夢か、現か
ふと気が付くと、俺は見慣れた教室の前に立っていた。そこは、俺が六年前まで教師として勤めていた高校の教室だった。先程まで自宅のベッドで寝ていたはずだが、などと考えていると中から突然、男子生徒が言い争う声が聞こえてきた。
「おい! 今日までに五万って約束だっただろ!」
「……っ。ごめっなさっ……いっ。うぐっ……」
ああ、これは悪い夢なのだろうか。俺は今何が起こっているのか、これから何が起こるのかを知っている。これは忘れたくても忘れられない……六年前、俺が教師を辞めることになった原因となる出来事だった。俺は今、なぜかその出来事を繰り返しているらしい。
恐る恐る教室のドアに手をかける。覚悟を決めて開けたドアの先には、自分の記憶通りの光景が広がっていた。そこには男子生徒が二人、一人がもう一人に蹴られ、床にうずくまっていた。蹴っているほうが須藤環、蹴られているほうが夏井悠太。どちらも、俺が担任だった二年三組の生徒で、悠太は俺の幼馴染でもあった。
「とも……きく……ん」
俺に気づいた悠太が俺の名前を呼ぶ。
六年前、初めてこの光景を目にした時、俺はどうしたらいいのか分からなくなり、その場を逃げるように立ち去ってしまった。いつも明るく元気だった悠太がいじめられているなんて信じられなかったのだ。おそらく、悠太は俺に心配はかけまいと明るい性格を演じていたに違いない。俺が悠太を置いて逃げたことに失望したのだろう。それから、まもなくして悠太は自ら命を絶った。俺はその責任を取り、教師を辞めたのである。その後聞いた話では、須藤は入学してからの約二年間、ずっと悠太をいじめていたらしかった。
俺はあれから六年間、ずっとこの時のことを後悔し、やり直したいと思っていた。もしかすると、これは神様が俺にやり直すチャンスをくれたのかもしれない。もし、やり直せるのなら……。
「この野郎!」
「うっ」
俺は、須藤を一発殴ってやろうと決めていた。それともう一つ、俺には決めていたことがあった。
「悠太、ごめん! 俺、悠太がいじめられてることに全く気付いてなくて……。ほんとに情けない……。悠太の気が済むまで俺を殴ってくれ!」
急に生徒を殴ったかと思えば、今度は「殴ってくれ」と言い出した俺を見て、悠太はしばらくきょとんとしていたが、突然笑い出した。
「あははっ、ははっ……ははははっ、はーあ。智樹くんならなにかしらしてくれると期待してたけど、まさかこう来るとはね。あー笑った」
俺はそんな悠太の様子に驚き、固まってしまった。
「あ、ごめんごめん。急に笑い出したりしたらびっくりするよね。……あのね、ここに智樹くんを連れてきたの僕なんだ」
「は?」
急な悠太のカミングアウトに、俺は間抜けな声を出してしまった。
「僕ね、今死神やってんだけど」
「え? は? ちょ、ちょっと待って」
あまりの衝撃発言に、俺は悠太の話を遮ってしまった。
「死神……?」
「そう。死神。なんかあの世のルールで、自殺した人はその罪が許されるまで死神として働かないといけないらしくて、しょうがなくやってるの」
「ここに俺を連れてきたって……?」
「僕ね、最近特にお仕事頑張ってるからご褒美あげるよって偉い人に言われたの。智樹くん……、僕が死んでから毎日お線香あげてくれてるでしょ? それで毎回、ごめんなって僕の仏壇の前で泣いてるでしょ? ……さすがにもうそろそろ七回忌も終わるし、前を向いてほしいなと思って、智樹くんに会わせてもらえるように頼んだんだ」
そう言った悠太は少し困ったように笑っていた。
「まあ、この教室を舞台としてあの時の様子を再現したのは、僕から智樹くんへのちょっとした嫌がらせかな」
「そう……だったのか。死神なんて言うから、てっきり俺の命をとりに来たのかと……」
「あははっ。今さら智樹くんの命とろうなんて考えてないって。とるならもっと早くとりに来るよ」
俺は、とりあえずほっと胸を撫でおろした。
「そうだ、須藤はっ……!?」
須藤の存在を思い出した俺は、あたりを見回してみたがあいつの姿はどこにもなかった。そんな俺の様子を見た悠太は途端に表情をなくした。
「ああ。須藤くんは、うーん、なんて言えば良いのかな……。一種のまやかし、的な? まあ、そんな感じだよ」
そう言った後、「あと、これは全く関係のない話なんだけどね」と前置きし、冷ややかに笑った。
「人が死んだ後の魂の中には、行方不明になってしまうものもあるそうだよ。噂だと死神が隠し持って使役していたりする場合もあるんだって」
そのあまりの迫力に、俺は何も言うことができなかった。
「まあ、そんなことは置いといてさ。とにかく智樹くんには前を向いて生きていってほしいわけ。六年間毎日僕のことを考えてくれてほんとにありがたいと思ってるの。でも、そろそろ俺のことは忘れて、智樹くんの人生を楽しんでほしい」
先程までの様子が嘘だったかのように、悠太はまた困ったように笑った。
「えへへ……、本音を言うと少しさみしいけどね」
「悠太……」
「じゃ、僕はそれを伝えたかっただけだから! またね、……佐々木せんせっ」
悠太はいたずらっぽい笑顔を浮かべ、それだけ言うと消えてしまった。
「もう先生じゃないっつーの……」
その場に取り残された俺は、またふと気が付くと、自宅のベッドに戻っていた。すべては夢だったのだろうか……。そんなことも考えたが、あれは現実に起こったことなのだと信じることにした。その後、人に話してみたりもしたが、もちろん信じてくれる人はいなかった。
しかし、五十年経った今、俺は間違っていなかったことが証明されたのだ。病室のベッドで俺は満足気に微笑んだ。
「迎えに来たよ。智樹くん」
7歳差の幼馴染って許されるんでしょうか……。