6-2
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その夜、無斎の元へ、ソロモンが報告をもって訪れた。
レイを連れた帝都正規軍の一行は、総督府から、用意の天翔船に乗って帝都に向けて出発したというのだ。
「通常の大型船ではなく、百名ほどしか乗れぬ小型艇です。おそらく総督府の所有船と思われますが、あまり馬力がございません。帝都に着くのは、明朝といったところでございましょう」
「明朝か……」
無斎は呟いた。
ここは、ネダ村のキリル山に程近い、爪牙衆の屋敷[霧の館]である。ソロモンの祖父にあたる先代総帥と懇意であった無斎は、この昼すぎから、リィナを連れて寄居していた。
彼は、帝都での混乱が治まるまで、ここにいるつもりである。
自分一人ならばともかく、故ラトゥイユの孫娘であるリィナに何かあってはいけない。
無斎は腕組みをしたまま、しばらく眼を閉じて考えていたが、
「うむ……分かった。昨日といい今日といい、おぬしも御苦労であったな」
にっこりと微笑んだ。
「いえ……」
「おぬしはもう、もとの御役目に戻るがよい。いつまでも借りていては、ザキエル殿にも若君にも申し訳がたたぬ」
「何をおっしゃられるのです。これは統一世界全体に関わる問題。わたしが動いて、何の問題がございましょうか」
「それはな、ソロモン。統一世界全体の問題にせぬためじゃ」
静かに言い、無斎は煙草盆を引き寄せた。煙管を灰吹きに叩き、
「このことは、カルディアロスが関与してはならぬ。おそらく若君も、そうお考えになっておらるるであろう」
「……はい」
「是非にも帝都の内だけで片付けねばならぬ。それはもはや難しいやも知れぬが……」
無斎は、煙草を一口吸った。
「他へ漏れれば、余計なものまで背負い込みかねぬからのう。それは絶対に避けねばならぬ」
「はい」
「おぬしが手伝ってくれれば、これほど助かることはない。じゃが、この先は何事もディーンの胸一つじゃ。すべては――あやつ一人の判断で、成し遂げねばならぬことよ」
落着き払った無斎の言葉に、ソロモンは驚いた。
友人であったラトゥイユ・グラティアスの死後、孤児となったディーンとリィナを引き取った無斎は、未婚でもあり、親子とも親友ともつかぬ深い情愛をもって二人を育ててきた。
特に、問題の多かったディーンとは強い絆で結ばれていると思っていたソロモンは、突き放すような無斎の態度に納得がいかない。
――何を思われているのだろう……この方は。
ソロモンは戸惑いつつも、頭を下げた。
「では、わたしはこれにて」
「うむ」
頷き、無斎は思い出したように声を上げた。
「おお、そうじゃ。もうひとつ頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう?」
「馬を借りたい」
「馬、でございますか?」
「儂ももう年でのう。夜の山は、よくよく歩かぬ」
「無斎さま……外出をなさるおつもりで?」
ソロモンは、ディーンの元へ向かうものと直感した。
「わたしも御供をいたします」
「いや、それには及ばぬ。おぬしの手は、これ以上は借りられぬよ」
もう一度、無斎は念を押すように言って、立ち上がった。
ソロモンは、はっとした。
小さな老人に、幾多の死闘を潜り抜けた、強靭な戦士の姿を見たのである。
「サリ、リィナを頼むぞ」
穏やかに告げる無斎の眼に、強い光が宿っていた。
無斎は、ソロモンが用意した馬に乗ると、夜のキリル山を下った。
風のごとく疾走する馬は、見送るソロモンたちの視界から、たちまち見えなくなった。
もしもその場を眼にした者がいたら、おそらく鞍をつけた馬だけが走っているように見えたことだろう。
小柄な無斎は、馬の首の背にしがみ付き、人馬一体となって疾駆した。
爪牙衆の屋敷へ向かうときは尾行には充分注意していたが、万が一を考え、わざと迂回して山側から隠宅へ戻る。
明かりはない。
