悪魔のササヤキ
お母さんと喧嘩をして家を出た。
雨が降り、土の臭いが漂う夜道をひたすら走る。
周囲の家からは明かりが見え、楽しい声が響き渡る中、僕は泣きながら走っていた。
特に場所なんて決めていない。自宅からとにかく遠くへ走り、願わくば隣の村や町、城下町のゴミ溜でも良い。とにかく家から抜け出せればそれで良い。
大人の言う事は正しい。そうずっと信じていた。でも日に日にやること全てを否定され、最終的には昨日言われた事を守ったにも関わらず、それを否定された。
矛盾が生まれ、どうして良いかわからない状態になり、感情が爆発した。お母さんにあそこまで大声を出したのは初めてかもしれない。お母さんも予想外だったのか、今まで見たことが無い表情をしていた。
それを思い出しただけでまだ走れる。
突然目の前が真っ暗になった。いや、何かにぶつかった。
「いっ!」
木では無い。布のような感触が一瞬だけ感じ取れた。人にぶつかったのか?
「ご、ごめんなさい」
とりあえず謝罪の言葉を発した。
「おや、鳥がぶつかったと思ったら、子供だったか」
僕よりも少しだけ身長が高い。と言ってもお母さんと比べたら全然低い人。
その人は振り返って僕を見た。右手にはランプを持っていて、その素顔が見えた。
赤い目がギロッとしていて、桃色の髪がとても印象的な女の人。大人とは違って、お姉さんという感じだ。
「おやおや、アタチと似て目が真っ赤ではないか。何かあったのかい?」
優しい声に僕は一瞬何も考えられなくなった。ふと我に返り、涙を拭いて、目の前のお姉さんに答えた。
「お母さんと……喧嘩した」
「喧嘩?」
「昨日言ったことを守ったのに怒られた。思い返せば僕がやることは全部駄目って言われてる。もう嫌だ」
せっかく拭いた涙がまた流れてきた。
「見たところ五歳くらいか。その親と言ったらミュレットか?」
「お母さんを知ってるの?」
「やはりか。あいつは小さい頃から我儘で……いや、息子に言っても仕方が無い。どうだ、行き場が無いならアタチの家に来るかい?」
「お姉さんの家?」
「お姉さんと言われると照れるな。それほど若くはないんだ。クラメルと呼んでくれ」
そしてお姉さん改めクラメルさんは手を差し出してきた。僕はその手を掴み、一緒にクラメルさんの家に向かった。
☆
家に入ると、ランプの灯を暖炉に移し替えた。徐々に部屋は暖かくなり、雨で濡れた体が温まって来た。
「子供の服は残念ながら無くてな。だが、アタチの服は小さいから、多少大きくてもマシだろう。これに着替えると良い」
「良いの?」
「風邪をひかれたら大変だからな。脱いだ服はその籠に入れると良い」
「ありがとうございます」
お礼を言って僕は服を着替えた。少し大きな服だが、濡れていた服と比べたら全然マシだ。
脱いだ服をたたみ、籠に入れてクラメルさんに渡すと、感心された。
「干すだけだからたたまなくても良かったんだが、厳しく育てられているんだな」
「こうしないと怒られるから。でも、お母さんならこれでも怒る」
「どこに怒る要素がある?」
「濡れている。泥がついている」
他にはーと服を見て探していた所、クラメルさんは僕の頭に手を置いて、優しく撫でた。
「限度はあるよな。はあ、子供をここまで追い込んで、何をしたいのやら」
溜息をついて微笑んだ。
クラメルさんは鍋に牛乳を入れた。次に石の土台に鍋を置き、そこに手をかざすと、鍋の下が赤く変色した。
「魔術?」
「あまり近くで見たら火傷するからな。触るんじゃないぞ」
「はい」
赤く燃える石と牛乳の甘い香りが心を落ち着かせてくれる。魔術をこんな近くで見るのは初めてだし、何かをジッとみるのは久しぶりな気がする。
「えっと、どうして暖炉で温めないの?」
「暖炉で温めると鍋が真っ黒になってしまうからな。熱した石であれば黒くならないんだ。ほら、牛乳を温めただけだが、今の君には十分だろう」
そう言って器に牛乳を入れて、僕に差し出した。しばらく牛乳を見て、クラメルさんを見ると、また微笑んだ。
いただきますと小さくつぶやき、ゆっくりと牛乳を飲むと、とても美味しく感じた。ここまで美味しい牛乳は今まで飲んだことが無い。
「美味しい!」
「それは良かった。アタチは料理が苦手でな。焼くか切る事しかしないんだ。喜んでくれて良かったよ」
