8-4
残酷な描写あり。
4
金剛の宮から強制的に退去させられた皇后カリスタは、両脇を厳重に神殿衛士に固められたまま、捕縄され連行されていた。
「おのれ、神妃たる妾を捕縄するとは無礼千万……っ! 放せ、放しやれい……っ!」
「どうぞお静かになさいませ。御心を安らかになされます所へお連れ申し上げるだけにございまする」
「ならば、何故こんなものを手にかける? 何故じゃ……何故じゃぁっ!?」
縄で固く結ばれた両手を掲げ、懇願する。
美しく整えられた化粧は崩れ、法衣も乱れきったその姿は、哀れで、滑稽だった。その滑稽さがなお、哀れを誘った。
衛士たちは無言で、暴れる皇后を両脇から抱え上げるように歩かせた。
その行く先が、皇后の宮殿である香華宮ではなく、天枢城であることに気付いたのは、まだ正気が残されている証であったのであろうか。
「妾を……いずこ何処へ連れて行く気じゃ?」
「御心をお静かに出来る場所にございます」
「地下牢じゃな? 妾を地下牢へ入れる気じゃな……?」
かぼそく、声が震える。力が抜け、崩れ落ちる清妙院を衛士たちが支えた。
「おお……お願いじゃ。地下牢は……地下牢だけはやめておくれ……」
「祭主猊下のお指図です。御心が落ち着かれるならば、すぐにもお出になられましょう。今は危急の時ゆえ、致し方ございませぬ。我々では貴方様をお守りするのは、難しゅうございますゆえ」
「祭主……祭主じゃな」
カリスタは呆然と呟いた。物柔らかに諭していた衛士が、聞き返す。
「は……何と申されます?」
そのとき、うつむいていたカリスタが、突如叫んだ。
「きえええぇぃ……っ!!」
驚いて衛士たちが思わず手を緩める。それを振り払い、皇后は逃げ出した。
「お待ちを!」
衛士たちは追いかけたが、狂乱状態の皇后に近づく事ができない。捕縄されたままのカリスタの手には、いつの間に奪ったか、衛士の剣が握られていた。
「おのれ……おのれ、裏切り者! 甘言を弄して妾に近づき、身も……心も奪っておきながら、この処遇! 断じて許さぬ……許さぬぅっ!」
「陛下……お静まり下さい!」
「いえええいっ! 寄るなぁっ!」
抜き身の剣を振り回して暴れ狂う皇后に、衛士たちは手も足も出ない。
周りを取り囲み、怪我を覚悟で取り押さえようとした、その時。
一人の帝都兵が、輪を縫って皇后に近づいた。
「落ち着かれよ」
「なにい……っ!」
「公衆でござる。落ち着いて、剣を手放されよ」
低い、穏やかな声が凛と響く。皇后は一瞬、動きを止めた。
決して大柄でない兵士が、手を伸ばして剣を受け取ろうとする。だが皇后は、縛られた手で、剣を薙ぎ回してきた。
「ええい、無礼な! 妾は皇后なるぞ!」
兵士は一歩退って避け、身を屈めると、皇后の足を蹴った。皇后が倒れる。そのまま組み伏せ、兵士は、剣を奪ってかなたへ放り投げた。
衛士が剣を拾い上げる。
皇后は、兵士に組み敷かれたまま、なおも罵倒し続けた。それは、その場に居合わせた者が耳を塞ぎたくなるほどの、悪党さながらの酷い内容であった。
その罵倒を、静かな声音が破る。
「――皇后陛下」
リー・ジェイナス・モルガン将軍が、供を従えてそこにいた。
「おお、モルガン将軍。妾を助けよ……お願いじゃ」
「残念ながらできかねます」
きっぱりと、将軍は言い切った。
組み伏せられた皇后の顔から、表情が消える。
「何故じゃ。祭主は裏切り者ぞ? 妾を裏切り、陛下を……陛下を毒殺しかけたのも、皆あやつの仕業じゃ!」
「存じております」
カリスタの言葉に耳を疑った一同は、事もなげな将軍の答えに、さらに衝撃を受けた。
「では……何故じゃ? 何故、祭主の命に従うのじゃ……?」
次第に独白は、かぼそく頼りなくなっていく。
