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カナン・サガ3~帝都内乱~  作者: 藤田 暁己
第5章 カルディアロスⅡ――真実
15/31

5-2

 


 昼の暖かさを予感させるように、その朝は冷え込みが強く、朝靄の向こうで薄紅うすべにの曙光が煌めいていた。

 ディーンは、井戸端いどばたで半裸となって顔を洗った。

 そこへ鋭い音と共に、木立から何かが飛来し、井戸の柱に突き立つ。

 赤い布をくくり付けた、一本の矢であった。矢尻に巻かれた布には、細く畳んだ紙片が結ばれている。


 ディーンは驚きもせず、少し不快げに、柱から矢を引き抜いた。紙を広げると、細い字で何やらしたためてある。

 ディーンは手拭タオルで顔を拭くと、屋内へ戻り、炉端ろばたで手紙を焼き捨てた。

 綿の肌着に、動きやすい黒の上着と洋袴ズボンを身につけ、指先を切った革の手袋。腰に大刀を差す。台所で簡単に食事を済ませ、うまやから馬を出した。

 裏手の戸口に、いつのまにか現われた妹が立っていた。火を起こしていたのか、この寒いのに頬が赤い。


「――気を付けてね」

「ああ、行ってくる」


 ディーンは馬を駆った。真っ黒な草原の馬が、絹艶きぬつやのごとく体躯を躍動させて、朝靄の中に消えていく。

 リィナは、それをため息のような視線で見送った。ふと、縁台に誰かが立った。


「レイ」

「今のは……ディーン?」

「ええ。最近こうやって呼び出されることが多くて……」

「呼び出しているのは、サリか?」


 リィナは少し驚き、すぐに頷いた。


「ああ、リューンで会ったのね。……そうよ、ソロモン・ナイト。兄さんの友達で、影の仕事をしている人」

「……」


 レイは黙った。リューンにカルディアロスの特使としてディーンを迎えにきた青年が、リ王家に仕える隠密〝影の者〟ではないかという疑いは抱いてはいた。だが、彼らは表立つことの出来ぬ身である。

 レイの胸中を知ってか、少女は複雑な微笑みを浮かべる。


「別に隠すことじゃないのよ。影の者である爪牙衆そうがしゅうのお屋敷が近くにあることはみんな知っていることだし、サリだって顔を隠しているわけじゃない……仕事だもの」


