてもらいたい。」
そこからは、皆で料理を食べながら、帝がお嬢様の話を静かに聞き、相槌を打ち、たまに笑いがおこったりと和やかな時間を過ごしてお開きとなった。
突然の来訪に最初はどうなることかと思ったが、なんとか無事乗り切ることができ、紫釉と二人胸をなでおろしたのであった。