8-5
残酷描写あり(流血、欠損等注意)。
5
魔剣・荒炎に腹部を切り裂かれたイリヤの肉体は、無惨に床に転がった。
おびただしい血がみるみる石畳に広がり、激しく体が痙攣する。
ギガースは、千切った腕を喉から引き剥がし、投げ捨てた。肘の辺りから切れた右腕が、小さく弾んで隅に飛ぶ。
おびえたように、灰色の集団が身を縮ませた。
ギガースの頬に、冷たい怒りが宿る。
「おのれらのしてきた結果であろう。よく見るがいい」
水晶宮で学術的な研究を行なう、学者と呼ばれる彼らは、祭主と共に人体改造に携ってきた者たちであった。
祭儀の司である祭主は、同時に智恵の牙城である、水晶宮の主でもある。
不老不死を目指した彼は、その権限を濫用し、人体の可能性を見極めようとした。それが人体改造、果ては人造人間の作出へと研究を進ませることとなったのである。
風人イリヤは、その最中に手に入れられた。
不老不死に最も近い〝不死薬〟を、祭主は手中にしたのである。不死薬を得たアレス・リキタスは、病むことも怪我をすることもなく、老いる速度もはるかに遅くなった。
だが、完璧ではなかった。
風人も死ぬ。つまり、永遠の生は風人でも有り得ぬのだ。
なぜか。
祭主の問いに、イリヤは答えた。
『死してこそ真の生が得られるからでございます』
だが彼は納得せず、秘密を探るために、彼女の身体を切り刻んだ。そしてそれは次第に、彼女を人類でもっとも優れた肉体へと改造していく禁断の道へ、足を踏み入れさせる結果となったのだった。
左上腕に刻まれた記号は、その証――古代の文字で、百二十二番目の実験体を意味する。
「原罪者よ。私は、彼女を研究すればするほど、ある一つの確信をするに至ったのだ」
風笛のような悲鳴をあげて足元に転がる養女を眺めながら、祭主は言った。
「原罪者とは、人と妖魔の中間に位置するものではないかと――。言い換えるなれば、人間と妖魔の間に産まれたのが、原罪者なのだよ。そう考えれば、すべての辻褄が合う。原罪者の罪の謂れ――そして、能力者などという言葉では括ることのできぬ、君たちの類を見ない能力の理由がね……」
「黙れ!!」
顔面に血を昇らせ、ギガースは怒鳴った。
祭主は、あくまでも淡々と、むしろ残念そうに続ける。
「是非にも、天眼をもつ君に協力して欲しかった……。今となっては叶わぬだろうがな」
「貴様……この期におよんで、まだのたまうか!」
その時。
かつて感じたことのない清冽な何かが、その場に巻き起こった。
巨大な爆発がもたらした、眼に見えぬあたたかな波は、瞬時にすべてに染みわたり、包み込んでいく。
――聖母……!
それは、能力を持たぬ学者たちですらはっきりと感じ取ることのできる、聖なる女性の復活の波動であった。
祭主は、わずかに拳を握り締めた。
「――祭主よ。貴様はもう終わりだ。……見るがいい、彼女を」
ギガースは、怒りを押し殺した声音でそう言い、イリヤを指差した。
もはや、わずかに息をするのみとなった異形の娘は、時折激しく震え、死を予感させた。
祭主の手の命珠から、急速に光が失せ、黒くくすんでゆく。
「彼女を見ても、何も思わぬのか。これが貴様の研究のすべてだとしたら、何とも哀れで醜く滑稽なことよ。不老不死の源である、彼女が死ぬのだからな!」
痛烈な妖魔狩人の言葉に、祭主の顔に、初めてはっきりと表情が浮かんだ。
大笑であった。
「ふ……ふふふ。ははははは……!!」
狂ったように祭主は笑い、