無斎は、馬を厩におさめ、かねてからの打ち合せどおりに、裏の戸を三回、間をあけて二回叩いた。
内側から戸が開く。
「じじい」
「うむ」
ディーンに頷きかけ、無斎は中に入った。
「見張りはおらぬようじゃな」
「ああ」
「レイどのは、天翔船にて出発した。着くのは明朝じゃ」
「そうか……」
ディーンは意外なふうもなく、火種から小さな蝋燭に火を移した。
「イリヤの話だと、飛遠の術が使えなくなってるってことだからな。天翔船を使うしかねぇだろう」
無斎は座敷へ上がり込みながら、
「寝返ったのか?」
「まだわかんねえよ」
「じゃが、ギガースがおるであろう」
妖魔狩人の彼が天眼の持ち主であることは、無斎も心得ている。
「あいつは、確定されたことしか言わねぇの」
「ふむ……」
ディーンが、これまでのやりとりや、イリヤから得た情報などを低い声で無斎へ語っていると、いつのまにか九曜が来ていた。
続いてイリヤとギガースも現われ、無斎を囲んで座った。
「……さて。どのようにして帝都に潜入するかじゃが……」
無斎は白髯を撫で、
「やはり、少人数のほうがよいと思う。関わるものが増えれば、それだけ危険も増そう。出来るだけ速やかに、内密に進めねばならぬ」
「それは分かってる。だけど、問題は方法なんだ」
「飛遠の術は、我々には使えぬ。無論、九曜とて帝都に侵入するのは不可能じゃ」
「なぜだ?」
ディーンの問いに、仔猫の姿をした妖魔が答える。
「帝都には特別な障壁が張ってあるんだ。それは聖母の護りとは別個の、帝都そのものに根差したものだからね。空間移動は難しいよ」
その答えに、ディーンはかすかな身震いを感じた。置かれている状況とは別に、帝都という、今まで実体を伴って感じられなかったものが、急に怪物のように思われる。
「まあ、例の魔術師も結界を張っているだろうしね」
「当然だな」
ギガースが頷く。
「では、地道に天翔船を買収でもするのか?」
「買収などはせぬ」
無斎はにこりともせず、否定した。
「よいか。我々は、何としてもレイどのの秘密が暴かれるのを未然に防がねばならぬ。すなわち、明朝到着する天翔船よりも早く帝都に辿り着かねばならぬのじゃ。そのためには遠回りなようでも、九曜の空間移動でできるかぎり帝都に近付き、入り込むのが最も早い」
語を切り、一同を見渡す。
「我らが目指すは、シェイドローンじゃ」
シェイドローン――光の副都心と呼ばれるそこは、もっとも帝都に近い街である。
自治を許された唯一の〝都市〟であり、統一世界各地から集結した商人たちが、入都のための最後の検閲を受ける場所でもあった。
確かにここならば、帝都へ入る手段には事欠かない。だが検閲では、荷物の間の刳りぬいた本の中の痲薬を中身も開けずに見破られるという噂だ。安全には、程遠い。
無斎が落ち着いた声音で続ける。
「シェイドローンまでならば、九曜も魔力を使えよう。それが、帝都への最短の道程じゃ――同時に、そこから来ようとは敵方も予測すまい。それが狙いじゃ」
にやりと笑う。
「今宵発てば、明朝には帝都に乗り込めよう。うまくすれば、レイどのを追い抜けるやもしれぬ」
「……!」
ディーンたちの胸が騒いだ。
それからしばらくして、仔猫の姿のまま一人九曜が家を出て行った。どうやら、リーレンへ向かったようである。
ディーンたちの話し合いは、深夜遅くまで続いていた。
*
『――天翔船は東部正刻夜八時をもって出航いたしました。到着予定は十二時間後、統一正刻明け二時となっております』
「うむ。相分かった」
アレス・リキタスは、蓮の葉状の受話器から響く報告に、鷹揚に頷いた。
――ともすれば、イルレイアは天翔船にて皇子の拘禁を知るやもしれぬが……よい戒めとなろう。少々情が移りすぎていたからな。
「御苦労であった、紫峰殿。後の始末も其方に任せよう」
『は……かしこまりました』
ぼやけた抑揚を保っていた瑠璃の宮の宮長の声が、奇妙にふくらみ、蝋燭を吹き消すような音と共に、唐突に途切れる。
