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5 マドカ=クジョウは笑わない5

 しゃっ


 ざっざっざっ

 ごおおおおおお


 しゅっしゅっしゅっ

 きゅきゅきゅ


 なにかを磨く音がしてマドカは目を覚ました

 日の光が顔にあたり目を細める。


「やーっと起きたね。ほら、そこおどき」


 しわがれた声がして視線を移すとそこに

 小さなおばあさんがいた。

 右手にハタキ、左手に雑巾を持ち、まっしろな割烹着を着ている。

 気難しそうな山吹色の目がマドカを見つめている


「ん……どなたですか?」

「掃除婦のトメだよ」

「……トメばあちゃん様」

「風呂にも入らずに寝るこの年頃のお嬢さんがいるとは思わなんだ。早く起きたらどうだい」


 はっと顔をあげて時計を見ると、短い針は8をさしている。

 マドカが最後に見た時は7だった。


「あの、わたくしもしや……」

「ん?」

「夕食をすっぽかしてしまったのですか」

「夕食どころか朝食もだね」

「…………」

「今は朝の八時だよ」


 まさか、と窓を開ける。

 初春の朝のすがすがしい空気が満ちている。


「……やってしまいましたわ」

「気にするこたないよ。さっき家のやつらが順々に尋ねてきたが、おまえさんの寝顔を見てだらしない顔して出てったさ」

「……やってしまいましたわ」

「強情な子だね」

「だってこんなぐうたらな姿を見られてしまったなんて、恥ずかしいですわ」

「……おまえさんに締まりのない顔で嬉々として布団をかけていった色ボケ宰相令息に聞かせてやりたいよ」

「……」

「……」


 マドカはぼさぼさに絡まった髪が顔にかかるのをかき上げ、肩にかけられたタオルケットを丁寧にたたむ。

 肌触りの良いそれは、ほんの少しだけハトリのにおいがした。


「寝起きが色っぽい女なんて、いるわけないと思ってたんだがね」


トメばあちゃんはぽふぽふと部屋の家具にハタキをかけている。


「もちろんいるわけがありませんわ」

「あんたがそうだって言ってんだよ」

「……わたくし、無表情で有名ですの」

「かえって神秘的でいいじゃないか」

「殿方と関わったこともほとんどありませんわ」

「大抵の男は緊張で目も合わせられないさ」

「そんなことないと思うのですけど」

「綺麗な女の謙遜は嫌味だ気をつけな」

「……心に留め置きますわ」


 少しの間沈黙が落ち、マドカはあっと声をあげた。

 こうしている場合ではいない。


「謝らないと……」

「その格好でいくつもりかい」

「……」

「そこを出て左に進むと風呂だ。好きに使いな」


 トメばあちゃんは掃除にもどる。

 きゅっきゅと窓を拭く音が響く。


「……トメばあちゃん様」

「なんだい」


 振り返らない背中にマドカは声をかける。


「ありがとうございました。昨日も、今も」

「……」


 彼女はなにも言わなかった。

 窓を拭く音は途切れない。

 マドカはぺこりと頭を下げて、着替えを持って部屋を出た。


 扉が閉まる直前に、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた気がした。





 ガラガラと『湯殿(bath room)』と書かれたプレート付きの引き戸を開ける。


「……なんて広いのかしら」


 清潔な白い空間はうっすらと湯煙に包まれている。

 ほんのりと石鹸の香りがしてマドカは息を吸い込んだ。


「やーっと来たのかい。待ちくたびれたよ」


 先ほどよりも少し高いしゃがれ声がかけられた。

 振り向くとそこにはやはり、小さなおばあさんがいる。

 右手に(たらい)、左手に洗濯板を持ち、水色がかった割烹着を着ている。

 その目はトメばあちゃんより少し淡い、はしばみ色だった。


「どなたですか」

「洗濯婦のヤエだよ」

「……ヤエばあちゃん様」

「まあいいさ。朝に入る風呂ってのもオツなもんだよ。さっさと脱いだらどうだい」


 ぽんとタオルが投げられる。

 マドカは急いで着ていたワンピースを脱ぎ下着を脱ぎ、タオルをくるりと巻き付けた。

 丁寧にたたんで手渡すと、ヤエばあちゃんはふうんと言った。


「そんなに急ぐこたないさ」

「でも皆さんに謝らないと」

「気にするこたないよ。さっき家のやつらが順々に来て、だらしない顔で湯を張ってタオル置いて櫛やらなにやら置いて出てったさ」

「どなたか別の方がお使いになるのかしら」

「おまえさんのためにだろう。湯が冷める前に早く入ってきたらどうだい」

「ありがたいですわ」

「……真面目くさった顔で鼻歌歌いながらとびきり上等の石鹸を出してったおつむがゴキゲンな宰相令息に言ってやんな」

「……」

「……」

「行ってきます」

「ごゆっくり」


 湯は一片のくもりなくまろやかだった。

 つるりと磨かれたタイルの上をなめらかに流れていく。

 朝日が浴場に差し込んで、まるでまぼろしの景色のように湯気がきらきらとして見える。

 タオルを外し身を清め、ゆっくりとつかる。

 ほどけるような温かさがじんわりと、マドカの身に沁みこんでいく。


「……あたたかいわ」


 ぽつりとマドカはつぶやいた。


 風呂を出て着替え、湯上りの髪の水けをふき取り結い上げる。

 鏡を見て確認する。なにも変なところはない。

 マドカは健康そのものだ。家族のおかげで。

 荒れのない肌と髪。

 手入れをしていてよかったと思った。

 

