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異世界に来たのはいいけど私は料理した事ないっ!!~炊事初心者ちゃんと生活能力皆無くんと絶妙に不親切な料理本~

作者: 楽夢智

拝啓、母上殿。

未だ寒さの残る春、いかがお過ごしでしょうか。私は、この春からの一人暮らし用に借りた六畳一間のアパートへ向かう予定でした。ぐうたらで面倒臭がりな私が親の手を借りずに自立する為、会社に近く実家から遠い場所に居を構えようと、嫌々ながらも決めたのは私です。ですが、少々理解し難い事象が起きたと言いますか、不測の事態に巻き込まれたと言いますか。


「ここ……どこ……?」


何故か私は今、森の中に突っ立っております。コンクリートジャングル的な意味ではなく、富士の樹海並みの正真正銘の森の中に。どうにも会社からも実家からも遠い場所に来てしまった気がしてなりません。


誰ですか。炊事経験値ゼロの人間にサバイバル生活を強要する、千尋の谷に我が子を突き落とすライオンも真っ青な所業を行った奴は。思い付く限りのありとあらゆる暴言を吐いてやるから出てこい。



米田香菜はこの春から一人暮らしを始める予定だった、どこにでもいるような日本在住の一般女性である。あえて特筆すべき事柄を挙げるならば、実家暮らしだった故に料理を始めとする家事全般を親に任せっきりだった家事ド初心者であるという事と、それでも何とか一人暮らしは出来るさと楽観的な考えをする人となりであるという事ぐらいだ。

一人暮らしを決めた時に両親や友人や同僚から口を揃えて言われた「香菜は冷凍食品とかカップ麺とかコンビニ弁当とかばっかり食べそう」という大変失礼な、けれど一切反論出来ない言葉に燃え上がった反抗心から、本屋で初心者向けと思しき料理本を買ったまでは良かった。自分だって料理ぐらいしてやるよと息巻いて本屋を出ると、何故かそこは森の中。後ろを振り返っても先程までいた本屋の影も形もない。

しばらく呆然と冒頭の内容を現実逃避混じりに考えていると、周囲から聞こえてきたのは獣の唸り声。犬や猫のような愛らしさは勿論無い。明らかに凶暴そうな野生動物の声だった。

そして草木の間から姿を現したのは、熊のような体格と体毛にライオンのような鋭い牙を持った生物。しばし見つめ合い、およそ女性が上げたとは思えない悲鳴と共に香菜は逃げた。

その逃げた先で、一人の青年と出会ったのである。


「助かりました……本っ当にありがとうございます……っ!」


腰に提げた飾り気のない細身の剣によるたったの一振りで件の猛獣を斬り伏せた青年に、香菜はぺこぺこと何度も頭を下げてお礼を言う。平時ならば猛獣を斬り伏せた瞬間の血飛沫や猛獣の亡骸に再び悲鳴を上げているところだが、命の危機を脱した安堵の方が圧倒的に勝った。


「気にしないで……怪我はない?」


剣を鞘に納めた青年が心地よい静かなさざ波のような声で訊ねる。

濃紺の柔らかな癖っ毛、暗めなエメラルドグリーンの目、灰色の外套を羽織っただけの軽装。少々表情の動きの乏しさが気になるが、整った目鼻立ちにすらりと長い手足は所謂イケメンと呼ばれる部類だ。


「はい! おかげさまで五体満足で生きてます!」

「良かった……」


そう言って青年は微かに口角を上げて、ほっと胸を撫で下ろしていた。この人はいい人だと香菜の直感が告げる。


「あのー……おかしな事を訊くかもしれませんが、ここって、何処なんです?」

「ここ?」


おそるおそる香菜が訊ねれば、青年はキョロキョロと辺りを見回して言う。


「……………………森?」

「森」


それは見れば分かる、と香菜は心の中で突っ込んだ。


「いや、その、森の名前、とか……」

「森の、名前……そんなの気にした事なかった……」

「気にした事なかった」


確かにそこら辺の雑木林の名前なんて自分だって気にした事はないけれども。自分の聞き方が悪いのだろうかと香菜は頭を悩ませる。


「えーっと……じゃあ、近くの町の名前とか、土地の名前とか、何でもいいのでここが何処か分かるようなのって、ないです?」

「……………………分かんない」

「分かんない」


まさかこの人、迷子なのでは。そんな疑問が香菜の頭の中をよぎった。



その後、奇跡的に青年が持っていた彼曰く知らない親切な人に貰ったと言う世界地図を見せてもらい、見た事のない猛獣や銃等法違反無視で青年が持ち歩いている剣等々から薄々勘づいてはいたが、ここが日本ではないどころか異世界である事を香菜は確信した。それぐらい馴染みのある日本地図とも世界地図ともかけ離れた地形をしていたのだ。尚、地図はあるが現在地は不明のままである。勿論香菜は青年に今どの辺りにいるか訊ねている。青年の回答は「たぶん、森のどれか」だった。そうじゃなかったら私も君も困るよ、と香菜は心の中でそっと突っ込んだ。