アレス・リキタスは、舌打ちをして、鳥の頭部を象った送話器から手を離した。通話可能を示す赤い眼が法力を失い、緑に戻る。
宰相ノア・ライムスにより飛遠の間を破壊されてから、遠話も以前のように長時間はできなくなっている。古代から受け継がれてきた術だけに、構造を理解できるものもおらず、修復の目処はいまだたっていなかった。
――飛遠の術なれば、すぐにも皇子を捕捉できようものを……。
早い情報と行動に慣れた帝都人のもっとも痛い所を突かれたと、さすがのアレス・リキタスも認めざるをえない。
遠話室から去ろうとする彼の元へ、神官を伴い、清妙院カリスタがやってきた。
「これは、皇后陛下」
「ごきげんよろしゅう、祭主どの」
カリスタは、黄金に光る遠話機にちら、と視線を投げ、
「幾度伺うても、多忙ゆえすぐには参られぬとの御返事ゆえ、妾の方から参ったのです」
「神妃であらせられる陛下にわざわざ足をお運びいただこうとは、相すみませぬ」
アレス・リキタスは、左胸に手を当て、頭を下げた。
「お急ぎと存じておりますれば何をおいても参上しましたものを、取り次いだ侍従たちが陛下の慎み深い御心を浅はかにも計り知れなんだのでしょう。申し訳ないことをいたしました」
「いえ、よいのです」
慇懃なアレス・リキタスの謝罪に、カリスタの表情がいくぶん和らいだ。
「ところで、アレス・リキタスどの。皇太子のことですが――」
「御心配には及びません。容疑もすべて形だけのもの。この帝都の誰一人として、ルークシェスト様を御疑いするような愚か者はおりませぬ」
「ですが、あの宰相も行方が知れぬというではありませぬか」
「宰相は、帝都を出てはおりませぬ」
「まことか?」
「偽りは申しませぬ。彼が皇帝殺害の容疑で捕まるのも、もはや時間の問題。今しばらくの御辛抱を……。すべては貴方のため、ひいては統一世界全体のために成したことです」
「え……ええ」
「それよりも、よい御報せがございます」
アレス・リキタスは、皇后の手を取って、つ、と身を寄せた。
「レイファシェール皇子をカルディアロスにて発見、身柄を確保いたしました」
「おお……」
カリスタの痩せた顔に、奇妙な熱が浮かんだ。
「是非にも……是非にも、皇子の首を妾に献上召されよ」
まるで、幼児がねだるごとく甘えた口振りである。
「承知しております、我が君」
「愉しみにしておりまするぞ、祭主どの」
手の甲に口付けるアレス・リキタスに、皇后はねっとりと笑いかける。
それは紛れもなく、共犯者の笑みだった。
*
――それが夢であることは、観ているときでさえ、明らかだった。
真っ白な光の渦は、限りなくまばゆく、それでいて不思議な柔らかさに満ちている。
既視感さえ覚えるその中に、ひとりの人物がいた。
長く揺らめく陽炎の髪、ほのかに光を帯びる白磁の肌。出逢ったこともない面差しは、神々しいまでに美しい。
だがその美貌よりもなお、その人を希有な存在たらしめているもの――それは、額から、まるで星を戴くがごとく放たれる光だった。
例えようもなく美しく、切なく、懐かしさを感じるその人の姿は、日を追うごとに鮮明になってゆく。
幾度となく現われたその人が、ゆっくりとこちらへとやってきた。
零れ落ちる涙。
胸を衝く大粒の雫が、紫水晶の両眼から流れては頬を濡らす。震える唇が何かを囁き、求めるように差し出された白い腕が、宙を彷徨った。
『……あんたは、誰だ?』
いくら尋ねても、答えはない。
『誰なんだ。なんで泣いている……?』
答えのない問いは、重ねるほどに哀しみを増した。
『何故泣くんだ? 一体俺に、何が言いたいんだ……?』
ただただ訴えかけてくるその人の想いに、抗う余裕もなく、飲み込まれる。
手を伸ばして掴まなければ。
今度こそ、彼女を救わなければ。
『……だめだ』
魂を引き裂かれるような痛みと共に、幻のその人が消えてゆく。涙のまだ、止まらぬまま。
『だめだ、行くな……!』
叫びすら声にならない。
――行かないでくれ!!
