終章:見習い水使いと西の女帝③
「あなた、一体、陛下に何をしたの?」
演じることの大切さをこの地で教わった。
だから黒ぶち眼鏡を指でおしあげた女宰相に凄まれても、彼は微笑を崩さない。
「何も。…護衛兵も農務大臣も周囲にいたのに、いったい何ができたというのですか。」
「…そうよ。だけど、明らかに最近の陛下は挙動不審じゃない。それもあなたが場にいる時ばかり。」
「私だけでなくロウレイの御一行もいましたよね?」
「…そうね。」
だけどアナスタシアの視線は明らかにあなたを追っている。
そう指摘してしまえば彼のほうが優位になる。だからタルタル・スミアラはそれ以上の追及を諦めて本題に入った。
「それではパルヴィス大公世子殿。こちらが今回の支援穀物に対する対価です。迅速な物資の輸入とあなた方の頼もしいご協力で蝗害の被害は最小限ですみました。感謝いたします。」
「有難いお言葉とご厚情に感謝いたします。」
まだまだ不平等ではあるが、セレナとハッバスは、貿易相手に、もどりつつある。
近年は強制貢納ではなく、些少ではあるがこうして対価が支払われるようになった。
ラドモントはスミアラ宰相にぴしりとお辞儀をして、背後に控えていた親衛隊に金貨のつまった木箱を運びだすように指示をだした。
「では、発行していた令牌を返してください。」
「はい。」
胸元から朱色の房飾りのついた許可印をとりだし、机上におく。そして彼は声をひそめ、こう尋ねた。
「ところで、宰相様。最近皇帝陛下から、水の力を扱う際に違和感を感じると相談されたことは?」
「……何のことかしら。」
ラドモントは、あれ、とわざとらしく瞠目し、肩をすくめた。
「宰相様と陛下は一心同体と推察いたしておりましたが、そうでもなかったようですね。」
タルタル・スミアラは、ぎりっと歯を食いしばった。
少し離れている間に、ずいぶんと可愛げがなくなった。あの裏表がまったくない素直さはどこへいったのか。誰だこんないけ好かない擦れた男に育てたのは。ああ、そういえば養父は水の国の腹黒宰相だった。
「たとえ知っていたとしても、部外者のあなたに言うはずがないでしょう。」
ラドモントは、ちらりと背後を見る。ちょうど最後の木箱が運ばれていったところだった。
「ルッツ。出立は明後日だ。全員で荷を運び、船で待機していてくれ。」
「承知しました。」
黒い目と髪をもつルッツ・アードラーは男爵家の次男坊だ。騎士養成学校からのつき合いで、今は大公家の護衛とラドモントの側近をかけもちしている。
しんがりのルッツが部屋を出ていったのを見届け、彼は苛立たしげにこちらを睨む女宰相に向き直った。
「ずいぶん昔に、王配候補になる気はないか、とお尋ねになりましたね。」
「…あなたの指導役が突っぱねたじゃないの。」
「あの時の私は幼く、自信もありませんでした。けれど今の私ならば、皇帝陛下のご不調を治し、陛下の治世の助けになれると思っております。王配候補として立候補させていただけませんか。」
「…選ぶのは陛下よ。分かっているでしょう。」
ラドモントは頷き、用意してあった書類を差しだした。
「とりあえず陛下の机上に私の身上書をおいて頂けませんか。もし帰国前に会って頂けるなら、陛下のご不調を解決してご覧にいれます。…こちらが私の親族関係と履歴書です。」
タルタル・スミアラは片眉をはねあげて胡散臭そうにそれを受け取る。
ぱらぱらとそれをめくっていた彼女は、ある一か所を凝視し、低く唸った。
「火山灰がブドウに与える風味についての考察…?」
「ああ、それですか。隣国にある火山が最近噴火しまして、その復興に携わった時の記録です。荒れた山の麓に今後何を植えればよいか迷ったその国の宗主が、近隣諸国から様々な植物の種をもらい、手当たり次第に植えたのです。我が国はブドウの種を送りました。その時に植えたブドウで試しにワインを作ったら興味深い味になったと報告がきて、調査に行ったのです。…あぁそういえばこちらの国にも火山がありましたね。でも西でワインと言ったらやはりロウレイですよねぇ。」
「……出立は明後日だったかしら。」
「はい。出航前に、あるていど報告書をまとめたいので。令牌もないですし、出歩くことはありません。」
「分かりました。もう下がっていいわ。…書類はおくけれど、私から薦めることはしません。それでいいわね。」
「はい。」
深々とおじぎをして、彼は宰相の執務室から退出した。
フフフフフ。
執務室に不気味な笑い声がひびく。
「…最初から勝負する気で来てたのね。令牌をあげたらどうなるかしらと試してみたけれど、まさか一気にこれだけつめてくるとは思わなかったわ。」
タルタルはニンマリと笑んだ。