それから香菜は、恐らく自分はこことは違う世界から迷い込んでしまった事など自分の身の上を青年に話した。引かれるか頭を心配されるかのどちらかだろうと覚悟していたが、青年は真剣に香菜の話を聞き、自分だけではどうすれば良いのか分からないけれど町に行けば分かる人が居るかもしれない、自分で良ければ一緒に行こうと申し出てくれたのだ。どちらかと言えば青年は香菜に巻き込まれた被害者である。それでも嫌な顔一つせず、むしろ香菜の身を案じる言動をする青年。香菜の彼に対する好感度の上昇量はとどまることを知らない。これでもし青年が悪人だったら人間不信になる自信しか香菜にはない。

ちなみに、現在地が分からないのにどうやって町まで行くのか香菜が訊ねた際の青年の回答は「歩けば、いつかは着くと思う」であった。長くなりそうだなぁ、と香菜は遠い目をした。


そんな好感度は高いが頼りになるかと言われたら言葉に詰まる青年の名前はローフェという。特にこれといった目的もなくフラフラと旅をしている旅人、だと思われる。いまひとつ要領を得ないのはローフェ自身が首を傾げつつ、疑問符を付けつつ、「たぶん」と自信無さげに付け加えていたからだ。嘘をついたり隠し事をするのに四苦八苦しているという風ではない。ローフェ自身も自分の現状をよく分かっていないのだろう。記憶喪失や迷子といった様子ではないが、香菜の中で好感度メーターと共に不安メーターも一緒に上がっている。


そして、今。

香菜は右手にナイフ、左手に勢いよく跳ねる魚を手にして、途方に暮れていた。


「魚って、どうやって捌くの……」


ここに至るまでの経緯はこうだ。

町を目指して森の中を進んでいると大きな川に辿り着いた。なかなか見る事の叶わない透き通った綺麗な川を香菜が興味津々で眺めていると、すぐ側からバシャバシャと水を掻き分ける音。気になってそちらを見れば、川に入ったローフェと、彼の両手に一匹ずつ握られたビチビチと勢いよく跳ねる魚。恐らく素手で魚を捕まえている。野生児かな、と思った香菜は悪くない。

焼き魚かぁ、とぼんやり香菜が考えていると、川から上がったローフェが捕まえた魚の一匹を香菜に差し出した。


「はい」

「はい?」


戸惑いながら香菜は未だビチビチと元気に跳ねる魚を受け取る。生きてる魚を手で持ったのは生まれて初めてだなぁ、なんて香菜が名も知らぬ魚を持て余していると、ローフェは両手で鷲掴みした魚を顔に近付け大口を開けてーー


「うわああああああああああ!?」


魚にかぶり付こうとしたローフェから香菜は大慌てで魚を奪い取った。突然の出来事にローフェは目を真ん丸にしてぱちくりと瞬きをする。


「せめて!! 焼こう!?」

「焼く……?」


その発想はなかったとばかりに首を傾げるローフェ。野生児だ、と香菜は確信した。

恥ずかしながら、香菜は料理に関してまるで詳しくない。けれど締めてもいない未だビチビチと跳ねる魚にかぶり付くのは如何なものかと思う。衛生的にも心配だ。寄生虫とか食あたりとかの話はニュースで流れてきたりするから知っている。どう処理をすれば良いのかとかは知らないが。火を通せば大丈夫な筈だ。


「もしかして……魚は生でかぶり付くのが一般的な食べ方だったり、しないよね?」

「…………違う、と思う……たぶん」

「お腹痛くなったりとかってなかった?」

「…………あ。ちょっと痛いな、っていうのは、何回かあった……」

「よし焼こう、すぐ焼こう、とにかく焼こう!」


これは野生児に食べ物を焼く事だけでも教えなければと香菜は決意して、川辺に腰を落ち着けてローフェから小振りのナイフを借りた、までは良かった。

香菜は自分が人生で一度も魚を捌いた経験がない事に、気付いてしまったのだ。

とりあえず鱗は剥がさなければならないだろう。それから内臓も取るべきかもしれない。いや、それよりも目下の問題は一つ。


「魚を締める、って、どうすりゃいいのよ……」


尾を握られてもまだまだ元気にビチビチと跳ねる魚を前に香菜は途方に暮れた。

若葉マークを貰えるまでに達しているかどうかさえも怪しい料理ド初心者に『魚を締めた上で捌け』というミッションはあまりにもハードルが高い。そもそもスーパーでは締めた後の魚が売られている訳で、捌いて切り身になった魚も売られている訳で。異世界云々を差し引いても、今の状況は完全に予想外だ。

