17
守り刀を懐にしまったアリシアが、ルシアスの袖を、きゅ、とつかんだ。
「約束してください、陛下。もう『風の足』は使わないと。」
「承知した。」
『風の足』は、かりそめの自由。つぎに無理をすれば心の臓が耐え切れず命を失うと言われていた。アリシアらは大時計正面の玻璃の扉をあけ、中に入る。
壁に開けられた明かり取りの小窓から差す月の光が、ぼんやりとあたりを照らしていた。
「陛下、いったん止まってください。」
アリシアは右手で杖をついて歩む夫をひきとめながら、元のごとく時計の蓋を慎重に閉じる。
彼女の言葉の理由はすぐに分かった。
二人の目前を、ぶーん、と大気を裂いて巨大な振り子が通り過ぎる。その根元ははるか頭上の暗闇に紛れて見えない。
向かいの壁に階下に下る階段の入り口が黒く沈んで見える。
失敗すれば、首が、飛ぶ。慎重に間合いをはかりつつ、アリシアは押し殺した声で言った。
「いきますよ、いち、にの、さん」
辛くも反対側の壁に身を寄せた彼らのすぐそばを、かまいたちのような風がかけぬけていった。
「もう大丈夫。こちらです、陛下。」
この階段をつかうのは2度目だ。母や妹と隣国へ発ったあの夜の自分は、本当に視野の狭い子どもだった。兄と従兄をおいていくことを選んだ己は、やはり身勝手だと思う。
ただ以前とちがうのは、それを自分自身がきちんと自覚しているということ。
そして最愛の人の命を背負っている、ということ。
長い長いらせん階段をおりる。途中で拝借した2頭の馬にのってアリシアが導いたのは、セレナ王宮の東側に位置するちいさな入り江だった。
地平線の彼方は、あわい紅色で、かすかに日輪の予感がある。
「美しいな…」
頭上に広がる紫水晶色の星空と、ちゃぷん、ちゃぷん、としずかによせる波音がとても厳かで、ルシアスは感嘆のため息をついた。アリシアは、微笑む。
「セレナの王族が非公式に静養で訪れる浜です。“彼女”をお招きするのにちょうどよい場所もあります」
浅瀬に天をさして細く尖る岩がぽつりぽつりと点在しているのをみつけ、ルシアスは大きく頷く。
「まこと。“彼女”の宿り木にふさわしい」
ようやくこれで一息つける、と歩調をゆるめた時だった。
海を見ていたアリシアが、あ、と声をあげる。
「船、が。どうして、こんな所に。」
やや沖に、セレナの軍船がみえる。
船の舳先は、岬を一つ隔てたアドリア湾にむいていた。
ルシアスの表情が一気に厳しくなった。
「…おそらく我ら風の国の船を監視しているのだろうよ。」
「…え。」
アリシアが、瞠目した。その時だ。
「待たれよ!ローイエンのご一行とお見受けする。ことわりもなく我が国の領内を勝手に動き回られてはこまりますぞ!」
鋭い声とともに、防砂林のむこうからいくつかの馬影があらわれた。
次回はレオンVSルシアスです。