12.宰相令息は譲らない
朝
マドカは郵便受けまでの道のりを歩いていた。
そろそろトールから二通目の手紙が届くころだろうと思ったからだ。
一通目には、今度遊びに行くので都合のいい日を教えてくださいというなんとも礼儀正しい文面の手紙が空色の封筒にちょんと入っていた。
きっと以前イチノミヤ家の食堂に突撃お宅訪問してきたときはよほど慌てていたのだろう。
おそらく、元は真面目な子なのだ。
一通目にはもう一つ、薄紅色のかわいらしい便箋も入っていた。差出人の名前にはレーナ=サンゼンとある。
そこには『ありがとうございました。でもトールは譲りません』と書かれていて、読んだときはそれこそ心臓がぎゅるんぎゅるん鳴り、本気でわたくし死ぬんじゃないかしらとマドカは思った。
もしそれで死んだら『ぎゅるん死』だわなどと新しい死因名を考えてみたりしていたので、部屋に掃除に来たトメばあちゃんに『早まるんじゃないよ』と普通に心配された。
そんなことを思い出しながら、ハナばあちゃんの整えた庭をずんずん歩く。
遠くでヤエばあちゃんが洗ったのだろう洗濯物が風に揺れている。今日も真っ白で大変清々しい。
ぽかぽかとした陽気。晴れ渡る青空。吹く風は花の香りがする。
春である。圧倒的春である。
「マドカ嬢」
ビックゥゥゥとマドカの体が反射で跳ねあがる
「!?」
「!?」
マドカが振り返るとそこにはハトリが立っていて、マドカが驚いたことに驚いている。
二人はしばらく見つめ合った。
両者の脳内に浮かんだハテナマークが消えるまでの三秒ほどの間、場に沈黙が落ちる。
「……お、おはようございますハトリ様」
「あ、ああ。おはようマドカ嬢。驚かせてしまったようですまない」
「い、いえいえ。一人だと思って気が緩んでいたものですから」
「そ、そうか。……いいんだぞマドカ嬢。気を緩めて」
「え、ええそういたしますわ」
(なぜかしら……)
ハトリの顔をまっすぐに見れない。さっきまで見つめ合っていられたのが不思議なくらいだ。
不自然にならないようにさりげなく視線を外そうと試みるも、不思議そうな顔をしたハトリがのぞき込んでくるのでうまく逸らせない。
その萌黄色の瞳がマドカをじっと見ている。まっしろの柔らかい髪がさらりと落ちる。
「え、ええと! ……その、ハトリ様も郵便受けを見に行かれるのですか?」
なんとか体の向きを変え、ついでに話題も変える。
けれど言葉がのどの奥に引っかかったようにうまく出てこない。
ハトリは少し違和感を感じたように見えたが、追及することなくマドカの問いに応じた。
「ああ。最近の楽しみなんだ。手紙が入っていても入っていなくても」
「入っていなくても……ですか?」
「郵便受けを確認するのは、手紙が入っていることがあるっていうのが前提だろ?」
「それは……」
「イチノミヤに仕事書類以外の手紙なんて来たことなかったから」
マドカはなんと言えばよいのかわからず、結局沈黙する。
「ところで、先ほど郵便受けを確認するのが楽しみだとおっしゃいましたよね。その、大変申し訳なくは思っているのですが、もうわたくしが確認を済ませてしまっていまして……」
「ああ、それはいいんだ。今日はそれ以上にいいことがあったし」
「なら、ようございましたわ。唯一の楽しみを奪ってしまっていたらどうしようかと……」
「俺はそんなにつまらなそうに見えるかマドカ嬢。毎日るんるんで過ごしているんだが……」
「るんるん……」
ハトリには到底似合わなそうなオノマトペが飛び出てきたので、マドカはつい、ぐっと喉を鳴らした。
いつもであれば周りにヒロサキやニカイドウ、ミソノがいるのでもっと危なかったはずだ。
最近、自分の表情筋が我慢を忘れてきているとマドカは気づいていた。
以前なら堪えることができた衝動が、ここに来てからはうまく捌けないのだ。あまりにもやさしい家だから。ここなら、自分が笑っても誰も馬鹿にしないのではないかと勘違いしてしまいそうになるほどに。