そしてもう一つの器に残りの牛乳を入れて、クラメルさんも飲んだ。一緒に飲む牛乳は更に美味しく感じた。
「クラメルさんはいつも何をしているの?」
「アタチは絵描き。もしくは、焼き物を作るっているんだ。その器もアタチが作ったんだよ」
温かい牛乳が入った器が、まさかのクラメルさんが作った作品だったとは思わなかった。
「すごい!」
「そう素直に嬉しい感想を言われると照れるね」
「絵も見てみたい!」
「おうう、すっごい目を輝かせているな。まあ良いだろう」
そう言ってクラメルさんは奥の部屋を案内してくれた。
そこには沢山の絵があり、僕は見とれて動けなくなった。
「これは……海?」
村に来る旅人が子供達に話してくれた内容と一緒。見る場所全てが水で、その水はどこまでも続いている。そんな光景が一枚の絵に描かれていた。
「どこの海なの?」
「残念ながらこれはアタチの想像で描いた海で、現実には存在しない」
「存在しない海?」
実物を見たことが無いから、存在しない海と言われても分からない。でも描いた本人がそう言うのだからそうなのだろう。
「存在しない海を描いて怒られないの?」
「怒るって……誰がだい?」
「大人とか……お母さんとか」
間違ったことを描けば怒る。正しいと思っても怒られる。とにかく絵を描くのは嫌なのに、描かないと怒られるなんてこともあった。
「君はアタチと同じ世界で生きているのに、まるで違う世界で生きているような話をするね」
「ごめんなさい」
「いや、謝らないでくれ。君は悪くないんだ。そうだな……絵を勝手に家の壁に描いたら、怒られるかもしれない。でも、こうして正しい場所に描く場合は、何を描いても怒られる理由にはならない」
「そうなの?」
「当然、その絵を色々な人に見せ、その色々な人が不快に感じたり、国王を侮辱する内容なら話は変わる。が、この部屋でなら何を描いても良い。何故ならここはアタチの家だからな」
そう言って一本の筆を僕に渡してくれた。
「何か描いてみるか?」
「うん!」
☆
気が付けば寝ていた。
それもそのはず、クラメルさんの家に来たのは夜だったからだ。
牛乳で温まった体は良い感じに眠気を誘っていて、いつの間にか糸が切れたように眠りに入っていた。
布が被せられていた。多分クラメルさんだろうか。
「おはよう少年。良い朝だな」
窓から差し込む光りがクラメルさんを照らした。
桃色の髪は輝いていて、暗くて見えなかった白い肌や細い腕が今ではしっかりと見えた。
「はっ、お、おはようございます!」
「うむ、これから朝食を食べるのだが、少年も一緒に食べるか?」
その瞬間だった。
『ヒロ! ヒロ! ここにいるんでしょ!』
扉が強く叩かれる音が数回聞こえた。そして聞き覚えのある声も聞こえた。
「おかあ……さん」
「足跡でも辿ったか。はあ、久しぶりに相手でもするか」
ため息をつくクラメルさん。ここまで優しくしてくれたクラメルさんに迷惑はかけたく無かった。
「僕が行くよ……クラメルさんに迷惑はかけたくない」
「五歳児が立派な言葉を使って気を使う必要は無い。君と話していると、もう少し年上の青年と会話をしているように思えるよ。きっと親の厳しい教育で覚えたんだろうがな」
そう言って昨日と同じく僕の頭を軽く撫でてくれた。
牛乳を飲んだ部屋に行き、クラメルさんが扉を開けると、そこにはお母さんが息を切らして立っていた。
しかし、クラメルさんを見た瞬間、お母さんの顔は青ざめた。
「なっ……クラメル!?」
「久しいなミュレット。相変わらずの性格で安心したよ」
あのお母さんが怯えている?
そう思った瞬間、お母さんは僕を見て、声を出した。
「ヒロ! ふざけないで!」
「!?」
その声に委縮し、僕は目をぐっと閉じた。
「こんな『悪魔の家』に来るなんて、あんたって子は!」
あくま……。
今、クラメルさんの事をお母さんは悪魔って言った!?
「あやまって」
「はあ?」
「クラメルさんに謝って!」
昨日に引き続き二度目の大声。
だが、その声はお母さんの心には届かなかったようだ。
「誰が謝るものか。夫の事も守れない役立たずの悪魔。ここで一体何をしているのやら」
「魔獣襲撃の責任をアタチに押し付けるのはやめて欲しいな。そもそも村の警備を減らした村長に原因がある。アタチはこの村にもう一人存在する悪魔と一緒で、一般人に溶け込む無害な悪魔さ」
クラメルさんが……悪魔?
