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カナン・サガ3~帝都内乱~  作者: 藤田 暁己
第1章 帝都Ⅰ――蠢動
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1-2

 


 アイテールの中心、皇族たちが起居する内宮の一画で、一人の男が一時いっときの休息を楽しんでいる。

 宮殿から少し離れた所に建てられたその東屋あずまやは、自然に溶け込むように造られ、微妙な曲線と植物との調和が、いる者の心を和ませた。

 だが、極度に仕事中毒の男の眼差しは手元の書類に注がれ、風景を楽しむ様子はまったくない。ただ、他人に邪魔をされない空間に安住しているといった印象だ。


 それにしても、美しい男である。

 左びんの一房を残し、後ろで束ねられたぬばたまの黒髪に、はっとするほど白い肌。

 希代の彫工の傑作に美の魂が宿ったような面差おもざしは、人のものとは思えない。

 その緑玉の双眸に見つめられ、朱唇で囁かれたら、男といえど陶然となってしまうだろう。

 口の悪い者たちの中には舞台にでも出ていた方が似合うと言う者もいるが、実際彼の頭脳の働きは、その美貌に劣るものではなかった。

 最も彼は、人の美醜に価値を見出す方ではなく、その容姿も仕事上の武器でしかない。

 おのれの容姿が与える影響をよく知る男は、薄茶鼠の裾の長い天鵞絨ビロードの服に、土龍トーブ色の外衣ローブを羽織り、控えめで威厳のある雰囲気を演出していた。


 近くの木立がさざなり、男は顔を上げた。額には嵌めた宰相の印が銀色に輝く。


「――やはりここにいたな」


 ほがらかに呼びかけ、彼の仕える主人の若き後継者が、樹木を縫ってやってきた。

 暗色の上着に洋袴ズボン、灰味の外套マントをひるがえす長身に、長い黄金の巻き毛が鮮やかに映える。隣には、妖精のごとく白いしゃの服を纏う、朱金の髪の女性を伴っていた。

 宰相が立ち上がり、胸に手を当てて軽く一礼する。


「お二人揃っておいでとはお珍しい」

「ルークシェスト様に我が儘を言って御供させて頂いたのです。お邪魔でしたかしら?」


 ノアは〝曙の姫君〟の異名を持つイルレイアの手を取り、口付けた。


「とんでもない。邪魔になどなろうはずがございませんよ」

「嘘だよ、ノア。途中運よく姫にお会いしたので、私がお誘いしたのだ」


 姫を招き、皇太子はノアの正面に腰を下ろす。


「男二人が顔を突き合わせたところで、おもしろくもなんともないからな。やはりはなは必要だろう?」

「それは勿論。我々にはもったいないほど、麗しい華です」

「ありがとうございます。お世辞と分かっていても、ノア様のように美しい方から褒められると、やはりうれしゅうございますわ」


 イリヤは控えめに微笑し、顎の線でふっつりと切った癖のない髪を撫でた。


「髪はお伸ばしになるのかと思いましたが、短いままなのですね、イルレイア姫?」

「どうも皆様切った時の印象が強いらしく、評判もよいようなのでそのままにしております。私個人としても短い方が楽ですし……。養父ちちには随分と叱られましたが」

「アレス・リキタス様に?」

「ええ。聖騎士として神に仕える以上、髪一筋も神のものだから、勝手は許されぬと」


 男たちは眉をひそめた。

 イルレイアの養父である祭主さいしゅアレス・リキタスは、光明神教ルクシオンの祭儀のつかさという役目柄か、謹厳実直で知られる人物である。酒や煙草をたしなまぬのは勿論、五十二歳になる今日まで独身を守る堅物は、寛容な皇帝と衝突することもしばしばであった。

