38.
「あ~~。やっぱり厳しいなぁ。」
書見台の上に広げたいくつもの地形図や植生分布図の上に突っ伏し、ラドモントはがっくりと項垂れた。
西大陸は無駄にひろい。しかし何をおいても水が少ない。
大陸を横断するワジ川はあるものの、これは特定の水源を有するものではなく、雨季にだけ水を有する涸れ川である。もう一つ西大陸西部にヴォダ川があるが、流路が安定しない暴れ川で農地への定期的な取水はむずかしい。だから人も獣も水を追って移動するしかない。
椅子にもたれてぼんやりと周囲を見回す。ここは帝宮正殿内の資料室である。
文書館本館所蔵の資料のうち、政に必要なものだけを厳選しているそうだが、ほんとうに圧倒される量の蔵書と収蔵品だ。資料室の天井には各国の伝承をもとに白地を基調とした明るいフレスコ画が描かれ、等間隔で設置された木製書架がそれを支えている姿は神殿のように荘重だ。
書架の間にもうけられた何百という書見台は、かたわらに必ずある馬蹄型の窓のおかげで明るい。幾何学模様が浮きあがる磨きぬかれた床材は、風の国でもよく知られている経年変化がすくない広葉樹由来のもの。資料室を貫く広い中央廊下には様々な意匠の台座が等間隔で配置され、天球儀や壺、さまざまな彫刻や発掘遺物が飾られている。
正直、略奪と侵略に明け暮れているハッバスのイメージと、木と本でみちた重厚なこの空間が全く結びつかない。
書見台に用意されている椅子からゆっくりと立ちあがり、ラドモントは展示物のひとつ、東西大陸の略地図が描かれた半球儀にむかった。
みなれた東大陸を指先で追い…眉を下げる。
「え~なんでうちは山しかないの。ローイエンの王宮殿はりっぱなんだぞー。」
他の国の王都にはそれらしいマークが描かれているのに、ローイエンだけ盆地しか描かれていない。不満に口を尖らせる。
「おい、随分余裕だな。」
「…アナスタシア様。」
ふり返れば、鉄甲冑に身を包み、すっかり戦装束にかわった皇女が仁王だちしていた。ラドモントをここに放りこんでからおよそ2時間。(ちなみに出入口では例のマッチョな女官頭が見張りをしている。)遠征に行く準備が、ほぼ整ったのだろう。
「さて、お前の考えを言ってみろ。」
まるで課題を精査する女教師のようにアナスタシアが目を眇める。
「…アナスタシア様が言っておられたのは、ザルべ火山ちかくのオアシスのことですね。でも、養えるのは人と馬だけでギリギリ…いえ、最近の戸籍登録人数をみれば、水も土地もすでに足りていない、と思います。それにここしばらく休眠しているとはいえ、噴火の心配もある…。気候条件で行くならば、ロウレイですが、辺境過ぎて竜が移動に耐えられない…。」
「ロウレイは駄目だ。」
ぴしゃり、とアナスタシアが言った。
「南のグェンチャン王国との交易で利潤が得られるから財源も潤沢だ。それにロウレイを治めるユファン氏は、ヘルザーンと姻戚関係にあり、わずかとはいえ皇統の流れをくんでいる。そんな所に希少な竜などやってみろ、いつ謀反を起こすか分からぬ。」
「堤防をつくって、西部のヴォダ川の流れを固定…」
「却下。“あの男”が捕虜を使ってやろうとしたが、結局川の威力にまけて徒労におわった。」
「ゾーラバン山脈の雪解け水をふやす…。」
「愚か者。そんなことできるわけないだろう。第一、我が国の一番西にあるゾーラバンからどうやって東端の帝都まで水をひくんだ。…まったく、違う国の者の視点に少しだけ期待した自分が腹立たしい!!」
本当は、少したれ目なのに、いつも眦をつりあげているから恐い印象になる。うねる黒髪をふり乱して恫喝する姿を、魔女のようだと言う兵士を何人も見た。高飛車で高慢な口調に反発を感じる者も多いだろう。けれどラドモントは、こうして喜怒哀楽をあらわにして必死に生きようとする彼女が嫌いではなかった。
「先帝は、ヴォダ川の両側に堤防をつくったのですか?」
