7-3
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金剛の宮に連れてこられたレイは、再び一部屋に拘禁されていた。
来る途中、回廊から垣間見た、変わり果てた[象牙の塔]の姿が胸を締め付ける。
――聖母は、御無事なのだろうか……。
兄は、そして父はまだ命永らえているのか。心に浮かぶのは、そんなことばかりだった。
癖のようになった胸元の首飾りに指に触れ、心を鎮める。
その時、従者を従えてアレス・リキタスが姿を現わした。
レイは椅子から立ち上がり、胸中の動揺を見せまいとした。
「祭主。私をこんなところに押し込めて、一体どういうつもりだ? 反逆者と疑うのなら、兄のように地下牢に入れるか、さもなくばさっさと殺せばよかろう」
「ほう、これはまた大した度胸ですな」
上品に笑いかけ、
「私はまた、泣きながら命乞いをするのに、恥ずかしくない場所を選んだつもりでいたのですがね」
「馬鹿な……! 貴様に命乞いをするくらいなら、今ここで舌を噛み切ったほうがましだ」
「では、何故なさらないのです」
祭主が、両手を広げておどけてみせる。確かにレイは、手錠もなく、武器になるものは手近にないものの、自決しようと思えばいくらでも手段は事欠かぬ状態ではあった。
レイは、それに冷笑で報いた。
「ひとつ、どうしても確かめたいことがある」
「何かね」
「皇帝が毒を盛られたと聞かされた時、貴方は私と共に、金剛の宮で起こった火災の鎮火に当たっていた。それから貴方の言葉に従い、我々はすぐさま黄金宮へ向かった――」
「そのとおり。それが何か?」
「何故あのとき、黄金宮へ向かうとおっしゃったのです?」
「それは――」
言いかけ、祭主は言葉をとぎらせた。レイはたたみかけるように、
「陛下はほとんど天枢城にこもりきりで、私邸である黄金宮へは多くても月に一度か二度しか御帰邸なさらなかったことは、誰もが知っていたはず。伝令が何も言わなかったのに、何故陛下が黄金宮にいらっしゃるとお分かりになったのです?」
「……」
「どうです、伯父上。答えて頂けませんか?」
祭主は眼を閉じ、かすかに咳払いをして言った。
「あれは、一時に様々なことが起きた夜でして、はっきりしたことは覚えがございませんが……確か、モルガン将軍が陛下に謀反をはたらき、捕らえられたのも当夜であったはず。その折、陛下が今宵は黄金宮にて休みたいと、かように申されていたのを耳に挟んだのが記憶に残っていたのでしょう。殿下はその場にいらっしゃらなかったゆえ、御存じないとは思いますが……」
「確かに、報せを持ってきた従者によると、陛下は事件の後一度は青の間に戻られたものの、落ち着かぬから黄金宮にて過ごすとおっしゃられたそうだ」
「そうでしょう」
「では、これはどう説明なさるおつもりです?」
レイは、懐に隠しておいた紙を取り出して見せた。それは折り畳まれ、多少インクが擦れているものの、天枢城を出入りした者の入退記録だった。
「アレス・リキタス祭主猊下――夜九時二十分退城。第百二十三代皇帝セイデンⅢ世陛下――夜九時五十五分退城」
レイは、管理室から破り取った書き付けを、祭主の目の前に突き付けた。
「陛下より早く天枢城から出られたはずなのに、何故あの時陛下が天枢城ではなく、黄金宮にいらっしゃると知っておられたのです。お答えください!」
「む……」
「代わりに私が答えて差し上げようか。それは、貴方が皇帝毒殺を企んだからだ! 貴方こそが、真の反逆者だ!」
敢然と、レイは言い放った。
すると、それまで俯いていた祭主が突然肩を震わしたかと思うと、部屋中に響きわたるような大声で笑いはじめた。
「なにが可笑しい!」
「いえいえ、貴方がそこまで掴んでいたことに、感じ入ったのですよ。……はっ。全く素晴らしいの一語に尽きる」
祭主は、まだ消えぬ笑顔でレイを振り向いた。それまで被っていた慇懃さをかなぐり捨てて言い放つ。
「なかなか見事な洞察力だ。確かに、皇帝毒殺を企てたのは、この私だよ」
「!!」
「何を今さら驚く。それを予想して来たのだろう? こんな証拠の品までもって――私のところへ!!」
立ち竦む皇子の手から、祭主は素早く書き付けを奪い取った。抗う暇も与えず、蝋燭の炎にかざす。薄い記録紙は、かすかな煙を上げ、すぐに燃えて灰になった。
