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戒厳令もまだ解かれず、宮殿内にぴりぴりした空気の張り詰める中、帝都市街であるアーエールとを結ぶ西門に、一人の人物が現われた。
頭からすっぽりと長衣を被ったその人物は、どこから来たものか、ふわり、と門前に立った。通常の門兵たちと共に派遣された六芒聖軍の四名の兵士が、長槍を突き付けて止める。
「戒厳令だ。何人であろうと、この門を通すわけにはいかぬ!」
「――お退きなさい」
「何?」
怪しむ彼らに、その人物は、微笑と共にひとすじの吐息を吹きかけた。
甘い死の香りが、瞬く間に兵士たちを取り巻き、意識を根ごと奪い去る。
「早く、今のうちに!」
イリヤの声に、頭巾で鼻孔をしっかりと覆ったディーンとギガースが物陰から現われた。
倒れ伏す兵士たちを眺め、ため息を洩らす。
「やれやれ、恐い女だ。あの時あんたの誘いに乗らないで正解だよ、本当」
「喋っていないで、さっさとなさい。助けが来るわ」
ディーンとギガースは、六芒聖軍の兵士から鎧をはぎ取り、身につけた。特別大柄なギガースには少々窮屈だが、この際文句は言っていられない。漆黒の魔剣を背に負い、外套の下に輝破矢を帯びる。
頬当てのついた兜を被り、帝都兵士になりすました二人は、彼らが乗ってきた馬を連れ出した。
長衣の下に聖騎士の鎧を付けていたイリヤが、早くも馬に跨がる。
「いいこと。私の後に従って、黙ってついて来なさい。兵士の格好をしているかぎり、怪しまれることはないわ。だだし、誰とも眼を合わせては駄目。じっと俯いて何もしゃべらないでいるの。分かったわね?」
「へいへい」
「ディーン。特に貴方は、余所見をしないよう気をつけて。貴方は私の〝部下〟なのだから」
「承知いたしました、姫君」
危急時にふざける男を叱る気にもならないのか、イリヤは無言で兜の面頬を下ろし、その表情を隠した。
同じくギガースとディーンも騎乗する。
「急ごうか」
「ええ」
三人は、広い外庭を走りぬけ、帝都の中枢を目指した。小舟の浮かぶ池や林まである庭は、冬にも関わらす緑が生え揃い、花々が咲いている。
普段ならば楽園に思えるこの光景も、散見する六芒聖軍の存在に、灰色にくすんで見える。
ディーンの外套の下に隠れていた九曜が、鼻先だけ出し、ふん、といって引っ込んだ。
西門から真っすぐに見えるのが、天枢城へと続く第二の門・星海門。その奥には第三の門・清月門があり、ようやく城郭内へと入ることが出来る。
聖母の座す[象牙の塔]は、そのさらに奥、帝都の中心に立っていた。
六芒聖軍の天翔船は、通常表である南ではなく、北西にある空挺場に着く。そこからレイを奪回して脱出できるかは、未知の可能性であり、これからの作戦にかかっていた。
――なんだ……これは?!
天眼をもつギガースには、輝く宮殿が、闇ともつかぬ混沌の影に覆われ、もだえ、雄叫びをあげているように視えた。
――これは、帝位を狙う祭主なのか……?
