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カナン・サガ3~帝都内乱~  作者: 藤田 暁己
第7章 帝都Ⅳ――裏切り
21/31

7-1

 


 戒厳令もまだ解かれず、宮殿内にぴりぴりした空気の張り詰める中、帝都市街であるアーエールとを結ぶ西門に、一人の人物が現われた。

 頭からすっぽりと長衣ローブを被ったその人物は、どこから来たものか、ふわり、と門前に立った。通常の門兵たちと共に派遣された六芒聖軍ヘクサッドの四名の兵士が、長槍を突き付けて止める。


「戒厳令だ。何人なんびとであろうと、この門を通すわけにはいかぬ!」

「――お退きなさい」

「何?」


 怪しむ彼らに、その人物は、微笑と共にひとすじの吐息を吹きかけた。

 甘い死の香りが、瞬く間に兵士たちを取り巻き、意識を根ごと奪い去る。


「早く、今のうちに!」


 イリヤの声に、頭巾フードで鼻孔をしっかりと覆ったディーンとギガースが物陰から現われた。

 倒れ伏す兵士たちを眺め、ため息を洩らす。


「やれやれ、恐い女だ。あの時あんたの誘いに乗らないで正解だよ、本当」

「喋っていないで、さっさとなさい。助けが来るわ」


 ディーンとギガースは、六芒聖軍ヘクサッドの兵士から鎧をはぎ取り、身につけた。特別大柄なギガースには少々窮屈だが、この際文句は言っていられない。漆黒の魔剣を背に負い、外套の下に輝破矢かぐはやを帯びる。

 頬当てのついた兜を被り、帝都兵士になりすました二人は、彼らが乗ってきた馬を連れ出した。

 長衣ローブの下に聖騎士の鎧を付けていたイリヤが、早くも馬に跨がる。


「いいこと。私の後に従って、黙ってついて来なさい。兵士の格好をしているかぎり、怪しまれることはないわ。だだし、誰とも眼を合わせては駄目。じっとうつむいて何もしゃべらないでいるの。分かったわね?」

「へいへい」

「ディーン。特に貴方は、余所見よそみをしないよう気をつけて。貴方は私の〝部下〟なのだから」

「承知いたしました、姫君」


 危急時にふざける男を叱る気にもならないのか、イリヤは無言で兜の面頬バイザーを下ろし、その表情を隠した。

 同じくギガースとディーンも騎乗する。


「急ごうか」

「ええ」


 三人は、広い外庭を走りぬけ、帝都の中枢を目指した。小舟の浮かぶ池や林まである庭は、冬にも関わらす緑が生え揃い、花々が咲いている。

 普段ならば楽園に思えるこの光景も、散見する六芒聖軍ヘクサッドの存在に、灰色にくすんで見える。

 ディーンの外套マントの下に隠れていた九曜が、鼻先だけ出し、ふん、といって引っ込んだ。

 西門から真っすぐに見えるのが、天枢城ケンドロ・ウラノスへと続く第二の門・星海門。その奥には第三の門・清月門があり、ようやく城郭内へと入ることが出来る。

 聖母の座す[象牙の塔]は、そのさらに奥、帝都の中心に立っていた。


 六芒聖軍ヘクサッドの天翔船は、通常表である南ではなく、北西にある空挺場に着く。そこからレイを奪回して脱出できるかは、未知の可能性であり、これからの作戦にかかっていた。


――なんだ……これは?!


 天眼てんがんをもつギガースには、輝く宮殿が、闇ともつかぬ混沌の影に覆われ、もだえ、雄叫びをあげているように視えた。


――これは、帝位を狙う祭主なのか……?


