芽室・武蔵:秘密
四日の部活始め。部活の後に、楠本と町原と船上とでお菓子を食べながら、諦めて町原と仲直りしていたところに神崎がやってきた。話があるからと楠本たちを返して、芽室に話しかけてくる。いつも一緒にいる武蔵さえいない様子に、芽室は嫌な予感しかしない。
「今日は武蔵と二人して元気なかったねー。昨日何かあったの?」
楽しそうに聞いてくる神崎に、悩まし気な目を向ける。やはり予感的中だった。
武蔵は今日の早朝に家に帰ったが、今日はお互い気まずくて、話もろくにできなかった。
「——何もなかったから悩んでるんだよ」
「もしかしてようやく武蔵の性別の謎にたどり着いた?」
「謎とか楽し気に言ってんじゃねーよ。どいうことだよ?! 秘密にする気持ちは分からなくもねーけど、面白がることじゃないだろ。特にお前はっ」
「怒ってるの?」
「当たり前だろ! そもそもお前がいるからややこしくなるんじゃねーか! お前がいなきゃ俺だってなぁ!……?」
「俺だって、何?」
赤くなって黙る芽室を見て、神崎は遠慮なく爆笑した。
「は、ははははははは! ムロちゃん真赤だよっ。動揺しすぎでしょ」
「あのなぁっ! お前性格悪いにもほどがあるぞ。黙って人が困ってるのを見るのがそんなに楽しいかよ」
神崎は笑いを治めた。
「そうだねぇ。まぁムロちゃんがぜーんぜん気づかないのには笑えたけど、それが楽しくて黙ってた訳じゃないよ。
芽室のおじさんが話してないのに、僕が口出すのもなぁと思って言わなかっただけだよ。武蔵の性別なんて大して重要なことでもないしね」
「え? 親父?」
「本当に何も聞いてないんだ。僕じゃなくて、ムロちゃんおじさんに遊ばれてると思うなぁ。怒る相手間違えてるよ」
「何で親父がでてくるんだよ」
「何でって、おじさんは武蔵の家の事情、全部知ってるはずだからだよ」
「はあ?! なんで?」
「——全然話が進まないねえ。僕からは説明したくないし、一度おじさんに話聞いてみない? 僕が知らないことも多分知ってると思うんだよね」
神崎が珍しく、本当に真面目な顔を向けてきた。確かにあの父親ならば、何を隠していても不思議ではなかった。
夜、正太は夕食を終え、居間でテレビを見ながら熱燗を飲んでいる父親に声をかけた。
「親父、聞きたいことあるんだけど」
「なんだ?」
「武蔵の家の事情ってやつ。親父、知ってるんだろ」
「真面目な話か?」
「真面目じゃないのがあるなら、それから聞かせてほしいね」
父親のからかいの言葉にキレそうになりながらも、なんとか平常心を保って答える。
「なんだお前、もしかしてあの子が男じゃないってやっと気づいたのか?」
「——。そうですけど?」
父親がこの間の武蔵とのやり取りを知っているとは思えなかったが、気まずい思いで正太は答えた。父親が正太と武蔵の関係をどこまで知っているのか読めなかったが、見逃されていることだけは間違いない気がした。
「お前、和之をニブイって笑えないぞ」
「悪かったな。煙に巻くつもりかよ。神崎も親父に話聞きたいって言ってるから無駄だぜ」
神崎の名前がでて、おちょこを持つ斉、の動きがとまった。斉は豪胆な神崎をかっていた。
「知ってどうするつもりだ? お前には荷が勝ちすぎるぞ」
「——知らないよりはいい」
真剣な顔の息子をみて一息つく。
「まぁいいだろう」
斉は持っていたおちょこの酒を飲み干してから立ち上がった。晩酌は終わりにするようだ。
1月5日の昼、台所で斉がグラスに焼酎を注いでいると、唯一の従業員の小霧海がそれをみて声をかけた。
「あれ、社長。昼間から酒ですか」
「仕事は終わらせたぞ」
チャイムがなり、玄関の近くにいた正太がでた。
「親父、神崎来たぜ」
神崎は一人で自転車できていた。
「俺の部屋で話そう」
斉の部屋は北西の一番奥の部屋だ。部屋には仕事の資料が山積みされており、寝るぐらいにしか使われていない。先日武蔵が干した、基本万年床の布団をふたつに畳んで三人で座ったが、ぎゅうぎゅうだった。
「で、何が知りたいんだ?」
