7 エリヤス=ロクタンダは諦めない2
「……マドカ殿。先ほどは申し訳ありませんでした。
ひどく焦っていたとはいえ、大変な失礼をいたしました。この通りでございます」
正面に座った騎士エリヤス=ロクタンダは丁寧に頭を下げた。
テーブルの上に置かれた紅茶がホカホカと湯気を立てている。
話が長引くことを考慮してだろう。
少し熱めに淹れられたそれは、タクマのスペシャルブレンドである。
そして中央に置かれているのはさくさくのスコーン。
一緒に置かれたいちごジャムと一緒に食べる。ミエコによれば、ジャムから手作りらしい。
マドカとエリヤスがいるのはツワブキの間である。
三人のばあちゃんたちがさすがの手腕で整えたその部屋は、昔マドカがイチノミヤ家に出向いたときに通された部屋と同じである。
部屋には大きな窓があって、それのおかげでここは応接室と執務室から見える造りになっている。
遊ぶ子供たちを見守れるようにとハトリの両親が決めたのだ。
大きな壁掛け時計が時を刻み、本棚には様々な絵本が置かれている。
棚や窓辺にはたくさんのたからものが並べられていた。
子どもの頃に皆一度は集めたことがあるようなものたちだ。
どことなくなく透き通る綺麗な石、短くなったえんぴつ、ぴかぴかのどんぐり、紙工作、シーグラス、淡い色の貝殻、押し花
大きな窓から差し込む光に照らされて、それらはハトリの思い出を彩るかのようにきらきらと輝いていた。
まるであの時から時が止まっているかのような、そんな趣のある静かな部屋である。
それをマドカは懐かしく感じながら見ていた。
「かまいませんわ。人間、切羽詰まるとなにごとにも躊躇がなくなるものでございます」
「……本当に申し訳ありませんでした」
「そこまでしなくてはならないほどの何かがあったのでございましょう?」
エリヤスは、はいと頷いて出された紅茶を一口飲んだ。
「聞いていただけますか」
エリヤスは語り出した。
エリヤスが生まれたのはロクタンダ家。騎士の家系だ。
父親が一代限りの騎士爵を賜ったこともあり、エリヤスも幼い頃から、己が騎士として国のために剣を振るうことを目指して訓練をしてきた。
貴族ではあったが、エリヤスにその地位はほとんど関係なかったと言っていいだろう。
もともと一代限りの爵位だし、それだってエリヤスが成したことではない。
しかしだからこそエリヤスは我が家を誇りに思っていた。
剣一本で国を支える強い父に憧れたし、そうなるために努力してきたつもりだ。
「先日、国王直属の近衛騎士団への入隊が決まりまして」
エリヤスは頬をかいた。
「おめでとうございます。ご活躍をお祈り申し上げますわ」
「ありがとうございます」
ふたりでお互いに礼をとる。
エリヤスはしかし、その顔に暗い影を落とした。
「入隊を目指して頑張れたのも、彼女がいたからだったんです」
エリヤスは、自分は貴族というよりも平民だという感覚で育った。
学校は違ったけれど、放課後になれば同じ年頃の友達と走り回って町を探検し、遊びまわった。
自分はぶっきらぼうな子供だったと思う。
喋るのがあまりうまくなかったし、笑うこともめったになかった。
でも友達は皆優しくて、エリヤスのことをよくわかってくれていたと思う。
町の人たちもおおらかで、騒がしい子供たちに嫌な顔一つせず『おや賑やかだね』とか『元気が一番だよ』と言って笑う。
おやつを分けてくれることもあった。
「アニカはパン屋の看板娘でした」
そのベーカリーはいつもおやつをくれる店で、同じ年ごろの子供たちの間では有名だった。
パンの耳を油で揚げてお砂糖をまぶしただけのものだがこれがうまい。
たくさん遊んで腹ペコになってから、パン耳のお菓子目当てにその店に行くのがエリヤスたちのいつもの流れであった。
その日も案の定お腹がペコペコになるまで遊んでその店に行くと、自分と同い年くらいの女の子が店先でパンを売っていた。
ふっくらとした手でショーケースを示し、ロールパンが焼きたてですよ、うちの食パンはほんのり甘くておいしいですよと懸命にお客さんにおすすめする。
そうすると、あらそうなの? と各家のマダムたちがそこを覗き込み、おひとつくださいなと買っていくのだ。
帰っていくお客さんを見つめる彼女の嬉しそうな笑顔に、エリヤスは一目惚れしてしまった。
「それはもう、仕方ないですわね」
「ええ仕方ありません」
目が合う。
マドカがコクリと頷くと、エリヤスは照れくさそうに笑った。
「それから俺はなんとか彼女に振り向いてほしくて、毎日パン屋に行きました」
子どもの少ないお小遣いを数えて数えて、足りない時にはお手伝いをした。
なにせ一代限りの貴族だ。使用人はほとんどいなかったから、エリヤスの仕事は山ほどあった。
お皿を磨いたり、洗濯物を洗って干したり、夏にはぼうぼうに生える草をむしって冬は薪割りをする。
そうして頑張ってお駄賃を貰い、来る日も来る日もパンを買った。
お金を稼ぐって大変だとエリヤスは身をもって体感した。
