7-4
残酷描写あり(流血注意)。
4
《……ねぇ、御主人様。御主人様ったら》
幾度となく繰り返される甘ったるい呼びかけに、彼の意識がようやく反応をみせた。
《ねえ、起きないのかい? まあ、このまま寝ててもいいんだけどさ。ちょっと目覚めは良くないと思うんだよねぇ。帝都は壊れるかもしれないし、あの女も相当ヤバいみたいだしさぁ。――あたしは全然構わないんだけど』
あまり積極的に起こそうとしない声は、だんだん独り言じみてくる。
強制的に沈められた意識の隅で、ギガースは歯噛みをした。
――炎華め……! 真面目に……しろ!
《あらぁ、御主人様。気が付いた? ひょっとして、怒ってるのかい。やだねぇ、あたしがこんなに尽くしてるのにさ》
――しゃべっていないで、さっさと手を貸せ……!
途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、ギガースは呼びかけた。
《はいはい、短気だねえ。イイ男になれないよ》
魔剣の精霊は、あくまで悪怯れない。
重く澱んでいた意識に、清涼な一陣の風が吹いた。と思うと、ギガースを取り巻いていた風人の邪香は一掃され、彼の口から深い呼吸が戻る。
「……どれくらい……経った……?」
《一時間ってところだねぇ》
ギガースは舌打ちをして、身を起こした。
炎華が目晦ましを用いたのか、柱の陰にいる彼を誰も見向きもしない。
「何故もっと早く起こさないんだ?」
《ずっと前からやっていたさ。だけど、起きないんだもの》
平然とした答えは、彼女が本気で起こそうとしていなかったことを如実に物語った。
ギガースはため息をついて、他人には見えぬ漆黒の女を睨んだ。
炎華は分厚い唇を歪め、不機嫌そうに空を漂う。
《あのさぁ……御主人様。言っておくけど、これ以上は止めた方がいいよ。ディーン坊やはかわいいし、九曜ちゃんもいいけど、このまま引き返して、あの女のことはきれいさっぱり忘れな》
「嫉妬か?」
その問いに、炎華は鼻で笑って答えなかった。
いつもなら彼が興味を抱いた女性に対し、必ず一言ならず文句が出るはずである。だが、今日の炎華は違っていた。
「炎華?」
おのれ以上の天眼である黒曜石の双眸が、深い炎を宿している。それを見て、ギガースの胸にざわざわとしたものが走った。
「炎華、一体――?」
《あたしは止めたからね。一応、御主人様に行くなって言ったからね。後は、好きにおし》
乱暴に言い捨て、漆黒の女は魔剣に戻った。
ギガースは荒炎へ手を伸ばしかけ、やめた。
瞼を閉じ、意識を額の中央に集中させると、もう一度眼を開く。
――視える……祭主だ。
彼の眼に、捕らえられたレイと祭主の姿が映った。
着実に進行していく、恐るべき陰謀――だが、それを阻止する術までは、天眼は教えてくれなかった。
ギガースは、脛当てと靴を残し、窮屈な兵士の鎧を脱ぎ捨てた。
腰に届く長い髪を首の後ろで縛り直し、再び魔剣を背負う。そして、金剛の宮へ向かって走り出した。
*
その頃、イルレイアは深い深い眠りのなかにいた。
魔術師によって奪われた意識は、甦る前にもう一度、奇妙な匂いのする何かによって眠りの淵に沈められていた。
夢の中で誰かが呼んでいる。
『イリヤ……イリヤ……』
――レイ様……? いいえ、あれはサイアの声だわ。
十二年前に別れたはずの弟の声が、鮮明に耳に甦る。
五つ年下の弟は、イリヤにとって特別な存在であった。産まれた時から面倒を見、食ベ物を与え、言葉を教え、封魔師として生きていく術を教えこんだ。
それはまるで親子のようでもあり、年さえ同じなら、双子と言ってもよいほど通じ合った姉弟だった。
風人はそれぞれ、命珠を持って産まれてくる。
形にすれば手のひらに乗るほどの玉だが、実際形として現わされることは滅多にない。それはもう一人の自分であり、魂だからだ。
だがイリヤにとっては、弟こそが自分の命珠そのもののような気がしていた。
どんなことがあっても、弟の手だけは離すまい――そう心に誓っていた。
祭主に助けられてから数日後、弟がここを出たいと言いはじめた。
思えば、サイアは来た当初から宿営での生活を嫌っていた。
『嫌なんだよ、イリヤ。ここは好きじゃない』
『どうして、サイア? ここにいれば安全で、水も食物も寝る場所もあるわ』
『ここは嫌いだ。風も自由に踊らない』
頑固な表情で、サイアが唇をきゅっと引き結ぶ。
『水も食物も寝る場所もいらない。イリヤがいてくれればいいから、ここを出よう。また二人だけで生きていこうよ、ね?』
『サイア……』
イリヤは、泣き出した弟を抱き締めてなだめた。
実際、彼女にとって城での生活は悪いものではなかった。奇異の眼で見られることも、いくつもの身体検査や能力の測定をされることも、荒野での生活を思えばなんでもないことだった。だからそのときは、弟が本当に恐れているものの正体が彼女には分からなかった。
分かったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
『……サイア?』
その日は、朝から弟の姿を見なかった。
同じ寝台を使っているが、サイアは夜明け前から監視の眼を盗んで荒野に行くこともしばしばあり、一緒に朝食を取らないこともあった。
いつものようにイリヤは、荒野に建てられた宿営の天幕から天幕へ、弟の姿を探し歩いた。
――……風が死んでいる。
イリヤは舌打ちした。
分厚い布が大気を分断し、得意の風を使って居所を探ることができない。
サイアはイリヤより能力が強い。姉の気配を察して、隠れてしまっているかもしれない。
イリヤがそう思った瞬間、胸の命珠がさざなった。
――サイアが危険に曝されている。
考える間もなく、イリヤは風を起こして飛び乗った。
色の薄い人間たちが驚愕するのも構わず、上空へ昇る。
――あそこだ……!