魚とナイフを手に固まってしまった香菜をローフェは心配そうに見つめた。


「ーーあ! そうだ!! ごめん、ローフェくん、ちょっと魚持ってて! 食べちゃ駄目だからね!!」

「え、あ、うん」


ある事を思い出した香菜は魚をローフェに押し付け、ナイフを近場に適当に置き、自分が唯一この世界に持ってきていたトートバッグの中を漁る。そして取り出したのは、この世界に来る直前、本屋で購入した初心者向けの分厚めな料理本。地獄に垂らされた救いの蜘蛛の糸かと見紛うような後光が見えるのは香菜の気の所為ではないだろう。料理本を地面に置いて開き、目次に目を通す。ローフェも興味深そうに料理本を覗き込んだ。


「……………………魔道書?」

「いや、違うよ? ただの料理本だよ?」

「へぇ……訳分かんない事、たくさん書いてあるから、魔道書かと思った……」

「それはすごく分かる。ある意味、魔道書呼びも間違いじゃないかも」


そんな事を話していると、目次の中に『アジの塩焼き』の名前を見つけた。アジではないし川魚だけれど、どちらも魚である事に変わりはない。記載されているページ数を確認してそのページを開けば、こんがりと美味しそうに焼かれたアジの写真が出迎える。


「えぇっと……手順1、下ごしらえをする……ぜ、ぜいご?を取り除いて……?」


下ごしらえの説明文を読む香菜は途中でローフェが持つ魚に視線を移す。獲ったばかりのような元気さはなくなってしまったが未だにピチピチと跳ねる魚。


「…………いや、締め方は?」


肝心要の締め方が載っていなかった。

仕方がないと言えば仕方がない。小綺麗なキッチンで行われる料理番組で、料理人がビチビチ跳ね回る魚を手に「まずは魚を締めていきます」なんて説明するところなんか流石に見た事ない。


「なるほど? 私が買わなきゃいけなかったのは、サバイバル系の本だったな?」


尚、トートバッグの中にはスマートフォンが入ってはいるけれど、真っ暗な画面のままうんともすんとも言わず沈黙を貫いている。現在地が分かるのではと思って取り出したスマートフォンがその有り様で、思わず「し、死んでる……」と呟いた香菜をローフェは彼女の背中を擦ったりと言葉少なに励ましてくれた。


「どうしよ……」


諦めるしかないのか。しかし諦めたら野生児は生でかぶり付くに決まっている。流石に自分は真似出来ない。どうにかこうにか締めて捌いて焼かなければ。例え知識人から見たら総ツッコミを受けるような手法であっても、この場にいるのは料理ド初心者と野生児のみ。文句も批判も出来るだけの知識はない。ならば腹を括ってやるしかないだろう。

出来なくても、失敗しても、不格好でも、良いじゃないか。挑戦する事は、決して格好悪い事ではないのだから。


「とにかく、締めるって、つまりは息の根を止めれば良いんだよね……」


ローフェから魚を受け取り、幾分元気のなくなってしまった魚を比較的平らで大きめな石の上にそっと横たえる。そしてこの辺りで良いかと適当に決めた胸びれの根本近辺にナイフを宛がった。心を落ち着ける為に、二度の深呼吸。


「許せ、魚!!」


ローフェがはらはらと見守る中、香菜は一思いに魚の頭を切り落とした。瞬間、びくんと一際大きく跳ねた魚に香菜は小さく悲鳴を上げる。ころりと転がる切り落とされた頭と目が合い、「どうしてこんな事が出来るの……」と言われているような気がして香菜の中で罪悪感が噴き出した。辛い。料理ド初心者がするべき事ではない。

だが、魚はもう一匹いる。


「ローフェくん、もう一匹も……」

「…………ナイフ、貸して?」

「へ?」


ローフェは香菜に魚を差し出さない代わりに彼女からナイフをそっと取り上げる。そして先程の香菜の行動に倣い、平べったい石の上に魚を横たえさせて胸びれの根本近辺にナイフを宛がった。


