3 マドカ=クジョウは笑わない3
コンコンコン
クジョウ家に縁談が持ち込まれてから二日経ち、マドカはイチノミヤ家の門をたたいていた。
「ごめんください。マドカ=クジョウでございます」
ずもももも、と物々しい音を立てて門が開く。
中から現れたのは、大きな門には不似合いなほっそりとした男性
老齢だがシャープな眼差しを失っていないその紳士は、一部の隙も無い完璧な礼を披露した。
マドカは思わずわーっと拍手したくなった。無表情で
「はじめまして。マドカ=クジョウと申します。以後、お見知りおきを」
「イチノミヤ家使用人のミノル=ヒロサキと申します」
「お出迎えどうもありがとうございます」
「とんでもないことでございます。応じてくださるとは思いませんでした」
「……わたくしも驚いていますわ」
ミノルの言葉から「あの(親バカで有名な)クジョウ侯爵の愛娘が」という二重の含みを感じる。
あの『彼に嫁ぎたいですわ』宣言のあと、マドカは侃々諤々の混沌と化した我が家の面々を何とか説き伏せることに成功した。
たぶんおそらくきっと、彼らの誰もまだ心から納得してはいないだろうが。
「我がイチノミヤ家にとっては僥倖でございます。よろしくお願いいたします」
「そう言っていただけると光栄ですわ。よろしくお願いいたします」
てくてくと、ミノルについてマドカは歩く。
季節は初春
屋敷のあちこちに植えられた草花が、咲くときを今か今かと待っている。
天気は晴れ
見上げれば鮮やかなブルー。マドカの瞳と同じ色である。
屋敷は広大だった
より正確に言えば、屋敷の庭が広かった。
ほどよく、決して植物の生を害することのないように手の入った庭
そこかしこから春の気配がする。
てくてく てくてく
「……ミノル様」
「はい」
「聞いてもよいかしら」
「なんなりと」
「ありがとうございます」
てくてくてくてく
歩きながらマドカは尋ねた。
「ハトリ様は今どちらに?」
「執務室に」
「どうして?」
「旦那様から与えられた仕事をこなしておいでです。重要な秘密書類もございますゆえ放置するわけにもいかず」
「そう。ごめんなさい。お邪魔になりはしませんか」
しゅんと下がったマドカの肩に紳士はそっと手を触れた
「おやめくださいマドカ嬢。日時を指定したのはわたくし共の方です。どうかお気になさらず」
「ありがとうございます」
「執務室にお通しするようにと言われておりますので、そこでお会いになれるかと」
「わかりましたわ」
てくてくてくてく
ようやく玄関にたどり着く。
屋敷はレンガ造りの温かみのある建物だった。
そして見上げるほどに大きい
「この屋敷には一体どれだけの人が住んでいらっしゃるの?」
「ハトリ様と私と、ほかに古参の使用人が幾人か」
「……それだけ?」
「宰相であらせられる旦那様とその奥様は別の屋敷におられます」
「……あの、こんなことを聞くのは間違っているかもしれないのですけどもしや、ハトリ様とご両親は……」
「ご安心ください。不仲なのではございません。なにぶん忙しい方たちですので」
「そう。ならよかった」
マドカはほっと胸をなでおろす。
それを見たミノルが穏やかに微笑んだ。
てくてくてくてく
長い廊下を歩き、広い階段を上る。
なんて立派なお屋敷だろう。
絵本の中から抜け出してきたみたいだわとマドカは思った。
「ハトリ様は、こんな不愛想な女が嫁ぐのが嫌ではないのかしら」
「むしろマドカ嬢の容姿なら大喜びでございましょう」
「笑わない方が楽ですものね」
「……」
「何かおかしなことを言ってしまったかしら」
「いえ。そうではなく」
「……?」
「着きましたよ」
ミノルが立ち止まったのは木目調の美しい大きな扉の前だった。
『仕事中』と書かれた看板がぶら下がっている。
