第1 いつも見る夢
住み慣れた屋敷、同僚の使用人たち、優しい旦那様、美しくなによりも大切なお嬢様。
翠蘭の世界はそれで全てだった。
飢饉の影響で幼い頃に両親を亡くした私は、村を追い出され、近くの街を浮浪していたところ運良く貴族の夫婦に拾っていただいた。使用人として屋敷に住み込みで置いていただけることになり、お二人には感謝してもしきれない。
拾われた当初、碌な教育を受けていなかった私は、自分の名前と住んでいた村の名前しかわからなかった。自分の年齢さえ数えることができなかった。
そんな私を見て旦那様は、使用人としての仕事はもちろん、文字の読み書きから礼儀作法まで様々なことを教えるよう他の使用人に言ってくれた。
一介の使用人をそんなふうに扱ってくれる貴族は非常に珍しい。私は本当に運が良かった。
私が使用人として5年ほど働いた頃、旦那様がまた浮浪児を拾ってきた。
ただ、彼は明らかに他の者とは違っていた。
長い前髪の隙間から除く視線はそれだけで人を殺せそうなほど鋭く、その所作は洗練されていた。
どこぞの没落貴族の子供だろうかとも思ったが、それにしては異様なほどにその佇まいに迫力がある。
旦那様は何も言わず、私に彼の面倒を見るように言ったので、私もそれ以上の詮索は止め、彼の身支度を整え、使用人の先輩として仕事を教えた。
旦那様に紫釉と名前をもらった彼は、美しい所作とは対照的に雑用が大層へたくそだった。
洗濯物一つまともに干せないのだ。
丁寧に皴を伸ばしてから干すのだと教えても、皴だらけのまま平気な顔で物干ざおに干そうとする。
注意をすると、まるで「こんなことは自分の仕事ではない」とでも言うような顔でそっぽを向いて聞こえないふりをする。
そう、紫釉は使用人として非常に問題児であった。
しかし、敬愛する旦那様から面倒を見るようにと言われた手前放っておくこともできず、私は日々胃を痛めながらも懇切丁寧に繰り返し彼に仕事を教えた。
その甲斐あって、彼がこの屋敷にきて1年が経つ頃には、立派に使用人として仕事ができるほどに成長していた。
いつしか弟のような紫釉がかわいく思えるようになり、彼の成長ぶりに私も鼻が高かった。
そうこうしているうちに奥様が身ごもられた。
お二人の待望の御子に、私たち使用人も大層喜んだものだった。
奥様は見目麗しいのに加え大変心根の優しい方で、使用人を大切にしてくださる方だった。
だから、使用人一丸となって悪阻で苦しむ奥様のお世話をしたし、皆で無事の出産を心から祈っていた。
ただ、天はとても冷酷で、奥様が御子をその胸に抱くことはできなかった。奥様はご自身の命と引き換えに懸命に御子をこの世に生み出された。玉のように美しい女の子だった。
今際のときに、朦朧とする意識の中で、奥様は私を枕元に呼び寄せた。
微かに動く唇に耳を寄せると、振り絞るような声で私に
「翠蘭、この子のことをお願いね。」
とおっしゃった。それが、私が奥様の声を聴いた最後だった。
だから、私はこの子を、お嬢様を自分の一生を賭けてお支えするのだと心に決めたのだ。
お嬢様の母となり姉となり、この世のあらゆる災いからお嬢様をお守りし、お嬢様が生涯幸せに暮らせるよう自分の命を懸けても惜しくないと思った。
お嬢様は、私が生きる意味となった。
愛する奥様を亡くされた旦那様はそれから長い間ふさぎ込んでしまったが、お嬢様はすくすくと成長し、その様子に旦那様も次第に元の明るさを取り戻していった。
私はお嬢様のお世話係となり、読み書きや礼儀作法等を教えた。私がこの屋敷でしてもらったように。
嬉しいことにお嬢様は私に大層懐いてくれ、私の後をいつもついてきていたものだった。
そして、もう一人、私の後をついてくる者がいた。紫釉だ。
いや、正確には、私の後をついてくるお嬢様の後をついてきていたのだった。
紫釉はどこで習ったのか剣術の腕が非常に立ったため、旦那様からのご指名でお嬢様の護衛係になっていた。
そうして、私とお嬢様と紫釉の3人は自然といつも一緒にいるようになった。
それからは、お嬢様の成長を皆で見守る穏やかで安らかで温かい日々が続いていく…はずだった。
お嬢様が17歳になった春、帝の妃候補として彼女の後宮への入内が決まってしまったのだ。
一般的な感覚からいえば、後宮への入内は非常に光栄なことであり、諸手を挙げて喜ぶべきことだが、旦那様も使用人一同もひどく落ち込んだ。ひとたび後宮に行けば、お嬢様に会うことは困難になる。二度と会えない可能性もないわけではない。
珍しいことに、普段寡黙な紫釉もお嬢様の入内には強く反対をしていた。後宮は外部の目が届かない非常に危険な場所でお嬢様の命の危険もある、とまるで見てきたかのように主張するのだった。
しかし、既に御上からの命令が下っている以上、断るという選択肢はない。
そこで、旦那様は苦肉の策として、私を侍女として、紫釉を護衛官としてお嬢様につけることを条件にお嬢様の入内を飲んだ。
かくして、お嬢様17歳の初夏、私とお嬢様と紫釉の3名は後宮に入ったのであった。
ふと意識が浮上する感覚とともに目を開くと、薄暗い部屋に見慣れた天井が見えた。
またあの夢か……。
枕元のスマートフォンに目をやると、時刻は午前4時ちょっと過ぎ。さすがにまだ起きるには早すぎる。
再度眠ろうと寝返りをうったが、寝よう寝ようと思うほどに目が冴えてきてしまった。
しかたなくベッドから起き上がり、冷蔵庫のペットボトルからお茶をそそぐと、薄暗い台所で喉を潤した。
物心ついた頃から同じ夢を何度も見る。それはある女性の人生だった。
最初は断片的に、次第に時系列に沿って鮮明にその女性の生涯を彼女の視点からまるで同じビデオを繰り返し見るかのように何度も何度も夢に見るのだ。
最初はたまたま読んだ本やドラマ等の影響かとも思っていたが、それにしてはあまりにも描写が鮮明で自分が体験していなければおかしいレベルであった。
そしてある日ついに思い至ったのだ。これは、私の記憶を見ているのではないか。
厳密には、今の私、畑山翠の人生ではなく、翠蘭という女性の、おそらく私の前世の記憶を見ているのではないか、と。
ただ、私の前世の世界と合致するような時代はこの世界にはなかった。
街並みや装い、帝や後宮等の文化から古代中国のようではあるが、同じ名前の国は様々な文献を調べたが存在しなかった。
非現実的過ぎて信じがたいが、どこか異なる世界線の自分の記憶なのだろうか。
ばかげているとは思いながらも、こう何度も同じ夢を見続けること自体が非現実的で、逆に納得せざるを得なかった。
そう、こうして私は28歳にして、異世界で生きた前世()の記憶を持つ痛い女になってしまったのだった。