 その堅物の唯一の養い子である姫は、ノアに勧められたエール水を一口飲んで微笑した。


「ですが、それならば独断では何もできぬことになりましょう? そんなのはたまりませんから、私は私で通すことにいたしました」


 冗談混じりに言われた言葉に、男たちの表情が和む。


「お強いのですね、姫」

「ええ、皆様よくごまかされますけれど。養父ちちには感謝しております。でも、アイテールでは強気でないと余所者よそものは生きていけませんもの、ね?」

「その通りです」


 二人の余所者は、にっこりと眼を合わせた。

 け者になったルークシェストは、一人渋い顔で杯を傾けている。


「どうかなさいましたか、ルークシェスト様?」

「いや。姫をめとろうと思う男は、あの伯父上と対決せねばならぬのかと……」


 ノアが吹き出した。イルレイアも笑いを噛みつつ、


「一度ご挑戦なされませ。死ぬほど後悔いたしますから」

「それは見物みものですね。陛下もてこずる祭主猊下げいかと、姫を巡って一騎打ちですか。これは、ぜひ賭けないといけませんね、姫?」

「私、養父ちちの一方的な口論の末に決裂する方に百アルム賭けますわ」

「では私は、清妙院せいみょういん様の乱入で破談という方に賭けましょう」


 朗らかに成立した賭けに、皇子の眉間の縦皺たてじわがさらに増える。


「――冗談ではない。二人共どのみち私が負ける方へ賭けているではないか」


 自分を踏み台にして冗談に興じる二人にそっぽを向き、しばらく杯を重ねていたシェスは、ようやくここへやってきた用件を思い出した。


「そういえば……ノア。あの件はどうなった?」

「どのことでしょう?」

「薬物の件だ」

「ああ……あれですか」


 統一世界カナンの事件・事故の総括を行なうノアの眼に、真剣な光が戻る。下がろうとするイルレイアを皇子が制した。


「姫にいて頂いても構わんだろう。第三者の意見も必要だ」


 イリヤが怪訝な顔になった。


「私に意見とは、穏やかではありませんわね?」

「ええ――」


 頷いて、ノアは事情を知らない姫のために説明をはじめた。


「六、七年前から動きはあったのですが、このところ世界各地で新種の痲薬まやくが出回って問題化しているのです。かつての〝妖精の粉フェイズダスト〟のように興奮性の高いものだけにとどまらず、眠気や幻覚を引き起こす種類のものまで――まさに、人々の望みにすべて対応できるほど存在し、その作用も強さも様々です。

 百あるいは二百種類といわれるそれらには、いくつかの共通点があります。流通が若者たちの小さな団体で行なわれ、誰でもたやすく手に入ること、そして非常に馴染みやすく習慣性が高いことです」


 少し語を切り、イリヤの理解を求めてから続ける。


「我々は地元警察と協力して、いくつかの流通元を突き止めました。三年前のテス州でのアラム・ハディルの一件もそうです。それらの事件は、製造施設を押さえたり、営業主を逮捕することによってどれも一応の解決をみていますが、我々はどこかに落ちないのです」

「何か不審な点でも?」


 姫の疑問に、皇子が答えた。


「いや。個々の事件はすべて矛盾なく収まっている。だからこそ余計に腑に落ちぬのだ」

「新種の痲薬を合成するには、莫大な資金の他に、大規模な研究施設と優秀な頭脳が不可欠です。ですが、今までに摘発されたどの施設にもそういったものは見当りませんでした。どれも数種の合成痲薬が製造できるだけ――それだけなのです」

「では、つまり……」

「何者かが裏で糸を引いているということだ」


 断言する皇子の眼が、青い炎のごとく光る。

 イルレイアが、わずかに驚きの声を上げた。


「ですが、それだけの事件がひとつの意志による策謀さくぼうとは、到底信じられませんわ」

くせ、というものが人にはあります。本人は気付かなくとも、他人から見ればそれと分かる癖を誰しもひとつは持っているものです。個々の事件は、発生場所、時間、手段いずれも異なってはいますが、我々には何かしら共通するものを感じるのです。犯人の癖を、ね」


 不審な眼差しを向けるイルレイアに、ノアは自嘲するように眉を寄せた。


「あくまで我々の推論です。証拠づけようにも捜査の糸はいつも途中で切れ、本体の影すら見せてはもらえません。口惜しい話ですが、よほど巧妙な頭脳が働いているのでしょう」