「この辺りで、良いの?」

「う、うん、たぶん」

「分かった」


ローフェはナイフにぐっと力を込めて魚の頭を切り落とす。一際大きく跳ねた魚にローフェは悲鳴こそ上げなかったもののびくりと肩を跳ねらせていた。


「次は、どうするの?」

「いやいやいや! いいって! 私が言い出したんだから、私がするよ!」


次の行程を促すローフェに香菜は慌てる。ローフェの魚の生食を止めさせたいのは勿論だが、自分は偶然会っただけの彼の厚意に甘えて迷惑を掛けている側だ。恩返し、と呼べる程のものではないけれど料理ぐらい自分一人で完遂しなければ。

ローフェは困ったように眉を下げて言う。


「……僕も、やりたいって思ったんだ。一緒に、やってみたいな、って……迷惑、だった?」


垂れ下がった耳と尻尾が見えるのは完全に香菜の幻覚だ。


「ううん、全っ然! 一緒に頑張ろっか!」

「ん」


短く返事をするローフェの表情は相変わらず乏しいがどことなく嬉しそうに見える。二人寄っても文殊の知恵とはいかなくとも、一人でウダウダするより断然マシだろう。


「じゃあ、続きーーの、前に」

「ん?」


香菜は無残に頭を切り落とされた魚に向けて合掌する。


「お魚様、このような締め方しか出来ず大変申し訳御座いませんでした。たとえ真っ黒焦げに焼けようとも残さず頂きますので、どうか成仏して下さい」

「じょ、成仏、して、下さい?」


ローフェも戸惑いながら香菜に倣って合掌した。

さて、名も知らぬ魚のご冥福を祈ったところで、気を取り直して。


「ようやくスタートラインに立てたよ……」


香菜は改めて料理本に記載されている『アジの塩焼き』のレシピを読む。初心者と暫定野生児による頼りない料理教室の始まりだ。


「手順1! 下ごしらえをする!」

「……具体的には、何するの?」

「えっとね、まずは、ぜ、ぜいご?を取り除く」

「ぜいご」

「んーと……尾の付け根にある固いウロコ、ってしか書いてない……え、どれだろ」


レシピに添えられた写真にはアジの尾の付け根辺りに包丁の刃を宛がった様子が写されている。その写真を参考にするならばこの辺りに固いウロコがある筈なのかと、香菜は手元の魚の尾の付け根近辺を指でなぞって探り、ローフェも香菜に倣い魚の全体を撫で回してぜいごとやらを探す。


「……それっぽいの、ある?」

「……ない、と思う」


目的のものは見つからず、二人揃って首を傾げた。


「魚の種類であったりなかったりするのかな……まあいっか。無いなら無いで良いし、次行こ、次」


香菜はレシピの続きを読み上げる。


「ぜいごを取り除いた次は……えらぶたに包丁の刃先を入れて、付け根に切り込みをいれて、引っ張り出す……引っ張り出す……? 何を? エラ? エラって取れるものなの?」


何を引っ張り出せばいいのか肝心の所が書かれておらず香菜は頭を悩ませた。そもそもえらぶたとやらが何処かも香菜は分かっていない。頼りの図解も載っていないのだ。とりあえず、えらぶたと言うのだからエラのある所だろうと目処をつけ、魚の首辺りを確認しようとして気付く。


「あ。頭ごと切り落としてるじゃん。次!」


不要な作業ならば悩む必要などない。香菜はレシピの続きに目を通す。


「次は……盛り付ける時に裏側になる方に切り目を入れて、はらわたを掻き出して、綺麗に洗い流す」

「切り目?」

「うん。多分お腹辺りに、だと思うんだけど………………頭切り落とした所から掻き出せそうだね。指で掻き出そっか」

「ん」


そう言って頭を切り落とした断面から指を突っ込んだは良いが、ぐじゅりとした柔らかくも弾力のある感触が指から腕を伝って香菜の背筋を震わせた。慣れるまでに時間が掛かりそうだ。


「あ」

「どうしたの……?」

「ローフェくんさ、生ゴミってどう処理すれば良いか知ってる?」

「え…………分かんない……」

「うん、知ってた」


予想通りのローフェの答え。けれど香菜もどう処理すれば良いのか知らない為、彼を責める権利はない。土に埋めれば自然へ還ってくれるだろうと信じ、魚の切り落とした頭や掻き出したはらわたは後でまとめて埋めるとして。ローフェが生ゴミという概念を知らないという事は頭もはらわたも骨も全部生で食べ尽くしていたのでは、という疑惑に香菜はそっと蓋をして。