一際大きな真っ白な天幕。イリヤたちを拾った人物がいるところだ。
イリヤは急降下し、布の壁を蹴り破った。
『サイア!!』
そこでイリヤが眼にしたものは、灰色の服の人々と,銀色の檻に閉じこめられた弟の姿だった。助けようと駆け寄るイリヤを、灰色の人間たちが押さえる。
『イリヤぁ!』
『サイア!』
檻の中から、必死にサイアが手をのばす。姉弟を断ち切るように、巨大な影が間に立った。
『残念だが、風人の娘よ。おまえの弟は私と共に帝都へ行くことになった。別れを告げるがよい』
『勝手なこと言わないで。弟を放して!』
『それはできぬ』
巨大な影――祭主は冷酷に言った。
『私はおまえたちの命を助けた。おまえたち二人の命は、私の手の中にある。それをどう扱おうが――私の自由だ』
ゆっくりと微笑む。その瞳に邪気はない。
『おまえたちは、それを承知で私の元にやってきた。違うかね?』
イリヤは茫然と祭主を見上げ、そして檻の中の弟に眼差しを向けた。涙が一粒、瞳から転がり落ちた。
泣いてはだめだ。泣いては相手を付け上がらせる。
『何が望みなの……?』
『それは、おまえ自身が一番よく知っているはずだ。封魔師として産まれついた宿命……いや、風人として、といった方がよいかもしれぬな』
イリヤは、泣き叫ぶ弟から眼を逸らして、アレス・リキタスを見た。
『不死薬ね……。貴方も不老不死が欲しいの?』
『生きていれば誰もが望むことだ』
『わたしは望まない。不死薬を持っていても、一族はわたしたち二人を残して皆死んだわ。幸せは得られないのよ』
『私は勝ち取る。必ずな』
イリヤは暫時目を閉じ、重い息をついた。
『……いいわ。あなたの望みを叶えるわ。だから、わたしたち二人を開放して』
『ならぬ』
即座に返された答えに、原罪者の娘が蒼褪める。
『どうして?』
『偽物を掴まされても、そう易々と確かめるわけにいかぬ。保険は必要だ。それに――』
祭主は、悠然とやすりで爪を研ぎながら、慎重な微笑みを浮かべた。
『君たち風人は、他の能力者には見られない興味深い特性があるようだ。それを帝都のために生かしたいのだよ』
『それなら、わたしも一緒に連れて行って……弟と引き離さないで!』
『二人はいらぬ。邪魔になるだけだ。それに――君は少し年を取りすぎた』
イリヤは、血の気を失った。
彼の言葉のすべてを理解したわけではない。実際、そのとき祭主が目論んでいた計画は、イリヤの想像を絶するものだった。
だが、どんなに言葉を尽くし誠意を見せても、この男が獲物を逃さないということだけは、痛いほど分かった。
虚脱したように、灰色の男たちの手を擦り抜けて、イリヤが床に座りこむ。
哀れな少女に、祭主がわずかな憐憫の一瞥を与えた。
その瞬間。
一陣の疾風のように、灰色の男たちを蹴倒し、イリヤが空を駆った。
『む!!』
咄嗟に祭主が印を組み、動きを封じる。銀の檻に辿りつく前に床に落ちた娘の手には、一振りの血塗られた短刀が握り締められていた。
祭主は、喉笛を掻き切られて転がる灰色の男たちへ、わずかな舌打ちを洩らした。
『無駄なあがきを……小娘が……』
倒れたイリヤは、起き上がってなお、短刀を周囲へ突き付ける。
祭主が苛立たしげに、爪やすりを放り捨てた。
『弟の前で死にたいのか? 愚かな娘め』
『やってごらんなさい。わたしをこの場で殺せばいいんだわ!』
『神に仕える者は子供を殺さぬとでも? 確かに、心痛むことだ。未来ある幼子の命を奪うということは……。だが、おまえは違う。原罪者に……未来などない』
天の瞳が、妖しく煌めいた。意志とは逆に短刀を持つ手が内側を向き、切っ先が己れの喉元を狙う。
少女は冷ややかに、命を奪おうとする男を見つめた。そして微笑んだ。
『……愚かなのは貴方だわ。わたしを殺して弟が手に入ると思ったら間違いよ』
『何?』
『貴方は我々を知らない。人でも妖魔でもない、我々原罪者の絆を。世界から隔離されたわたしたちは、互いをなくしては生きていけない。弟は、わたしを殺した貴方を決して許さないわ。そして――自分自身も』
少女の笑顔が凄味を帯びた。