「彼女は、死なぬ!! 私もまた――死なぬのだ!!」
叫ぶや、祭儀用の短剣で、おのれの左の手首を深々と切り裂いた。
「!!」
吹き出した血潮が滴り落ち、流れ出た血を吸って、手の中の命珠が赤くぬめやかに染まっていく。
濃く赤く、血よりも鮮やかな深い深い生命の色となって。
命珠が、再びその元の輝きを取り戻した。
死の淵にあった娘の顔に、血の気が戻る。
レイは、声にならぬ悲鳴を上げた。
それと重なるように、獣の雄叫びをあげた娘が、ギガースに踊りかかった。
ぐ…うん、と左腕が伸びる。
「く……っ!」
荒炎を降りかざす彼に、にやりと笑い、イリヤが上空に飛んだ。
跳び上がったのではない。鳥のように空中を舞い、壁を蹴って、身体ごと突っ込む。
身を捩って逃れようとしたギガースの片手に、細い糸が巻き付く。
異形の女が笑った。
指だ。
細く伸ばした一本の指が、彼の右手首をから絡めとり、ゆっくりと引き寄せる。
凄まじい力に、ギガースは、ぴくりとも荒炎を動かすことが出来なかった。脂汗が、背筋を伝い落ちる。
引き合いが続く中、蔦でも伸びるように同じものが四筋、イリヤから這い出てきた。他の指を使って、もっと強力に引き寄せようというのだ。
ギガースが、左手でそれを掴んで抵抗する。
だが、それこそイリヤの思惑だった。左手が掴んだ瞬間、他の指が両手に絡みつき、そのまま腕を伝って、胸から首、頭へ這いのぼる。
「うわあっ」
肉の鎖に縛られ、ギガースは叫んだ。だが、その声もすぐに消える。
「む……ぐ、ぐ……」
急激に縦横に伸び、膨れたイリヤの肉体によって、鼻と口を塞がれたのだ。息が出来ずにもがく彼を、微笑を浮かべながら、女が締め上げる。
咄嗟にレイは叫んだ。
「だめだ、イリヤ! 殺すな。頼む、殺さないでくれ……!」
「レイファシェール様、おやめ下さい!」
止めに行こうとするレイを、捕錠する衛士が制止する。
「放せっ! 彼女に人殺しはさせたくない。嫌だ……そんなのは、嫌だ……!」
「何を甘いことを」
わずかに血の気を失った祭主が、レイに冷ややかな一瞥をくれる。
「彼女が私の命令で何人殺したと思うのだ? 第一、今の彼女に殺戮以外の意志があると思うのかね?」
「嘘だ!」
レイの身体が光を帯びた。雷を浴びたような衝撃に、衛士たちが手を放す。
レイは、燐光を放つ手で、祭主の胸ぐらを掴んだ。
「私はそんなことは信じない! 貴様さえいなければ、彼女は元に戻る!」
「馬鹿な……。命珠は私が持っているのだぞ」
電光の痺れをこらえ、祭主はなおも毒づいた。
「ならば……お前を殺せばいい」
深い蒼の双眸が、宇宙の輝きを宿した。
祭主がはっとした、その瞬間。
獣の叫びをあげて、それがやってきた。
「うわあああっ……!!」
絶叫と共に、床一面に血の雨が降り注ぐ。
生温かい雨粒を浴びながら、レイは、それを見た。
「イ……リヤ……」
輝く脳髄を戴き、虚ろな眼をした女が、おのが腕で人の肉体を貫いていた。
それは、レイを護るために走り出た、二人の衛士の肉体であった。
「レ…イ、ファ……シェール……様……」
腹と胸を貫かれ、わずかに呻いて、二人が事切れる。
血で汚れた顔を拭うことすら忘れ、レイは呆然と、床に倒れる二人の衛士を見た。
その向こうに、異形となった女性が立っている。
「――なぜ……」
レイの眼から、止まらない涙が溢れ出る。
美しい顔立ち。機知のあるやさしい話し方。夢にまで憧れた曙色の髪。