「妾は何もしてはおらぬ。何もしておらぬのに、何故牢に入れようとするのじゃ?」
「――何もしてはおらぬとは、異なことをおっしゃる」
皇后を捕らえる兵士が、強い語調で反論した。
「なに……」
「祭主と組んで謀反を企てたること、お忘れではなかろう?」
「貴様、如何なる理由で妾を侮辱するか!」
「理由、とな……?」
壮年の兵は、苦笑した。短い髭をたくわえたその口元を、カリスタはどこかで見た憶えがした。
兵士が顎紐を外し、兜を脱ぐ。
周りの者が、あっと声を上げた。
「まさかに――夫の声と顔、見分けがつかぬようになったとは言わぬだろうな?」
カリスタは息を詰めた。
祭主の巡らした策謀によって死の淵にあるはずの夫、セイデンⅢ世皇帝の顔が、そこに現われた。
「陛……陛下……」
「しばらくぶりじゃな、清妙院どの。ちと見ぬうちに、老けたようじゃな」
皮肉に言い、帝都正規軍の甲冑を纏ったセイデンは、身を起こした。
別な帝都兵が現われ、カリスタを立たせる。
「陛下……御無事であらせられたのか……?」
「愚息が、我が宮殿の外で話し合う怪しげな人物を見かけてな。注意を怠らぬようにしたがよかった。外から運ばれた薬も食事も、みな鼠の餌じゃ。そのうちに鼠ら、ばたばたと倒れはじめてのう」
可笑しげに笑う。
「痛み止めの薬であったか……。儂が寝入っているものと思って、堂々と薬を換えていきおったわ。鼠たちには少々気の毒であったが、息がなくなったとみて、すぐさまノアと芝居をうったのよ。無論、ネストリウス医師はすべて承知の上じゃ」
勿論、毒殺前の通達も、モルガン将軍との争いもすべて作り事である。敵を動揺させ、行動を起こさせることによって捕らえる契機をつくる計略であった。
カリスタは震えた。
「何ゆえ皆をたばかられたのです? すぐに毒殺を試みた者を捕らえ、反乱の手を押さえれば、このような混乱は避けられましたでしょうに!」
「反乱を一掃するためじゃ」
皇后の顔から、さっと血の気が引く。
簡単に告げられた一掃、という言葉に、自分自身をも含まれている事を悟ったのだ。
「妾は……毒殺をしようなどと、知り申しませなんだ……」
「――」
「ただ……騒ぎを起こすだけと……。その混乱に乗じて魔術師を呼び寄せ、聖母を手中に収めるだけと聞いておりました。まさか御命を狙うなど……ましてや、その嫌疑をルークシェストにかけるなどとは……!」
「分かっておる」
やさしい口調で、皇帝は言った。背後へ眼を移し、
「おぬしの息子は、あれにおる」
振り向いたカリスタは、金の巻き毛も眩しい背の高い若者が、こちらへやってくるのを認めた。衛士たちは全員、片膝をついて叩頭している。
「おお……ルークシェスト」
「母上」
皇太子は、化粧のはげた母の頬に口付け、父へは、胸に手を当てて礼をした。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
「片付いたのじゃな?」
「はい」
皇太子は頷き、懐から袋に包まれた白い粉を取り出した。
「正真正銘の痲薬〝月蟇丹〟。これを全部お飲みになられましたら、さすがの父上もあの世へ身罷られましょう」
「ふ……言いおるわ」
「中央捜査局の収蔵庫より、これと同じ物が紛失しておりました。おそらく出所はそこかと……」
淡々と皇太子は報告し、月蟇丹を懐へ収めた。
「ガルヴィーヴは、すでにファビウス将軍へ引き渡しましております。すぐに父親であるライン第三天公爵邸にも兵を向かわせましたが、自害し果てておりました。書類等押収致しましたが、どこまで掴めるものか……。後は、ガルヴィーヴの供述待ちです」
「うむ、御苦労であった」
皇帝が頷く。皇太子はもう一度一礼し、下がった。