そうして通うようになったアニカの家のパンはおいしかった。
さくさくのクロワッサン、もっちりと甘いベーグル、バターが香るロールパン
どれだけ通っても飽きることがなかった。
彼女に自分のことを覚えてほしくて会計の時にはできるだけ顔をあげるようになった。
今思えばエリヤスが社交性を身に着けたのは彼女を振り向かせたかったからなのだろう。
あの努力のおかげでエリヤスは今、人の顔をまっすぐ見て喋るし何かしてもらったらお礼を言って何かやらかしたらきちんと謝罪をする。
当たり前のことを当たり前にやる。それが一番大切で大変だとエリヤスはそこで学んだ。
その努力が実を結び、徐々に彼女と言葉を交わすようになった。
「『一番大切なお客様』と言われたときは心が折れるかと思いましたが」
「それは……なんと言ったらよいかしら……」
「いいんです。彼女はあまり自分の容姿に自信がなかったらしくて。自分が男性に好かれるだなんて思っていなかったと言っていたことがありました。俺には世界一可愛らしく見えたんですが……」
「まあ熱烈」
少し困ったことに、アニカはとても鈍感な女の子だった。
いつもいつも三日と置かずに来るエリヤスを見て、本当にパン目当てで来ているんだと思っていた。
今日の新作はこれよと言って、いつも一番にエリヤスに試食させてくれる。
エリヤスがおいしいと言うと目を輝かせて喜んだ。
アニカのそんな表情も好きだったが、エリヤスは他の表情も見たかった。
騎士として働くようになってからもパン屋に通う日々は続いた。
さすがに毎日とはいかないものの、エリヤスはすっかり常連客になっていた。
けれど二人の関係は客と店員のままだった。
アニカは好きな男の前ではどんな風に笑うんだろうと、そう考えると胸が締め付けられるように苦しくて、彼女のことを一番傍で見たいと思った。
もちろんただの客である自分にそんなことができるはずもない。
客としてでもいい。彼女の笑顔を見られるのなら今の位置で十分だ。
いつか彼女に大切な人ができたなら、自分の思いは四つにたたんで奥底にきれいさっぱりしまってしまおうとそう思っていた。
そんなある日、いつものようにそのパン屋に行き、いつものように会計をしようと声をかけると、アニカがひとつの包みを渡してきた。
エリヤスの髪色と同じ、赤いリボンがかけられたそれはどうやらパンであるらしく、お代はいらないのでどうか食べてくれないかと、少し恥ずかしそうに俯きながら差し出してくれた。
もちろんエリヤスに食べないという選択肢など存在しない。
あまりの嬉しさにその場で包みを開けた。
「俺の顔のパンと一緒に『好きです』とメッセージカードが入っていたんです」
「まあ素敵!」
「もうびっくりするくらいうれしくて、その場で彼女を抱きしめました」
「ええ、ええ! そうですわよね! それは嬉しいですわよね!」
マドカは両の手のひらを合わせ、頬を紅くした。
微笑まずともマドカだって気持ちが昂るのだ。
ダメだ笑ったらだめだとマドカは何とか心を落ち着けた。
笑ってしまったらこの場でとんでもなく醜い顔をさらすことになってしまう。
エリヤスは優しいだろうからきっとなにも言わないが、気を使わせてしまうのは本意ではない。
「思いが叶ってからは毎日幸せでした」
エリヤスは今まで以上に訓練に身を入れて取り組んだ。
アニカと一緒にいろんなところに出掛けたかったし、いろんなおいしいものを作ったり食べたりしたかった。
なにより、『幸せにしたい』とそう強く思った。
その甲斐あって騎士としても順調に出世し、生活も安定した。
近衛騎士団に入隊したらアニカにプロポーズしようと頑張ってお金をため、女性はサプライズに喜ぶと聞いたからこっそり贈り物も準備して、そしてやっぱり仕事に励んだ。
毎日遅くまで護衛の仕事を引きうけるようになったせいで、お店の開いている時間に行くことが難しくなってしまった。
次第に足が遠のき、二日に一回は行っていたのが五日に一回になり、十日に一回になり、やがてほとんど顔を出せなくなった。
そんなときも、次にアニカに会える日を一日一日数えては、もう少しだと気合を入れた。
そして十日前、ついに近衛騎士団の入隊が決まった。
目標にしていた額のお金も貯まり、贈り物の指輪と花束も用意した。
あとはアニカに告げるだけだ。
『俺と結婚してください』と
「店に行くのは二月ぶりでした。食事に誘って、そこで伝えようと思ったんです」
しかしエリヤスが店の扉を開けても、その日アニカの『いらっしゃいませ』の声は聞こえなかった。
それどころか彼女の姿はなく、店内では別の女性が働いていた。
風邪か何かにかかったんだろうか。それなら見舞いに行きたいと、そう思ってその女性に尋ねた。
『アニカさんは今日はお休みですか?』
『アニカさん? ああ、店長の娘さんですか。私の前にここで働いていたっていう。
彼女がどうかしましたか?』
マドカははっと両手で己の口を塞いだ。
「まさか……」
「ええ。彼女はやめていたんです。パン屋を」




