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レイファシェール皇子帰都の報せを耳にするや、清妙院カリスタは、急いで香華宮を後にした。
――こたびこそ……。
白粉を刷いた顔が、わずかに紅潮している。隠そうともせぬ興奮が、彼女の全身を包んでいた。
――あの女の幻とはさらばじゃ。
セイデンが、自分を愛していないことは知っていた。
しかし彼は、そのことを詫びるように、常に彼女に優しかった。カリスタは寂しかったが、満足であった。皇后として傍に立ち、敬い尽くされているのだから、それ以上は望めないと思っていた。ましてや彼女には、聖母と皇太子の母となるという、素晴らしい栄誉が与えられたのだ。
だが、聖母が三歳を迎え、彼女の手元から[象牙の塔]に移り変わった翌年。
奇妙な話が、カリスタの元へ届いた。
エファイオス王国に長期滞在中の夫・セイデンⅢ世が、他の女を囲っているらしいというのだ。では、妾妃にするのかといえば、そうではない。
「できぬのでございます」
「なぜじゃ」
「その娘は、神徒候補生にございます」
神徒とは、まだ神に終生仕える誓願をした神官になっていない、いわゆる神官見習いを指す。それの候補生なのだから、ほとんど在家の信徒と変わらないが、神殿にいる以上は聖職者である。
唯事ではない。天下の皇帝が、こともあろうに神に貞潔を誓うべき女性と恋に落ちたというのだ。
この報せを持って来たのは、セイデンの近習マルシオス少将であった。
すでに神妃の位にあったカリスタは、すぐさまエファイオスへ赴いた。そして、何食わぬ顔で真珠の宮を訪れ――見た。
見た瞬間、カリスタは打ちのめされた。
美しい女だった。男好きのする魅力というのではない。体つきは柳のようにほっそりとなよやかで、手足は細く長く、華奢ながら凛とした姿勢。神徒の僧布に覆われ、髪の色は見えないが、顔立ちは至上の美とはかくあるべきという左右対称の完璧な造りで、微笑む姿は天使も霞むほど。
美というものは、ここまで人に宿れるものなのか――。
神の寵愛が、時として残酷な暴力となることを、カリスタはこのとき思い知った。
さらにこれが、鼻持ちならない女かというと、そうではなかった。
真珠の宮は、エファイオス王国創建以前より、古き女神の宿る神聖な森と湖を基盤とした神殿である。そこから、多くの女性の避難所としての性質を兼ね備えていた。
その娘も、どうやらその救いを求め、わざわざ海を渡って入殿をしたらしい。なんでも、結婚の約束をした相手に捨てられ、その相手を忘れるためだという。
それを聞いて、絶世の美貌も役に立たぬのだとカリスタは暗い悦びを感じたが、神殿に来て以降、並み居る貴族や有力者の求婚を跳ね除けつづけ、嫉妬深い者たちの執拗な虐めにも屈せず、ただひたすら神徒としての務めに励んだ結果、彼女を邪な目で見るものはいなくなり――それが皇帝の目を惹くことになったのだと聞けば、腹立たしさしか感じない。
見目も、心も、美しい女。化粧もドレスも宝石も身に着けぬまま。
そのことが、カリスタの胸に火を点けた。
――憎らしや……。
祖母である北国ビグリッド王族の血を感じる、骨張った大柄な体格。目鼻立ちははっきりと整っているが、高貴な身分とあわせて近寄りがたい印象でしかなく、可憐さやかわいらしさとは無縁だった。補うように勉学に励んだところで、政治に口を出す女は面倒くさがられるばかり。
二十五を過ぎても縁のない屈辱を自尊心で塗り固め、流行の宝飾品で無聊を慰め、造り込んだ化粧と笑みで本心を隠しに隠し、ようやく幸せを掴んだと思っていた。
それを、この女が壊そうとしている。
――小娘が……!