すぐに、心の奥底から否定の声があがる。
視てはならない。そこにいるのは、人にして人ではなく、神にして神ではなく、魔にして魔ではないものだ。
ギガースの総身が粟立ち、じっとりと汗が浮かんだ。
三騎の馬は、星海門、清月門と抜け、天枢城と貴族の住居を結ぶ回廊へと入った。
さすがに、聖騎士の姫とそれに従う兵士を見咎めるものはいない。
「御苦労様です!」
「異常はないわね」
敬礼をして出迎える門兵に、イルレイアが頷きかけた。走り出た兵士に馬を渡し、三人は堂々と回廊から帝都の中心へ向かう。
頑強な二兵を従え、純白の聖騎士の姫が歩む様は、それだけで城内に清々しさを与えた。
聖騎士は、単に法術と剣術の双方を兼ね備えるというだけではない。二柱の極みであり、一人で軍一個大隊の働きを成すといわれ、聖戦時には聖母の傍を護る守護神である。
聖騎士の姫が城に戻ったというだけで、人々の顔に生気が甦る。
その様子に、イリヤは胸が痛むものを感じた。だが、もう引き返すことはできない。
振り向きもせず、素早く囁く。
「――ここまではどうやらいいようね。九曜はどう?」
「頑張って貼りついているぜぇ」
兜の下で、ディーンがかすかに笑う。仔猫の姿の妖魔は、外套に隠れるよう彼の腰辺りにしがみついていた。
「手筈は分かっているわね」
「おう」
「魔術師が出ても、相手にしないで。目的だけを達成して頂戴」
「任せておけ」
「――ディーン」
イリヤが一瞬足を止めた。
「なんだよ」
「いえ……」
いつになくイリヤが口篭もる。と、ギガースが鋭くその耳に囁いた。
「来る!! レイの乗った天翔船が着くぞ!!」
早足となった三人と前後して、伝令の叫ぶ声が響きわたる。
「レイファシェール皇子の御帰還だ……!」
「何?」
「宰相は一緒か?!」
「分からぬ!」
騒然となった城内は、まさに混乱を極めた。雪崩のように空挺場へ向かう者、他へ報せに走る者――騒乱を知らぬ世代がほとんどの今、統制などとれようはずがない。
イリヤが頷きかける。
「行くわよ!」
「後で会おうぜ……!」
空挺場へ向かうイリヤとギガースと別れ、ディーンは、九曜を連れて真っすぐ帝都の中心を目指した。
人々の流れに逆らって走る彼を、上官らしき兵士が呼び止める。
「おい、おまえ。どこへ行く! 門の見張りはどうした?」
ディーンは足を止め、右手で鯉口を切った。軍用の両刃剣ではない。カルディアロスに帰還した際、リ・タイレンから直々に賜ったヤマトの剱である。
刃渡り二公尺半。拵えは、黒を基調とした師匠・無斎好みの堅牢な仕立て。重ね厚く身幅広く中切先の、浅く反りのついた大刀は、これほど実戦にふさわしいものはない。
「見張りは――寝ちまったよ」
言って振り向きざま、彼の左手から光芒が奔り抜けた。
「!」
呼び止めた兵士が悲鳴を上げる間もなく、右腕が切り裂かれ、兜が空を舞う。
暫時、時が止まる。次に兵士が気付いた時には、その場に、巨大で、荘厳なまでに美しい蒼白の獅子が立っていた。
恐怖のあまり、叫ぼうにも声にならない。
「あ……あわ……」
ディーンは薄く笑って、六芒聖軍の兜を脱ぎ捨てた。
「さて――九曜。調子はどうだ?」
《ま、聖母の結界もなし。上々ってところだね》
陽気に言い、獅子は、極上の笑顔を帝都の兵士たちに向けた。ぞろりと並ぶ鋭い牙が、陽光を受けて純白に輝く。
腕を切られた兵士が、蒼褪めて後退った。
「て……敵襲……敵襲だぁ! う、撃て。撃てぃ!」
喉も裂けんばかりの叫びに、仲間たちが剣を構えたときにはもう、白い獅子を連れた侵入者は城の奥へと消えていた。
*
六芒星の旗の翻る天翔船がカルディアロスを出発して、十二時間が経っていた。
太陽を逆に追いかけた船は、闇夜を抜け、まばゆい朝の世界へと戻ってきた。
レイは、軟禁された船室の窓から、ゆっくりと移ろうその景色を見ていた。捕まる直前の一喝がきいたのか扱いは丁重で、船に入ってからは手錠もなく、多少の自由もきく。
レイは、次第に近付いてくる天の城を眺め、深い息を吐いた。