畳んだ布団に腰掛けて、焼酎のグラスを傾けながら斉が聞く。神崎が問うた。
「あいつの傷のこと、聞いてますよね」
「——そこからか。なんて聞いてる?」
「事故だったって…」
「信じてるのか?」
「だったら聞いてないっ」
神崎の拒絶するような言葉に、斉がまたグラスを傾けた。
「あれは母親に切られたそうだ」
「——え?」
「体の傷は父親の仕業らしい」
斉の、普通の口調で話される衝撃の事実に、正太と神崎は二人とも固まった。
「なんで…」
神崎がかすれた声で問う。
「全ての子どもが望まれて生まれてくる訳じゃないってことだ」
斉はグラスを飲み干して、立ち上がった。
「あの子の事情は、俺の判断で全て話してもいいと言われてるが、時期尚早だな。今回の話が消化できたら他の話もしてやってもいい。今日はここまでだ」
そう言って斉は息子たちを部屋から追い出した。自分の部屋に置いてある焼酎の瓶を取り出すのが見えた。
「コーヒーでも飲もうぜ」
正太から神崎に声をかけた。コーヒーメーカーのおかれたキッチンに移動する。
芽室家は親子揃ってコーヒー党なので、大体いつでもコーヒーメーカーにコーヒーが作られていたが、空だったので正太がコーヒーメーカーを使ってコーヒーをポット一杯に作った。
「ミルクと砂糖、どうする?」
「いる」
料理用の砂糖と牛乳パックをそのまま机に置く。神崎は無造作にコーヒーに入れて混ぜ、勢いよく飲んだ。正太はそれを見ながら、いつもどおりブラックで飲んでいる。
「菓子、食うか?」
来客用に買ってあったチョコ菓子を出すと、神崎はそれも雑に食べた。
「——平気そうだね」
「俺?」
神崎が眼だけで返す。
「あー、あれだ。絶叫マシーンで隣のやつに叫ばれると逆に冷静になるっつーか」
「——」
「ニラむなよ。お前だって、本当は知ってたんじゃないのか?」
「——あり得ないよ」
神崎は武蔵とは小学5年の冬からの付き合いらしい。3年の付き合いになるが、子どもからすれば長い付き合いだ。正太は神崎は武蔵の傷の理由を知っているとばかり思っていた。
それでもさっきの質問に、今の態度からして、ずっと聞けずにいたのかもしれないと思った。自分も母親がいなくなってから、自分から母親の話はしなくなった。
一番に知りたくない事実を自分から知る勇気は、並大抵では持ちえないものだ。
母親に殺されかけたというその事実。そんなものを受け入れられる人間がいるのだろうか。
武蔵のどこか、自分自身には執着をみせない態度が、正太の頭に浮かんだ。
夕食の席。神崎が帰って父子二人の食卓で、斉はビールを飲みながら、息子の作った回鍋肉を食べていた。2本目の500mlのビール缶を飲み干し、冷蔵庫から次の缶を取って開ける。昼も焼酎を飲んでいたし、明らかに飲みすぎだった。
早々に食べ終え、洗い物も終えた正太が話しかける。
「昼間の話だけど、理由もわからないのに納得しろなんて横暴じゃねーの?」
「理由、か。そんなものあってないようものだと思うけどな」
酔っているわりに斉の口調はしっかりしていたが、視線をさ迷わせながら答えた。
「親父も知らないだけじゃないのかよ」
「具体的な話は聞いてないな」
「なんだよそれ」
息子の愚痴には応えず、椅子に座ってビールを飲む。酔っぱらいの相手は諦めて立ち去ろうとした正太の背中に、独り言が聞こえた。
「男じゃなかったから」
「——え?」
正太は父親を振り返った。
「あえて言うなら、そんなところかもな」
斉が息子に目だけを向ける。
「くだらない話だろう?」
思いの外鋭く発せられた言葉と視線に、正太は言葉を失った。斉はそれきり何も言わなかった。
武藏とは気まずいままだが、他のメンバーはいつもどおりに時間は過ぎていく。永良も相変わらずだ。
阿恵がいつもおどおり武蔵に張り付いている様子に、思わず、
「お前さぁ、もしあいつが女だったらとか考えないの?」
「えー? それはないよ。もしそうだったら俺困っちゃうよ」
「セクハラで訴えられるからか?」
「はははははは」
笑ってごまかす阿恵。