「ーーよし、これで下ごしらえ完了!」

「おー」


川の水ではらわたを綺麗に洗い流し、下ごしらえが終わった魚を前に二人は達成感を味わった。が、まだ下ごしらえが終わっただけである。ようやく手順1から次へ進める段階に至っただけである。先は長い。


「手順2! 塩をふる!」


元気よく読み上げて、しばしの沈黙。

香菜はローフェと顔を見合わせる。


「ローフェくん、塩、持ってる?」

「…………無い、と思う」

「うん、知ってた」


締めてもいない生魚にかぶり付くような野生児が調味料の類いを持っている訳がなかった。

もしかしたら森には薬味や香辛料となる植物が自生しているのかもしれない。しかし、香菜には料理の知識も無ければ野草の知識も無いし、何よりここは異世界だ。例え知識があったとしてもこの世界で通用するとは限らない。

安全に食べられる以上を望むのは欲張りだなと、香菜は潔く味付けを諦めた。


「手順2は省略して、手順3! 魚を焼く!」


声高らかに言って、香菜は何か得体の知れない不安を抱く。


「…………焼く?」


魚を焼く事こそ最終目標。それを目指して分からないなりに魚を締め、下ごしらえを済ませたのだ。けれど、ここまで来て何か根本的な問題を忘れていたような気がし始めた。ローフェの気遣うような視線を感じながら香菜は考えて、考えて。

気付いて、絶叫した。


「火!! どうしよう!?」


そう、火だ。

魚を焼くには当然火が必要である。だが、その火をどうやって手に入れるかが大問題だった。香菜は煙草を吸わない為、ライターは持ち合わせていない。どちらかと言えばインドア派な香菜はキャンプなど行った事がない。火起こしの経験も知識もゼロなのだ。詰んだ、そう香菜は悟った。


「……ローフェくん」

「なに? 大丈夫?」

「火、起こせたりする?」


駄目元で香菜は訊ねる。


「…………ん、出来るよ」

「うん、知ってた…………………………え!? 出来るの!?」


まさかの返答に香菜は目を剥いて驚いた。魚を焼くという発想はないのに火を起こせるとは中々ヘンテコな野生児である。

ちょっと待っててとローフェは言い、川辺に流れ着いている流木を何本か拾い集めて戻ってきた。拾ってきた流木は一纏めに手近な場所に置き、その山から一本を手に取る。端の方を握り、上に向けた反対側の端に手を翳した。すると、何の前触れもなくボッと火が灯りごうごうと燃え盛る。


「もしかして、魔法、ってやつ?」

「…………ん。たぶん」

「すっごい……異世界だ……まさに異世界って感じだ……他にはどんな事が出来るの?」

「えっと……凍らせたり、とか……風を吹かせたり、とか……水を出したり、とか?」

「はー……すっごい……水道光熱費要らないじゃん」


香菜の口から感嘆の声が零れる。ローフェは照れ臭そうに頬を掻いた。

火の問題がめでたく解決し、二人はローフェが拾い集めた流木を一纏めにした所に火を付けて、焚き火のていを整える。パチパチと木の爆ぜる音が鳴り、じんわりと周囲の空気が暖まっていく。


「では、気を取り直して、手順3! 魚を焼く!」

「どうすればいいの?」

「えーっと、熱したグリルに盛り付けた時に、裏側になる方を……上にして……乗せて…………」


レシピを読み上げる香菜の声が段々と小さくなる。どうしたのだろうとローフェは首を傾げた。香菜は料理本のページを捲り前のページを見て、一旦戻り次のページを見て、元々開いていたページに戻った。そして溜め息を一つ。


「どーしてグリル前提で書くわけ!? 誰でもグリル持ってる訳ないでしょ!! フライパンで良いでしょ、フライパンで!! 今フライパン無いけど!! 無いよね!?」

「え、あ、う、うん、無い、と思う……」

「だよね!!」


初心者用と銘打っておきながらなんて不親切な料理本だと遂に憤慨した香菜は物言わぬ本に対してキレる。ちなみに香菜が一人暮らしをする筈だったアパートにはこれで充分だろうと購入した一口コンロしかなくグリルなど無い為、その事も香菜の怒りを買ってしまった。初心者にレシピ外の手順を強要するな失敗するぞと香菜は心の中でも悪態をつく。


