14.“水の標を娶る”ということ
「ははははは。実は妻の顔にはあざがありましてな。可愛がっているのは本当ですよ。年の差がありますし、幼い時から知っていますから。」
事前の打ち合わせどおり、アリシアは夫の片腕にやんわりと手をそえ、優雅なしぐさで頭をたれる。
「アーロン陛下。このままでいることを、どうか、お許しください。」
「あざは、流行り病の後遺症なのです。あの年は、薬師も薬もたりなかった。」
ルシアスは即位早々、貴重な人材をつぎつぎ失ったのだ。アリシアも感染した。だが、ぎりぎりで回復薬が間にあい、幸せなことに後遺症もあざも、残らないですんだ。しかし皮膚炎がのこってしまった民は多い。かぶり衣をする王妃が風の国ですんなり受け入れられているのは、そんな背景があるからだ。
当時のことを思いだし、ルシアスの表情が沈痛になる。アリシアは、きつく握りしめられた夫の握りこぶしの上にそっと手を重ねた。
遠方でなかなか帰省できないとはいえ、ルシアスの故郷は畜産業を営む純朴な気風の土地。
若いころから取りくんでいたルシアスの薬草研究は、近衛隊長ルーカスが多忙な国王のかわりに王都の研究室の鍵を譲り受け、引き継いだが、息子のラドモントはそこに小さい時から出入りしている。ラドモントが獣の世話や薬学に興味をもつのは必然なのだろう。
「…陛下。薬草の国内自給率が100%ちかいのも、貴賤問わず医療システムを利用できるようになったのも、すべて陛下のおかげです。」
「ああ…でも、もっと救えた命があったのではないかと思うのだ、今でも…」
「そうですね…。」
アリシアにも強い悔恨がある。厳しい時代をともに歩んできた夫婦は、それ以上何も言わぬまま、互いの指と指をからめた。
「…まことにお二人は仲睦まじいのですね。信頼しあっていることが、こちらにも伝わってきますよ」
向かいからかけられた言葉に、アリシアとルシアスは同時に顔をあげる。
アーロン王が、ひどく静かな微笑みをうかべ、言葉を続けた。
「先のハッバス皇帝殿も、伴侶を誠実に慈しんでいれば長生きできたものを」
「…先の。では、やはり、ヴァ―ハム帝は確かに亡くなられたのだな。皇帝が病に倒れハッバス軍の士気が落ちたと聞きましたが」
いつの間にか広間の喧騒が終息しつつある。そこかしこで気持ちよさそうな鼾がきこえ、まだ起きている者たちも、茫洋とした顔で酒をあおっている。
訥々としたアーロン王の声が、妙にはっきりと聞こえていた。
「ヴァーハム帝は、病死ではありません。掟をやぶったことによる、精霊の制裁ですよ」
「…どういう意味ですかな?」
「ルシアス殿は、セレナ王と水の標の契りが禁忌とされているのはご存知ですね」
「水の標と結ばれる相手の貴賤は問わないが、セレナ王だけは対象外だと聞いております。また、水の標自身が王になることも掟で禁じられている、と」
「なぜだと思われますか」
「祭と政をわけるためでは」
「いいえ。もし子宝に恵まれなかった場合、王家が途絶えてしまうからです。一度でも水の標と契った男は、つぎの相手が処女であろうと寡婦であろうと関係なく、ともかく別の女性と契ることはできません。」
「……もし掟をやぶり他の女と同衾したらどうなる」
アーロン王は酒を一口ふくみ、答えた。
「心の臓が、止まります」
「…左様か。ヴァーハムのやつめは掟を知らなかったのだな。酒池肉林の宴をひらいて精霊の怒りにふれ、命をおとした、と」
「別の女と同衾できないことは知っていたはずです。その事を説明したうえで、父はアリシアに来た縁談を断ったのですから。」
「ほう?ではなぜ…」
アーロン王は怒りをとおりこした空虚な顔で笑った。
「6年ほど前、攫われた先代の『水の標』が、あわれな姿でもどってきたのです。長年にわたり拘束具をはめられていたのか、手首足首が以上に細く、拷問された傷がいくつもありました。よほど、苦労したのでしょう。まだ16,7のはずなのに、老女のような死に顔で。生前身につけていたペンダントがなければ、実の親でも判別がつかぬほどの有様です。使者は『病のため皇帝陛下が崩御された。側室であった彼女も嘆き悲しみ毒をあおって後を追った』と。直接の死因は毒で間違いない。けれど自殺か他殺かは分かりません。そして当方の検死医によれば彼女は経産婦でした」
「…惨いことを。」
「最も効果的に水の力を操れるのは、水の標ですが、次第に言うことを聞かなくなってきた彼女に力をもたせておくのが怖くなったのでしょう。だから犯した。その後、得られた加護の質に満足できず激高したのか、他の女と交わる自由を得るためか…とにかく彼女を殺した。愚かな男です。命尽きるその時まで互いにともに歩むことを誓約して寿ぎを頂くのですよ。水の精霊王から武力で水の標を強奪し、あげく他の女を閨にいれるなど言語道断。“伴侶である水の標が先に死んだとしても”後添えをとることは許されません。精霊王を軽んじる行為です。」
アーロン王が、ここにきてはじめて、明確な怒りの表情を見せた。
カシャーン
甲高い音が響き、ルシアスは、はっと傍らを振り返る。
睡眠薬が満ちたのだ。すばやく車いすを寄せ、ぐらり、とかしぐアリシアの体を支える。
ルーカスが礼をしてすっと席をたち、ルシアスの背後に控えた。
「どうも妻には刺激がつよすぎたようです。申し訳ないが、今宵はこのあたりで退席させていただいてもよろしいか」
アーロン王に向き直り、微笑む。
水の国の青年王は申し訳なさそうな表情で頷いた。
「…ご婦人にお聞かせするには少々凄惨な内容でしたね。長旅でお疲れでしたでしょうに、つい長くおひきとめしてしまいました。明日のお声がけは何時ごろにしましょうか」
「私と王妃も、明日一番で船着き場に戻るつもりでおります。」
「…明日一番ですか?港まで、結構距離がありますから、そうすると朝食の時間は…。」
てっきりお昼ごろまでゆっくりすると思っていたのだろう。アーロンがぱちぱち、と瞬きをくり返す。
「妻も疲れているようなので、朝の会食は遠慮させてくだされ。またすぐお会いできるでしょうから、お見送りもいりませぬ。」
「ではのちほどお部屋のほうに軽食を差し入れさせましょう。……おや、ほかの皆もかなり寝てしまっているようだ。」
広間をぐるり、と見まわしてアーロン王がちん、と卓上の呼び鈴をならす。
「およびですか、陛下」
広間の入口付近から応えがあった。