祭主の悪事を暴露するまでは死ねないと思い極めていたものの、銀の兇児の秘密が明かされるようであれば、先に自決するより他はない。
――それも、死体を残さずに、か……。
レイは唇を噛んだ。自分が女であるという動かしようのない事実が、もどかしくうっとおしく、やりきれなかった。
肌身から離すことのない、玉の首飾りを握り締める。
――ディーン……。
もう一度、会えるだろうか。
いつも危ない時には駆け付けてくれた黒髪の若者と白い妖魔は、今度もまた助けにくるだろう。
お互い、未来はないのかもしれない。それでも――。
レイは、冷たい玉の首飾りに、そっと唇をつけた。
――ひとりではないのだ。
天翔船が徐々に速度を落とし、天門を抜けて天枢城の北西の空挺場へと辿り着く。そこは広々と整地された見晴らしの良い場所で、石畳の道がいくつか伸び、川の流れに似た幾何学模様を描いている。
そのひとつに、整然と立ち並ぶ一団がいる。
軍兵士に先導され、レイは再びアイテールに足を踏み入れた。
まばゆい光が眼を射る。
見慣れた景色には、完全武装をした六芒聖軍がずらりと居並び、皇子を待ち構えていた。
その中に、際立って背の高い男を見つけ、レイの瞳が怒りに燃えた。
「――アレス・リキタス……!」
「レイファシェール皇子。お待ち申し上げておりました」
慇懃に、祭主が笑いかける。だが、父と同じ青い瞳は、限りなく冷たかった。
「祭主。貴様の企みも、これまでだぞ」
「何をおっしゃられるのです、殿下。貴方は、あの宰相にたぶらかされているのですよ」
あくまでも笑顔を装い、アレス・リキタスは言った。天翔船を下りた人々の中に養女の姿がないことに気が付いたが、触れることなく、兵に命じて皇子の両手に金属製の枷を嵌めさせる。
「金剛の宮へお連れしろ」
「はっ」
兵士に囲まれて、皇子が宮殿の中枢へと去る。その様子をイリヤとギガースは、回廊の影から見ていた。
集まった兵は百名ほど。いかに二人に卓越した実力があっても、これを突破することは困難だ。
ギガースはわずかに舌打ちして、イリヤに囁く。
「金剛の宮か……先回りしよう」
「――待って」
何を思ったか、ふいにイリヤが彼の腕を取った。
「行く前に御礼を言っておきたいの。生きて……戻れないかもしれないから」
「……」
「彼にも伝えて。レイ様に償いをする機会を与えてくれたことに、心から感謝すると……」
「イリヤ」
男を見上げる瞳が、わずかに光るものを湛えている。
「ありがとう。貴方だけが、私をただの女として見てくれた――」
「イリヤ。俺は……」
言葉に詰まるギガースの口を、イリヤの唇がふさいだ。
太い腕が、不器用に女を抱き寄せる。
甘やかな想いに満たされた一瞬。魔剣〝荒炎〟が警告を上げる間もなく、彼の後頭部を何かが痛烈に殴打した。
呻きすらなく、妖魔狩人が女の腕に倒れこむ。
イリヤは、眉一つ動かさずに、その体を抱き止めた。
口から直接吹き込まれた邪香は、常人ならば半日は目覚めることはない。
イリヤは、意識を失った男の身体を、そっと物陰に横たえた。
「さようなら……やさしい人」
彼の傍らで、衝撃で鞘をはなれた魔剣が、怒りに真紅の輝きを纏っている。
それを見つめるイリヤの眼に、なぜか深い哀しみが宿っていた。
「魔剣の精霊よ……本当にそこに貴方がいるのなら、彼を護って――お願い」
純白の鎧兜にすべての想いを隠し、原罪者の娘は、宮殿の中へ走り去った。
*
城内へ戻ったアレス・リキタスは、侵入者出現の報告を一笑に付した。
「たかが小僧と獣一匹に大騒ぎすることもなかろう」
「しかし帝都の護りが破られ、戦闘に慣れぬ若者たちは著しく混乱をきたしており、将軍たちの指示すら届かぬ有様です。このままでは、内部で殺し合いが起きかねません」
「ふむ……」
アレス・リキタスはしばし黙り、やがて手を叩いて、側近のファーガスを呼んだ。
「地下牢の鍵を持て」
「まさか、ルークシェスト様を……?」
「馬鹿な」
鼻で笑って否定する。
「父殺し――ひいては皇帝殺害の反逆者を誰が使うものか。もう一人、協力してくれそうな者がおろう?」
