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9 トール=シチリは呪わない1

 朝


 マドカが一番乗りで郵便受けを覗くと焼きたてのパンを想像させる淡いオレンジ色の封筒が入っていた。

 差出人の名前はエリヤス=ロクタンダ

 それを見てマドカはその場でぴょいと飛び跳ねた。

 無論無表情で。


 手紙を開けるか開けまいかしばらくその場で悩んでいると、後ろから足音が聞こえてマドカは振り返った。

 案の定、マドカの婚約者ハトリである。

 ミノルとタクマも一緒だ。


「ハトリ様、エリヤス様から手紙が来ていますわ」

「よかったな喜んでいるマドカ嬢かわいい」

「アニカ様はお父様の療養に付き添って、1ヵ月ほど温泉にいたそうですわ。北の高地にあって喘息にきくのだとか」

「逃げられたんじゃなくてよかったな」

「プロポーズも無事成功しましたって」

「それはめでた……いやいやライバルが一人減ってほっとするね」

「マドカ嬢、この人毎日郵便受け覗いてましたよ」

「おいタクマそれは話しちゃいけないとそうは思わないか」

「思わないっすね」

「……」


 きっと今日も確認するためにハトリはここに来たのだろう。

 玄関からここまでは割と距離がある。

 その道をそわそわしながら歩き、小さな郵便受けの中を奥の方まで懸命に覗き込むハトリを思い浮かべてマドカは無表情のままプルプル震えた。

 きっといや絶対、マドカの想像通りである。


 そのまま4人で食堂に向かう。

 大きな扉を開けると、今朝もやっぱり真っ白なテーブルクロスが朝の光に照らされて輝いた。

 ヤエばあちゃんがはりきって洗濯したに違いない。

 彩り豊かなサラダ、具だくさんのスープ、サクサクのトースト

 おいしそうな朝ご飯たちは、ぱきっとアイロンがかけられたクロスの上で誇らしげにほかほかと湯気を立てている


「エリヤス様、お休みの日はアニカさんのパン屋さんを手伝っていらっしゃるそうですわ」

「それはいいなきっと固いパンが焼きあがるんだろうそうだろう」

「ふかふかで、遊びに来る子供たちに大人気だそうです」

「……」


 イチノミヤ家一同の食事は今日も優雅に、和やかに進む。


「ミエコ、どうしましょう。このスープごくごく飲めてしまいますわ」

「あら嬉しい。料理の感想を貰えるなんて新鮮な気持ちね」

「おいしそうに食べる人ってこちらもうれしい気持ちになりますわよね」

「そうよね」


 それを聞いた男性陣がうまいうまいと言いながらがつがつ食べている。

 マドカはその横でまた一口スープを飲んだ。


「ところでマドカ嬢、昨日史上まれにみる速さで仕事が終わったおかげでおれは今日暇なんだ」

「それは大変喜ばしいですわ」

「それでだな、マドカ嬢さえよかったらその……」

「なんでしょう」

「今日は一緒に街にでも……」



 ダァァアン!


 ハトリの言葉を待たずに食堂に響き渡ったのは、先日も聞いたあの音である。

 一同やはりビクッと肩を跳ね上げ、そちらを向いた。


「こんにちは! マドカ=クジョウさんいらっしゃいませんか!」


 そこに立っていたのは、利発そうな顔をした男の子であった。





「ぼくの名前はトール=シチリ、8歳です。ノービアの町に住んでいます。笑わせられたらなにかと引き換えに願いをかなえてくれる『不機嫌な魔女』というのはお姉さんのことですか?」