「ノア様にそこまでおっしゃらせる相手をぜひ拝見したいものですわ」

「私も会いたくて仕方ありませんよ」


 宰相が苦笑する。


「では、進展はほとんどなしか」

「ええ。ですが思いついたことがありますので、少し調べてみたいと思います。時間はかかるでしょうが……そのうち姫にもお手伝いをお願いするかもしれません」

「まあ、何なりとお申し付け下さい。――ところでノア様」


 イルレイアは、わずかにためらって切り出す。


「昨夜のローデシア第一天公爵プリムロード邸の火災ですが――」

「おや、姫。貴方もグレン夫人の噂好きがうつりましたか?」


 まぜっかえすノアをルークシェストが睨んだ。


「姫をあのおしゃべり雀たちと一緒にするのではない、ノア。確か……内務の仕事を一緒になさっていたとか?」

「ええ。ルドルイン卿は、神殿の開放について強い関心をお持ちになっていらっしゃいましたから、よく会合で御一緒させて頂きましたの。真面目で情熱的な方でしたわ。ですが、どちらかといいますと、ルドルイン卿御本人よりも御子息と親しくさせて頂いておりましたけれど……」

「子息?」


 表情を険しくする皇子に、ノアが意地悪く指摘した。


「まだ八歳の御子息ですよ。誰彼構わず嫉妬なさるのはおよしなさい」

「金剛の宮で神学を教えているのです。とてもかわいらしい方ですわ」


 イリヤは改めてノアに向き直る。


「それで、状況の方は?」

「火災発生の推定時刻は午後十一時。それから約四時間ホラにわたって燃え、近隣に被害はありませんでしたが、自宅は全焼。出火元はルドルイン卿の寝室と見られ――そこから男性の焼死体が発見されました。これは、後の調べで卿御本人と判明しております。夫人と御子息は幸い御両親のベレラ第二天公爵セクェルロード邸に寄居しており、悲劇をまぬがれたようです」


 書類を手に取り、ノアは事務的な口調で語った。


「内務に携わって以降、ルドルイン卿は夫人と寝室を別にしておられたようですね。出火の原因は、ルドルイン卿の部屋の燭台が風に倒れたためと発表されましたが、なぜ家人かじんが気付かなかったのか疑問です。それに当夜、窓が開いていた形跡はありませんでした」