 すぐに、心の奥底から否定の声があがる。

 視てはならない。そこにいるのは、人にして人ではなく、神にして神ではなく、魔にして魔ではないものだ。

 ギガースの総身が粟立あわだち、じっとりと汗が浮かんだ。


 三騎の馬は、星海門、清月門と抜け、天枢城と貴族の住居を結ぶ回廊へと入った。

 さすがに、聖騎士の姫とそれに従う兵士を見咎みとがめるものはいない。


「御苦労様です!」

「異常はないわね」


 敬礼をして出迎える門兵に、イルレイアが頷きかけた。走り出た兵士に馬を渡し、三人は堂々と回廊から帝都の中心へ向かう。

 頑強な二兵を従え、純白の聖騎士の姫が歩む様は、それだけで城内に清々すがすがしさを与えた。

 聖騎士は、単に法術と剣術の双方を兼ね備えるというだけではない。二柱の極みであり、一人で軍一個大隊の働きを成すといわれ、聖戦時には聖母の傍を護る守護神である。

 聖騎士の姫が城に戻ったというだけで、人々の顔に生気が甦る。

 その様子に、イリヤは胸が痛むものを感じた。だが、もう引き返すことはできない。

 振り向きもせず、素早く囁く。


「――ここまではどうやらいいようね。九曜はどう?」

「頑張って貼りついているぜぇ」


 兜の下で、ディーンがかすかに笑う。仔猫の姿の妖魔は、外套マントに隠れるよう彼の腰辺りにしがみついていた。


手筈てはずは分かっているわね」

「おう」

「魔術師が出ても、相手にしないで。目的だけを達成して頂戴」

「任せておけ」

「――ディーン」


 イリヤが一瞬足を止めた。


「なんだよ」

「いえ……」


 いつになくイリヤが口篭もる。と、ギガースが鋭くその耳に囁いた。


「来る!! レイの乗った天翔船が着くぞ!!」


 早足となった三人と前後して、伝令の叫ぶ声が響きわたる。


「レイファシェール皇子の御帰還だ……!」

「何?」

「宰相は一緒か?!」

「分からぬ!」


 騒然となった城内は、まさに混乱を極めた。雪崩なだれのように空挺場へ向かう者、他へ報せに走る者――騒乱を知らぬ世代がほとんどの今、統制などとれようはずがない。

 イリヤが頷きかける。


「行くわよ!」

「後で会おうぜ……!」


 空挺場へ向かうイリヤとギガースと別れ、ディーンは、九曜を連れて真っすぐ帝都の中心を目指した。

 人々の流れに逆らって走る彼を、上官らしき兵士が呼び止める。


「おい、おまえ。どこへ行く! 門の見張りはどうした?」


 ディーンは足を止め、右手で鯉口こいぐちを切った。軍用の両刃剣ではない。カルディアロスに帰還した際、リ・タイレンから直々じきじきに賜ったヤマトのつるぎである。

 刃渡り二公尺ペディス半。こしらえは、黒を基調とした師匠・無斎好みの堅牢けんろうな仕立て。かさね厚く身幅みはば広く中切先の、浅く反りのついた大刀は、これほど実戦にふさわしいものはない。


「見張りは――寝ちまったよ」


 言って振り向きざま、彼の左手から光芒がはしり抜けた。


「!」


 呼び止めた兵士が悲鳴を上げる間もなく、右腕が切り裂かれ、兜が空を舞う。

 暫時ざんじ、時が止まる。次に兵士が気付いた時には、その場に、巨大で、荘厳なまでに美しい蒼白の獅子が立っていた。

 恐怖のあまり、叫ぼうにも声にならない。


「あ……あわ……」


 ディーンは薄く笑って、六芒聖軍ヘクサッドの兜を脱ぎ捨てた。


「さて――九曜。調子はどうだ?」

《ま、聖母の結界もなし。上々ってところだね》


 陽気に言い、獅子は、極上の笑顔を帝都の兵士たちに向けた。ぞろりと並ぶ鋭い牙が、陽光を受けて純白に輝く。

 腕を切られた兵士が、蒼褪めて後退あとずさった。


「て……敵襲……敵襲だぁ! う、撃て。撃てぃ!」


 喉も裂けんばかりの叫びに、仲間たちが剣を構えたときにはもう、白い獅子を連れた侵入者は城の奥へと消えていた。


   *


 六芒星ヘクサグラムの旗の翻る天翔船がカルディアロスを出発して、十二時間ホラが経っていた。

 太陽を逆に追いかけた船は、闇夜を抜け、まばゆい朝の世界へと戻ってきた。

 レイは、軟禁された船室の窓から、ゆっくりと移ろうその景色を見ていた。捕まる直前の一喝がきいたのか扱いは丁重で、船に入ってからは手錠もなく、多少の自由もきく。

 レイは、次第に近付いてくる天の城を眺め、深い息を吐いた。

 祭主の悪事を暴露するまでは死ねないと思い極めていたものの、銀の兇児の秘密が明かされるようであれば、先に自決するより他はない。


――それも、死体を残さずに、か……。


 レイは唇を噛んだ。自分が女であるという動かしようのない事実が、もどかしくうっとおしく、やりきれなかった。

 肌身から離すことのない、ぎょくの首飾りを握り締める。


――ディーン……。


 もう一度、会えるだろうか。

 いつも危ない時には駆け付けてくれた黒髪の若者と白い妖魔は、今度もまた助けにくるだろう。

 お互い、未来はないのかもしれない。それでも――。

 レイは、冷たい玉の首飾りに、そっと唇をつけた。


――ひとりではないのだ。


 天翔船が徐々に速度を落とし、天門ゲートを抜けて天枢城ケンドロ・ウラノスの北西の空挺場へと辿り着く。そこは広々と整地された見晴らしの良い場所で、石畳の道がいくつか伸び、川の流れに似た幾何学模様を描いている。