「こりゃまた男に困らなそうな見た目だね」


 ヤエばあちゃんが優しい手つきでマドカの緑のワンピースを洗っている。


「……わたくし学園でもてたことなどありませんわ」

「14までの男児に何を期待してんだい」

「……家族以外の殿方に好きと言われたこともありませんわ」

「学園に行く年頃の男なんて、素直でもない余計なこと言う意地と見栄張ってばかりの格好つけさ」

「……わたくし、もう恋はしたくないのです」

「15の乙女が何言ってんだい。男女の恋愛なんてこれからが花だろうよ」

「……そうなのですか?」

「ああそうさ。今に見てな。今までおまえさんに素直になれなかった連中からわんさかお誘いが来るだろうよ」

「わたくしハトリ様という婚約者がおりますわ」

「結婚するまではいないのとおんなじだよ」

「……」


 もしゅもしゅとヤエばあちゃんが服を洗う音が響く。

 (たらい)の泡はこんもりとしていて柔らかそうだ。


「ハトリ様に会いたいですわ」

「……おまえさん、無自覚なのかい?」

「なんのおはなしですの? そんなはずはありませんわ」

「……そうかい」

「食事をすっぽかしてしまって謝らないといけませんの」

「……その格好でいくのかい」

「ほかに着れる服がなくて」

「そこ出て左が衣裳部屋だよ。好きに選びな」


 ヤエばあちゃんは洗濯を続ける。

 視線はすでに洗っている服に向けられている。


「……ヤエばあちゃん様」

「なんだい」


 彼女の目線は動かない。


「ありがとうございました。昨日も、今も」

「……」


 やはり目線は動かない。

 服を洗う手はとまらない。


 マドカはぺこりと頭を下げて、脱衣部屋の引き戸を閉める。


 ガラガラという音に紛れて、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた気がした。





 がちゃり


 『衣裳(dressing)部屋(room)』と書かれたプレート付きの扉を開ける。


「……お洋服がこんなにたくさん」


 色とりどりのドレスやワンピースが部屋の奥までずらりと並んでいる。

 マドカだって女の子だ。

 可愛らしい服に胸が躍る。


「おやおやおや。ようこそ、待っていましたよ」


 しわしわとした柔らかい声が聞こえてマドカは視線を移す。

 もちろんそこには小さなおばあさんがいた。

 右手にコーム、左手に化粧箱を持ち、薄いピンクのエプロンをしている。

 その目は穏やかな橙色だ。


「どなたですか」

園丁(にわし)のハナよ」

「……ハナばあちゃん様」

「まあ! まあ! なんて綺麗なお嬢さんかしら。さあさあ好きなお洋服を選んで」


 焦ったせいか、足がもつれる。

 コケッと転びそうになり、マドカはなんとか踏みとどまる。


「慌てなくても大丈夫よ」

「でも早く謝りに行かないと」

「気にしなくっていいのよぉ。さっき家のみんなが順に来て、どっさり洋服を置いて行ったの。それまでこの部屋はすっからかんだったんだから」

「こんなにたくさんの服をですか」

「ええそうよ。どれもあなたに似合いそうだとみんなにこにこしていたわ」

「……わくわくして、嬉しいですわ」

「こゆるぎもしない仏頂面のままシトリン×シトリン(高級ブランド)のお洋服を抱えきれないほど持って、スキップしながら部屋とここを五往復したおバカ丸出しドアホ宰相令息に言ってごらんなさいな」