ここは我が家じゃないわ、と浮足立ってくる自分の心にマドカは必死で冷や水をかける。
かけても冷めない熱には、気がつかないふりをして。
***
「最近俺の婚約者がかわいい」
「最近じゃなくていつも思ってるんでしょう。いい加減にしてくださいよ。だらしない」
「かわいい婚約者に会いに行くには、まずはやはり時間というものが必要だと思うんだ」
「そうですね。さっさと片付けてその時間とやらをおつくりになればよろしい」
執務室で仕事をこなしながらのハトリの発言は毎度のことながらばっさりぶった切られた。
誤魔化されませんよ、とヒロサキが大量の書類を机に置く。
まったく。情もなにも無い鬼かこの執事は。
「まあ冗談はさておいて」
「あ、今の冗談だったんですか? わかりにく」
「さておいて!」
この執事は、いち発言ごとにハトリを貶さないと死ぬ病にでもかかっているのだろうか。
「最近、マドカ嬢の表情がずいぶん柔らかくなったと思わないか。ここに来たばかりのときは小動もしない無表情だったのに」
「そういえば、そうでございますね。ですが、それが何か? マドカ嬢がこの屋敷を気に入ってくれているのであれば、それは良いことではありませんか」
「いや、問題はそのことじゃなくてだな」
「じゃあなんです」
「ヒロサキも見たことがあるんじゃないか? マドカ嬢が嬉しそうなとき、ぐっと喉を鳴らして堪える癖があること」
ハトリは今朝のマドカの様子を思い出していた。
自分が「るんるん」と口にした時の、愛しそうにこちらを見る空色の瞳も。
「それはまあ、ありますが」
「つまり彼女は『笑えない』んじゃなく、『笑わない』んだ。もしかしたら、俺の態度がそうさせているのかもしれんと思って。ほら、マドカ嬢が初めて我が家に来たとき、この結婚は政略結婚だったと勘違いをしていただろう?」
「あなただけが一方的にこれは恋愛結婚だと勘違いしている可能性は否定できませんがね」
「おいなんで考えないようにしていたこと言うんだよ泣きわめくぞ」
「めんどくさいのでやめてください」
そう言いながらも、ハトリの言うことはたしかにそうかもしれないとヒロサキは思った。
さっきはああ言ったが、マドカ嬢が、ハトリのこともこの家の使用人のことも気に入ってくれているのは、まず間違えようもない。
そうなってくると、彼女が『笑わない』理由が見つからない。
「マドカ嬢が自分の笑顔を嫌っているのは知っているが、それでもこの家でくらい、何も考えずに素直に感情を示してほしいというのは、贅沢だろうか……」
「まあ、マドカ嬢も我々を困らせたくてそうしているのではないことくらい、坊ちゃんもお判りでしょう。それとも、『笑わない』マドカ嬢では何か不満があるのですか?」
「ちがう! それは断じてない! 天地がひっくり返ってもない!!!」
「ならよいではありませんか」
ハトリもわかっている。自分のこの気持ちがとても身勝手で、ことによってはマドカを傷つけうるということも。
笑ってほしいだなんていうのは自分のエゴで、ましてマドカに押し付けるものでもない。
「ヒロサキ、これは笑わないで聞いてほしいんだが」
「内容にもよりますね」
「俺の一番古い記憶の中のマドカ嬢はな、とびっきりの笑顔なんだ」
はじめてマドカ嬢が我が家に来て、一緒にツワブキの間で遊んだ時のこと。
ハトリが、自分で作ったフユシロギツネの紙工作を手渡すと、まるで花が咲いたように笑ってくれた。
「彼女が笑いたくないのであれば、俺はそれでもかまわない。でも、もしそれが誰かに奪われたものであったなら、俺は……」
「……」
ハトリは書類に走らせていたペンを置く。
「どんなに不格好でも構わない。取り戻してやりたいんだ。そしてあわよくばもう一度……」
―――俺に向かって笑ってほしい。
その身勝手な願いを、ハトリは言わずに飲み込んだ。