「さて――皇后よ」
頑強な兵士の間で、もはやぶら下がるように立つカリスタに青い眼を向ける。
「そなたの罪は消えぬ。だが、言い訳は聞こう。儂はよい夫ではなかった。だが、そなたにそこまで裏切られるほどの罪を犯しておっただろうか?」
「……」
あれほど、泣き、叫んでいた皇后の顔から、一切の表情が欠落していた。
答えのない皇后に、皇帝は溜め息を吐き、兵に命じた。
「地下牢に連れて行くにあたわぬ。香華宮にて軟禁せよ」
「はっ」
兵士が、力を失った皇后をなかば担いで歩かせる。
ふいに、皇后が顔だけをこちらに向けた。
「――陛下。何ゆえ、私が反逆に荷担いたしたか、貴方にはお分かりになりますまい」
セイデンは、強引に歩を進める兵を身振りで止めて問うた。
「何故じゃ?」
「愛しているなればこそでございます」
カリスタの頬に、奇妙な笑みが宿った。
「深く貴方様を愛せば愛すほど、いかにしても愛されぬ現実が、悔しく情けなく、哀しゅうございました」
黒く隈どった眼から、涙が零れる。
「その穴を埋めんがために、神に仕え、この身を捧げてまいりました。なれど……なれど……!」
「そうして義兄と情を通じたと?」
「陛下……!」
カリスタは、すがるように名を呼んだ。皇帝はすげなく、
「知らぬとでも思うたか。義兄と通じて、十年か……二十年か。いや、もっとなろうな。あの男は、儂が帝位を得た時より、この座を奪わんと狙うていた」
「なんと……酷い事を……」
「酷い? 数十年間夫を裏切り続け、他の男と情を通じただけならまだしも、よりによって政権転覆を図らんとする者の手先となるとは……裏切りも甚だしいわ!」
「私の心は、貴方様だけのものでございます! 例え……貴方の御心が他の女性のものだとしても……!」
「そのことは、そなたも承知のはず。儂は皇帝と皇后として、そなたと婚姻を取り決めたのだ。だが……そなたは裏切った。その言葉も皆、偽り。偽りだらけよ!」
「なんと……なんと……」
カリスタは縛られた手で、口元を覆った。
「聖母を授かり、皇太子を産んだ私に、なぜそのような酷いお言葉をかけられるのです!」
「皇太子……ふっ」
皇帝は、皮肉に笑った。
「それさえ誰の子かは分からぬ」
「陛下!」
悲鳴を上げ、カリスタは倒れた。あまりに非情な父に、さすがにルークシェストが口を挟む。
「父上、お願いです。これ以上は――」
「……分かっておる」
皇帝は、何かを断ち切るように、短く言った。
兵士に起こされ、立ち去ろうとするカリスタに、静かに、一抹の言葉を投げかける。
「皇后よ。処遇はおって知らせようが――せめて最後ばかりは、皇后の誇りを忘れずにおられよ」
「陛下……」
カリスタが、虚ろな青い瞳を向けた。
「妾の言葉、信じて頂けませぬか……?」
「――」
セイデンは、無言できびす踵を返した。その背へ、悲痛な叫びが追いすがる。
「私は、不義などはたらいてはおりませぬ! 私の産んだは陛下の御子のみ。皇太子は、貴方様の御子です!!」
静まり返った城内に、哀切ともいえる泣き声が響く。
セイデンは足を止め、振り向いた。
「……分かった。信じよう」
哀れむような微笑に、カリスタはすがるように何度も頷いた。床に両膝をつき、震える両手を合わせる。
「ありがとう……ございます」
合わせる両手が、いつしか顔を覆い、塞き止めぬ涙が指の間から伝い落ちる。
セイデンが手を振って、退去を命じた。
振り返ることもなく、彼が将軍らと共にその場を立ち去った、わずか数分後。
「清妙院様!」
兵士たちの悲鳴が上がった。
すぐさま戻った皇帝たちが目にしたのは、兵士の剣を奪い、深々と我が胸に突き立てて倒れる皇后カリスタの姿であった。