祭主は、報せをもってきたリアン大佐と数名の部下を従え、地下に下りた。
二十年以上使われることのなかった地下牢は、現在、立て続けに塞がれていた。一は、皇帝殺害未遂の容疑がかかる第一皇子ルークシェスト。
もう一人は、親友でありながら皇帝に刃を向けた男――リー・ジェイナス・モルガン将軍である。
「久しぶりだな、将軍」
「――祭主猊下」
目を引く赤い頭髪と豊かな顎髭はくすみ、数日の監禁の厳しさを物語った。だが、鷹のような眼光は衰えることなく、鋭く祭主を射抜いた。
「怪我の具合はどうだ? そろそろここにも飽いたであろう」
「……」
「ここから出て、私と共に帝都の反乱を鎮めようではないか?」
「討議も待たず皇太子殿下を投獄した貴様に、従う気はない」
殺気のこもった返答に、祭主は憫笑で応えた。
「将軍、あれも作戦だよ。本当の犯人は他にいる。だが、明らかな証拠が出てしまった以上、私としてもこうするより他はないのだ」
「口の巧いものは何とでも理屈をつける」
「ふ……私を疑っているのか。この二十余年間、皇帝である弟を見守り続けてきた私が、今さら反逆してどうなるというのだね?」
「……」
「帝位を狙っているのは、宰相だよ。皇帝を唆して権限を強化させた上で、毒殺を試み、その罪をルークシェスト皇子に被せ、次はレイファシェール皇子の命まで狙った――」
「!」
「そう。君がここで捕われている数日の間に、帝都はかつてない危機に曝されていたのだよ。……皇帝も愚かだ。君の言葉に耳を傾けていれば、毒を盛られることもなかったであろうに」
将軍の拳が、堅く握り締められる。アレス・リキタスは訴えるように、強く囁いた。
「今、帝都は君の力を必要としている。私一人では、この危難を乗り越えることは難しい。君の力で六芒聖軍を指揮し、反乱を治める手助けをしてほしいのだ。陛下もきっと――それを望まれていることだろう」
「――私の思い通りにさせてくれるのだろうな?」
アレス・リキタスの頬に王者の笑みが刻まれた。
「無論だ」
ファーガスが、地下牢の鍵を開けた。やや左肩を庇うようにして現われたモルガンを、リアン大佐が迎える。
「将軍、傷の方は――」
「左腕がなくとも右腕がある。大佐、私の剣は――?」
「こちらにございます」
受牢を申しつかって以来、召し上げられていた剛剣〝天飆剣〟が、三日ぶりに主人の手元に戻った。
モルガンは、無事な右手で天飆剣を掴むと、眼にも止まらぬ素早さで縦横に振り回した。
刹那。音もなく断ち切られた手錠と足枷が、ばらばらになって床へ落ちる。
一同が息を飲む。モルガンは剣帯を腰に巻くと、もう一度天飆剣を一振りして鞘に収めた。
将軍として復職したモルガンは、用意された部屋で身仕度を整えた後、リアン大佐と共に侵入者の討伐に向かった。
アレス・リキタスは一人、皇帝の執務室である青の間に戻っていた。セイデンが病に伏す間、ここが代理である彼の拠点となる。
すでに新たな主人の好みを映し、つい三日前まで書類が散乱していた室内は塵ひとつなく、実務的な堅材の机は、重厚な黒檀のそれに取って代わられていた。めずらしいビグリッドの青狼の毛皮を床に敷き、様相を一変している。
姿の見えぬ小姓を呼ぼうとした彼は、机上の硝子杯に手を伸ばし、気が付いた。
「――イルレイア!」
「ここにいらっしゃるだろうと思っていましたわ、お養父様」
机の右手にある窓の帳の影から、聖騎士の兜を脇に抱えた、朱金の髪の女が現われる。
「とうとうこの部屋を手に入れたのですものね。まだ正式にではありませんけれど……」
「イルレイア。おまえ、何処に行っていたのだ!」
「皇子を匿った連中に追われ、仕方なく別の手段で戻ってきたのです。それよりもお養父様、レイファシェール様を見逃して下さるという約定はどうなったのです?」
男が冷笑した。
「約定なぞした覚えはない。あやつの首を欲しがっている方がいてな」
「皇后ですね……」
きり、と引き結んだイリヤの口唇が、白く色を失う。
「夫である皇帝を裏切り、神を裏切り、貴方との関係を結んでまで、なぜ彼女はレイ様の命を狙うのです? そうしなければならない理由がどこにあるというのですか?」