神妃の来訪に、他の神徒と共に叩頭していた娘が、ふいに顔を上げた。
刺すような視線を向けていた皇后と、目が合う。
カリスタは、どきりとした。
宇宙のごとき蒼の双眸が、まっすぐに彼女を見つめ返し――静かに、微笑んだのである。
「憎らしや……あの娘」
あの日の屈辱は、十九年経った今なお、カリスタの中で炎となって燃えたぎっていた。
いや、それは忘れ形見であるレイファシェールが、正式な子として帝都にやって来た時に、さらなる激しさを増して燃え上がったといってよい。
カリスタは、あの女の面影を残すレイファシェール皇子を亡きものにすること、そして妃である自分にこれほどの屈辱を与えた皇帝に復讐することを条件に、アレス・リキタスと協力を結んだ。
「この手で喉首を切り裂いてくれるわ……!」
純白の神妃の法衣を纏ったカリスタは、鬼女の形相で微笑んだ。
正神殿・金剛の宮では、神官たちが居並んで、清妙院カリスタを出迎えた。
「お待ち申しておりました、皇后陛下」
「これは、アレス・リキタス皇帝代理どの。丁重な出迎え痛み入る」
カリスタは、我が手に口付ける長身の男に、囁きかけた。
「あやつはいずこぞ?」
「こちらへ……」
アレス・リキタスに手を引かれ、清妙院カリスタは、奥の間へと入った。
そこは、重要な祭儀や呪法が行なわれる、秘法の間である。
カリスタはここで約束通り、第二皇子を永遠の死へと導く、離心銷魂の術を見守る予定であった。だが、広間には何もなかった。呪法のための魔法陣も呪符も何一つ用意されてはいない。
「アレス・リキタス殿。これは一体如何なることぞ?」
「お待ちを、我が君。お怒りになる前に、興味深い事実をお教えして差し上げましょう」
祭主は手を打ち鳴らした。
「この驚くべき真実を知り、私は離心銷魂の術を取りやめたのです」
「取りやめた……?」
怪訝な顔つきとなるカリスタの前に、捕縄された銀髪の皇子が連れてこられた。
頬に乾いた血がこびり付き、やつれてはいるが、藍色の瞳だけがきらきらと輝いている。
「レイファシェール皇子……」
カリスタの頬に赤味が差す。アレス・リキタスはうっすらと微笑んで告げた。
「では――お見せいたしましょう」
「放せ! 私に触るなっ!!」
皇子が抗う。それを連れてきた衛士たちが両脇から押え込み、乱暴に東国の着物をはだいた。
「――!」
カリスタは息を呑んだ。
ぬめやかに白い、処女の乳房。
あの女が産んだのは、皇子ではなく、同じ顔をした女だったのだ。
「おまえ……」
しかも、ただの女ではない。銀の兇児である。忌まわしき災厄をもたらす、伝説の魔女なのだ。
「如何です、皇后陛下?」
言葉を失うカリスタに、確信のこもった声で祭主が尋ねる。だが、その声さえも、彼女の耳には届いていなかった。
縛られ、素肌を曝された少女は、泣きもせず、ただ俯いて(うつむ)いて立っている。
ゆっくりと、その妙なる宇宙色の双眸が、皇后を見上げた。
ただ、挑むように凝と。
その瞬間、カリスタは我を忘れた。
「いやああああああぁっっ!!」
突然凄まじい金切り声を上げたかと思うと、カリスタは、神妃の錫杖で皇子に殴りかかった。その勢いに、レイは両脇を抱える衛士ごと倒れる。
「何をなさる!!」
祭主が、法力で皇后の体を吹き飛ばした。
小さく呻いて、カリスタが床に倒れ伏す。僧布が乱れ、固く縛っていた金髪が、法衣に流れ落ちた。
それでもカリスタは、何かに取り憑かれたように床を這いつくばり、落ちた衛士の剣を拾いあげた。
「陛下!!」
「どきやれぃっ!! 妾がその首を掻き切ってくれる!!」
叫んで、レイに突きかかる。だが、あっさりと祭主に手首を掴まれ、剣をもぎ取られた。
「御止めなさい!! 皇帝を叩き潰す最高の証拠を殺して、何の意味があるというのです!」
「意味……? ふ……ふふ」
手首を掴まれたまま、皇后は笑い出した。
「意味などあるものか!! 妾は、今まで心から陛下にお仕えしてきた。皇太子を産み、聖母までも妾が産んだのじゃ――妾が与えたのじゃ! その仕打ちがこれか……?」
化粧をした白い顔が、醜く歪む。
「皇后ぞ……妾は、神妃なるぞ!」
「十二分に承知しております、我が君」
「それを……それを、あの女が皆奪ってしまった……! あの女がぁ……っ!!」
カリスタは、震える指をレイに突きつけた。
「お気を御鎮め下さい、陛下。あの女は、いずれ正式に極刑に処されますゆえ、ご安心なされませ」
「本当じゃな……?」
「このアレス・リキタスが、偽りを申し上げたことがございましょうや?」
祭主は穏やかに言い聞かせ、素早く衛士たちに指示した。
「天枢城にお連れせよ」
「はっ」
カリスタは、蹌踉としたまま衛士に抱えられ、広間を出ていった。
だが、最後までその目は、レイファシェールから離れることはなかった。
レイもまた、その目を離そうとしてしきれなかった。
――こんなにも……わたしを憎んでいる人がいるなんて……。
好かれてはいないのは知っていたが、殺意さえ孕んだ敵愾心をはっきりと向けられたのは、今回が初めてであった。同時に、今までの皇后の態度の理由に、ようやく得心がいく。
レイではない。母エメラインを憎悪していたのだ。
――あんなにも皇后を苦しめていたなんて……。
それほど、父と母の絆は深かったのだろうか。同じ人を愛した者を、これほどまでに狂わせるほど。
――父上……父上。教えて下さい。わたしは、産まれてもよかったのですか……?
