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4 マドカ=クジョウは笑わない4


 こんこんこん


 しばらく見つめ合っていたハトリとマドカはノックの音に同時に反応して扉の方を向く。


 がちゃり


「お茶が入りました」


 入ってきたのはミノルだった。

 まるで見計らったていたかのようなちょうどよいタイミングである。

 その後ろにもう二人いた。

 ひとりはシワひとつ、汚れひとつない真っ白なコックコートを身に纏った50代くらいの女性。

 もう一人は30代くらいの若い男性だった。

 お湯の入ったポットと茶葉とカップを乗せたワゴンを押している。


「ここの料理人をやっておりますミエコ=ミソノと申します」


 やや大きなコック帽を外し、丁寧に頭を下げる男性。

 その後ろで男性もぺこりと頭を下げた。


「ハトリ様付の侍従のタクマ=ニカイドウです」


 マドカもまたそれに応えるように丁寧に礼をした


「はじめまして。マドカ=クジョウと申します。お二人とも、お世話になります」

「なんって礼儀正しいお嬢さんなんでしょう。こちらこそよろしくお願いいたします」

「ああ本当だ。こんな美しい方をお嫁にもらえるなんてハトリ様は果報者でございますなあ」

「ありがとうございます」


 優しい人たちだなあとマドカは思った。

 ほんわかとした空気が満ちている。

 笑わないマドカにはおよそ似つかわしくないその空間に、何の違和感もなく受け入れてくれることが嬉しかった。


「マドカ嬢、さあどうぞこちらに座ってください。クッキーを焼きました」

「運がいいなマドカ嬢。ミソノの菓子はうまい」

「ハトリ様、お茶が冷めてしまいますので先に休憩になさってください」

「いやしかしだな、この書類は明日までに提出しなくてはいけないもので……」

「つべこべ言わずにお座りください。マドカ嬢に嫌われますよ」

「マドカ嬢、仕事ができる男は嫌いか?」

「けじめのあるお方が好きですわ」

「よしタクマ、今日の茶はなんだ」

「おお! ハトリ様が言うことを聞いた」

「この手は使えそうですなあ」


 そのままみんなでテーブルを囲んだ。

 わいわいと話に花が咲く。

 使用人もみんな一緒にテーブルを囲むのはクジョウ家(うち)とおんなじだ。


「どうですマドカ嬢。最近お仕事の方は」

「おかげさまで順調ですわ」

「今は何の研究をしていらっしゃるんですか」

「クニオ=ケヤキダ氏の『トヲノ物語』という本ですわ。民俗学の生みの親とも言われる彼の生い立ちを背景にした考察を立てているところですの」

「トヲノに伝わる民間伝承を集めた説話集だったか」

「そうです。不可思議なお話が多いのですがどこかおそろしさのある作品でして。でもどうしてかあたたかくて、ふっと気がつくとまるでその地に迷い込んでしまったような心持ちになりますの」

