10 トール=シチリは呪わない2
それは突然始まった。
前触れがあったわけではない。
劇的ななにかがあったわけでもない。
レーナがいじめられるようになった。
クラスのリーダー格の男子が始めたのだ。
レーナの靴箱にぬかるんだ泥が入っていたのを見た。
木炭でレーナの机にいろんないやな言葉が書かれていた。
ものがなくなったり、足を引っかけられたり。
それで困っているレーナを見て、つまづくレーナを見て、笑うのだ。
クスクスと
トールはもちろんそれに関わったりしていない。笑うこともしなかった。
でもなにもしていない。なにも、していないのだ。
それどころか、思ってしまった。
「ぼくは最初、ざまあみろって、思ったんです」
トールの目に再び涙が膨れ上がる。
しかし彼は切れそうになるほど唇をかんで堪えた。
自分に泣く資格はないと、そう言っているみたいだ。
「少しはレーナだっていやな思いをすればいいんだって。苦しみを味わえばいいんだって。
そう、思ったんだぼくは……」
なのに。
トールは初めて知った。
レーナが成績を維持するために、毎日図書室で遅くまで勉強していること。
水たまりに落とされてびしゃびしゃになったノートに一生懸命計算をしていた。
先生に頼まれて蔵書整理をしていたトールを手伝ってくれた。
手伝う必要なんてないと言ったら、困ったように笑ってごめんと言った。
『私と一緒にいるの恥ずかしいよね。ごめんね』
ちがうのにとトールは思った。
勉強をしているレーナの真剣な横顔が綺麗で、こっそり見ていたのを隠したかっただけだ。
勉強を続けていいよと言いたかっただけなのだ。
体育倉庫にある跳び箱をこっそり引っ張り出して、11段跳べるように練習していたこともそうだ。
体育履きを隠されてるんだから簡単に飛べなくても仕方ないのに、はだしで何度も、できるようになるまで何度も何度も。
『だれにも言わないで』
カッコ悪いって言われちゃうからと寂しそうに笑って、トールが押し付けられた体育倉庫の片づけを、さりげなく手助けしてくれた。
本当はわかっていた。
レーナが自分の印象を良くするためにトールを遊びに誘ったわけじゃないことくらい。
無言で助けてくれたのはきっと、トールがレーナを避けていることをレーナは知っていたからだ。
トールはそんな努力家の女の子に対して、『ざまあ見ろ』と思ったのだ。
羨ましかったから。妬ましかったから。
自分がその努力を怠っているのを棚に上げて、『少しは苦しめばいい』なんて思ったのだ。
レーナは何も悪くないのに。
「こんなさいあくな男、友達ができないのもなっとくだ。ひとりぼっちだって少しも不思議じゃない。ぼくがぼく自身にそう思うんだもの。でも、」
でも、レーナは違う。
レーナのような賢くて優しくて綺麗な女の子が、どうして傷つかなければならない。
どうして隠れて一人で泣かねばならない。
「早く助けなくちゃいけないのに、はやくしないと」
レーナをいじめている男子は裕福な商家の息子だった。
あとからクラスメイトが話しているのを聞いたら、レーナに振られた腹いせに嫌がらせをしているらしい。
みな自分もそうされるのを恐れて何も言えない。何もできない。
その男子はずる賢くて、先生や大人がいる前では礼儀正しく優しい。
レーナをいじめるそぶりなど少しも見せない。
大人の目の届かないすきを狙って。同調する友人に混ざって。
レーナをいじめて楽しんでいるのだ。
自分をコケにした女の子を辱めて悦に浸っているのだ。
自分を振るなんて愚か者のすることだと。どうだ、後悔したか?と。
「誰も信じてくれない。父さんも母さんも先生も、あんないい子がそんなことするわけないって言うんです。ぼくがもっと、もっとみんなと仲良くしてたら。めんどくさがらずに努力してたら信じてもらえたかもしれないのに。ぼくが、やめろよって言えればレーナが苦しむのももっと少なくて済んだのに」
また、トールの瞳に涙があふれた
「ぼくがぼくだったせいだ。ぼくが何もしないから。『ざまあみろ』って思ったから。そのせいでレーナが……」
トールは優しい子だとマドカは思った。
人の重荷を自分にも背負わせずにはいられない。
この子は自分をめんどくさがりだというが、その実、人一倍周りを見ているのだ。
だから見つけてしまうのだろう。誰かの苦しみや泣いている声を。
そしてそれをほっとけなくて、自分の非を探さずにいられない。
自分にできることが、自分を変えることだけだと思ってるからだ。
もう少し誰かのせいにしたって、罰は当たらないだろうにとマドカは思った。
「パン屋さんにたまにいる、お兄さんの話を思い出しました。イチノミヤのお屋敷に、『不機嫌な魔女』がいるって。笑わせられたら、何かの代わりに一つだけ、願いをかなえてもらえるって」