 リィナはうつむいた。埃避けの頭巾からはみこぼれた髪が一筋、頬にかかる。


「だけど、兄さんは違う。サリが――()()()が好きだから、手伝っているだけ」

「あいつは、他人の事に首を突っ込まずにはいられない性分なんだ」

「そうね」


 リィナは、かすかに笑って、はみ出た髪を頭巾へ押し込んだ。


「あたしね……兄さんの本当の妹じゃないの」


 レイは一瞬、ディーンが捨て子であることを言っているのかと思ったが、違っていた。


「名前を聞いたとき、おかしいと思ったでしょう? 兄さんの姉にあたる人が、あたしの母親なの。だから、本当は叔父と姪ってことになるのかな」


 リィナは、レイを見た。庭にいるリィナからは、どうしても縁台に立ったレイを見上げる形になってしまう。その黒い瞳に、切実な光があった。


「父さんと母さんは、あたしが産まれるとすぐに死んでしまって、顔も声も知らないわ。知っているのは、絵の中の姿と兄さんが話してくれる思い出だけ。あとは……何もない」


 レイは素足のまま庭へ下り、リィナの肩に手を置いた。

 リィナが、初めて会ったときのように、レイの胸に頭を預けた。


「寂しくはないの。いろんなことがあったけど、おじいさまも兄さんもいてくれたから。だけど……」

「リィナ」

「レイ、あたしは恐いの。兄さんが、どこかにいってしまうような気がして。あたし……兄さんまで失ったら、本当にひとりぼっちになってしまう」


 リィナは、両手でレイの服を強く握り締めた。


「お願いよ、レイ。兄さんをどこにも連れていかないと約束して」

「リィナ……」

「お願い。あたしには兄さんしかいないの。兄さんを連れていかないで……!」


 囁きほどの声が、震えている。

 レイは、少女を両腕に抱き締めた。


「ああ、約束するよ」


 その声は低く、朝靄にかすんで消えていった。


   *


 馬を走らせたディーンは、首都ラサの中心部へ向かった。街を縦横に縫うシールイ川の水路を越え、大通りを行き詰めたその先で、朝靄に包まれて建つ城壁が頑強に街を分断している。

 ディーンは、警備兵に例の矢を見せ、通用口から蓬莱宮ほうらいきゅうに入った。

 まさに広大。黒々と磨き抜かれた石畳を敷き詰め、庭木の枝ひとつまでも整然と配置された城内に、朱と金の建物が地平まで広がっている。

 冷たい霊気すら立ち昇るそこは、まさにカルディアロスの核と呼ぶにふさわしかった。


 ディーンは、いまだ慣れぬ雰囲気に眉を顰め、黒馬の拍車を駆った。街中にありながら息遣いさえも静寂に沈む城内を、ひづめの音が高らかに響きぬける。

 蓬莱宮は簡単に分けると、政務を行なう表御殿と王族が住まう東御殿、官僚が住む西御殿、王妃をはじめとする女性たちの住む奥御殿の四つから成っている。

 いつも行く東御殿ではなく表御殿に向かえという矢文の指示どおり、ディーンは正門の前で馬を止め、用向きを告げた。


 仰々しい音をたて、門が開く。

 ディーンを呼んだのは、義兄弟のちぎりを交わした親友、ソロモン・ナイトの主人であった。

 リ・タイレン王子である。

 タイレンは、病臥中のシャオレン国王に代わり現在政務を執る、弱冠二十五歳の青年だ。

 十八の時に病気で盲目となった彼を次期王としてふさわしくないと懸念する声もあるが、政治的手腕は現国王健在時より優れているとの評判は高い。


 表御殿に着き、ディーンは馬を下りて、緋毛氈ひもうせんを敷いた階段を上った。

 すでに話はついているらしく、控えの間で待たされることなく直接謁見の間まで通されたのが、物臭おのぐさな彼には有り難かった。

 長身痩躯のやや神経質そうな青年が、高処に置かれた玉座に腰掛けていた。金の縁取りのある深紅の上衣下裳に金色の天冠帽子。まだ即位の許されぬ彼は、ぬばたまの黒髪を長く背に垂らしている。


「――お呼びにより参上いたしました」

「かしこまらずともよい。おまえには似合わぬ」


 穏やかな声音で言い、タイレンは、片手を振って小姓を退出させた。


「これへ――おまえの顔を見せてくれ」

「はい」


 招きに従い、ディーンは玉座の足元に膝をついた。

 座したままタイレンは手を伸べ、彼の頭から顔、肩へと、長い手指を滑らせる。

 一介の剣術遣いにすぎぬディーンが、王子とこのように接せられるのは、旧知の間柄なればこそだった。彼の助けでリューンから戻ったときは、挨拶に訪れたディーンの短い髪に触れ、いつまでもタイレンは笑っていたものである。