 ツワブキの間の大きくふかふかな椅子にちょこんと腰かけ、少年は一生懸命丁寧に頭を下げた。

 そのきらきらとした目で、ミエコがもってきたプリンアラモードを一心に見つめている。


 ノーブルの町と言えば王都から少し外れたところにあるガラス工芸が盛んな町だ。

 マドカの実家のクジョウ家にも、ノーブルの職人たちが丹精込めて美しい模様を削ったガラスのタンブラーがあったはずだ。


「はじめまして。マドカ=クジョウと申します。そしていかにも、わたくしが『不機嫌な魔女』でございますわ。願いを叶えられるかどうかはさておいて」


 マドカはタクマが淹れたまろやかなミルクティーを一口飲んだ。

 甘すぎず、紅茶の渋みを程よく抑えた優しい味だ。

 トールと名乗った少年もマドカをならってカップに口をつけ、一口飲んでぱっと顔を輝かせた。

 なんて可愛らしいのかしらとマドカの胸がきゅんと締め付けられる。

 もはやわしづかみにされるような感覚を覚えながら、マドカは口元を緩めないよう必死である。

 こんな可愛らしい子にマドカの笑顔を見せたら怖くて泣きだしてしまうかもしれない。


「よろしければそちらのプリンもどうぞ」


 ガラスの器に美しく盛り付けられたふるふるのプリンをマドカが指し示す。

 本当にいいのだろうかというように、トールの視線がプリンとマドカを何度も往復する。

 念押しするようにマドカがうなずくと、トールは丁寧に礼を言ってスプーンですくって口に運んだ。


「おいしい……」

「ミエコ様に伝えなくっちゃ。きっと喜びますわ」


 マドカはまた一口ミルクティーを飲む。


「トール様、本日はどのようなご用件でこちらにいらしたの…?」


 トールが食べ終わるのを待ってマドカは問いかけた。

 無表情というのはそれだけで、子供にとっては怖いものだ。せめて声だけは努めて優しく。

 食べ終わったあとのガラスの器を持ち上げてあちこちいろんな角度から眺めていたトールは、こちらを向いて持っていたプリンの器を大事にテーブルに置きなおした。

 その肩は気まずそうに持ち上がっている。


 トールは言いにくそうにしばらく逡巡した。

 視線を左右に彷徨わせ、言おうかなやっぱりやめようかなと、そのはざまで揺れ動いているように見えた。

 なにか言おうとするように口を開いてまた閉じる、というのを何度か繰り返す。


 いったいどれほどの時間がたっただろう。


 しばらくそうした後、トールはもう一度ガラスの器をじっと見つめ、ぎゅうっと目をつむると覚悟を決めたように顔をあげた。


「ぼく『不機嫌な魔女』に、ある人を呪ってほしくて来たんです」


 1文字1文字口にするたびトールの顔は色をなくし、最後はそのまんまるの瞳にぷわーっと涙をためてトールはそう言った。

 その顔に『不機嫌な魔女』が望みをかなえてくれるかもしれないという期待は少しも存在しなかった。

 確かな後悔と、もう後戻りできないという子供が抱えるには大きすぎる不安が一緒くたになって表れている。


「それは、どなたかを不幸にしてほしい、というお願いで間違いありませんか?」


 マドカの問いに、トールの目が見開かれる。

 己が今口にした言葉はそういう意味であるのだと再認識したのだろう。

 そしてそれを皮切りに、今まで我慢していたのであろう大粒の涙が、ぽろぽろとトールのなめらかな肌の上を伝っていく。


「ぼく、ぼく……もうどうしたらいいのかわかんなくって……」


 それでもなお堪えようとしているかのように必死で零れ落ちる涙を両手でせき止め拭うトーリ。

 マドカはおろおろと己の手を彷徨わせ、せめてもと無地の白いハンカチでトールの顔を拭ってやる。

 刺繍でもしてハトリに贈ろうかと思っていたものだが、手元に刺繍糸がなくて断念したのだ。


「誰も信じてくれないんだ。父さんも、母さんも、友達も、学校の先生も。

でもレーナが……レーナはずっと苦しんでて、誰も知らないところで泣いてて、それで……」


 嗚咽を飲みこむたびに途切れ途切れになりながら、それでもなんとかマドカに伝えようと少年は必死で言葉を紡ぐ。

 マドカはそれをじっと聞いていた。