「……!!」
悲鳴をあげて、ディーンは目覚めた。
全身はぐっしょりと汗に濡れ、まるで水から上がったように、呼吸が荒い。
「大丈夫? ディーン」
足元で寝ていたはずの蒼白の仔猫が、いつのまにか間近で彼を覗き込んでいた。
「随分うなされてたみたいだけど」
「あ……ああ」
曖昧に頷き、ディーンは固い寝台の上で身を起こした。
部屋のもう一つの寝台から、ギガースが目顔で大丈夫かと聞いてくる。
ここは、自治都市シェイドローンの宿屋である。あれから、高齢の無斎を除いたディーンら三人は、九曜の魔力で約十八万公里を空間移動した。
時差のあるシェイドローンはもう朝を迎えていたが、働きづめだった彼らは宿を借り、仮眠をとることにしたのだ。
首にまで伝い落ちる汗を、ディーンは顔をしかめて拳でぬぐう。
九曜らと同じく彼の異常な様子に気付き、隣室からやってきたイリヤが、冷ややかに手拭を投げた。
「ひどい汗だこと。今さら怖じ気付いたのではないでしょうね?」
「馬鹿。誰が怖じ気付くかよ」
「でも、さっきの様子は唯事じゃなかったわよ?」
ディーンは、いまだ夢から覚めやまぬように、暗然と首筋を拭いた。
「ここのところずっと……同じ夢を見るんだ」
「夢?」
「女が、泣いてるんだよ」
イリヤが呆れ顔になる。
「昔の女でも思い出していたの? この非常時に」
「昔の女なんかじゃねぇよ。顔も名前も知らない。だけど、ここ二、三日ずっと眠るたびに夢に出てくるんだ」
「どういうこと?」
「そいつは俺が聞きてぇよ。ただ、ぼろぼろ泣いて何か言いたそうにして……それがどんどん強くなってくる。まるで――彼女に近付いていっているみたいに」
初めはからかい気分だったイリヤも、言葉に詰まった。
ギガースが尋ねる。
「どんな女性だ?」
「どんなって言われても、夢だし、あんまり具体的には覚えてないな。髪が長くて、眼が青っぽかったようなくらいで、あとは――」
「なんだ?」
「ここが光ってたな」
ディーンが自分の額を指差した。
「夢じゃ変だとは思わなかったけど、今考えるとおかしいよな。人の額が、星みたいに光るなんてさ」
なかば自嘲するディーンを、三人が驚いて見つめる。
「額の星……ですって……?」
「ひょっとして……」
「まさか――いえ、そんなはずはないわ」
「ありえないことではない。レイを彼の元へ仕向けたのが、皇帝一人の意志でないのだとしたら――彼女が呼びかけているとしても、不思議はあるまい」
天眼をもつ妖魔狩人の断言に、妖魔も聖騎士も抗弁の余地はない。
一人訳が分からないディーンに、イリヤはむしろ哀れむような眼差しを向けた。
「信じがたいけれど……そうなのかもしれないわね」
奇妙に硬い声で呟く。
「その夢を見はじめたのが三日前だとしたら、計算も合うことだし――」
「何の話だよ」
答えず、イリヤはその頬に、何とも言えぬ笑みを浮かべた。
「何故貴方が選ばれたのかは、とても疑問だけれど……そうね。確かに貴方は、確実にその女性に近付いていると言えるわ」
「どういう意味だ?」
「貴方が夢に見た女性は、実在するということ。そして彼女は――この近くにいるわ」
イリヤは窓辺に歩み寄ると、重い帳を開けた。
朝の陽光が、彼らの眼を射つ。
林立する赤煉瓦の建物群と入り乱れる雑多な人種の渦の中に、動かないひとつの巨大な影があった。
それは、建物ではなかった。
山でもなく、月でもなかった。まさに、神の奇跡の具現であった。
無数の建造物を戴いた半球状の影が、突き抜ける碧空と白雲を纏い、悠然と浮遊している。
「そう――あそこ。帝都よ」
そう告げるイリヤの声が、虚ろに彼らの耳に響く。
天の都、至上の楽園、神に最も近い場所――いずれも、帝都を示す常套句である。だが、それは決して大袈裟なものではなかった。