「またたくましくなったようだな、ディーン」

「俺に変わりはありませんが」

「私には分かる。そのうちおまえは、老師にも優る剣士になろうよ。是非にも手元で働いてもらいたいが……素直に承知はしてくれぬのだろうな」


 ディーンは苦笑した。


「俺に宮仕みやづかえは向きませんよ」

「何もそこまで老師に似ずともよいであろうに」


 見えない切れ長の双眸が、可笑しげに細まる。


「あれからゆっくり会うこともなかったが……変わりなきようで安心した」

「はい」

「異国の話も聞きたいが、何分なにぶんいろいろと忙しくてな」

「……血は、近いほどにこじれるといいますから」


 タイレンは、にやりと笑った。


「まさに」


 タイレンの即位に反意を唱える主導者は、叔父のツァイリーであり、その動きが蓬莱宮を二分する騒ぎになっていることは、周知の事実である。

 そのツァイリーを陰ながら支援するのが、王妃アシュカであった。

 カルディアロスでは、女性に王位継承権はない。花街で見初められ、シャオレン王に嫁いだアシュカは、王が病床に伏せるや否や政務に口を出すようになり、実権を広げる画策をはじめたのだ。だが、タイレンがそのような理不尽を許すはずもない。

 かくして、実の母子の泥沼の争いが始まったのである。


 シャオレンの病は、アシュカの陰謀との噂もある。

 タイレンの細面ほそおもての顔に疲れの色が浮かぶ。


「いい加減に事を収めねば死人が出かねぬが、簡単にはいかぬ。いずれ、おまえの手を借りる時が来ようが――。だが、今日は愚痴を聞かせるために、おまえを呼び寄せたのではない」


 肘掛に頬杖をつき、やや身を乗り出した。


「おまえのところに、客人きゃくじんが来ておろう?」


 ディーンが、はっと身構えた。気配でそれと知って、タイレンが微笑わらう。


「なるほど。おまえにとって、よほど大切な客人と見える」

「……」

「これはな、その客人に関係があろうと思うから話すのだ」

「はい」

「昨日、正式に帝都から皇帝急病の報せがまいった。代理に立つのは皇兄のアレス・リキタス殿下だ。なるほど皇太子はまだ若輩じゃくはい――とはいえ、私とそう年は違わぬが――」