「さて、これで証拠はなくなった」
「貴様ぁ!」
殴りかかるレイの腕を掴み、祭主は毒蛇のように笑った。
「皇帝のしぶとさは以外だったが……仕込んだ毒は、特別製でな。ごく最近市場に出回った痲薬〝月蟇丹〟をさらに精製、濃縮したものだ。もう一度服用すれば、確実にあの世逝き。万が一死ななくとも、意識はあのまま戻ることはない」
「この人でなし!」
「さすが、下賎の血を引く方は言うことが違いますな。付け加えておくと、その毒は、今夜辺りにでもルークシェスト様の寝室から見つかることになっている。無駄なあがきはそろそろやめにして頂きましょうか、殿下?」
レイは歯噛みした。さすがに神殿には結界が張ってあり、法力は一切使えない。輝破矢も手元にはなく、戦う術は皆無だった。
親に歯向かう子供のように、やみくもに暴れ回るレイを、祭主は抱きかかえるようにして押さえた。
「さて、この辺りで遊びは終わりだ。君の首を心待ちにしている女性がいてね。彼女との約束を果たさなければならない……。君は、離心銷魂の術によってこの世から消えるのだ。永遠にな」
「!!」
レイは、自分が金剛の宮へ連れてこられた理由を知った。
「神聖な正神殿で、闇の呪法を行なおうというのか……! なんとおぞましい……!!」
「何とでも言いたまえ。私にとって、神とは単なる古びた形骸で、人心を得る手段に過ぎない。君にとやかく言われる筋合いは――」
言いかけ、祭主は腕の中の違和感に気が付いた。
気配でそれと知ったレイが逃げようともがくが、祭主はそれを許さなかった。
レイの左手首を固く握ったまま、片手で着物をまさぐる。
「貴様――女か!!」
五十を越えたとは思えぬ艶やかな顔が、驚愕し、やがて勝利の哄笑へと変わった。
「銀の兇児……。はっ! 皇帝の寵児が、こともあろうに銀の兇児とはな!!」
狂暴に片手で銀の髪を鷲掴む。
「何という運命だ! 素晴らしい。これこそ神の御志しというものではないか……!」
「……」
「勿論皇帝は、君の正体を知っているのだろうな。何という愚かな男なのだ。こともあろうに銀の兇児を皇子として認知するなどとは……。己れの業の深さを思い知ったであろう」
「私が女で、このような髪の色に産まれついたのは私の責任ではないし、無論父の責任ではない。父を侮辱すると許さぬぞ!!」
「そうかな? 皇帝が女神官と不義をはたらいた罪が、神からの罰を受けたとは考えられぬかね……?」
「そんな……」
「これで私も、堂々と奴を皇帝の座から引きずり降ろすことができる。礼を言うぞ、レイファシェール皇女殿下」
嘲ら笑う祭主の顔を正視することもできず、レイはただ黙って俯いた。
法衣を纏う彼の腰帯に、祭儀用の短剣がかかっている。それを見た瞬間、手が動き、考える間もなく、レイは短剣を喉元に突き立てた。
「やめろ!!」
祭主が張りとばす。短剣は頬を掠め、手から離れて床に転がった。
「離せ! 死なせろ!」
「愚か者め。こんなところで貴様を死なせるものか! 大事な証拠だ。帝都議会の承認を得るまで、どんな手段を使っても生き長らえさせてやる」
血に濡れる頬を片手で掴み、祭主は囁きかけた。
「安心するがよい。すぐに死なせてやる。私の手で……父と共に地獄へ堕ちるがいい」
レイは、告げられる残酷な未来を消し去ろうとするかのように、固く、強く眼を瞑った。
*
烏合の衆に見えた六芒聖軍が集められ、二、三人の組に分かれて、ある一定の方角に向かって探索を行ないはじめた。
つい先刻までとは違うその動きは、明らかに優れた指導者の存在を示唆するものだった。
混乱に乗じて進んできたディーンは、木陰に身を潜め、舌打ちをした。
帝都の中心に位置する[象牙の塔]には、どこからでも行ける反面、近道はない。アイテールの西側から入った彼らは、必然、貴族たちの住居を抜け、天枢城の裏手から回る他なかった。
一口に帝都貴族といってもやはり階級があり、身分の低い貴族たちはアーエールに近い外暈舎に住み、議員や長老となるとより中央に近い内暈舎に居を構える。外暈舎は三棟からなる巨大な共同住宅だが、内暈舎は緑豊かな庭園内に整然と区画された邸宅が立ち並んでいた。そのため、中へ進むほど隠れるのは容易だが迷いやすく、帝都軍のみならず貴族の使用人の眼をも避けねばならないという条件が付加された。