誰もが敬愛する姫君だと思っていた。たとえどんな素性でも、帝都の姫にふさわしい礼儀と教養、品の良さを兼ね備え、聖騎士として神にすら認められたのだ。
得られぬものは何もないと信じていた。
「イリヤ――」
針金で彩られた脳髄が、考えるように傾いた。
戦意のない相手に、戦うかどうか思案しているのだろう。
レイは、滂沱と涙を流したまま歩み寄り、その頬に指を伸べた。
女が、すっと身を引く。
「やめろ……レイ」
すんでのところで窒息からのがれた、ギガースが呼びかける。
「言っても無駄だ。彼女は……もう死んだ」
レイは黙って、強く首を横に振った。
今目の前に立つ変わり果てた女性が、以前知っていた女性とまったく違うことは分かっていた。だが、別人だとは思えなかった。
レイが今まで知ることのなかった、イリヤの心の闇。それが目の前にいる彼女なのだと。
「私は逃げない。イリヤ、その強さを教えてくれたのは、貴方なんだ」
「……」
「貴方を治してみせる。共に行こう。私がついている。貴方が私にずっと寄り添ってくれたように、今度は私が貴方を守る」
レイは、靭い眼差しで手を差し伸べた。
「この手を取ってくれ。私は、貴方と共に生きたい。貴方がもとの貴方に戻らなくても、私は――」
かすかに、微笑む。
「貴方を誇りに思う」
「……」
光のない瞳が、何かを探すように、わずかに空を泳いだ。形を失った指が、レイの白い指先に触れる。
――と。
「馬鹿な!! 何をためらっているのだ、我が娘よ!」
獰猛に怒鳴り、祭主がレイを羽交い締めにした。短剣を突きつけ、
「甘言に乗せられるな! お前は私のもの……その細胞ひとつひとつに至るまでが、私とつながっているではないか。忘れたのか!」
傷ついた左手で、命珠を掲げる。風人の命を宿す珠が赤く輝き、褐色の瞳に意志が産まれた。
「そうだ。それでこそよいのだ、娘よ」
祭主が、確信に満ちた笑顔になった。
「殺せ。銀の兇児など、証拠は死体で充分だ。殺せ……殺してしまえっ……!」
もがくレイを押さえつけ、祭主は鬼気迫る形相で叫んだ。
ギガースが蒼褪める。
「待て、早まるな……っ!」
この言葉を、彼女はどう聞いたのだろう。
いや、耳に届いてはいなかったのかもしれない。
イリヤは、幾多の人間の血を吸ったその鞭の腕で、最後の人間を屠った。
血飛沫と共に、短剣が床に落ちる。新たな血の匂いが、鼻を突いた。
「馬鹿……な……」
横腹を深々と貫かれ、祭主が呻いた。よろよろと後ろへ下がり、
「おまえが……私を、裏切れるはずが……」
「――貴様の思い上がりだ、祭主。血よりも肉よりも、濃い繋がりが人にはある。それを考えなかった、貴様の浅慮だ」
吐き捨てるように、ギガースが言う。
祭主は荒い息を繰り返しながら、左手の命珠を見た。ぬれぬれと赤く息づいている。
だが、次の瞬間。
「いやああああ……っ!」
レイの悲鳴と共に、祭主を貫いた腕が弧を描き、半回転してあるべきところへ戻る――彼女自身を、串刺しにして。
意志のない顔が笑う。
しかしそれは、今までのように、殺戮を楽しむ兵器の表情ではなかった。
痛みに耐えつつ、相手を――己が運命を蔑んで笑う、決別の笑顔だった。
《サヨウナラ……オトウサマ……》
意志なき意志で呟く。
そして、やにわに祭主の体を引き寄せると、おのれごと、その変わり果てた肉体で締め上げた。
骨の折れる鈍い音――。
もはや祭主の顔色は灰色で、悲鳴すら上がらない。
主人の最後を悟り、学者たちが逃げ出す。
だが、レイはそんなことも気付かなかった。