 タイレンの口唇に、不思議な表情が漂った。


「その皇太子の姿が見えぬ。あるすじによれば、登城もしてはおらぬとのことだ」


 ある筋とは、帝都に潜り込ませた影の者のことであろう。


「そして皇帝の右腕でもあった宰相までも、ここ二日表に出てこぬ。これはな、ディーン。確実に、帝都で異変が起きているということだ」

「異変……」

「そうだ。真実を突き止めようとすれば、可能だ。だが、今の私にその暇はない」

「……」

「異変というものは、病気のようなものだ。根はひとつなのに、関係ないものにまで次々と伝播でんぱしていく……私が恐れているのは、それだよ」


 ディーンは、うなだれたまま動かなかった。


「今話したことは、私一人の胸に収めておこう。カルディアロスは、今これより帝都に関心を示さぬ。勿論――協力も期待せぬ事だ」

「はい」

「協力したくとも、アイテールに潜り込ませた影は、すべて連絡を絶ったわ。おそらくは消されたのであろうよ」

「……」

「気をつけるがよい。リューンのときのように、すべてが丸く納まるとは限らぬ」

「覚悟しています」

「おまえも忙しい男よ」


 タイレンは、くつくつと笑い、


「老師がところに金の短剣を一振り送った。好きに使え」

「ありがとうございます」


 束の間、濃紫のディーンの眼とタイレンの動かぬ瞳が、ひたと合った。


「土産話を期待しているぞ」

「お望みとあれば……いくらでも」


 ディーンは、深々と頭を垂れ、王子の前から下がった。

 まだ昇りきらぬ太陽が、緋毛氈を敷きのべた階段に、ひとすじの光の帯を投げかけている。

 まるで、血で染め上げられたかのようなその上を、ディーンは歩み去った。


   *


 春のごとくうららかな陽光が、庭に満ちている。

 レイは、家事全般をにな担うリィナの手伝いをして、午前中を過ごした。勿論リィナは客にそんなことをさせる気はなかったが、レイの方から申し出たのだ。


「ここでじっと閉じこもっていても、仕方ないだろう」


 ということなのだが、本心は、何かせずにはいられなかったのである。


 イリヤは、今日もまた出掛けている。レイも同行するつもりでいたが、隠れている身でもあり、複数で動くと危険が大きいと説得され、断念したのだ。

 桂花の教育が行き届き、身の回りのことは自分でするようしつけられたレイは、こだわりもなく、言われるままに掃除や洗い物をしていく。

 レイが、庭に張った物干綱ロープに洗濯物を干し終わると、台所からリィナの声が飛んだ。


「レイ、悪いけど裏からまきを取ってきてくれない?」

「分かった」


 レイは山手にあたる家の北側に行き、積み上げられた薪の束を取った。

 女性といっても、やはり剣士である。両手にひとつずつ、さらに小脇にもひとつ薪の束を抱え、戻ろうとしたレイは、そこで足を止めた。


「――何者だ?」


 静かだが、切り付けるような誰何すいかに、近くの木立がさざなった。

 ふわり、とひとつの影が現われる。

 黒髪を短く揃えた、カルディアロス人の若い女だった。女は、着物ともつかぬ黒装束を身に纏い、薄く微笑んで立った。


「何者だ?」

「……」

「私を付け回して、どうするつもりだ?」

「――意外と大したことなさそうなのね、あなた」


 甲高い、妙に甘い声だった。木鼠りすのような瞳が、しげしげとレイを眺める。


「どうして彼があなたに入れ込むのか、分からないわ」

「何の話だ」


 レイは、いささか不快ふかいを表わした。帝都の手の者とは思えぬが、この女には他人を小馬鹿にしたところがあった。


「私が何者か知っての事か?」


 少女じみた顔立ちが、皮肉な笑いを刷いた。


「あなたが何者かなんて、興味はないわ。ただ、あなたを見たかったのよ」

「なぜだ」

「あたし、ディーンと寝たことがあるの」


 レイは言葉を失った。どうやら勝手な妬心としんの対象になっていると知り、薪を持ったまま背を向ける。


「私には関わりのないことだ」

「待ちなさい!」


 制止と同時に、風を切り、背後から何かが飛来する。

 薪を投げ捨て、身を沈めたレイは、足元に突き立った星形の刃が、太い鉄針てつばりで打ち貫かれているのを見た。


――棒手裏剣?!