彼方に聳える[象牙の塔]を睨みつつ、ディーンは、再び仔猫になった妖魔へ囁いた。
「おい、九曜。なんとかなんねぇのかよ。こんなことじゃ、辿り着く前に日が暮れちまうぜ」
《空間移動してもいいけど、魔術師に位置がばれちゃうよ?》
魔力のもつ二面性に、ディーンは頭を抱えた。
「はーあ。めんどくせー」
遅かれ早かれ魔術師に見つかるなら一緒かと、ディーンが思い切りをつけようとした瞬間、彼の脳裏に一筋の光が突き抜けた。
それが何かを考える間もなく、体が動く。
「こっちだ、九曜」
《ディ……ディーン?》
「大丈夫だ。彼女がそう言ってる」
半信半疑の九曜を置いて、ディーンは一気に庭を駆け抜けた。
九曜も慌てて、それを追いかける。
――彼女って……まさか……ねぇ。
今までのように茂みや柱伝いに行くのではなく、大胆に庭を進み、邸宅から邸宅へ移動することで、二人は思いがけぬほど距離を稼ぐことができた。
ディーンは、頭の中に地図でもあるように、迷路のような横道に入り、木々を縫い、見張りの眼をかいくぐる。
倉庫の荷車の陰にしゃがんだまま、二人は兵士が通り過ぎるのを待った。
頭の中の何かを追う様子の彼に、九曜が囁く。
《ねぇ、本当に聖母が呼んでるの?》
「さあな。けど、近付いてるのは確かだぜ」
ディーンは視線だけで、目前に迫った[象牙の塔]を示してみせた。
途端に九曜が不機嫌になった。彼の言う事を信用していないのではなく、聖母と会うのが気に入らないのだ。
《あーあ。一生あいつを助けるなんてないと思ってたけどなー》
「記憶を失くしてる奴がよく言うぜ。行くぞ」
言い、ディーンは荷車の陰から出た。
心なしか空気が重くまとわりつき、視界が歪む。エネルギー障壁の裂け目から染み込む瘴気が、次第に濃くなってきているのだ。
[象牙の塔]の足元まで辿り着き、ディーンは絶句した。
能力をもたない彼にとって遠目にはただの塔だったものが、妖魅を纏い、捻れ引きつれてもだえる魔性の塔と化して映った。
息を飲む彼のすぐ側で、清冽な光が巻き起こった。九曜である。
《やーれやれ。こりゃ、大変だ》
獅子に変化した妖魔は、愉しげな口ぶりで言った。
《あんまり魔術師の結界は強くないみたいだけど……。それにしても、天下の塔がここまでやられるのを見るのは、爽快だなぁ》
「く~よ~う~」
ディーンが死の右手で獅子の頬を引っ張った。
《んがががが》
「我が儘言うな。いい加減、腹をくくれ。助けに来たんだろ?」
ぶよん、と手を放して、
「今だけだ。我慢しろ。助けた後で、気に食わない奴は喰っちゃっていいから」
《本当に?》
「うん。俺はレイファスが助かればいいんだ」
《……どっちが我が儘なんだか》
ぼやいて、氷の妖魔は鬣を一振りした。調子は悪くない。
《さあて。いっちょ張り切りますか》
「任せたぜ、九曜」
大刀を抜き払い、ディーンが声をかける。
獅子の顔にかすかな微笑が浮かんだ、刹那。体の芯まで粉々にするほどの冷気が立ち昇った。
魔を切り裂き、青白い氷の道が開ける。
《ききききき……》
凍りつく妖魅たちの悲鳴があがる中、ディーンは塔へ突入した。
入り口の広間にも、妖魅は群れを成していた。聖騎士であるイルレイアから破邪の祝福を受けた大刀は、妖魅を殺すには充分だが、その数の多さに早くも足止めを食らう。
ディーンは舌打ちをすると、双頭竜の頭を踏み台にして、最上階へ続く階段へ飛び移った。
話には聞いていたが、その構造は奇妙だった。
柱もなく、ただ片壁に添わせた階段が、なだらかな螺旋を描いて高処へと上っていく。
何の変哲もないようでいて、はっきりしているのは、階段は塔のために作られているのではなく、階段のために塔が存在するということ。つまり、これは塔という建物ではない。その頂点にあるものに辿り着くための、壮麗な階段状の建造物にすぎないのだ。
息の詰まるような瘴気の中、さすがのディーンもいつもの軽口が出ない。
妖魅を斬り払い、蹴散らしながら、ひたすらに上を目指す。途中逃げ込める階はなく、同じ景色の続く階段は果て度もなかった。
体に絡みつく妖魅を引きずりつつ、なかば機械的に剣を揮う彼の目の前に、突如、一条の清涼な光が差し込んできた。
――光の……人?