「はぁ……うん、大丈夫、落ち着いた……大丈夫、大丈夫……」

「カナ?」

「ごめんね、ローフェくん。いきなりキレて」

「ううん、僕は気にしてない……」

「……念の為訊くけど、グリル持ってないよね?」

「…………無い、と思う」

「うん、知ってた」


沸々と沸き上がる料理本への怒りを押さえるように二度、三度と深呼吸を繰り返した。そして改めて不親切なレシピに向き合う。


「グリル云々は置いといて……グリルに魚を乗せたら、強火で4、5分焼き、裏返して更に4、5分焼く」


続きを読み上げて、香菜は視線をごうごうと燃え盛る焚き火へ移した。


「……焚き火って、強火? 中火? 弱火……じゃないのはなんとなく分かるけど」


そもそも料理をした事がない為、どのくらいの火の強さが強火や中火と呼ばれるのかまるで分からない。今の焚き火の勢いは、初心者的にはなんとなく強火以上な気がする。この中に魚を突っ込んだら瞬時に消し炭になりそうな気さえしてきた。


「ローフェくん、もう少し火の勢い弱められたりとかって出来る?」

「弱め…………ごめん、これでも結構弱くしてる……」

「わお」


全力で燃やせばどれ程の勢いになるかは気になるけれども横に置いておくとして。火加減の調整は焚き火の場合諦めた方が良いだろう。キャンプの知識が香菜にあれば違っていたかもしれないが、無い物ねだりをしても状況が好転する事などない。


「……とりあえず、こんがり焼き目が付けば火は通ったって思って良いよね。うん。それから火の中に直接突っ込んだら消し炭待ったなしだから、ちょっと火から離れた所で炙る感じにしなきゃだよね、きっと」


あらん限りの知識を絞って打開策をぶつぶつと呟く香菜の脳裏に浮かんでいるのは、何らかのアニメやドラマで見た事があるような気がする焚き火の周りで魚を刺した棒を地面に突き刺して焼いている光景だ。正解か不正解かなど、焼けるか焼けないか以上に気になる事ではない。


「よし。ローフェくん、なんかこう、魚を刺せそうな良い感じの棒を探そう」

「良い感じの棒……?」

「うん。串みたいに鋭くて、それなりに長めなのが良いかな。持ってたり、する?」

「…………あ。持ってない、けど、知ってる、かも」


ちょっと待っててとローフェは言い、今度は森の中へ、特に植物が密集している場所へと分け入っていく。香菜も付いていこうと腰を上げようとしたが、ごうごうと燃え盛るローフェ曰く弱めの焚き火を放置していく訳にはいかないだろう。上げかけた腰を下ろして、香菜は火の番という名目で大人しくローフェを待つ事にした。


「ーーカナ、これは、良い感じ?」

「……なに、その、凶悪なホウキみたいな植物……え? 植物? 植物、だよね?」

「ん。植物」


戻って来たローフェが手に持っていたのは、本来なら花が咲いているであろう場所に無数の長い針状の、もしかしたら花弁かもしれないトゲが生えた植物。凶悪なホウキと呼んでも差し支えなさそうな見た目である。恐る恐るトゲを摘まめば意外にも簡単に抜けた。しなるような柔らかさはなくて硬く、先端は爪楊枝や竹串並みには鋭い。串代わりにするにはうってつけだ。異世界の植物も凄いが、これを知っていて且つ見つけてきた暫定野生児も凄い。


「魔物が、時々これで歯の隙間とか掃除してるの、見た事があったんだ」

「へー……爪楊枝代わりに使われてるんだ……」


魔物と聞いて頭を過るのは、この世界に来て最初に遭遇した熊に鋭い牙を追加したようなあの猛獣。名前はローフェ曰く「知らない」らしい。やっぱりねと香菜は思った。


「これ、どうすればいいの?」

「えっとね…………魚に刺す」

「刺す」


言葉で説明するよりも実際に見せた方が良いだろう。レシピもだらだらと長い文章を書かれるよりも写真一枚載せてもらう方が一発で分かると、未だに焼くまで辿り着けていない魚が教えてくれた。

香菜は植物の長いトゲを一本引き抜き、どこにどう刺そうかとしばらく悩ませて、頭を切り落とした断面から尻尾へ向けてトゲの先端が少し顔を出す程度に刺す。こんな感じかなと言ってローフェに見せれば、彼もそれを手本に同じように長いトゲで魚を刺した。