「何者!」


 邪魔をされた女が、家向こうの木立に向けて、再び四方手裏剣を投げうつ。

 ざっと木の葉が舞い立ち、ひとつの影が二人の前に立った。

 同じく黒装束に身を固めた男である。カルディアロス人らしからぬ薄い色の髪と眼が、陽射しを浴びて金色に映えた。


「ソロモン……」

「残念だが、シェン。この方を傷つけることは、わたしが許さない」

「……」

「勝手な思い込みは、そろそろ卒業してはどうだ。ディーンが君を選ばなかったのは、君自身の問題だ。君とディーンは、もう何年も前に終わったはずだよ」

「……あなたには関係ないわ」

「そうだな」


 亜麻色の髪の青年は、さわやかに微笑んだ。


「だが、君が私的な理由で指令を無視し、反逆的傾向にあると報告する義務はある」

「馬鹿な……!」

「愚かなのはどちらだ。わたしは、この方を護るように指令を受けた。つまり、耳目衆じもくしゅうである君も、その指示は受け入れなければならない立場にある」

「……」

「それとも、今この場で成敗されるほうを望むか?」


 影の者として生きる彼は、仲間であれ、手をかけるのをためらいはすまい。彼が殺す、といえば必ず息の根を仕留める。それが、影なのだ。

 女は悔しげに唇を噛み、二、三歩後退った。そして翻筋斗もんどりをうつと、風のように木立へ消えた。

 薪を拾い上げるレイを、ソロモンが笑顔で振り向く。


「大荷物ですね。持ちましょう」

「ああ、ありがとう」

「こんなに必要なのですか?」


 ソロモンが怪訝な顔で、レイの手から薪の束を取り上げた。


「あなたに薪運びを頼むだなんて、この家の者の神経が分かりませんよ」

「ディーンの家だからな」


 あはは、と大口を開けて、ソロモンが笑う。先程とは別人のような彼に、レイは尋ねた。


「いつから私を見張っていたのだ?」

「昨日、九曜殿の報せを受けてからですよ」


 あっさりとソロモンが答える。


「それにしては出てくるのが遅かったようだが」

「シェン程度にあなたがやられるとは思っていませんから。それと、好奇心も多少ありましたし」

「好奇心?」

「あなたがどういう反応を示すかと思いまして」


 レイは苦笑した。


「だって、私には関係ないだろう?」

「やれやれ、あいつも報われない」


 ソロモンが天を仰いで嘆息した。剽軽ひょうきんなところのある隠密は、少し真面目な顔つきになり、


「御存じないようですから言っておきますが、あいつはあれで結構一途なんですよ」

「そうは見えんが」

「昔は遊びましたよ、確かにね。遊びを教えたわたしが言うのですから、本当です。でも、リューンから帰ってきた途端、ぴたりとおとなしくなりましてね」

「ほう」

「遊ぶのに飽きたのか、何を思ってかは知りませんが、彼の帰郷を楽しみに待っていた花たちは、悲しみのあまり枯れてしまいましたよ」


 ソロモンは眉を上げ、背丈の違わぬレイを覗き込んだ。


「そこまでは言い過ぎですが、何名かの女性ががっかりしたのは事実です」

「彼女のように?」

「シェン・ツァイは別です。一方的に言い寄ってるだけですから」

「あれで結構もてるんだな」


 半信半疑といったレイの口調に、ソロモンは困り顔で、


「意外なことにそうなんです。あのお馬鹿加減が女性の心をくすぐるらしくて」

「ぷ……っ」

「笑い事じゃありませんよ。それなのに当の本人は別の人に心を奪われて、我関われかんせずですからね。とばっちりを受けるこちらは、たまったものじゃありません」


 レイはふと、ソロモンと共にリューンに来た少女を思い出した。ディーンを姉の敵と思い詰めていたカーミアは、シェンのように燃える瞳で彼を見ていた。

 ひょっとしたらソロモンは、彼女を好きなのかもしれない、とレイは思った。


「――あなたはどうなんですか?」


 突然訊かれ、レイは驚いた。ソロモンはあくまで笑顔で、もう一度尋ねる。


「あなたは、心を動かされることはないんですか?」

「ときどき腹が立つことはあるけど……それだけだな」

「やれやれ」


 ソロモンはまた言い、首を振った。


「確かに腰の落ち着かないやつですが、本気なんですよ?」

「そう言われても、今さら友達以上の感情はもてないよ」


 明快に言い切るレイに、ソロモンはそれ以上言及しなかったが、その代わりに、低い、穏やかな声でこう言った。


「あいつは、本当にあなたを大切に思っています。それは――朝が来れば、必ず太陽が昇るのと同じくらい、信じるにあたいすることですよ」


 その声に、何故か哀しいほどの優しさが込められているのを、レイは感じた。


   *


 ソロモンを交え、昼食をとったレイは、日のあたる縁側で足を崩した。

 隣では、無斎が座布団に坐って、茶をかしている。なぜか仔猫の姿になった九曜がやってきて、日溜まりの片隅で寝そべった。

 これでは陰ながら護ることもできないとぼやいていたソロモンは、リィナと台所で片付けをしている。


 レイは、春そのもののような陽光に蒼い眼を細め、懐から取り出した紙を広げた。

 帝都を出る時に、天枢城ケンドロ・ウラノスの管理室から持ってきたものである。

 それは、城の人の出入りを記した書き付けの一枚であった。

 帝都の心臓部といえる天枢城ケンドロ・ウラノスは、管理が厳しく、皇帝でさえ出入りを記録される。すでに形式化され、危急時の煩わしさもあって廃止を望む声もあるが、不審者の入城を事前に阻止できることや、また官僚たちの働きぶりが一目でわかることから、実現には至っていない。