忽然と妖魅の闇を打ち砕いて現われたその人物は、まさに光そのものだった。
一片の穢れをも許さぬ、真珠色の肌。結い上げてなお足元まで流れ落ちる髪は、黄金の輝きを放ち、神聖な法衣に触れることのできる妖魅など一匹たりとも存在しない。
その人物は、ゆっくりと階段を下りてくると、微笑んだ。
「――待っていました、暁の勇者よ」
玲瓏たる声音。その気高さ、神秘性は疑いようもない。
だがディーンは、それとは全く別の意味で、驚きのあまり彼女から目を離せなかった。
「あんた、誰だ……?」
「わたくし私が聖母です」
聖母にふさわしい優美な笑みは、数段の高処にあるにも関わらず、彼の視線を真っすぐに受けとめていた。
彼女は小柄だった。小さく――そして幼かった。
わずか十歳ほどの少女は、命令することに慣れた口調で言った。
「よくぞ来てくれました。さあ、早く私をここから連れ出すのです」
「ちょ……ちょっと待てよ」
ディーンは明らかに戸惑って、大刀を持たない右手を挙げた。
「あんたが、聖母……?」
「そうです」
少女は裳裾を引きずり、自らディーンの元へ下りてきた。
「ここで語り合っている時間はありません。敵の手は迫っているのです。勇者よ、急ぎましょう」
「待てよ。本当に、あんたが聖母なのか? 他に何人かいるって訳じゃないよな?」
「聖母は、私一人です」
少女は、辛抱強く答えた。
「じゃあ、俺を呼んだのは誰なんだ?」
「私です」
きっぱりと言い切り、少女は一人で階段を下りはじめる。ディーンは困惑した顔のまま、その後ろを追った。
長い法衣の裾をさばいて進む少女を大股で追い越す。
「確かめさせてもらうけど、夢で俺を呼んだのは、二十歳過ぎの結構な美人だったぞ?」
「ですから、それは私です」
「十年後ならともかく、今は通用しないぜ。あんたは、どうみても十歳がいいところだ。両方ともあんただというのなら、どっちが本当のあんたなんだ?」
少女は足を止め、紫水晶の瞳で彼を振り返った。
「どちらも本当です。[大災厄]以来、私の時間は十一歳のまま止まっているのです」
「水源の異常……なるほどな」
ようやくディーンは、納得の表情を見せた。
「つまりあんたは、中身は二十歳過ぎだけど、外見は子供のままってことか?」
「そうです」
「だけど……それって、詐欺じゃないか?」
完璧なまでに整った少女の顔が、険しくなった。これが大人となった時の美しさは、想像に難くない。
「勇者といえど、聖母に対して何という無礼を。恥を知りなさい!」
高圧的な言い方に、ディーンは面食らった。が、もとより彼に礼儀など関係ない。
「あんた、さっきから勇者って言ってるけど、それ、俺のことか?」
「無論です。貴方は、私を助けに来た勇気ある若者ゆえ……」
ディーンは、あからさまに厭な顔になった。
「いいか、俺は勇者じゃない。セレスディーン・グラティアスっていう名前があるんだから、きちんと名前で呼んでくれ」
「……分かりました」
「で、あんたの名前は?」
少女が戸惑う。
「今、なんと?」
「こっちが名乗ったからには、あんたも名乗るのが礼儀だろう。聖母ってのは称号だよな?」
「――私の今の名は、アストレア・エヴドモス・イ・パルセーナと申します」
「言いにくいな」
ディーンは、頭三つ分の高さから少女を見下ろして、しばし考えた。
「よし、アストレア。あんたは俺に助けて欲しいのか? それとも欲しくないのか?」
「貴方は、私を助けるためにここへ来たはずです」
「それは俺が決めることで、あんたが決めることじゃない」
断言する青年に、今度は少女が言葉を失う。
「俺は、あいつを助け出すためにここへ来た。その過程であんたを助けることになろうが、そんなことはどうだっていい。そんなことは、重大じゃないんだ」
「私は聖母です。私の救出以上に重要なことが存在するとは考えられません」
「知ったことか。助けて欲しいんなら、それらしくしろってことだ」