(わかんねぇ…)
情報通の阿恵が武蔵の性別のことを知っている可能性はあった。それでも阿恵ならば同じように武蔵に接するだろうとも思えた。
阿恵の武蔵への可愛いは、性別関係なく人形に対するもののようだったからだ。
失礼な話ではあるが、赤井部長の視線を考えると平穏なものだった。
赤井部長は本気で武蔵が女ではないか疑っていた。もし女だったら好みのタイプだったのだろう、その目線はなめるようで粘っこかった。あまり人の好き嫌いがない武蔵も、赤井だけは苦手としていた。赤井の目は武蔵を視姦している目だと神崎も嫌悪していた。
芽室も、いつも自分が正しいという顔の赤井が気に食わなかったが、その武蔵に向ける視線も他人事ながら嫌な感じがして、なるべく二人を一緒にしないように気をつけていた。
とは言っても、武蔵には部活中絶えず阿恵がくっついているので、赤井にもどうにもできない様子だったが。
部活後の教室で、芽室と武蔵、二人きりになった。神崎は外に風景画のスケッチに行っていたので、戻ってくるのは遅いと読んで、芽室が残っていたのだ。
昔から時々、そういうことがあった。父親とケンカをして、家に帰るのが嫌だったりしたときが多かったが。
武蔵は黙って宿題を解いていた。右手はもう完全にもとに戻っているようで、すらすらと問題集を埋めていく。
芽室はその右手を取って、手首にキスをした。
「これ以上はしねぇよ。ここではな」
芽室は笑ってそういうと、頬杖をついて上目遣いで武蔵を見た。
武蔵は困った顔をして、手を止めた。
「俺が一番に好きなのは、神崎だから」
「フラれたんだろ?」
「——でも好きなんだ」
「いいよそれで」
芽室はそういって、また武蔵の右手首をつかんだ。
「傷の理由、きいたよ。神崎と。この間親父から」
武蔵の手首が硬直するのがわかった。
「神崎からは聞いてない、か」
芽室は舌で手首の傷跡をなぞった。ついた唾を指でこする。
いつも芽室は、魔法がおこるのを期待しているかのようだった。しかし、可笑しな日本人形が持った人の髪を伸ばしたり、不思議な傷薬が人面そうを作り出しても、傷を消す薬はどこからも現れなかった。
「もうこの間みたいな無茶は勘弁してくれよな。和之も阿恵も、どれだけ心配したかお前本当にわかってるのかよ。一年の時のこと、ちゃんと教訓にしろよな」
「あの時より軽く済んだだろう」
武蔵の言葉に、芽室が軽くげんこつを落とす。
「そういうところがたちが悪いんだよ、お前は。神崎の苦労がしのばれるぜ。お前がふられるのって、そういうところが原因なんじゃねーの」
武蔵は芽室の諫言にはこたえず、叩かれた頭を黙ってなでた。
武蔵は誰から見ても神崎が好きだが、同じように好かれたいとは思っていないようなところがあった。好かれることよりも、神崎の健康を第一に考えているようだった。
この間の、和之の人面そうへの解毒用ブレンドティも、もっと飲みやすいように配合を変えて、神崎に飲ませているようだった。自分自身も飲んでいるようだったが。
「今度、泊りにこいよ」
「——うん」
武蔵が芽室の家に泊まりに行くことは時々あることだった。しかしそれは神崎や弟の弘伸が一緒でのことだ。
今回の誘いの意味はいつもとは違って、「一人で」だというこうとは察せられたが、武蔵はうんと答えた。家の都合もあるので、いつになるかは分からなかったが、武蔵は傷跡のある右手首を見たあとに芽室を見た。
芽室は課題考査の対象になる、冬休みの宿題をだしてみていた。ほとんど空白だ。
「宿題、まだしてないのか」
「しなくてもいいかなぁと思って」
「神崎じゃないんだから、不味いだろう」
「めんどくせぇ」
そうぼやきながらも、芽室は国語の教科書を取り出した。
遊びに行くのは、課題考査の後がいいだろうと武蔵は考えた。そうしなければ、とてもテストになど集中できないだろう。
(どんな理由で泊りで遊びに行くか、理由を考えないとな…)
弘伸が一緒に遊びに来て泊まると言い出しそうなので、武蔵はしばらくテストとは関係ないことで頭を悩ませたのだった。