「どうにかして助けたくて……レーナにあんな、あんな悲しそうな顔、もうさせたくないんだ……」


 どうかお願いしますと、そう言ってトールは頭を下げた。

 まだマドカの腰ほどまでしかない体躯を精一杯に折り曲げて。


「お話を、聞かせていただける?」


 俯くトールにマドカは声をかけた。






「ぼく、ずっと『いい子だね』って言われてきました。いやじゃありません。うれしかったです」


 ガラス工芸の町に生まれたトールは、赤ちゃんの頃から職人たちの手元を見ているのが好きだった。

 つるんとなめらかで透き通った、何の変哲もないガラスも好きだが、それが人の手で美しい模様を刻まれていくのを見るのはもっと好きだ。

 どんなに長い時間それを見ていても決して飽きることはなかった。


 ゆりかごに乗せて仕事場に連れて行ったら、泣きも喚きもせずにただじっと1日中それを眺めていたらしく、両親からは全く手のかからない子だったと言われた。

 思えばそれがトールのいい子たるゆえんなのかもしれなかった。


 欲張りを言わないのでもなく、わがままじゃないわけでもない。

 ただ、今目の前にあるものだけで本当に満足だったのだ。

 そうじゃないことだってあったけど、あとからそれを言うのはなんだか気が引けて、結局そのままにしていただけだ。


「めんどうくさがりで、臆病者なだけなんです。だれかとぶつかって傷つくのがこわかったし、ぼくが飲みこめば済むことでした」


 寂しそうに微笑むトールを、マドカは何とも言えぬ面持ちで眺めていた。

 この子は大人な子だと思う。

 誰かが苦しむくらいなら自分に押し付けてしまえばいいと、この子は思っている。

 そしてそのことに気がつかないまま、今回も誰かの苦しみを肩代わりしようとしているのではないか。


「……」


 マドカはミルクティーを一口含んだ。


 初級学校に入学してもトールのその性質が変わることはなく、目立たず騒がずおとなしく、頼まれたことを全部引き受けていたら、いつのまにか周りからは優等生として扱われるようになった。


 本当は。

 本当は花の水やりよりも、流行っていた駒回し対決に混ざりたかった。

 本当はみんなが帰った後の教室の掃除よりも、友達と一緒にふざけて走って帰りたかった。


 でもトールに友達はいない。トールが誰のことも知ろうとしなかったから、誰もトールを知ろうとしない。


 トールの好きな食べ物がプリンなことも、泳ぎが苦手なことも、黒板消しが黒板の上にいつも届かないということも、誰も知らない。

 そしてトールも、みんなのことを何も知らない。


「レーナは王都から引っ越してきた転校生で、みんなの人気者なんです」


 レーナはいつも笑顔だ。

 元気ではつらつとしたそれは、周囲の人間をも明るくした。

 蜂蜜色の髪と柔らかいいちご色の瞳の美少女で、男女問わずみなレーナと仲良くなりたがった。


 成績もとてもいい。試験はほとんど満点だし、跳び箱も10段とべる。

 きらきら眩しくて、いつもみんなの輪の中心にいて、トールとは正反対の女の子だった。


 トールはそれがうらやましかった。トールみたいにせこせこと掃除当番を替わったり世話係を引き受けたりしなくても、みんなから好かれてもてはやされて、ずるいと思っていた。


 レーナが近くにいると自分がみじめになる気がして、トールはレーナを避けた。

 もちろん話しかけられれば応じるし、挨拶をされたら返したけれど、それ以上近づこうとはしなかった。

 何度かみんなと遊ばないかと誘われたこともあるけれど、その『みんな』の目が、レーナの後ろで語るのだ。


『え、トールも来るの?』と。


いやそうに。めんどくさそうに。断ってほしそうに。


 だからトールは首を振った。みんなで楽しんでおいでよと、ものわかりのいいふりをして。


 レーナもそれ以上言わなかったから、トールを仲間外れにしていないよ、とまわりに示すためにそういっただけなのかもしれないとトールは思った。


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