「いやだ……いやだよ、イリヤ……」
血に濡れ、為す術もなく立ち尽くしたまま、レイは懇願した。
「こんなお別れだなんて、嫌だよ……。もっと、一緒にいたい。一緒にお茶を飲んだり、しゃべったり、兄上をからかったり、それから――それから……」
何を言っているのか分からなくなりながら、レイは必死に言葉を探す。友をこの世に繋ぎ止めて置くための言葉を。
「もっとずっと一緒にいたいんだ。だから、いかないで……。私を一人置いていくなんて嫌だ……絶対に嫌だ。嫌だよ……――」
泣きじゃくり、幼児のように首を横に振り続ける娘に、イリヤは最後の眼差しを向け――そして閉じた。
《ありがとう……》
「……嫌だ――」
その瞬間、固く結ばれた二つの身体が、炎に包まれた。
「いやだああああぁっ……!!」
魂を奪い去られるがごとく絶叫が、神殿に響く。
泣き崩れるレイの目の前で、二人は松明と化し、めらめらと激しく急速に燃え上がってゆく。
法力の炎に包まれたまま、かすかに祭主が、イリヤを見た。
《――これが答えか、娘よ……》
《共に参りましょう、お養父様――》
祭主は微笑むと、彼女の身体にしっかりとその腕を回す。
燃え盛る火焔の中で、二人は、まるで恋人同士であるかのように寄り添い、ひとつになった。
黒煙が立ちのぼり、赤い炎が、二人の姿をゆっくりと形の無いものに変えてゆく。
炎の揺らめきの合間から、風人の命を宿した珠が、床に転がり落ちる。
光を失ったそれは、軽い音を立て、砕け散った。
破片が、燃える火を映してわずかに煌き、消える。
レイの中で、なにかが、壊れた。
*
皇后自害の衝撃も覚めやまぬ天枢城にも、それは訪れた。
真っ先に気付いたのは、母の亡骸を抱き惜しむ、ルークシェストだった。
「な……に……?」
涙の乾かぬ顔のまま、立ち上がり、城の奥を見つめる。
彼の異常な様子に、ざわざわと一同が辺りを見渡した。何も起こった様子のないその場の状況に、次に気がついたのは、やはり法力を秘めた皇帝である。
――何が……来るのだ?
セイデンは、憶えのある気配に、記憶を探った。
だが、これほどまでに鮮明だったであろうか。それは、今までと同じではなくむしろ、神の御子が皇后の胎内に宿った時と同じ感覚であった。
――では……?!
想いを同じくした皇子が頷く。
そして、ようやく他の者も気付きはじめた。
天枢城の北。
まるで、そこから朝日が差し込んでくるかに似た、清涼で透明な気配――。
それはすぐに、法力を持たぬ人間にも見える、煌くばかりの美しい光の薄布となって彼らすべてを包み込んだ。
「聖母……」
誰かが呟いた。
ルークシェストが頷いた。
「そうだ。聖母が戻られたのだ……――」
数分後、それは現実の光景となって、彼らの前に現われた。
皆の先で出迎えたルークシェストが、復活を遂げた女性が誰の腕に抱かれているかを知り、表情を崩した。
「セレスディーン……」
「よお。こいつは――皆さんお揃いで、すごいお出迎えだな」
場所も身分もわきまえぬ青年の無礼な発言に、一同は毒気を抜かれた。
「シェス、投獄されたらしいが、無事か?」
「ああ、このとおりだ」
対応に慣れた皇太子が応じる。同じくリューンで顔を合わせた皇帝がやってきて、声をかけた。
「君にはまた世話になったようだな」
「いいえ。御無事なようで――」
「老師にも迷惑をおかけした」
「平気でしょう。毒殺などそんな風流なことをされっぱなしの訳がない、影に潜んで何か企んでおるのだろうよ、と申しておりましたので」