「母上!」
ルークシェストが抱え起こす。だがすでに、溢れ出た血はべったりと床を濡らし、法衣を赤く染め上げていた。
血の気の失せた顔ながら、カリスタは、法力を注ごうとする息子を止めた。
「やめよ、ルークシェスト」
「……母上」
「もう、よい……」
かすかに首を振る。その傍らに膝をつき、皇帝が冷たい手を取った。
「皇后よ」
「――陛下……」
「今死んではならぬ。償いをするならば、他に成しようがあろうものを……」
「……遅うございました。もっと早くに、こうすべきだったのです……」
化粧の落ちた顔をみるみる死相に変え、カリスタはなおも言葉を紡ぐ。
「私の魂は、とうに死んでいましたのに……貴方の愛を得られないと知った、そのときに……」
「カリスタ……」
「ただ……寂しかった――寂しかったのです……」
呟くようにそう言うと、カリスタは眼を閉じた。それが最期であった。
「母上! 母上……っ!!」
ルークシェストが涙声で叫ぶ。
皇帝は、何も言わず、妻の顔に伝い落ちた涙を、そっと指先で拭った。
その死に顔は、なぜか深い安らぎに満ちているようであった。
*
突然、得も言われぬ何かに包まれたディーンは、落下する感覚の中で、意識を失った。
澄みきった、誰かの声が呼ぶ。
「……ン。セレスディーン」
瞼を開けた彼は、目の前の人物をぼんやりと眺めた。
紫水晶の瞳、輝くばかりの美貌。
「なんだ……また、夢か……」
何度となく夢で見たその女性が微笑む。
「夢ではありません、勇者よ」
「夢じゃ……ない?」
虚ろな口で繰り返し、ディーンはようやく、はっきりと眼を覚ました。
「気がつきましたか、セレスディーン」
「あんた――」
やや年長のその女性は、膝をついて、こちらを覗き込んでいる。夢で見たままのまばゆい黄金の髪は、豊かに波うって、ディーンの胸先まで落ちていた。
白い額には、消えない絵筆で描かれたごとく、紅い六芒星が映えている。
状況が掴めずに、口をぱくぱくさせる青年に、女性の顔が曇った。
「どこか苦しいのですか?」
手を伸ばして、ディーンの額に触れる。妙に小さい薄布一枚を纏った女性の大胆な仕草に、彼は慌て、そこでやっと気がついた。
『私の時は、止まっているのです……』
「あんた、聖母――?」
「そうです」
女性は頷いた。
急激な成長ゆえか、薄い衣服は体をようやく隠す程度で、靴はもちろん役に立たず、素足であった。ただ、美しい輝きを放つ黄金の髪だけは、以前のまま豊かに彼女を彩っている。
「じゃあ、元に戻ったんだな?」
「ええ。すべて貴方のおかげです」
聖なる女性の感謝の言葉に、ディーンは照れ臭そうに首を振った。
「俺は何もしてねぇよ。あんたの力だろ」
「いいえ――」
「まあ……よかったじゃねぇか。ガキの聖母じゃ、どうにも収まりつかないからな」
あっけらかんと、ディーンは笑い飛ばす。
「生意気なガキのあんたも、結構悪くなかったけど」
不躾なディーンの冗談に、聖母はかすかに頬を緩めた。
ディーンは上体を起こして、魔術師に刺され、砕かれた身体を確かめた。傷は痕一つなく、死の右腕もまた、無事であった。
「魔術師は?」
「消えました。亜空間を使い、何処かへ潜んでいるのでしょう。帝都の空間が歪んでいる今、探すのは困難です」
「空間移動って、妖魔しか出来ないんじゃないのか?」
「亜空間は、空間の空隙――。妖魔はそれを捻じ曲げ、空間同士を接近させることで空間移動を行ないますが、優れた術師であれば、空間の狭間に身を潜めることは可能です」
「ややこしい話だぜ」
ディーンは顔を顰めた。そして、まったく会話とは関係のないことを思い出す。
「そうだ――」
慌てて飛び起き、辺りを見回す。