 レイが持ってきたのは、皇帝服毒が起こった当夜であり、天枢城ケンドロ・ウラノスにおいては皇帝からの衝撃的な通達が行なわれた時の記録である。

 帝都の核を成す人々が名を連ね――勿論、皇帝自身の名もそこに含まれている――入城の時刻と退城の時刻が記されている。


 それを見つめ、レイはあることに気が付いた。

 その時、ざわ、と周りの空気が動いた。

 レイは、背筋にぴりぴりするものを感じつつ、書き付けを懐にしまった。

 九曜が寝そべったまま、頭をもたげ、庭を凝視している。

 レイは膝を立て、手近にあった盆を掴んだ。

 無斎が湯呑みを膝に置いて、


「レイどの、決して手をあげてはなりませぬぞ」

「無斎様……」

「戦えば、奴らにあなたを捕らえる理由を与えてしまいますからのう」

「……はい」


 レイは頷き、わずかに後ろに下がった。

 ――と。タンッと鋭い音を立て、一条の矢が縁台に突きたった。

 同時に、庭の茂みから躍り出た影が、白刃はくじんを抜いて斬りかかる。

 無斎が、熱い茶が入った湯呑みを投げ付けた。それは覆面を被った男の脇を抜け、茂みに吸い込まれた。


「老いぼれめ!」


 嘲笑し、曲者は大刀を横薙よこなぎに斬りつけた。鋭い刃風はかぜに押されるように、縁台にいた無斎の体が、ふわり、と浮く。

 空を踊った無斎は軽々と曲者を飛び越え、飛び越えざま、足でその頭を蹴った。

 曲者がたたらを踏む。


「む!!」


 曲者が向き直ったときにはもう、無斎の拳が脾腹ひばらを突いていた。曲者が崩折くずおれ、無斎に倒れかかる。その時、背後から別の一刀が襲いかかった。

 無斎は、気を失った曲者を盾に取ると、その手から剣を奪った。

 仲間を振り払い、再び剣を構えた男は、そこで動きを止めた。

 斬りかかることができないのである。

 小さな老人は腰を屈め、片手に大刀をげたまま、にやりと笑いかけた。


「せい……っ!」


 曲者が、渾身の突きを入れる。無斎は動かず、手にした剣で軽くそれを払いのけた。


「!!」


 鈍い音をたて、曲者の剣が折れ飛ぶ。

 間髪入れず迫った無斎が、舞うように剣を揮った。

 銀色の光が閃いたかと思うと、曲者の頭から足先までが、あみの目状に断ち切られた。肉を残して斬られた皮膚から、薄く血がにじむ。


「あ……ああっ」

「出直すがよい。このに三人ごときで押し入ろうとは――考えが甘いよ、おまえさんたち」


 皮肉をこめ、無斎はふてぶてしく言った。


「退くぞ!」


 茂みから、弓矢を仕掛けたもう一人が叫んだ。この男は、顔面に火傷やけど擦傷さっしょうを負っている。無斎の湯呑みを頭から浴びたのだ。

 服を切り裂かれた男は、左手で覆面を押さえ、右手で気を失った仲間を引きずり、逃げるように茂みへ飛び込んだ。

 レイは後を追おうとしたが、九曜が止めた。

 家の台所から、黒い影が走り出たのだ。


「――失礼」


 亜麻色の髪の間者は、爽やかに告げ、すぐに姿を消した。

 レイは、襲撃の間ソロモンが出てこなかった理由を知った。ソロモンは、彼らの正体を突き止めるつもりなのだ。


「あやつなら突き止めようよ」

「……はい」


 無斎の言葉にレイは頷き、縁台へ突き立った矢を引き抜いた。

 庭は曲者に踏み荒らされ、折れた剣が置き去りにされている。

 台所に隠れていたリィナが現われて、それらに哀しげな視線を注いだ。



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