「普通の小娘のように、泣いてすがれとでも言うつもりですか?」
答えず、ディーンはいきなり少女の豪奢な法衣を引き剥がした。悲鳴をあげて少女が座り込む。
「な……何をするのです!」
「阿呆。こんなびらびらした格好で逃げられるわけがねぇだろ。脱がされるのが嫌だったら、自分で脱げ。時間はあんまりねぇんだぞ」
怒りと羞恥に顔を桜色に染める少女に、勇者は冷たく言う。
「誰もあんたの裸を見て喜ぶやつなんざいねぇよ。さっさとしろ」
聖母は、不承不承に幾重にも重ねていた法衣の内着をとった。邪魔になる、という理由で、六芒星の護符も置いてゆく。
薄い衣一枚となった少女の額に、宝冠が所在なさげに揺れている。
「これも取っちまえよ」
「なりませんっ!」
激しい剣幕で、少女はディーンの手を振り払った。
「これだけは、絶対に取ることはできません。どうしてもというのであれば、私一人で逃げます」
ディーンは一瞬それでもいいかと考えたが、恐怖か寒さのために震える少女に、少しだけ同情心が湧いた。
「やれやれ、とんだお荷物だぜ」
大きなため息ひとつ。ディーンは、死の右腕に少女の体を掬いあげた。
「きゃあああっ!」
「耳元で、でかい声出すんじゃねぇよ」
ディーンのぼやきに気が付いたのか、腕の中の少女が顔を上げた。想像以上の高さに、慌てて青年の首にしがみつく。
「わ……私、高いところは……」
「こんな高い塔のてっぺんに住んでて、よく言うぜ」
「外を見ることなぞありませんもの――きゃあっ」
少女の文句を放って、ディーンは階段を駆け下りはじめた。
妖魅たちを薙ぎ払って来た道のはずが、それは来た時以上に進まなかった。何千匹と倒したはずの妖魅たちは、逆に数を増し、階段に溢れかえって押し寄せてくる。
さすがに聖母には触れられない妖魅たちも、数だけはどうにもならない。
少女を肩に担ぎ、片手で剣を揮うディーンは、再び足止め状態となった。
「帝都を守るエネルギー障壁の亀裂が、予想以上に広がっているようですね」
「解説どうも……ご苦労さん!」
弾みをつけて、ディーンは三体の食屍鬼の首を跳ねとばした。残った体を階段から蹴り落とす。
階段の脇の空間には、いつの間にか群を成した妖魅たちが絡み合い、縺れ合いながら山となって埋め尽くそうとしていた。
ディーンは舌打ちをして、ぼやく。
「ひでぇな。あんた、聖母だったら何とかできないのかよ」
少女は豊かな巻き毛を彼の肩口に埋めたまま、首を振った。
「できません。たとえこの場の妖魅を退治したところで、障壁の外には、この数万倍の妖魅、果ては妖魔が待ち構えているのです。我々には、これを突き抜けて進む他、道はありません」
「心強い答えだぜ」
溜め息をついて、ディーンは少女を担ぎ直した。華奢な少女は軽く、妖魔の分身を得る右手にはそれほど負担ではないが、動きが制限される事実は否めない。
ディーンは、首にしがみつく少女に尋ねた。
「もうちょっと、このままいけそうか?」
「ええ」
「よし。少し荒っぽい手段をやるぜ。命の保障はしねぇから、しっかり掴まれ」
首に回された細い手に、力がこもった。
「恐かったら、眼をつむってろ」
「――貴方を信じています」
耳元で囁く声に、ディーンは薄く笑う。
「それでこそ聖母だ」
言うや、ディーンは軽く反動をつけて、螺旋階段の空隙へ飛び降りた。空隙といっても、地面ははるか一階の広間であり、妖魅の渦巻く奈落である。その真っ只中に、二人は吸い込まれていく。
およそ半公里の高さから落ち、落ちながらディーンは剣に気を込めた。
刀身が青白い光を帯び、一個の砲弾となって、妖魅の群れを切り裂く。
破砕された妖魅たちをクッション緩衝材にして、ディーンは床へ降り立った。
「大丈夫か?」
「……ええ」
青年の肩口から顔を上げ、少女は頷いた。
腐臭の漂う地獄絵図の中で、少女を包み込む豊かな頭髪が、黄金に光り輝いている。穢れないその美しさが、少女の内側から発せられているのだと、ディーンは気が付いた。