「……」

「きっと一日中スキップするようになるわ」


 まあおかしい、とふわふわ笑うハナばあちゃん

 三人の中で一番切れ味の鋭い辛辣な表現だったわとマドカは思った。


「これにしますわ」


 マドカが選んだドレスは深緑の上品なものだった。

 長袖で、手首のところがふわっとしている。

 腰に同じ色の帯のようなリボンを結ぶ、ゆったりとしたものだ。

 

「ふふふお目が高いわね。あなたによく似合いそう」


 マドカは着ていた服を脱いで、ドレスに袖を通す。

 露出の少ないかわりに、くびれがくっきりはっきりわかる。

 ふくらんだスカートに、ぽんと心が跳ねるのがわかる。


「綺麗な服……」

「ええ、とってもお似合いよ。さ、こちらにお座りなさいな」

「はい」

「こんなに素敵なお嬢さん、わたしの鍛え上げられた指先が疼いてしまうわ」


 ハナばあちゃんのしわしわの指が丁寧にマドカの髪に触れ、まるで魔法のように結い上げていく。

 その手で一体どれほどたくさんの花を慈しんできたのだろう。

 マドカは鏡を見る。

 こんなにうれしく楽しいのに、相変わらずの無表情が映っている。


「笑顔のない、つまらない顔ですわ」

「あら、わたしにはとってもうれしそうに見えるけれど」

「……」

「笑顔はいいものよ。嬉しい楽しい面白い、それら全部を教えてくれる。けれど本当の気持ちを隠すのもまた、笑顔なのではないかしら」

「……わたくし嬉しかったのです。みんなが褒めて、笑ってくれたから」

「ならばそうおっしゃいなさいな。笑えないのなら言葉で。言葉がだめなら行動で。伝えることをさぼってはダメよ」

「……まだ間に合いますか」

「ええもちろん」

「もう一度、恋ができるでしょうか」

「あら、失恋を経験済み?」

「はい」

「あらあらまあまあ! こんなに別嬪な子をよく振れたものね」

「ほかの子のことが好きだったんです。もう名前も思い出せませんが」

「それでいいわ。どうせその名前はもうあなたにとって大した価値もないのだもの」

「え?」

「あなたが恋をしたくなくなるほどの何かがあったんでしょう? 覚えておくようなことではないわ。どうせ覚えておくのなら、自分を大事にしてくれる人になさい」

「はい」

「できたわよ」


 マドカの黒髪は耳の後ろで艶やかに編み上げられ

 ハナばあちゃんが手入れしている庭の花だろう、生花が華やかに彩っていた。


「ハトリ様は、綺麗とおっしゃってくれるでしょうか」

「もうお忘れかしら? ちなみにその服はシトリン×シトリンよ」

「……すきっぷ」

「ええ。自信を持って行ってらっしゃい」

「はい」


 扉を開け、ハナばあちゃんはふわりと笑うとマドカの後ろに回り込んだ。


「……ハナばあちゃん様」

「なあに?」


 マドカの背後から返事が聞こえた。

 彼女の顔はマドカには見えない。


「ありがとうございました。昨日も、今も」

「……」


 返事はない。

 代わりにとんっと背中を押される。

 マドカの後ろで扉が閉まる。

 それが閉まるか閉まらないかという瞬間、ふふっと笑う声が聞こえたような気がした。


 閉まったドアに頭を下げて食堂へと向かう。


 マドカの足音は弾んでいる。

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