お母さんの言っていたことは本当なの?
「おや、少年。アタチが悪魔と知ってショックだったか。隠すつもりは無い。いずれ事実は誰かから言われるものだ」
「そうよ。こいつは悪魔。だから、この人に近づいたら『駄目』なのよ!」
確かに、クラメルさんが悪魔だと知って驚いたし、ショックだった。
けど、同時に今のやり取りで僕は考えた。
今までお母さんの言ったことは正しいと信じていたけど、それが信じられなくなった。
つまり、今言った『この人に近づいたら駄目』ということは、この人は大丈夫ということだろう。
「びっくりしたよ。でもクラメルさんは僕に温かい牛乳をくれたし、海を見せてくれた。自由に絵を描かせてくれたし、たった数時間がとても楽しかった」
「あんた、何を……」
「クラメルさんが許してくれるなら、僕はクラメルさんの下で働く。もし駄目なら僕は王都に一人で行く。途中で息絶えても、それは僕が自分で考えた道で、きっと後悔はしない!}
「ひろおおおおおお!」
扉の前のクラメルさんを除けて、お母さんは僕に向って走って来た。が、次の瞬間、縄が張った時の『パシン』という音が部屋に響き渡った。
よく見ると、黒い縄のような何かが、母さんの両腕と両足を掴んでいて、動きを固定していた。
「アタチの家に招いていないのに、勝手に入らないでくれるかい。君は幼いころから我儘で、全てを奪っていた。アタチよりもよほど悪魔だと思うがな」
「本物の悪魔が何を言ってるのよ。それよりもヒロを返しなさい!」
「返したところで何をさせる。洗濯か。それとも食事の用意か?」
「そうよ。家事は全部覚えさせた。もう数年すれば立派に働く。あと数年我慢すれば私は……」
「やはり悪魔は君だなミュレット。子を道具として扱うとか、悪魔のアタチでも引くぞ?」
クラメルさんは溜息をつき、続けて僕に質問をしてきた。
「少年。アタチは別にここに住むことに関して拒否はしない。家事ができるというなら、手伝ってもらう。少なくとも王都で物乞いになることは無いだろう」
「本当!?」
「嘘よ。そう言って酷い環境で安い小遣いしか貰えないわ!」
「まてまて、君は今の少年の環境を知っててその発言かね。小遣いはいくら渡してる?」
「うっ」
お母さんは何も言わなくなった。
「えっと、お小遣いはいらない。でも、お願いはある」
「言ってみろ」
「自由に絵が描きたい」
そう言った瞬間、クラメルさんは最初驚いた表情を浮かべたが、次に微笑んだ。
「ふふふ、別に構わないさ。ここでなら何でも描いて良い。怒る大人はいない。だが、絵を描くには絵の具が必要だ。その対価としてアタチの身の回りの手伝いをしてもらうのはどうだ?」
「やる! クラメルさんのお手伝いをして、空いた時間に好きなことをしたい!」
僕にとってもしかして初めて我儘を言ったのかもしれない。あらゆる感情が吹っ飛び、僕はクラメルさんの所でずっと生きる未来しか見えなくなった。
もうこんな母親の所になんて、戻りたく
「馬鹿なことを言ってるんじゃないわよ!」
その瞬間、僕の右頬に激痛が走った。そして口の中には鉄の味が広がっていた。
どうやら僕はお母さんに殴られたらしい。一瞬の出来事に理解が追い付かなかった。
「正気に戻りなさい。今までの事は謝ってあげる。でもこいつの所にだけは駄目。絶対に駄目!」
「嫌だ! 貴女の駄目は全部正しい事がわかった。今も殴って来た。そんな家に戻りたくない!」
「そうだな。きっと戻るべきではない。人の子を預る身としてはかなり複雑だが、少年をミュレットに戻せば少年はいつか壊れる。おそらく『アタチのように』な」
そう言ってクラメルさんは僕に近づいてきた。頬に軽く触れ、そして唇から漏れた血を少しだけ人差し指に付けた。
「可哀そうに。子が一番信頼できる相手は親で無ければならない。その親から手を出されてしまえば、何を信じるべきか。さて、少年。君はアタチと一緒に生活する以上、この光景を何度か見ることになる。これが最後の問いだ。これを見て一緒に生活するかい?」
そう言ってクラメルさんは血の付いた指を地面に擦り付けた。
次の瞬間、地面から紫色の光が出てきて、小さな穴のような物が生まれた。