書類をさばくネコのイラストが、そこはかとない哀愁を感じさせる。
「……この看板が裏返る日は来るのかしら」
「それは言わないお約束でございますマドカ嬢」
「……」
そのネコのイラストに、吹き出し付きで『これが終われば休み!』と書かれているのがなんとも痛々しい。
「……休めるのですか?」
「そうであればマドカ嬢をきちんと出迎えられたでしょうな」
「……間違いありませんわね」
これだけ忙しかったら夫婦の時間などなさそうだわとマドカは思った。
なくても別に構わないのだが。
着てきたスカートの裾を払い、一つ大きく息をはく。
「よし。準備万端ですわミノル様」
「かしこまりました。では参りましょうか」
「はい」
コンコンコンとノックを三度
がちゃりと扉が開く。
部屋の中央に置かれた執務机に男の人が一人座っている。
扉が開いたのにも気づかずに、真剣な顔で書類に何か書いていた。
少しのムラもないまっしろな髪は耳の後ろで短く切られており、前髪は少しだけ長い。
柔らかそうなそれは、彼がペンを走らせる空間にはらりと落ちた。
それを合図に、手を止めた男性はふと顔をあげ、マドカの方を見た。
澄んだ翡翠のようなおだやかな萌黄色の瞳が、少しかかった前髪の向こうからこちらを向く。
綺麗な顔をしていた。
派手さはないが、一つ一つのパーツが形よく、ちょうどよく配置された整った顔だった。
全体的に、雪っぽい。生真面目そうな顔立ちの、いたって普通で何の変哲もない男の人だ。
彼はちらりとマドカを見て、まるで幻覚でも見たかのように眉を顰める。
それから背もたれに寄りかかると、ふーっと長い息をはいた。
目を閉じぐりぐりと眉間を揉む。
ぐりぐり ぐりぐりぐり
そしてもう一度マドカを見る。じーっと見る。
じーーーーーーっ
「ヒロサキ」
「はい」
「おれはもうだめかもしれない。ついに天の国からお迎えが来たらしい」
「なにを言っておられるのかわかりかねます」
「聞いて驚け。……今部屋に天使がいる」
「マドカ嬢です。クジョウ家の」
「……」
がったーん! と部屋に大きな音が響き渡った。
椅子が倒れる音である。
侯爵家はどこも似たような音がするものらしい。
「……マドカじょう……」
「はい。侯爵令嬢で、文学者で、ハトリ様の婚約者になるマドカ嬢でございます」
「婚約者……おれの……」
「はい」
「おれに、会いに来た……?」
「はい」
マドカはぺこりと頭を下げた。
無表情で。
「婚約者……おれの……」
「まだやるんですかそれ」
「待て待つんだヒロサキ、……ウェイトウェイト。状況を整理したい」
「整理するほどの情報量はないです」
「量はなくとも規模がマンモスだ処理に時間がかかる」
「さっさとまじまじ見つめて恋に落ちましょうよハトリ様」
「いやだめだ。足掻くぞおれは」
「悪あがきですよ」
「人は皆ジャガイモ人は皆ジャガイモ人は皆ジャガイモ……」
「ジャガイモに謝れ」
「ごめんジャガい」
「混ざってる混ざってる」
この二人面白いわと思いつつ、マドカは執務机に近づく。
無論、無表情で。
「ハトリ様」
「……」
「はじめまして。マドカ=クジョウと申します。文学者をしております」
「……」
「縁談をいただきまして、ありがとうございます。謹んでお受けしに参りました」
「……どうして」
「色恋というものが面倒になりまして」
「おれの噂を知らないのだろうそうだろう。いいかマドカ嬢よく聞くんだおれは……」
「存じております。人の心がわからない冷徹宰相令息ですよね」
「……改めて言われると胸にグサっと来るものがあるな」
「クるものの間違いでございましょう」
「何か言ったかヒロサキ」
「いえなにも」
マドカ自身、実際本人を前にしても、彼が人の心がわからないようには思えなかった。