 そのひとつに、整然と立ち並ぶ一団がいる。


 軍兵士に先導され、レイは再びアイテールに足を踏み入れた。

 まばゆい光が眼を射る。

 見慣れた景色には、完全武装をした六芒聖軍ヘクサッドがずらりと居並び、皇子を待ち構えていた。

 その中に、際立って背の高い男を見つけ、レイの瞳が怒りに燃えた。


「――アレス・リキタス……!」

「レイファシェール皇子。お待ち申し上げておりました」


 慇懃に、祭主が笑いかける。だが、父と同じ青い瞳は、限りなく冷たかった。


「祭主。貴様の企みも、これまでだぞ」

「何をおっしゃられるのです、殿下。貴方は、あの宰相にたぶらかされているのですよ」


 あくまでも笑顔を装い、アレス・リキタスは言った。天翔船を下りた人々の中に養女の姿がないことに気が付いたが、触れることなく、兵に命じて皇子の両手に金属製の枷を嵌めさせる。


「金剛の宮へお連れしろ」

「はっ」


 兵士に囲まれて、皇子が宮殿の中枢へと去る。その様子をイリヤとギガースは、回廊の影から見ていた。

 集まった兵は百名ほど。いかに二人に卓越した実力があっても、これを突破することは困難だ。

 ギガースはわずかに舌打ちして、イリヤに囁く。


「金剛の宮か……先回りしよう」

「――待って」


 何を思ったか、ふいにイリヤが彼の腕を取った。


「行く前に御礼を言っておきたいの。生きて……戻れないかもしれないから」

「……」

「彼にも伝えて。レイ様に償いをする機会を与えてくれたことに、心から感謝すると……」

「イリヤ」


 男を見上げる瞳が、わずかに光るものを湛えている。


「ありがとう。貴方だけが、私をただの女として見てくれた――」

「イリヤ。俺は……」


 言葉に詰まるギガースの口を、イリヤの唇がふさいだ。

 太い腕が、不器用に女を抱き寄せる。

 甘やかな想いに満たされた一瞬。魔剣〝荒炎すさのお〟が警告を上げる間もなく、彼の後頭部を何かが痛烈に殴打した。

 呻きすらなく、妖魔狩人ハンターが女の腕に倒れこむ。

 イリヤは、眉一つ動かさずに、その体を抱き止めた。

 口から直接吹き込まれた邪香は、常人ならば半日は目覚めることはない。

 イリヤは、意識を失った男の身体を、そっと物陰に横たえた。


「さようなら……やさしい人」


 彼の傍らで、衝撃でさやをはなれた魔剣が、怒りに真紅の輝きを纏っている。

 それを見つめるイリヤの眼に、なぜか深い哀しみが宿っていた。


「魔剣の精霊よ……本当にそこに貴方がいるのなら、彼を護って――お願い」


 純白の鎧兜にすべての想いを隠し、原罪者の娘は、宮殿の中へ走り去った。


   *


 城内へ戻ったアレス・リキタスは、侵入者出現の報告を一笑に付した。


「たかが小僧と獣一匹に大騒ぎすることもなかろう」

「しかし帝都の護りが破られ、戦闘に慣れぬ若者たちはいちじるしく混乱をきたしており、将軍たちの指示すら届かぬ有様ありさまです。このままでは、内部で殺し合いが起きかねません」