口真似で告げられた師匠の毒舌に、皇帝は苦笑するほかなかった。表情を改め、
「ともかくも、聖母を救い出してくれたこと、感謝のしようもない。礼を言う」
「運が良かっただけです」
肩をすくめ、あくまでディーンは真面目に応じようとない。その腕に抱かれた女性が、美しく笑って否定した。
「いえ、すべては彼のお陰です」
「聖母……よく御無事で」
「ルークシェスト。貴方も健在で、何よりです」
聖母は微笑み、東国の青年の腕から双生児の元へ移った。
セイデンが、胸に手を当てて頭を下げる。
「聖母」
「陛下。苦労をかけました」
「何の……」
「皇后には済まぬことをしました。間に合いませず……」
「……いえ、これで良かったのかもしれませぬ。傷が深うございましたゆえ――」
含みのある言葉に、聖母は黙って皇帝の腕に手を触れた。
と。
眼にみえぬ衝撃が彼らを襲った。
東北の方角から訪れた何かは、人々の頭蓋を直撃し、びりびりと大気を震わせる。それはすぐ、現実にも壁や天井を揺るがし、地震でも訪れたかのような感覚をもたらした。
城が崩れる錯覚すら覚える強烈な波動に、人々がざわめく。
「何事だ!」
「魔術師か……」
「いや――」
ルークシェストが首を振った。聖母が告げる。
「レイファシェールの法力が暴走をはじめたのです。意識では統御できない能力が、一気に溢れ出て周りを侵食しています。このままでは、帝都は勿論、本人の精神も崩壊してしまうでしょう」
そう言う彼女の身体は、黄金の燐光を放っている。
衝撃を受けた直後に、法力で障壁を張ったのだ。
東国の青年が問う。
「場所はどこだ?」
「金剛の宮です」
聞くや、身を翻してディーンが走り出す。皇子が叫ぶ。
「君が行ったところで、どうする! この法力の渦の中では、レイファシェールに近づくことはできぬぞ。私が行く!」
「あんたには彼女を任せる」
簡潔に、ディーンが言い返した。聖母を抱いた皇子は言葉を詰めたが、
「だめだ、君まで命を落とすぞ!」
「シェス――」
足を止め、ディーンが振り向く。皇太子は、はっとした。
それは、周りの者が息をのむほど静かな、決意に満ちた表情だった。
「俺は助けると誓った。それだけだよ。だから、行くんだ」
「ディーン、おまえ――」
息子の肩を押さえ、皇帝が告げた。
「行け」
ディーンは微笑んだ。
「――はい」
「気をつけなさい、勇者よ」
聖母にも頷きかけると、彼は、後も見ずに駆け出した。走りながら、共に帝都まで来た氷の妖魔を呼ぶ。
「九曜!」
亜空間から現われた獅子が、一声あげ、青年を背に攫った。
青白い疾風と化した妖魔は、城を抜け、中庭を一蹴りで飛び越えると、金剛の宮正面に辿り着く。
白く荘厳な光明神教の正神殿は、一部倒壊し、焼失していた。
《く……っ!》
九曜でさえ、一瞬近づくのをためらうほどの光が、内部から強烈に放射している。
《気をつけて。ただの光じゃない。攻撃とか防御とか、そんな範疇を超えた能力の固まりが、レイという器を越えて溢れ出ているんだ》
「わかった」
頷き、ディーンは獅子の背から下りた。息苦しさはあるが暑さを感じない、と思ったが、それは間違いであった。
九曜の護りを得てもなお、剥き出しの顔や腕が、煙を上げて灼かれていた。熱傷もある程度を越えると痛みを感じないというが、それに近い。
腕で顔を庇いながら、ディーンは神殿へ入った。色を失う景色の中、放射し続けるそれを、かすかに阻んで光るものがいる。
――ギガース!