 ノアは、書類を机に置いた。


「彼には愛人がいた、という噂もあることですからね。しばらく捜査を続けます」

「ただの女たちのつまらん噂話だ。――姫、どうなされた?」


 褐色の眼を潤ませるイルレイアに、ルークシェストは思わず声を上げた。


「すみません、少し……。御子息のティルト様が御可哀相で――」


 イリヤは目頭を押さえ、


「私も幼い頃両親を亡くしているものですから、つい重なってしまって……。もう、大丈夫ですわ」


 恥ずかしそうに笑い、皇子を見上げた。ノアが黙って、真新しい手巾ハンカチを差し出す。

 先を越されたシェスは、仕方なく、余った姫の左手に手を重ねた。


「姫は御心がお優しいのだ。それなのに、この男が無遠慮に事件を解説などするからいかんのだ。まったく、不感症にもほどがある」

「不感症で悪うございましたね」

「いいえ、元はといえば私が事件についてお聞きしたのがいけなかったのです。ノア様、ではこれは事故なのですね?」

「ええ……まあ」


 ノアが言葉を濁した。


「香水の女の謎が解けるまでは、事故という線が強いでしょうね」

「香水?」

「ええ、宮殿の執務室に残されていた彼の遺品についていた残り香です。ルドルイン卿本人のものとも夫人のものとも違う、甘い匂いの……」


 ルークシェストが肩をすくめて不賛同を表す。ノアが言い訳じみた笑顔を浮かべた。


「溺れる者は……ですよ」


 祭主の姫を顧みて、


「そう言えば、姫はいつもよい薫りがいたしますね。香水でもなく香嚢ポプリでもない……一体何の薫りです?」


 その問いに、イリヤはにっこり笑って立ち上がった。


「私のは――薔薇の花湯の匂いですわ」


 ノアの耳元に囁く。その紅唇から、ふわり、と甘い匂いがたちのぼった。

 その蠱惑こわくさに、不感症と呼ばれた男もかすかな眩暈めまいを感じる。


「では、そろそろおいとまさせて頂きますわ。あまり留守にしていると、養父ちちに叱られますから。ノア様、楽しいお話をありがとうございました。ルークシェスト様、失礼いたします」


 艶やかに微笑し、イリヤは男たちの前から立ち去った。


「……やれやれ。負けそうですね、あの姫君には」


 たのしげに呟く男を、皇子が睨む。


「なぜあのようなことを? まるで姫を怪しんでいるようではないか」

「怪しんでいますよ……すべての女性をね」


 ノアは笑いひとつ浮かべずに言い切った。


「どうしたのだ、ノア。おまえらしくもない。たかが痴情ちじょうのもつれに過ぎぬ事件に過敏になるとは……」

「痴情のもつれで終わればよいのです」


 皇子は黙り込んだ。

 このところ、死期の影のない若い官僚たちが次々と事故や原因不明の病気で死亡している。この半年で五件とは、異常な数であった。


「エルドラン将軍をはじめ、今回のルドルイン卿もみな革新派か、あるいはアレス・リキタス様が進める保守派に反対する者たちばかりです。警戒するのは当然です」

「だが、伯父上が姫をうとんじていることは周知のことだ。姫が事件に関わっているなど、そんな馬鹿なことが……」

「ないと言い切れますか?」


 ノアの鋭い眼差しに、シェスが言葉に詰まる。


「姫を帝都に連れてきたのは、祭主本人だということを忘れてはいけません。父娘おやこの共謀を誤魔化すのに、不仲というのは格好の隠れみのだと思いませんか?」

「しかし……」

「祭主の清廉な態度が表面上であることは明らかです。彼に逆らったものがどうなるか、よく御存じでしょう」


 以前、儀礼祭祀に関わる一切の権限を握る祭主に対し、独断にすぎると進言した若い助祭司が、何者かに襲われ重傷を負い、半身不随となって故郷へ送還されたということがあった。

 明らかな虐待なのだが、証拠は上がらず、事件としても揉み消されている。

 祭主アレス・リキタスも又、これは全て神の意志であると広言しては憚らなかったという。

 彼の腹違いの弟にあたる皇帝も、聖母でさえも祭主の行動を快く思っていないのだが、皇兄にして祭儀の司という絶対的身分を背景に、周囲も口をつぐんだままであった。


「彼の賢いところは、確実に味方を増やし、かつ決して敵に直接手を下さないことです。今、彼は我々に揺さぶりをかけてきています。……お気を付け下さい。例えどんなに美しく見える花でも、毒を持つものもあるのです」