そこからは……人の頭くらいの大きな目玉。そしてその目玉には大きなコウモリの翼のようなものが生えていた。
『ギャギャギャギャギャ!』
目玉に口は無い。しかし声は聞こえた。
『ニンゲンがフタリ。ドッチモウマソウ』
「ひいい!」
お母さんは目の前の目玉を見て腰を抜かした。
「おい『空腹の小悪魔』。契約者はアタチだ。先程の血を代償に出てきただけだろう。襲うのは契約違反だ」
『イイニオイ。ヒドイ。クウフク』
「い、いやああああああ!」
お母さんは叫び、クラメルさんの家から出て行った。僕も目の前の目玉を見て足が震えていた。
でも、それとは裏腹に『あのお母さんを退治した生き物』ということに、何故か恐怖が薄れていった。
「君は僕の味方なの?」
『ギャ?』
「へえ、君は目の前の本物の悪魔を見ても、怖がらないんだね。であればアタチと一緒に生活ができそうだ」
「怖くないと言ったらウソだけど、大丈夫でもある。怒らないなら平気」
『ヘンナニンゲン。オレ、カエル』
そう言って目の前の悪魔は地面に潜っていった。
「人間は予想を超える。君はアタチと一緒に生活することができる数少ない人間見たいだな。改めて今日からよろしく」
「はい。クラメルさん!」
こうして僕はクラメルさんと一緒に生活することになった。
☆
目覚めるといつもの天井が見えた。
体は重く、体中全てが痛む。
「おや、目覚めたのかい?」
いつもの声が聞こえた。
「まさかクラメルが人間と一緒に生活しているとは、驚きました」
知らない声が聞こえた。
「す、すみまへん、お客さんが来ていたなんへ……」
重い体を起こそうとするも、起き上がらない。クラメルさんが来て、背中を押してくれた。
「もう老体なんだ。無理はするなよ」
「はは。小さい頃の夢を見たのへ、何だか懐かしいへふ」
口が回らない。当然だ。すでに八十を超えていて、呂律が回らない。この辺の村では一番の長生きだと言われている。
「それよりもそちらは?」
「ああ、この人はアタチの悪魔の師匠だ」
「初めまして。ヒロ様ですよね。クラメルから手紙で知っていました。ワタチの事は宿屋の店主とでも言ってください」
「師匠は名前を隠しているんだ。とても変な悪魔だが、とても良い悪魔だ」
この世界には悪い悪魔と言うのを僕は知らない。
「そうでふか。クラメルさんにも知っている人がいるんでふね」
「失礼な。アタチが悪魔になったのも師匠のお陰だ。悪魔になることで長寿になれた。君と出会えたのが一番大きいがな」
「はは」
嘘でもそう言ってくれて嬉しいかな。幼い頃のあの地獄と比べたら、この七十五年間は幸せそのものだ。
「それで、店主さんはどうしてここへ?」
「一つはクラメルの様子を見に来ました。もう一つは、間もなく冥界に訪れる人を見ておこうと思い、来ました」
「冥界に?」
ここには僕とクラメルさんしかいない。と言う事は、僕のことだろうか?
「悪魔のささやきに負けて一緒に生活していた人が、何事も無く極楽浄土へ行けると思ったら大間違いですからね。まあ冥界も悪い場所ではありません。クラメルの久しぶりのお願いですので、ワタチの食堂で働かせますよ」
そうか。ずっと幸せな日々を生きていて、何も感じなかったけど、クラメルさんは悪魔なんだもんな。
悪魔に関わった人間は、死後の世界は地獄。そんな話しも聞いたことはある。
でも、元々地獄で過ごしていた僕にとってはどうでも良かった。
いざ死の目の前に立っても、何も感じない。
「クラメルはん。ぼふは、あとどれふらいなんれふか?」
「無理をするな少年。いや、ヒロ。君は十分生きたんだ。辛い五年間と楽しい七十年。どちらも同じくらいの時間に思えるほど、君は生きたんだ。ゆっくりと休むが良いさ」
「そうれふ……は」
徐々に瞼が重くなった。きっと次に目を閉じた時、その目が開くことは無くなるのだろう。
「悪魔のささやきに乗ってくれて、ありがとう。君の事は一生忘れないよ」
その言葉を最後に、僕の意識は遠くへといざなっていった。
冥界に行った魂は生まれ変わることは無い。でも、僕はそれで良い。
この人生が一番良かったから。
了