漆黒の魔剣と共に、妖魔狩人が床に倒れていた。その周りを、光る小さな点が舞っている。炎華だ。
《まったくもう、遅いじゃないの!》
魔剣の精霊が憤慨する。ディーンは、ギガースの無事を確認すると、魔剣を鞘に納めてくくりつけた。目顔で彼らを九曜に任せ、一人で、さらに奥へと進む。
前方から襲う見えない力に、じわじわと身体が重くなる。
倒れるいくつもの影。強烈さを増す光と熱の中で、ディーンはそこでの惨劇を垣間見た。
累々と死体が積み重なるその果て。
そこに、光り輝くそのひとがいた。
溢れ出る法力のために、爪も肌も光の一部に溶け、白銀の髪は光そのものと化して、空を踊っている。
中空に向けられた瞳が、遠く、彼の届かぬ深淵を宿していた。
それはまるで、魔物が誕生する瞬間のようであり、癒されぬ深い痛みが形となって泣き叫んでいるようでもあった。
「レイ――」
喉が焼ける。涙も涸れ、眼がちりちりと乾いて燃えた。
ディーンは足を踏みしめ、懸命に前へ手を伸ばした。
じゅぅっ、と指先が、嫌な音を立てる。
「レイファス。……俺だ。俺を見ろ!」
掠れた叫びが、虚しく跳ね返る。
ディーンは、焼けつく痛みに朦朧となりながら、すべての想いを叩き付けるように、もう一度その名を呼んだ。
「レイファス!!」
ゆっくりと、宇宙色の瞳が彼を向いた。
「――ディーン……?」
かすかな声。
「そうだよ、レイファス。俺だ。ディーンだ」
ディーンは頷き、歩み寄った。深い水の底を歩くがごとく、重い体を引きずり、頬に触れる。しゅうううっ…と、手のひらが煙を上げた。
虚ろな瞳が、こちらとあちらの世界を行き来するごとく彷徨う。
「もういいんだ、レイファス。もう、いいんだ――」
囁いて、発光し続ける彼女の身体を引き寄せる。
「もう……いいんだよ」
人ではなかったものの顔に、表情が戻った。
光が消える。
崩れるように倒れるレイの身体を、ディーンはその腕に、やさしく抱き止めた。
意識のない彼女の瞼から、ひとすじの涙が流れて、頬を伝った。
* * *
皇帝復活の声を聞き、喜びに湧きかえるアイテールを抜け出すのは、彼にとっては容易なことだった。
亜空間にいたままでは障壁を越えられぬため、姿を現わし、戒厳令解除に伴ってアーエールへと帰る一団に混じって、堂々と門を出る。
道化ほどの小男を、恐るべき〝闇の導師〟と気付く者などいない。
ザグレウスはアーエールの外れ、アイテールを臨むセレナの丘に立ち、呪言を紡いだ。
彼の目の前に、一抱えほどの魔力の球が浮かんだ。
陽炎のように揺らぐ球面は、虹色の光を放ち、次第に何かを映しはじめる。
「ふうむ……」
ザグレウスは唸った。
そこには、無事でいる皇帝と皇太子たち、そして復活を遂げた聖母がいた。
集う彼らの元へ、原罪者を背負った蒼白の獅子と、銀髪の皇子を連れ、東国の青年が戻ってくる。
無事をたたえ、喜び合う彼らの姿を見、ザグレウスの形相が凄味を帯びた。
「小僧め……!」
憎悪、などという言葉では尽くせぬ、猛々しい想いだった。
彼さえいなければ敗れることもなく、聖母に法力が戻ることもなかったのだ。
全身の火傷など忘れたように、青年はいとおしそうに、気を失う銀の娘をその腕に抱いている。
「待っているがよい、小僧。貴様には死よりも深い死を与えてやる……」
ひそやかな独白に、並々ならぬ決意が宿る。
――と。
鋭い音を立て、飛来したひとすじの閃光が、ザグレウスの空球を砕いた。
ザグレウスは身を翻して避け、
「何奴?!」
高まる魔力に、黒い長衣が膨らむ。
空球を砕いた人物は、同じくローブ長衣を纏い、日を背にして立っていた。
溢れ出る魔力は、決してザグレウスが侮れるような相手ではない。
「貴様に聞きたいことがある」
意外に若い声だった。
「アイテールで何があった。真実を教えろ」
「なに……?」
「貴様、先程アイテールより出てきただろう」
「それを知って……何とする!」
ザグレウスはせせら笑い、風を巻いて踊りかかった。闇が迫るごとく魔力を、相手はふうわりと避ける。
頭巾の縁から、きらり、と長い髪が、輝いて洩れこぼれた。
「戦いに来たわけではない。俺が知りたいのは……ある人のことだけだ」
「!」
ザグレウスの動きが止まる。
乱れた頭巾から垣間見えたその顔は、ザグレウスを驚愕させるに充分だった。そして、驚きはすぐに確信へと変わる。
――なるほど。そういうことか……。
艶のない顔に、ゆっくりと笑顔が宿る。
「……ふ。ならば、教えてやろう。真実のすべてをな――!」
相手が頷く。長衣の胸先に流れ落ちた髪が、日の光を弾いて煌めいた。
それは、間近に迫った黄昏を予感させるような、美しい夕陽色をしていた。
Canaan Saga 3 ~帝都内乱~ 終