「ん。出来た」

「じゃあ次は…………地面に突き刺して放置するより、手に持って近付けたり遠ざけたりした方が焼きやすいかな……うん。ほどよい距離感で魚を焼いていこう!」

「……ほどよい距離感?」

「ごめん、私も分かんない。とりあえず、火の中にギリギリ入らない辺りで様子を見よう」


どうか突然の突風が吹きませんようにと祈りながら、香菜は魚の刺さっていない方の端を握り締めてそろりそろりと距離を測りながら焚き火の炎に魚を近付けて焼く。


「……どのくらい焼けばいいの?」


香菜に倣い焚き火で魚を焼くローフェが訊ねた。


「……分かんない、けど、火に当ててる方が少し焦げるぐらいまで、かな」


レシピに載っている完成品のアジの塩焼きの写真を見て、香菜はそう判断した。


「少し焦げるぐらい……こんな感じ?」

「うん、そんな感じ」


ローフェが見せてきた魚の焼き面はこんがりとした焦げ茶色に変わっている。完成品の写真より少し焦げてしまっているが、真っ黒焦げでなければ問題ないだろう。ローフェに焼き目はそれで良いと伝えて、しばらくの間の後、香菜は焦った。


「え、いや、早っ!? 早くない!? どんだけ火力強いの!? あ! 私のももう焼けてる!! え、え、これ、ちゃんと中まで火ぃ通ってるの!? ああいやでも、だからって焼き過ぎたら絶対黒焦げになっちゃうし! ええっと、ええっと、と、とりあえずローフェくん、ひっくり返して反対側焼いて! さっき見せてくれたのと同じ感じに焼いて!」

「え、あ、うん……………………あ、こんな感じ?」

「だから焼けるの早いっ!!」


もう少しゆったり出来るものだと思っていた香菜は軽くパニックに陥る。これは地面に突き刺してのんびりしていたらもれなく真っ黒焦げ、或いは消し炭となっていただろう。たとえ真っ黒焦げになろうと残さず頂くとは宣言したけれど、だからって真っ黒焦げの魚は食べたくない。

慌ただしく魚を焼き、焼き目を確認した後にすぐさま焚き火から魚を遠ざける。焚き火の強過ぎる火力に、本物の魔法ってヤバイなと香菜は遠い目をした。いや、それよりもこの火力の中で燃え尽きない仮名凶悪なホウキのトゲは凄いのでは。

何はともあれ。


「ーーっやっと、焼けたあ……っ!!」


達成感に満ち溢れる頃には、もう日は傾き始めていた。



ローフェ・カタストは望まれない命であった。

この世界の生物が使える魔法の属性は生まれながらに決まっている。大多数は一つの属性のみ、ごく稀に二つの属性を扱えるものがいる程度だ。


そんな中、ローフェ・カタストが生まれ持った魔法属性は、全て。

全ての属性を有した混沌。畏怖と恐怖から名付けられた名前は『闇属性』。

太古より、世界を滅ぼす魔王となる者が生まれ持つと伝えられ続けた属性である。


闇属性を生まれ持ったローフェ・カタストは、その危険性を恐れた人々によってすぐさま親から引き離されて薄暗い地下牢に監禁された。命を奪えば何が起こるか分からない恐怖から、ただその存在を隠匿し、何も起こらないままその身が朽ちていくのを待たれたのだ。


ローフェ・カタストが自身の置かれた環境や境遇を嘆く事はなかった。

物心つく前から地下牢に閉じ込められた彼にとって、それが普通だったからである。


その普通が崩れ去ったのはつい最近の事。誰かが言い争うような怒号と轟音が遠くから聴こえる中、地下牢に現れた一人の人がきっかけだった。

その人は牢屋の鍵を壊してローフェを牢の外に連れ出すと、持っていたバックパックと飾り気のない細身の剣を押し付けるようにローフェへ渡す。そして灰色の外套を頭から被せて、すぐにここから逃げるよう言った。怒号と轟音がするのとは逆の方向へずっとずっと進めば、深い森に出られるからと。突然の出来事に困惑するローフェを、その人は強く抱き締める。


「たとえ貴方が世界を滅ぼす存在になろうとも、私は、私達は、ずっとずっと、貴方を愛してるから」


そう言って、ローフェと同じ濃紺の髪色をした、ローフェにとっては見ず知らずの親切な人は轟音鳴り響く方へと走り去ってしまった。取り残されたローフェはしばし呆然とした後、見ず知らずの親切な人が言った通りに轟音のしない方向へと歩き始める。それ以外に目的がなかった。

何の目的も無く、目標も無く、宛もない。

けれど、長い長い牢獄生活の中で聴いた話があった。


『魔道書を携えた存在を決して近付けるな』

『魔道書を持った存在が魔王を導くと伝えられているんだ』

『その存在と魔王が出会えば、世界は終わる』


魔王だとか世界が滅ぶだとか分からない事だらけの話。それでも『魔道書を持った存在』に何故か強く惹かれて会ってみたいと思った。まるでそれがずっと昔から決められていた運命かのように。