汚れた頬を、一筋の涙が伝う。
素肌を曝したままの彼女の着衣を、傍らの衛士がそっと直した。
「ありがとう」
「……いいえ」
衛士は兜の下で、かすかに目礼をした。祭主に気づかれぬよう、目顔で話しかける。
――もうしばらくの辛抱です、殿下。
そして、慎重にレイの体を立たせた。
祭主は、ファーガスを呼び寄せ、なにやら相談をしている。その傍らに立つ衛士も、かすかにこちらに頷きかけた。
――ありがたいことだ。
まだ、自分や父を信じてくれる人がいる。
そのことが、レイに深い落ち着きをもたらした。
と。
神殿内に、言い知れぬざわめきが起こった。
レイの脳裏に、鮮烈な炎が渦を巻いて押し寄せる。
同様に気づいたアレス・リキタスが、獰猛な声を上げた。
「救援が来たか……」
冷笑が漂う。
「原罪者め――」
*
主のいなくなったと碧水宮は、暗く、静まり返っていた。
侍従たちは暇を出され、出入り口には、帝都軍兵士が昼も夜もなく見張りに立っている。
その様子を、内庭の木立の陰から見ている者がいた。
ほっそりとした人影。まだ年若いように見える彼は、兵士が交替の引継ぎをする瞬間を見計らい、碧水宮の中へと忍び込んだ。
明かりもなく、重く帳が下ろされた暗い室内で、外から差し込むわずかな日の光だけを頼りに、奥へ進む。慣れた様子で居間の戸棚に触れ、机の上の小物を右へ左へ動かすが、盗ろうというのではないようだ。
書斎にあった、革に金の箔押しをされた法典を手にとり、ぱらぱらとめくった。
これに決めたらしい。
彼は、懐から小さな包みを取り出すと、法典の頁の間にそれを挟んだ。
そのとき、音もなく忍び寄った何者かが、彼の背中に襲いかかった。
「うわっ」
彼が叫んで、法典を取り落とした。
背中に覆い被さるそれを、振り離そうともがく。
「何をする、貴様! 放せっ!」
「貴様こそ、ここで何をしていた!」
言い返したのもまた、年若い少年の声だった。
最初の侵入者は、肩にかかる腕を取ると、投げ飛ばした。いや、投げ飛ばそうとしてできなかった。
後ろから掴んだ人物が、彼の服を放そうとしなかったおかげで、己れごと床に転がったのだ。
派手な音を立てて、装飾机が倒れる。
彼は蒼褪めた。
その時、部屋に明かりが点された。這いつくばって逃げようとする彼の足を、もう一人が掴む。
「放せっ!」
足で蹴ってもぎはなそうとするが、金色の髪をした少年は、鼈のようにしがみついて離れなかった。
焦る彼の前に、一人の影が立つ。
「もういい、ユリウス。彼は逃げられない」
静かに言うその人物は、兵士ではなかった。
顔を上げた彼は、その瞬間、自分が罠に嵌められたことを知った。
軍服調の服に外套を長く裾引いたその人物は、床に落ちた法典を拾い上げ、独り言のように語った。
「先夜――君が、黄金宮の裏にいるところを見てしまってね。相手はなんと、祭主の腹心とも囁かれるガルフシュタイン博士だ。私もすっかり失念していたよ。幼い頃、君が金剛の宮で行儀見習いをしていたことを……そして、君の父上もまた、そうであったことをな」
頁をめくり、そこから、白く光る粉が入った袋を摘み上げる。
「そこで、私も一計を案じざるを得なくなった。……このユリウスの助けを借りてな」
彼は震えた。何度も生唾を飲み、逃げるための言葉を探す。
「牢に……お入りに……なったの、では……?」
「入ってはいない。入ったのは[幻身]だ」
聖母に次ぐと言われる法力の持ち主は、さらりと答えた。
「だが、君は本当に牢に入ってもらうことになるだろう。私のように幻が代わりではなく、君自身がな――ガルヴィーヴ」
一片の笑みすら見せず、その人物は宣告した。
かつての小姓であった黒髪の少年は、返す言葉もなかった。そして、そうすれば現実から逃げられでもするように、両手で頭を抱え、小さく小さく縮こまった。