「まさにそんな感じの『家』のお話も入っていなかったか?」

「カッパリアという想像上の生き物も登場します」

「カッパリア……『スモウ』という勝負事をする頭の上にお鍋を乗せた生き物だな」

「お詳しいのですね」

「……わくわくしてるマドカ嬢も可愛いな」

「声に出てる出てる」


 マドカが『トヲノ物語』の話をした途端、ハトリの顔がぱっと輝く。

 これだけ見るとまるで小さな子どもみたいだわとマドカは思う。

 『トヲノ物語』は文学界では常識と言っていいほど有名な作品だが、そこを離れると知っている人は少ない。

 とくに若い人で知っている人はほとんどいない。

 この人も本がお好きなのかしらとマドカは考えた。


「ハトリ様の部屋、本しかありませんもんね」

「本はとてもいい。登場人物の気持ちは作者が全部書いてくれる」

「うわぁ」

「書斎何部屋でしたっけ」

「三階は全部書斎だから……たしか五部屋」

「誰だうわぁって言ったのは」

「ぼくですハトリ様」

「みんな心の中で言ってましたよ」

「……ヒロサキ」

「いえなにも」


 テーブルの中央に置かれたクッキーの乗ったお皿に手を伸ばす。

 焼きたてのそれはマドカの口の中でほろっと崩れた。


「わ、おいしい。ココアアーモンドですわ」

「たくさん召し上がってくださいな」

「はい」

「クッキー食べてる。かわいい」

「だから声に出てるんだって」

「好き嫌いはございませんの?」

「なんでもおいしくいただけますわ」

「えらいなすごいなかわいいな」

「韻踏んでやがる」

「もうだめだコイツは」


 さくさくさくと

 一同がクッキーを()む音が響く。

 おいしいものを口にするとき人は大抵無言になる


「このお屋敷にはあと何名の方がいらっしゃいますの?」

「あとは掃除婦のトメばあちゃんと」

「洗濯婦のヤエばあちゃんと」

園丁(にわし)のハナばあちゃんだね」

「そのうち会えますよ」

「楽しみですわ」

「……女装してみるか」

「絶対やめてください」

「男を釣ってきそうだこわい」

「マドカ嬢のお部屋しか用意はありませんからな」


 三枚並んでいたクッキーのお皿はあっという間にすっからかんになった。

 タクマが淹れたお茶を口に含む。

 食後にちょうどよい温度になるよう調整されていたのだろう。

 熱すぎず、おいしい。


「もうこんな時間か。そろそろ腰を上げねば今日の分が終わらん」

「夕食には来てくださいね」

「今まで私が夕食を抜いたことがあるか?」

「100回くらいありますね」

「……」

「ミエコ様のつくる夕ご飯、楽しみですわ」

「今日からおれは行くぞちゃんと行くからな」

「腕によりをかけて作りますね」

「ますます楽しみですわ」

「楽しみなマドカ嬢可愛い」

「もうほんとやかましいなこの人」


 そうしてハトリは仕事机に戻り、マドカはミノルについて長い廊下を歩いていた。

 マドカの住む部屋を用意してくれたというのでそこに向かっているのだ。


「ね。大喜びでしたでしょう」

「ええ。少し照れてしまいますわ」

「坊っちゃんがあんなに早く顔と名前を覚えたのは初めてですよ」

「それは光栄ですわ」


 部屋にたどり着いた。


「こちらです」


 かちゃりと扉が開く。


「わ」


 なんて素敵な部屋だろう。

 とくにあのベッドがいい。

 見るからにふかふかそうだ。


 家具もいいものばかりだ。

 クジョウ家は回ってきた予算のほとんどを研究費に充ててしまうので侯爵家にしては質素な生活である。

 布団も固くはないが、大きくてふっかふかのベッドは我が家にはない。

 不満があったわけではないが、マドカはふかふかのベッドに淡い憧れがある。

 ぼふっとやってみたい。

 ぼふっと。


「夕食の時間になったらまた迎えに伺います。今日はおそらくハトリ様もご一緒に行かれるかと」

「わかりました」

「何か御用があればなんなりとお申し付けください。そこのベルを鳴らしてくだされば向かいます」

「はい」

「もし緊急事態でしたら強く三度鳴らして、その後できる限り長く鳴らし続けてください」

「はい」

「お隣がハトリ様の部屋ですが、重々言って聞かせておきますのでご安心を」

「ご心配なさらずとも彼なら大丈夫ではありませんか」

「よくお聞きくださいマドカ嬢。隣の部屋で可憐なお嬢さんがお休みになっているのを知っていて大丈夫な若い男はこの世に存在いたしません」

「……」

「どんなに真面目そうな顔をしていても男は男でございます」

「よくわかりましたわ」

「それではどうぞごゆっくり」

「ありがとう」


 扉が閉まる


「……面白い方たちだったわ」


 まだなんだかふわふわした心地がする。

 家族で出かけた日の帰り道のような感覚だ。


 今日の疲れがどっと押し寄せ、猛烈な眠気がマドカを襲う。


 気合で体に力を入れて

 家から送られていた荷物をほどきながら、夕食に着ていく服はどれにしようかとマドカは考えた。

 今着ている服はかっちりとしているのでたくさん食べられないのである。


「……みどりにしようかしら」


 ボストンバッグを開けた瞬間パッと目に飛び込んできたのは、ゆったりとした柔らかい生地の、薄緑のワンピースである。

 コルセットではなくお腹の部分にあるリボンを巻いて結ぶので締め付けを気にせずにたくさん食べられる。


 着ていた服を脱ぎワンピースに着替えると、解放感がとてつもない。

 マドカはぼーっと空を眺めた。


 面白い人たちだった。

 同じ時間を過ごすうちに、ゆっくりゆっくりハトリのことが、彼らのことがわかってくるのがマドカには嬉しかった。

 もっともっと知りたいと思った。



 マドカはふかふかのベッドの前に立つ。


 ぼふっ


 なるほどこれはたしかに至福だわとマドカは思う。

 洗い立てなのだろう。柔らかいリネンはお日様のにおいがして、まだあたたかい。

 ヤエばあちゃんが洗ってくださったのかしらと思う。


 仰向けになって部屋の清潔な空気を吸い込む。

 ちらりと横を見るとテーブルの花瓶の上にはまだ鮮やかに咲くシャルリスが生けられていた。


 きっとトメばあちゃんが掃除し、ヤエばあちゃんが洗濯をし、ハナばあちゃんが部屋を飾っていったのだ。

 会ったらまずはお礼を言おうと決める。


 ハトリ様はやはり変なお方だわとマドカは思う。

 無表情で笑わず、可愛げの欠片もないだろうマドカをかわいいかわいいと言う。

 かわいいのはあなたですわと何度言おうと思ったかわからない。

 本の話をしていた時のきらきらとした萌黄が、目を閉じるとまぶたの裏に映る。

 彼が人前で笑わないなんて考えられない。


 まぶたがとろりと落ちかけて、あわてて見開くのを何度か繰り返した。

 起き上がれる気がしない。


 先ほどは服を着ていたからと何とか堪えていた眠気はついに臨界点をこえ、落ちてくるまぶたをふたたび持ち上げるのもおっくうだ。

 お夕食がまだなのにとマドカは思った。

 眠ってしまったら逃してしまう。それはいやだ。


 今日のごはんは何かしら、ミエコのスペシャルなごはんに違いないわと考えて必死に脳を動かしてみる。


 まだだ。まだ起きていなくては。


 ハトリはどんな顔で迎えに来るのだろう。

 笑っていたら嬉しいな。

 喜んでいたら嬉しいな。


 ハトリの顔を思い出す。

 仕事をしていた時の真剣な表情。

 皆で話しているときにふわりと緩む綺麗な顔。

 本の話をした時の子どものように明るい頬。


 彼が私の婚約者なのかと今更ながらに思う。

 自分の婚約者が、ハトリでよかったとも。


 だから起きていなくては。

 眠るわけにはいかない。

 ハトリとミノルとタクマと一緒に食堂に行って、ミエコのご飯を食べるのだ。


 ゆっくりと視界が暗転する。


 奮闘むなしく、マドカはすとんと眠りに落ちた。




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