眩しそうに顔の前に手をやるハトリ。マドカの後ろは壁である。
「ご存知でしょうが、わたくし笑えないことで有名なのです。そんなわたくしでもと言ってくださる方はこの先現れないでしょう。ならばたとえ愛無き政略結婚だったとしても、あなたに嫁ぎたいと思ったのです」
「……お、おお?」
「いただいた封筒、拝見しました。あんな風に丁寧な手紙をくださる方ならきっと愛はなくとも大切にしてくださると……」
「ちょっと待つんだマドカ嬢」
「はい」
ぽふっとマドカの口を塞ぐようにハトリの手が触れ、マドカはおとなしく待つ。
大きな手のひらだなあと思った。
少し骨ばっている、男の人の手だ。
マドカがじっと彼の手を見ていると、ハトリは我に返ったようにあわてて離した。
別にそのままでもよかったのに。
「君は今回のおれの求婚をどのように認識している」
「? ハトリ様はわたくしを愛する妻としてではなく、ともに家を盛り立てる協力者として婚約を結びたいとお考えなのでしょう?」
「まったく違うが?」
「……へ?」
となりでミノルがあちゃーと額に手を当てた。
ハトリは片手で顔を覆って天井を仰いでいる。
「あ、あの。『お前を愛することはない』と言われるつもりで来たのですが……」
ハトリがガン見してくる。
それはもう、これぞガン見だと示さんばかりのガン見である。
「どうしたらいいヒロサキ」
「ご自分で蒔いた種かと」
「何の拷問だこれは」
「ご自分でなんとかなさいませ」
「助けてくれ。こんななんかもう奇跡みたいにぜんぶ可愛い子を愛してはだめなのか?」
「……ハトリ様……」
「おいやめろヒロサキあわれなものを見る目で見るな!」
「お茶を淹れてまいります。おーい、ミソノ!」
「おい待てヒロサキ置いて行くな頼むからおいヒロサキーー!!」
がちゃ ばたこん
執務室の扉が開いて、閉じた
部屋の中にはハトリとマドカだけが取り残される。
ハトリ様もミノル様も、やはり愉快な人たちだわとマドカは思った。
「ちょっと待つんだマドカ嬢いったん冷静になろう」
「わたくしはいたって冷静ですわ」
「そうだな変なのは俺だ間違いない少し待ってくれ」
「呼吸を忘れないでくださいまし」
「すーーはーーすーーはーー」
「……」
小休止
「まず大事な大事な確認をしたいのだがいいか?」
「かまいませんわ」
「君は、おれが君を愛さないと思ってここに来たそうだな」
「はい」
「では、おれが愛すると言ったら帰ってしまうのか?」
「……いいえ」
「それはどうして?」
澄んだ翡翠がマドカを見つめる。
「わたくしはもう、恋をしたくないのです。傷つくのが怖くなってしまいました。だとしたらわたくしの選択肢にあるのは恋愛ではない結婚だけですわ。先ほど申し上げたとおり、笑えないわたくしにこの先このような良縁が舞い込んでくるとは思えません」
「そんなことはない絶対」
「ありがとうございます。お優しいですわねハトリ様は」
「まずいぞこの子は性格がいいぞああまずい胸が高鳴ってしまう」
「……妻に迎えてくださるだけでなく、笑えないわたくしでも求めてくださる方に嫁げるのであれば、こんなにありがたいことはありませんわ」
「きゅん」
「……それに」
「……」
なんだろう。想像と違いすぎて、シミュレーションしていたことのどれも当てはまらない。
面白い、とマドカは思った。
面白い。なんて面白い。
叶うことならずっと、そう感じながらマドカは生きたい。
笑えなくとも、恋はなくとも
どうせ一度きりの人生
生きるならより面白い方へ
「このお屋敷は少し、我が家に似ておりますわ」
縁談が来た日のクジョウ家を思い出し
先ほどのハトリとミノルの会話を思い出し
マドカはグッと喉の奥を鳴らした。