「ふむ……」


 アレス・リキタスはしばし黙り、やがて手を叩いて、側近のファーガスを呼んだ。


「地下牢の鍵を持て」

「まさか、ルークシェスト様を……?」

「馬鹿な」


 鼻で笑って否定する。


「父殺し――ひいては皇帝殺害の反逆者を誰が使うものか。もう一人、協力してくれそうな者がおろう?」


 祭主は、報せをもってきたリアン大佐と数名の部下を従え、地下に下りた。

 二十年以上使われることのなかった地下牢は、現在、立て続けにふさがれていた。一は、皇帝殺害未遂の容疑がかかる第一皇子ルークシェスト。

 もう一人は、親友でありながら皇帝に刃を向けた男――リー・ジェイナス・モルガン将軍である。


「久しぶりだな、将軍」

「――祭主猊下げいか


 目を引く赤い頭髪と豊かな顎髭あごひげはくすみ、数日の監禁の厳しさを物語った。だが、たかのような眼光は衰えることなく、鋭く祭主を射抜いた。


「怪我の具合はどうだ? そろそろここにもいたであろう」

「……」

「ここから出て、私と共に帝都の反乱を鎮めようではないか?」

「討議も待たず皇太子殿下を投獄した貴様に、従う気はない」


 殺気のこもった返答に、祭主は憫笑びんしょうで応えた。 

  

「将軍、あれも作戦だよ。本当の犯人は他にいる。だが、明らかな証拠が出てしまった以上、私としてもこうするより他はないのだ」

「口のうまいものは何とでも理屈をつける」

「ふ……私を疑っているのか。この二十余年間、皇帝である弟を見守り続けてきた私が、今さら反逆してどうなるというのだね?」

「……」

「帝位を狙っているのは、宰相だよ。皇帝をそそのかして権限を強化させた上で、毒殺を試み、その罪をルークシェスト皇子に被せ、次はレイファシェール皇子の命まで狙った――」

「!」

「そう。君がここで捕われている数日の間に、帝都はかつてない危機にさらされていたのだよ。……皇帝も愚かだ。君の言葉に耳を傾けていれば、毒を盛られることもなかったであろうに」


 将軍の拳が、堅く握り締められる。アレス・リキタスは訴えるように、強く囁いた。


「今、帝都は君の力を必要としている。私一人では、この危難を乗り越えることは難しい。君の力で六芒聖軍ヘクサッドを指揮し、反乱を治める手助けをしてほしいのだ。陛下もきっと――それを望まれていることだろう」

「――私の思い通りにさせてくれるのだろうな?」


 アレス・リキタスの頬に王者の笑みが刻まれた。


「無論だ」


 ファーガスが、地下牢の鍵を開けた。やや左肩をかばうようにして現われたモルガンを、リアン大佐が迎える。


「将軍、傷の方は――」

「左腕がなくとも右腕がある。大佐、私の剣は――?」

「こちらにございます」


 受牢じゅろうを申しつかって以来、召し上げられていた剛剣〝天飆剣テュエライ〟が、三日ぶりに主人の手元に戻った。

 モルガンは、無事な右手で天飆剣テュエライを掴むと、眼にも止まらぬ素早さで縦横に振り回した。

 刹那。音もなく断ち切られた手錠と足枷が、ばらばらになって床へ落ちる。

 一同が息を飲む。モルガンは剣帯を腰に巻くと、もう一度天飆剣テュエライを一振りして鞘に収めた。

 将軍として復職したモルガンは、用意された部屋で身仕度を整えた後、リアン大佐と共に侵入者の討伐に向かった。



 アレス・リキタスは一人、皇帝の執務室である青の間に戻っていた。セイデンが病に伏す間、ここが代理である彼の拠点となる。

 すでに新たな主人の好みを映し、つい三日前まで書類が散乱していた室内は塵ひとつなく、実務的な堅材の机は、重厚な黒檀のそれに取って代わられていた。めずらしいビグリッドの青狼の毛皮を床に敷き、様相を一変している。

 姿の見えぬ小姓を呼ぼうとした彼は、机上の硝子杯グラスに手を伸ばし、気が付いた。


「――イルレイア!」

「ここにいらっしゃるだろうと思っていましたわ、お養父とう様」


 机の右手にある窓のとばりの影から、聖騎士の兜を脇に抱えた、朱金の髪の女が現われる。


「とうとうこの部屋を手に入れたのですものね。まだ正式にではありませんけれど……」

「イルレイア。おまえ、何処に行っていたのだ!」

「皇子をかくまった連中に追われ、仕方なく別の手段で戻ってきたのです。それよりもお養父とう様、レイファシェール様を見逃して下さるという約定はどうなったのです?」


 男が冷笑した。


「約定なぞした覚えはない。あやつの首を欲しがっている方がいてな」

「皇后ですね……」


 きり、と引き結んだイリヤの口唇が、白く色を失う。


「夫である皇帝を裏切り、神を裏切り、貴方との関係を結んでまで、なぜ彼女はレイ様の命を狙うのです? そうしなければならない理由がどこにあるというのですか?」

「裏切り? ――おかしなことを」


 アレス・リキタスは、真紅の液体を満たした硝子杯グラスを持ち、養女を振り返った。


「裏切ったのは皇帝の方だ。確かに妾妃制度は存在するが、神の御前みまえに婚姻を約束した男女が他の異性に心惹かれるなどとは、重大な裏切りだと思わないかね?」

「……」

「ましてやその子供を認知した上、帝都に受け入れるとは酷い仕打ちだ。どんなに寛大な者でも胸を痛めずにはいられまい。ましてや相手を深く愛していたならば、裏切られて憎まずにいる者がどこに存在するかね……」