「――帝都は、シェイドローンから三千五百公里の高処に存在するわ」
簡単な食事を終え、シェイドローン市街を足早に歩きながら、イリヤが説明する。
「帝都は、皇家と大貴族たちの住まうアイテールと、商人や農民たちが集う小市街であるアーエールとで構成されているの。その二つは城壁で仕切られ、出入りは四つの門で厳重に管理されているわ」
イリヤは器用に人を避けて進みながら、女物の外套の頭巾の下で薄く微笑んだ。
「どんなにうまくいっても、我々が着くのは城壁の外。祭主のいるアイテールに乗り込むのはまだまだ先ね」
空に浮かぶ黒い影を見上げながら進むディーンは、行き交う人に何度もぶつかりそうになり、それでも不可思議な天の城から眼を離せずにいる。
「……わっ!」
「馬鹿野郎、どこ見て歩いてるんだ!」
頬髭の濃いアルビオン人に一喝され、慌ててディーンは謝った。
ギガースが、彼の腕を掴んでその場を立ち去る。
先を行っていたイリヤは、ため息をついて合流を待った。
「悪いけど、観光気分ならこの場で帰っていただけるかしら」
「まあ、待てイリヤ。帝都を初めて見た者なら当然だ。識っていた俺でも、やはり驚いている」
「そうだけど……」
もどかしい気持ちを持て余すイリヤは、ギガースの言葉に己れの心を鎮めた。
ディーンはまだ帝都を見上げつつ、肩に背負った荷物から顔を出す妖魔に話しかける。
「九曜。おまえ、帝都が浮かんでるって知ってた?」
「うん。できれば来たくなかったけど」
イリヤとはまた別の理由で、九曜は機嫌が悪い。
帝都は、統一世界の柱というだけでなく、光明神教の主神殿・金剛の宮が所在し、同時に[象牙の塔]には聖母が座すという、妖魔など絶対不可侵の聖域である。
「最悪。なんで妖魔が帝都に乗り込まなきゃならないのさ」
「あいつを助けるには、これしかないだろう」
「レイを助けるのは反対しないけど、帝都を救うっていうのが気に入らない。悪いけど、帝都ってのは妖魔にとって敵もいいとこなんだよ?」
「ここまで来て、今さら嫌もないだろう。それともおまえ……」
ふ、とディーンが真面目な顔で妖魔を振り向いた。
「戻るか? 今だったら、おまえカルディアロスに戻れるぜ」
「何さ、いきなり」
「別に。ここまで連れて来てくれたし、無理して帝都にまで付き合ってくれとは言わねぇよ。おまえにはおまえの都合ってものがあるだろうしさ」
妖魔は、しばしその虹色の瞳で、三年の歳月を共に過ごした人間を見つめた。
「……ディーンはどうするのさ?」
「俺は行く」
一片の迷いもない答えだった。
「帝都には義理も恩もねぇが、俺はあいつを助けると誓った。だから、行く。だけどこの先は――」
彼には、何故か視えていた。行く先に待ち受けている道が、血と涙に濡れているものであることを。それが、今手にするものを残酷に引き裂く茨で作られていることを。
「この先は、おまえの自由にしていいってことさ。今ここにいるのは、俺の都合だからな」
「――今までだってそうじゃない」
簡単に、仔猫は言った。
「今までだって僕は、アルビオンを往復してリューンに行って、レオノイスに乗り込んで、カルディアロスで日なたぼっこしてたんだよ。それもこれも、みんなディーンの都合でしょう。僕は、そうしたいからしてるの」
皮肉げに、長い髭を動かす。
「今もそう。僕の寿命からすれば、最高の暇つぶしだね」
ようやくディーンが、少し笑った。
「暇つぶし、ね。そりゃそうだ」
「妖魔を侮らないよーに」
「そいつは失礼いたしました」
陽気に言って、ディーンは、九曜が入った荷袋を担ぎ直した。
彼らの頭上では、日輪を戴いた天の城が、超然と大地を睥睨している。
それに向かって、まるで花に群がる蝶のごとく、幾艚もの天翔船が上空に集っていた。