鬼気迫る羅刹の顔。それは燃えさかる炎のような彩りを少女に与えた。
『あなたはわたしを殺すと同時に、永遠の命を得ることもなく、自分の命さえも失うのよ』
鋭い切っ先が、少女の白い喉を抉る。イリヤは瞼を閉ざした。
――と、空気が弾け、イリヤにかけられた術が解けた。
『何が望みだ、風人の娘?』
イリヤは黒々と濡れた瞳で、巨大な白い人を見上げた。
『――わたしを連れていって。弟の代わりに、わたしが貴方に仕えるわ』
『イリヤ!!』
弟の悲鳴を、イリヤは眼を閉じて聞かなかった。
短刀を手にしたまま、祭主の目の前で両腕を広げる。
『どう? 本人が同意しているのよ。確かに弟のほうが能力は強いわ。だけど、いつ貴方に逆らうか分からない弟より、わたしの方が貴方の為になるわ』
『……』
『それに、わたしは女。子供を産むこともできるわ。いい取り引きよ』
祭主の青い瞳が、探るように朱金の髪の娘を見下した。
『弟を開放して』
『……ここは荒野だ。天幕の外へ出て生き延びる可能性は薄いが、それでもいいのかね?』
『いいわ。ここにいるくらいなら、ずっと』
もはやサイアの泣き声は掠れ、哀れな悲鳴となって天幕の中を漂った。
『おまえがわたしに全てを捧げるという証拠は、どこにあるのかね?』
『その前に誓って。二度と弟に手を出さないと、誓って』
『――いいだろう』
祭主は灰色の人間に合図を送り、銀色の檻を開けさせた。
『君の目の前で彼を解放しよう。だが――その前に証拠を見せろ』
イリヤは無言で、短刀をかざした。涙で濡れたサイアの顔は見ることができなかった。
――ごめんね、サイア……。
心の中で謝り、胸元に短刀を突き立てる。そしてそのまま、深く真っすぐに引き下ろした。
『!!』
人間たちの間に驚愕が走る。己れの胸を切り裂いた風人の娘は、その傷口へゆっくりと手を差し入れた。
真紅の血が滴り落ちる。
引き抜かれた手には、ぬれぬれと輝くひとつの珠が握られていた。
『命珠……』
血の色をした宝珠は不思議な光をたたえ、まるで生きているかのように脈打っている。
『これが、わたしの魂。わたしの力の源……これを貴方にあげる』
『……』
『これを持っているかぎり、わたしは貴方に仕え続けるわ。――命が尽きるまで』
祭主は、少女の魂の玉をその手に取った。
熱い。それは少女の命そのものを証明するように燃え、きらきらと輝いていた。
『おまえの名は?』
『イル・リィ・ヤ・ヴァ・ナル・ソ・ラ・ウン』
『では……今からおまえは、イルレイアと名乗るがよい。原罪者ではなく、エファイオス貴族の遺児として、第百二十三代皇帝セイデンⅢ世の皇兄にして祭主であるこの私――アレス・リキタス・クリスタルの養女となるのだ』
『わかりました……お養父様』
少女は短刀を床に置くと、男の足元にひざまずいた。風人の常で、胸を抉る傷はすでに癒えていたが、片割れを失った魂は、どくどくと鮮やかな血を流していた。
少女の絶望までも吸い取って煌めく、真紅の珠。祭主は片手にそれを掲げ、満足そうにしたたり落ちる甘い血を吸った。
――……なんという、恐ろしい人なのだろう。
泣き叫ぶ弟の声を凝と背に受けながら、イリヤは心が冷えていくのを感じた。
命珠から伝わってくる男の意志は、冷たく高邁で、自信に満ち溢れていた。
――わたしは、もう風人ではないのだ。
幼い、精一杯の決断。どうしても弟だけは守りたかった。
たとえ、二度と逢えなくともいいと思っていた。
だがあの時。祭主の恐ろしさに気が付いたとき、何故思い至らなかったのだろう。
ひざまずく少女の背後で交わされた目くばせを――この冷酷な男が、事実を知った者を生かして帰そうはずがないことを。
――ごめんね……ごめんね、サイア。
あの手を掴めばよかった。
姉を求めて精一杯差し出された手を、何の迷いもなく掴んでやればよかった。たとえ次の瞬間に、二人の命が尽き果てたとしても。
幼い日のままの弟の泣き顔が、銀髪の少女の面影へと重なる。
――ごめんなさい……。わたしを、許して……。
眠ったままのイリヤの閉じられた瞳から、一雫の涙が、流れて落ちた。
それが、彼女自身の最後の意志となった。