さすがに復活した聖母の法力の前に、妖魅は消え去り、[象牙の塔]も元の輝きを取り戻していたが、一ヶ所だけ違うところがあった。
《……どうも、お二人さん。仲がいいのはいいんだけどさ、僕のこれもなんとかしてくれない?》
蒼白の獅子が、空間に縫い止められた魔の鎖に囚われたまま、不機嫌極まりない声で言う。
どうやら聖母の法力は、[象牙の塔]の結界は解いても、個人にかけられた魔の鎖を解くには至らなかったらしい。
ディーンが苦笑いしながら、獅子に謝る。
「悪い悪い。冽牙を喚ぶから、ちょっと待て」
「――それには及びません」
右腕に宿る妖魔の分身を呼び出そうとする青年を止め、聖母は片手を差し伸べた。
風に光の珠が転がるがごとく、紡がれる呪言。
囚えたものの魂を灼く極細の戒めが、淡い輝きを帯びて膨らむや、内側から弾け散った。煉獄の炎を宿した戒めは、わずかに火を吹き、やがて青空にかき消える。
「これでよいでしょう」
穏やかに、聖母は言った。
かつてテーベで行なったときと真反対の速やかで静かな解除に、ディーンは唸る。
「うーん、さすが聖母」
《感心しないでよ》
魔の鎖から解放された獅子は、不機嫌を倍増させて言った。
どうやら聖母に助けられたという事実が、妖魔の自尊心をいたく傷つけたようだ。
氷片を纏う鬣を一振りし、
《やることは済んだし、さっさとここから出ようよ。こんなところ、あと一分だっていたくはないね》
「分かった」
獅子が、魔術師に捻じ曲げられた大刀を口にくわえる。宙高く放り投げると、それは、絡んだ糸が解けるように元の形に戻り、ディーンの手に返った。柄を掴み、
「お、さすが」
《このくらいは当然》
めずらしく謙遜する妖魔に笑いかけ、ディーンは刀を納めた。
「――さて、どうやって帰るかな?」
「天枢城へ参りましょう。そこに皆がいます」
聖母の提案に、露骨に九曜が渋面を作る。ディーンは獅子の頭を抱え、ぱふぱふ叩いて機嫌をなだめた。聖母に、
「皆って、レイファスもいるのか?」
「彼女の元には、火人の若者が駆けつけています――さあ」
うながす彼女に、ディーンは、帝都兵士から拝借した外套を脱いで、ふわりと着せかけた。
「そんな格好じゃ、お偉いさんにぶっ飛ばされちまうぜ。まあ、あんまりきれいじゃないが……そのまんまよりましだろう」
長い髪ごとすっぽりとくるんで、
「服を脱がして悪かったな。こうなるって分かってたら、少々邪魔でも、びらびらした格好のまま連れてくるんだったけど」
あまり経験のない行為に聖母は少し戸惑い、微笑んだ。
「――ありがとう」
「行こうか」
ディーンが彼女の腕を取った、その時。目の前に青白い閃光が炸裂した。
皮肉な九曜の声が、頭上から降る。
《おやあ? 先にあっちから、お迎えが来ちゃったみたいだけど……》
ざくり、と凍気が足元を吹き抜ける。
《こちらも出迎えてもいいのかなぁ?》
次の瞬間。
大地を駆け抜ける稲妻が、まっすぐに彼らの元に迫った。
同時に、咆哮をあげて、獅子が躍り出る。
地から天へ駆け上る、強烈な吹雪。
「――九曜!」
聖母を抱え、ディーンは叫んだ。
吹雪は、次第に渦を巻いて辺りを包み込み、やがて、少しずつ稲妻を凍りつかせてゆく。
「……む!」
稲妻を操る、黒銀の聖騎士が蒼褪めた。
火花散る法力と魔力の対決の中、ついに稲妻は、常識では有り得ない形で、一本の氷の彫像となって固まった。
キイィ…ンと、音を立てて、何かが収縮していく。
獅子が、ぞわり、と笑った。
――と。
大気を裂く破裂音と共に、光すら失い、稲妻は氷の粒となって弾け飛んだ。
「ぬうううぅっ!!」
大槍をかざし、女聖騎士が獅子に迫る。
「おやめなさい!」
大喝、というほどの大声ではなかった。