 ルークシェストは束の間目を閉じ、呻くように言った。


「分かった。覚えておこう」

「彼女が何者か……それが分かっても、彼女の素晴らしさは変わりません。ただ、それだけに止めておいてほしいのです」


 皇子の顔に、自嘲の笑みが漂う。


「やれ、これでは我々もあのおしゃべり雀たちと変わらぬな」

「火のないところに煙は立たぬと申しますよ」


 穏やかに指摘し、ノアは、ふいに言葉を切った。


「ただ私は、公式には火災のことしか発表されていないのに――」


 緑の瞳が、きらりと猫のように輝く。


「姫がルドルイン卿のことを、すべて過去形で語っていたのが気になるのですよ」


   *


 アイテールの北東、内宮に近接する光明神教ルクシオンの正神殿・金剛こんごうみやは、祭儀を司る祭主の公務を行なう場所であり、同時に私邸でもあった。


 時間に厳しい養父の言い付けどおり、真昼の鐘が鳴る前に金剛の宮についたイルレイアは、神殿を警護する衛士たちに会釈して帰宅した。

 金剛の宮の左翼にあたる私邸へ向かい、二階の養父の部屋へ入る。

 だが、そこにはまったく人影がなかった。

 今だかつて、養父が遅れたことなどない。

 不審に思ったイルレイアは、正面の窓を覗き、そこで凍りついた。

 窓は外に向けられて付けられたものではなく、吹き抜けの一階の様子を見るためのものだった。養父の好みで大きな浴場を設けたそこには、二人の人間がいた。

 男と女――二人とも裸身である。

 あまり若いようでない男女は、人目も憚らず、浴槽の中でたわむれていた。

 高々と水飛沫をあげ、鼈甲べっこうと金の長い髪がからみ合っては、ほどける。低い囁きとそれにこたえる甲高い嬌声きょうせいが、二階の窓までを震わせた。

 イリヤは、眼をそむけ、見まいとしたがしきれなかった。きつと噛み締められた唇が、白く色を失う。

 男は養父アレス・リキタス。女は、清妙院せいみょういんの号を持つ神妃ディーヴァ、皇后カリスタであった。


 しばらくして水音が途絶え、浴衣を纏ったアレス・リキタスが、鼈甲の髪からしたたる水を拭きながら自室へ戻ってきた。

 きれいに髭を剃り、恰幅かっぷくのよい彼は血色も素晴らしく、六つ年下の皇帝より若く見える。


「どうした、元気がないな」


 イルレイアは冷ややかに養父を顧みた。


「貴方の精力の御自慢のために呼び付けられたのであれば、私は去りますわ」

「まあ、待て」


 戸棚の硝子瓶ボトルを手に取り、見もせずに祭主が声を放つ。

 呪をかけられたように、背を向けたままイルレイアが立ち竦んだ。

 アレス・リキタスは、優雅な仕草でエール水を杯に注ぐと、小瓶から真紅の液体を数滴垂らした。ゆっくりと味わう。


「……うむ。美味い」


 不思議な笑顔だった。

 それは、生来の気品と威厳に満ち溢れているにも関わらず、ぞっとするほど下劣げれつで、醜悪であった。

 扉の前で立つイルレイアが、蒼褪めている。

 杯を手にしたアレス・リキタスは、養女に歩み寄り、空いている手で髪に触れた。


「何を怒っている。いているのか?」

「妬いてなどおりません」


 否定する声がかすれる。

 アレス・リキタスは笑いながら、養女の身体に背後から腕を回した。


「我々は不仲で通っているゆえ、仕方なかろう。あんな女など気にするな。どうせ捨てる」

「……宰相が、何か感づいているようですわ」

「構うな。奴に手出しはできぬ」


 耳朶じだに口付け、息を吹き込むように低く問う。


「標的は、上手く仕留めたようだな?」

「はい」


 かすかに答え、イルレイアは顔を背けた。


「なんだ。同情しておるのか?」

「……哀れに思います。残された方々も……」

「気にするな。一月もおまえのこのかぐわしい身体を好きにさせてやったのだ。あの世で満足しておろう」


 祭主は微笑み、真紅の液体を一口含むと、娘へ口移しに飲ませた。

 大柄な男に抱き締められる、イルレイアの顔が苦悶くもんに歪む。

 それは、おりから逃れようとしてもがく、一羽の白い鳥のようだった。

 苦しむ女の表情にたのしげな笑みを浮かべ、祭主はその首筋を唇でたどった。


「おまえはもう、私から逃れられぬ。おまえは、髪一筋まで私のものなのだ……」


 熱い息吹と共に語られた囁きが、イリヤの魂を凍らせる。


「愛しているよ、私の娘……私の姫君よ」


 そこに決して心などなかった。

 偽りの言葉、偽りの笑顔、偽りの愛――だが、その全てにイリヤはどうしようもなく縛られていた。

 翼が、音をたててもがれていく。

 倒れるように、イリヤは男の腕に、おのれの身体を委ねた。




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