「今さら何を――」

()()()()、そうだろう?」


 イリヤの言葉を遮って、祭主は問い返した。一瞬虚を突かれたイリヤは戸惑い、やがてゆっくりと理解した。


「お……養父とう様……」

「私が何の用心もせずにいると思うかね。皇太子を殺さなかったと聞いたときから、おまえを今回の計画から外していたのだ」

「!」


 逃げ出そうとして、イリヤは、はっと息を飲んだ。その手から、白い兜が滑り落ちる。

 まるで辺りから急激に空気がなくなったかのように、イリヤは口を開けたまま、両手で喉を押さえた。

 いつのまにか祭主の手には、血のように輝く不思議な球体が現われていた。

 球体はかすかに波打ち、少しずつ、イリヤから何かを吸い取っていく。


「あ……ああ……」

「残念だよ、イルレイア。こんな形でおまえを失おうとはな」

「……は……あっ……」

「おまえはもっと賢いと思っていたが――」


 血の気を失うイリヤとは対照的に、祭主の頬は、心なしか薔薇色に染まっている。


「弟の元へいくがよい」

「!」


 イリヤの眼が、驚愕に見開かれた。


「お……弟を……殺したの……ね……」

「そうだ」


『――いいわ。わたしを好きにすればいい』


「あ……なたが、お……とう……とを……」


『その代わり、弟を開放して。二度と手を出さないと誓って』


「……約束……した……の、に……」


『いいだろう。君の目の前で、彼をここから開放しよう』


「だ…ま、した……のね」


『外は荒野だ。生きていける保障はないが、いいのかね?』

『いいわ。ここにいるくらいなら、ずっと……』


――サイア!!


 遠退く意識の中で、祭主の哄笑が聞こえた。


「どこまで愚かなのだ、おまえは。あんな子供の約束を、私が守ったと信じていたのかね。馬鹿馬鹿しい」


 息も絶え絶えに膝を折る娘を、冷ややかな眼差しで見下ろす。


天幕テントを追い出してすぐ、血染めのころもを持ってファーガスが戻ってきたわ」


 狐のような褐色の瞳に、殺意が宿った。

 微風がひとすじ、祭主の鼻先を吹き抜ける。瞬間、突如青の間の窓を叩き壊して、室内を突風が吹き荒れた。


「く……っ!」


 祭主は、片手で顔を庇い、机の影に逃げ込んだ。


「何という娘だ……! 命珠めいじゅがこちらの手にあるというのに……!」

『――お助けいたしましょう、陛下』


 声ならぬ声が耳元で囁いたかと思うと、巨大なものが室内に下りてきた。

 鼓膜を裂く衝撃。

 気が付くと、風は止み、意識を失ったイルレイアが床に倒れていた。

 その側に、小さな影がうずくまっている。頭巾フードの下から、いびつな黄色い歯が覗いた。


「やれやれ、こんな小娘にやられようとは……。皇帝になろうという方が、いささか油断が過ぎますぞ」

「……ザグレウス」


 硝子片を払って起き上がり、祭主は不躾ぶしつけな男を睨んだ。


「聖母は如何いかがした?」

「わたしの結界を破れる力が、今の聖母にあろうはずがございません。さて――」


 とどめを刺そうとする魔術師を、祭主が止める。


「待て!」

「――はて。裏切り者を生かしておくおつもりで?」

「その娘はどのようにでもなる。水晶宮へ運んでおけ」

「……承知いたしました、陛下」


 ザグレウスは、左胸に手を当てて頭を下げた。骨張った指を、ぱちん、と鳴らす。と、気を失ったイルレイアの体が、音もなく空中に浮かび上がった。

 黒衣の魔術師が二度指を鳴らすと、二人の姿が、まるで幻のようにその場からかき消える。

 祭主が振り向いた時にはもう、割れたはずの窓は元の形に戻り、飛び散った破片もひとつ残らずなくなっていた。



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