「裏切り? ――おかしなことを」
アレス・リキタスは、真紅の液体を満たした硝子杯を持ち、養女を振り返った。
「裏切ったのは皇帝の方だ。確かに妾妃制度は存在するが、神の御前に婚姻を約束した男女が他の異性に心惹かれるなどとは、重大な裏切りだと思わないかね?」
「……」
「ましてやその子供を認知した上、帝都に受け入れるとは酷い仕打ちだ。どんなに寛大な者でも胸を痛めずにはいられまい。ましてや相手を深く愛していたならば、裏切られて憎まずにいる者がどこに存在するかね……」
「今さら何を――」
「おまえも、そうだろう?」
イリヤの言葉を遮って、祭主は問い返した。一瞬虚を突かれたイリヤは戸惑い、やがてゆっくりと理解した。
「お……養父様……」
「私が何の用心もせずにいると思うかね。皇太子を殺さなかったと聞いたときから、おまえを今回の計画から外していたのだ」
「!」
逃げ出そうとして、イリヤは、はっと息を飲んだ。その手から、白い兜が滑り落ちる。
まるで辺りから急激に空気がなくなったかのように、イリヤは口を開けたまま、両手で喉を押さえた。
いつのまにか祭主の手には、血のように輝く不思議な球体が現われていた。
球体はかすかに波打ち、少しずつ、イリヤから何かを吸い取っていく。
「あ……ああ……」
「残念だよ、イルレイア。こんな形でおまえを失おうとはな」
「……は……あっ……」
「おまえはもっと賢いと思っていたが――」
血の気を失うイリヤとは対照的に、祭主の頬は、心なしか薔薇色に染まっている。
「弟の元へいくがよい」
「!」
イリヤの眼が、驚愕に見開かれた。
「お……弟を……殺したの……ね……」
「そうだ」
『――いいわ。わたしを好きにすればいい』
「あ……なたが、お……とう……とを……」
『その代わり、弟を開放して。二度と手を出さないと誓って』
「……約束……した……の、に……」
『いいだろう。君の目の前で、彼をここから開放しよう』
「だ…ま、した……のね」
『外は荒野だ。生きていける保障はないが、いいのかね?』
『いいわ。ここにいるくらいなら、ずっと……』
――サイア!!
遠退く意識の中で、祭主の哄笑が聞こえた。
「どこまで愚かなのだ、おまえは。あんな子供の約束を、私が守ったと信じていたのかね。馬鹿馬鹿しい」
息も絶え絶えに膝を折る娘を、冷ややかな眼差しで見下ろす。
「天幕を追い出してすぐ、血染めの衣を持ってファーガスが戻ってきたわ」
狐のような褐色の瞳に、殺意が宿った。
微風がひとすじ、祭主の鼻先を吹き抜ける。瞬間、突如青の間の窓を叩き壊して、室内を突風が吹き荒れた。
「く……っ!」
祭主は、片手で顔を庇い、机の影に逃げ込んだ。
「何という娘だ……! 命珠がこちらの手にあるというのに……!」
『――お助けいたしましょう、陛下』
声ならぬ声が耳元で囁いたかと思うと、巨大なものが室内に下りてきた。
鼓膜を裂く衝撃。
気が付くと、風は止み、意識を失ったイルレイアが床に倒れていた。
その側に、小さな影がうずくまっている。頭巾の下から、いびつな黄色い歯が覗いた。
「やれやれ、こんな小娘にやられようとは……。皇帝になろうという方が、いささか油断が過ぎますぞ」
「……ザグレウス」
硝子片を払って起き上がり、祭主は不躾な男を睨んだ。
「聖母は如何した?」
「わたしの結界を破れる力が、今の聖母にあろうはずがございません。さて――」
とどめを刺そうとする魔術師を、祭主が止める。
「待て!」
「――はて。裏切り者を生かしておくおつもりで?」
「その娘はどのようにでもなる。水晶宮へ運んでおけ」
「……承知いたしました、陛下」
ザグレウスは、左胸に手を当てて頭を下げた。骨張った指を、ぱちん、と鳴らす。と、気を失ったイルレイアの体が、音もなく空中に浮かび上がった。
黒衣の魔術師が二度指を鳴らすと、二人の姿が、まるで幻のようにその場からかき消える。
祭主が振り向いた時にはもう、割れたはずの窓は元の形に戻り、飛び散った破片もひとつ残らずなくなっていた。