そうして牢獄から森へと出て、日が沈んで日が昇ってを何度も繰り返したある日。とある女性ーー米田香菜と出会ったのである。


「(本は持ってたけど、魔道書じゃなかったなぁ……)」


手元にある香菜曰く良い感じに焼けた魚をしげしげと眺めながらローフェは思った。

こことは違う世界から迷い込んでしまったらしい女性、香菜。どうせ目的など存在しないし、唯一の道標とでも言うべき『魔道書を持った存在』をどう探せば良いのかも分からない。それならば、しばらくは香菜が元の世界へ帰れる方法を探す、それを目的としても問題はない。彼女がバッグから見慣れない本を取り出した時は少し期待したけれど。


「無事に魚を焼けたし、後は残さず食べるだけだよ!」

「ん……長かったね」

「ホントにね……ゴメンね……もうちょっと真面目に料理の勉強しておけば良かったよね……」


己の手際の悪さに香菜は落ち込み、いやしかし初めてだった上に道具も充分に揃っていない状況で初心者には不親切な料理本頼みだったのだから仕方がないと気持ちを切り替える。


「それじゃ、いただきます!」


香菜は手元の焼き魚に豪快にかぶり付いた。もぐもぐと咀嚼を繰り返して、笑顔が段々と怪訝な顔へと変わっていく。そして眉間に皺を寄せてごくんと飲み込んだ。


「……ウロコ剥がすの忘れてた……」


口の中に魚の小さなウロコが物凄く張り付く。薄くて小さいから食べられなくもない事が唯一の救いだ。もう少しこんがりと焼ければ気にならずに食べられそうだけれど、超火力の焚き火では炙れる気がしない。

香菜は開きっぱなしだったレシピを睨み付けるように読み、ウロコを剥がすよう促す文言があったかどうかを確認する。やはり書かれていない。レシピ通りに調理する初心者がレシピ外の手順を行える訳がないだろうと香菜は静かにキレた。


「い、いただき、ます?」


ローフェも香菜に倣って焼き魚に控えめにかぶり付く。ウロコ混じりの皮がパリパリと音を立てた。焼いた皮は香ばしく、焼き過ぎて若干焦げた所は苦い。身はふっくらとしている所もあれば、生焼けになっている所もある。味付けは何もされていないし、口の中に取り損なったウロコが張り付くし、決して成功とは言えない出来栄えだ。それでも。


「……美味しい」

「え゛」


ぽつりとローフェが零せば香菜が信じられないと言わんばかりの顔を向ける。


「ウロコ、すんごく口に張り付くよね?」

「ん」

「所々焦げてて苦いよね?」

「ん」

「火、通ってない所もあるよね?」

「ん」

「味付け、何にもしてないよね?」

「ん」

「……あのね、ローフェくん。これは世間一般的には、失敗してないけど成功もしてないと言われる部類に入ってね? 私も自覚はしてるから無理にフォローしなくても……」


言葉にする度に段々と悲しくなりながら香菜は言う。しかしローフェは首を横に振った。


「一緒に、頑張って作ったから……カナが頑張ったって知ってるから、美味しいよ」


今まで食べていた料理は冷え切っていたけれど、今食べている本当に焼いただけの魚はほかほかと温かい。それに今までずっと一人で食べていて、それを寂しいと思った事はなかったけれど、香菜と一緒に料理をして食べるのは賑やかで暖かい。

焼いただけでも、ウロコまみれでも、ローフェにとっては間違いなく今までの人生で一番美味しい料理だった。


「…………カナ? どうしたの?」


香菜は両手で顔を覆い、天を仰いでいる。


「うん、ちょっと待って。今、嬉しさと恥ずかしさと不甲斐なさが同時に襲ってきて、感情ぐっちゃぐちゃになっちゃってて」

「うん……?」


香菜は今までまともに料理してこなかった事を猛烈に反省していた。どうして自分はもっと胸を張って美味しいから食べてと言える料理を作れないんだ、と心の中で自分を自分でボコスカ殴り付けている。どうせ料理を振る舞う相手なんかいないし作る予定もないし、自分一人で食べる分にはどれだけ不味かろうと文句を言うのは自分だけだから下手くそでいいやと楽観的に考えていたが、これは考えを改めなければならない。

目の前の恩人の青年に、食べてと胸を張って言える美味しい料理を絶対に作らなければ。そう香菜は決意した。


「ローフェくん、絶対に美味しい料理作ってみせるからね」

「ん」

「町に着いたら、まずは調味料を手に入れようね」

「ん」

「……いや、その前に正しい魚の締め方を知らなきゃかな」


こうして、後に魔王となって世界を滅ぼす存在となる筈だった青年の運命は変わり始めたのである。

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