聖母は、確信を込めて微笑みかけた。
「さあ参りましょう、勇者よ」
「ああ」
ディーンは外套を一振りして、こびりつく妖魅の死骸を払い落とすと、広間を抜け、[象牙の塔]を出た。
塔の外は、氷と死の庭園だった。氷の妖魔によって、[象牙の塔]に惹かれてやってきた妖魅たちはほぼ死に絶え、形すら定かでない残骸となって散っていた。
だが、肝腎の妖魔の姿はどこにもなかった。
「九曜……?」
氷結した大地を踏みしめ、ディーンは辺りを見渡した。
何かがおかしい。
そう思った瞬間、強大な何かが正面から突進してきた。聖母を抱えたまま、塔の外壁に叩きつけられる。
「……ぐっ」
「セレスディーン!」
自分を庇って壁に激突したディーンを、聖母が覗き込んだ。ディーンは後頭部をさすりつつ、顔を上げる。
「何だ……今のは……?」
「彼の魔術師が戻ってきたに違いありません。早く退避しなければ――」
「ちょ、ちょっと、あんた。聖母なら、魔術師くらい片付けろよ」
「簡単に事が済むような相手なら、退避するなどとは言いません」
口早に告げられた内容に、ディーンは一瞬痛みを忘れた。
「おい、真剣かよ」
「このようなときに冗談を言うとでも――きゃああっ!!」
突然、聖母の長い髪が空気の手に掴まれ、引きずられる。
「アストレア!」
飛び起きたディーンは、剣を構え、そこで動きを止めた。
蒼白の獅子が、そこにいた。そして、牙を剥き、低く身構えたその姿勢は、明らかに攻撃を仕掛けようとするものだった。
だが――。
《早く……逃げ…ろ、ディーン……》
牙の下から、九曜の声がとぎれとぎれに届く。その瞬間、ディーンは気が付いた。
三年前にテーベで出会ったとき、この陽気な相棒の自由を奪っていたものと同じ目に見えぬ戒めが、再び彼を捕らえているということを。
蜘蛛の糸ほどもない、極細の戒め――〝魔の鎖〟。
煉獄の炎で鍛えられたそれは、捕らえたものを逃がさず、じわじわと灼き尽くしてしまう。魂すら残さず。
蒼褪めるディーンの前に、すうっとひとつの影が現われた。
頭からすっぽりと黒い長衣を纏ったその影は、小さく、何の力もないように見えた。
笑ったのか、頭巾の陰から、不揃いの歯が覗く。
「――やれやれ。貴女も手のかかる女性だ。いったい何時の間に、こんな小僧どもを呼んだのです?」
「……」
見えぬ手に引きずられる聖母は、苦痛に顔を歪めた。
「世界の母たる貴女が、妖魔に助けを求めるとはね」
「私を……侮辱する気ですか……」
「当然。侮辱ついでに、その邪魔な宝冠を取って差し上げましょう」
「!」
黒衣の魔術師は、さやさやと笑った。
「聖母の証である神の聖痕――この眼で確かめさせて頂きましょうか」
その言葉が終わるや否や、ディーンの手から、ヤマトの剱が唸りをあげて放たれた。
虚を突かれ、聖母を拘束していた術が解ける。
だが、彼女の体が開放された時はもう、すでに大刀はその意志を失っていた。
玉鋼の刀身が、ぴたりと空中で停止し、ゆっくりと形を変えていく。まるで飴を伸ばすように捻られ、折り曲げられた大刀は、やがて哀れな鉄の固まりとなって地面に落ちた。
「小僧……。邪魔をしようというのか……?」
それまで全く眼中になかった青年からの攻撃に、初めて、黒衣の魔術師に殺気が湧く。
「この、わたしの、邪魔を、貴様のような、虫けらが、するというのか……?」
一言一言を区切った、奇妙な喋り方だった。発せられる度に、ディーンは、彼の体が一回りずつ大きくなっていく錯覚に襲われた。
耳鳴りのような音と、黒く揺らぐ巨大な影が、嵐となって降り注ぐ。
「この……闇の導師たる……この、わたしに……!!」
瞬間、爆音と共にディーンの体が、木の葉のごとく吹き飛ばされた。
それは、凍り付いた庭園の木々を薙ぎ倒し、息の根を止める勢いで彼を地面に叩き伏せた。