しかし、声の艶ひとすじにまで神聖さが満ちたその言葉は、聖騎士たちの動きを奪うのに充分だった。
ヴィクトリアが、玄象を下ろす。
「――聖母……?」
[大災厄]以来、人前に素顔をさら晒すことのなかった聖母の生身の姿に、畏怖に近い驚きと衝撃を受ける。
汚れた布を纏い、異邦の者たちを伴っているとしても、それは些かも彼女の神聖さを損なわせるものではなかった。
「雷電よ。この者たちは、敵ではありません。私を魔術師の手より救い出した、若者とその守護者。無礼を働くことはなりません」
「は……」
雷電の聖騎士は、槍を収め、素直に膝をついた。
その後ろでは、吉祥の聖騎士と法術師長が、共に跪いている。聖母が語りかける。
「吉祥、オレガノ将軍。そなたたちにも心配をかけました」
《いえ、よくぞ御無事で……》
「私は、これから陛下に無事を報告に参ります。そなたたちは、魔術師の探索とアイテールの復興に努めて下さい」
「承りました」
聖母が、傍らの青年を促した。
素足の彼女を思いやってか、黒髪の青年は聖母を両腕に抱き上げると、蒼白の獅子を連れ、天枢城へと向かう。
「……あの獅子が、守護者だと……?」
聖母たちの姿が完全に見えなくなった後、ヴィクトリアは納得のいかぬ口調で呟いた。
オレガノ将軍が苦笑する。
「そう信じるしかないでしょう。事実、あの獅子に角はなかった」
「偽装などいくらでもできる」
《聖母相手にかね?》
フロリアンに指摘され、ヴィクトリアはぐっとつまった。
《何にしろ、我々は一足遅かったということだ。魔術師の行方だけは、何としても探らねばならん》
「ええ。侵入者が味方であったことが救いね」
「味方かどうかはまだ分からぬ」
あくまで持論を曲げない女聖騎士に、将軍は困ったように、その広い肩をやさしく叩いた。
「今はそのことは忘れましょう。それより――」
[象牙の塔]の周辺をぐるりと眺めて、
「酷いありさまだこと。あの獅子もよくよく暴れたものね」
「そういえば、結界を傷つけた割に被害が少ないな?」
今気付いたというようなヴィクトリアの発言に、フロリアンの端正な顔が皮肉に陰る。
《被害が少ないのではない。少なくなるように、障壁を張って被害を押さえたのだ》
「なるほど。どうりて援護がもの足りぬと思った」
ヴィクトリアが嫌味ったらしく言い返す。
《あれしきの結界、雷電位の君一人で充分だろう》
「ほほう、さすがに年の功。周りへの気配りもお上手なことだ」
《私一人ではない。彼も手伝ってくれていた》
盲目の眼を回廊へ向ける。そこへは、たった今駆けつけたばかりの、年若い一角獣位の聖騎士が立っていた。カシアス・アルブレヒトである。
「ヴィクトリア、すごい稲妻だったな。その場にいなくてよかったよ」
「カシアス、来るのが遅い!」
「戦闘向きではないと、何度も言っているだろう」
黒髪の青年は爽やかに言って、倒壊した樹木を避けてやって来た。
「せっかく援護に障壁を張ったのに、ひどい言われようだ。遠方からは難しいのだぞ?」
ねえ、と法術の師であるオレガノ将軍に同意を求める。
《もっと言ってくれ、カシアス。このお嬢さんは、力ばかり当てにして困っているのだ》
「ですが、フロリアン。危ない仕事は全部やってくれるというのですから、よいではありませんか?」
そんなことは言っていない、と反論する彼女を無視し、フロリアンが頷く。
《そうか。では、アイテールの復興はすべて任せるとしようか》
「ま……頼もしいこと」
オレガノ将軍までが尻馬に乗って、実に和やかに話が成立する。
仏頂面になる黒銀の聖騎士の傍らで、今まで姿を消していた駒鳥が一羽、軽やかな鳴き声をあげて、澄みわたる真昼の空へ飛んでいった。