ひっくひっくとしゃくりあげながらトールは泣いた。
「誰かを呪うことが自分も呪うことになるって、ぼく知ってます。本で読んだから。でもそれでもいい。レーナがもう泣かなくて済むなら、あんな顔で笑わなくて済むなら、なんだっていいんです」
「……」
「あいつを呪ってください。あいつが不幸になる呪いをかけた罰は、ぼくに来るようにしてください。おねがいします。どうかおねがいします……」
どれほど悩んだのだろうとマドカは考えた。
なにもできない小さな自分の手を見て、誰も聞かない弱い自分の声を聞いて、この子は一体何回絶望したのだろう。
それでもどうにかしたくて、子どもの頭でなんとかひねり出した『呪う』という方法をとろうと決めた時、どれだけ不安だっただろう。
本で読んだと言っていた。きっと調べたんだろう。初めて、『人の呪い方』というものを。
『呪いは自分に必ず跳ね返ってくる』という内容を見つけたとき、いったいどれほどこわかっただろう。
「ぼくはなにかとくべつなことができるわけでも、みんなが憧れるような天才でもありません。大人からの評判はいいけれど、それもぼくがすごいからじゃない。だから……」
「だめですよ」
冷たい声音になってしまった、とマドカは少し反省した。
これでも怒っているのだ。無表情で
「どうして……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったその頬にマドカは再度ハンカチを当てる。
「そしたら誰が、レーナ様を守るのですか」
「……」
「それとも、あなた以外の男の子がレーナ様の手を取って、その子の手で幸せになればよいと、そういうことですか?」
トールのまんまるの目が見開かれた。
「レーナ様を守る役は他の人に譲ると、そう言いたいのですか?」
トールはほんの少しの間言葉の意味をかみ砕くように固まり、それから首を横に振った。
「……ちがう。いやだ。それはなんだか、すごくいやだ」
マドカは思わず両のてのひらで口元を覆った。
まだだ。まだこれは言ってはいけないやつだ。
「守りたいんだレーナを。今度こそちゃんと、守りたいんだ。もう何も奪いたくないんだ。
こころから笑ってほしいんだ。ぼくのとなりで」
マドカは心を落ち着かせるためミルクティーを一口飲む。
「レーナ様のことが、大切なのですね」
トールのまんまるの瞳が、腑に落ちた、というように柔らかく細まる。
「……うん。そうだ。そうなんだ。
努力家なところも、やさしいところも、はちみつ色のやわらかい髪も、レーナのとびっきりの笑顔も……」
マドカはカップを持つ手を下ろした。
あまりの甘酸っぱさにさっきから心臓が変な音で鳴っている。
「だからその、つまり、レーナのぜんぶが大切で、大好きなんだ……」
ぎゅるんぎゅるん言い出したマドカの心臓はとりあえずあとで存分に抱きしめることにして、マドカはミルクティーをまた一口飲んだ。
まろやかな甘さが心を鎮静させていく。よし
「トール様。わたくしはたしかに『不機嫌な魔女』という大変かっこいい二つ名をいただいておりますが、不思議な力はありません。ですので人を呪うこともできないのでございます」
トールは驚かなかった。
「お姉さんが魔女じゃないっていうのはなんとなく、わかったよ。こんなに綺麗で優しい人が、魔女だなんて想像できないもん」
「お上手ですわね。笑わないこわい顔でしょう? 笑った顔が醜いからなんとか隠しているのです」
ううんと首を振るトール。
「ぼく知ってるよ。醜い笑顔がどんなのか。口は笑ってるけど、目は人を見下して、心底バカにしてるんだ。困ってる人を見て。カッコ悪い姿にさせて、楽しんでるんだ」
「……」
「お姉さんは違うよ。絶対に違う」
「ありがとうトール様」
礼を言うと、トールは照れくさそうに頬を紅くした。
「トール様ならレーナ様を守れますわ。レーナ様のために悩んで、泣いて、苦しんだ、トール様なら。お姫様のために勇気を出して『不機嫌な魔女』の住むこの屋敷に来た、『王子様』なら」
「……」
「できますわね?」
「……うん。守るよ。ぼくが守る」
「その意気ですわ」
マドカは頷いて、また一口ミルクティーを飲む。
「でも、どうしたらレーナを守れるのか、ぼくわからない……」
トールは俯いた。
じっと己の手のひらを見つめるトール。
マドカはカップをテーブルに置いた。
「わたくし魔女である前に、文学者でございます」
「……へ?」
それがいったい何なのだ、という不思議そうな目がこちらを見つめる。
「ひとつ、ある魔法使いのおはなしにお付き合いいただけるかしら」
このあともう一話上げます