「そうだ。材料は王都でよく使われている日干し煉瓦だ。」
「膨大な費用と月日がかかりますが、氾濫してほしくない所との境界に城壁をずっとめぐらすのも一つの手かと思います。片側だけに壁を作るならば水圧も分散されますし、川が逃げた先に水が溜まるようなくぼ地をいくつか用意しておけば、どこかに水が残るかもしれません。何もしないで海に流してしまうのは、あまりにも勿体ない。ワジ川の流域にも、ダムを作ってもっと水を貯めるべきです。」
「どこから資材と人を集める。」
「ハッバスには30万人の帝国兵と強健な馬がいるではありませんか。それに国の中央に長くのびる砂漠の民は、そこから採れる土と砂を混ぜてつくった硬い石材で家を作っているそうですね。彼らにも協力をお願いすれば…公共工事として設定すれば雇用の場も作れますしね…ダムに関しては少しずつ増やしていけるのではないかと。」
ゆっくり腕をくみ、アナスタシアは指先でトントントンと二の腕をたたく。
「…ただ、砂漠は。」
眉間に皺をよせ、彼女が何かいいかけた時だった。
「失礼いたします。」
マッチョな侍女頭だった。
「アナスタシア様、救援要請です。ブラウジー砂漠の南東部で、『腐獣』が出現。その数200体!」
アナスタシアのまとう空気が一瞬で険しさを増す。聞きなれぬ『腐獣』という言葉に戸惑うラドモントに、アナスタシアが凄艶な笑みをうかべて言った。
「丁度良い。うちの砂漠がどういうものか、体験させてやる。お前も風の民だ。砂嵐ぐらい止められるだろうな?」
たらり、と背を汗がつたう。
実践したことはない。ローイエンには砂漠などないのだ。呼びかけの言葉は、つい最近覚えさせられたが。
「お前がしっかり働くなら、遠征中だけは大切な竜たちに水と馬の飼い葉をまわしてやる。竜は予定どおりオスとメスをわけて、後宮の跡地に入れる。王都は今の時期は雨も降らないし、夜間氷点下におちこむこともない。天幕で日よけをつくってやれば十分だろう。」
そんなことを言われては、無理です、とは到底言えない。
「承知いたしました。」
頭をたれ、ラドモントは、あわせて書物や地図をもって行きたい旨を申しでる。
「重たいと馬が疲弊する。書物は3冊までだ。」
西大陸の植物図鑑、製鉄技術の基礎知識、本当は土木水利技術の工法に関する本が欲しかったが、ここにないことは入室最初に確認しているので、迷いながら帝国の貴族年鑑を手に取る。あとは帝国の地形図と、各種の鉱脈が記された地図。
ラドモントが抱えたものを確認し、アナスタシアの片眉がはねあがった。
やはり鉱脈関係はまずかっただろうか。
「これは置いていけ。」
アナスタシアが除外したのは意外なことに貴族年鑑だった。
「それは皇統関係がメインだ。そんなもの読んだって意味がない。馬鹿な男どものせいで、そこに書いてある者はすでにほとんど死んでいる。」
やっぱりこの国は、血なまぐさい。
すたすたと真ん中あたりの書架にむかって歩いていったアナスタシアが、ほどなく一冊の本を持ってもどってきた。
「もっていくならこれだ。各地域の領主とその地域の産業・主要街道・特産品が記されている。」
「ありがとうございます。」
でもなんかこれ、すごく分厚いし、字が細かい。これ一冊で馬がストライキをおこすレベルだ。
ニィとアナスタシアが赤い唇をつり上げた。
「お前の馬にはこれだけ積めばよい。他のは私が持っていく。お前、多分こういう系統は苦手だろう?私がじきじきに試験をしてやろう。私のだす課題にきちんと答えられたら、お前の知りたい植物の情報を教えてやる。やる気がでるだろう?」
彼女の暗緑の目は嗜虐心にみちていた。
やっぱりこのひと性格が悪い。どうしてこんな厄介な相手に関わろうなどと思ったのか。自分で自分を殴りたい。
勝ち誇った表情で見下ろされ、ラドモントは唇を噛んだ。