5-1
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結局、レイとディーンがフィロン家を辞したのは、昼の刻が過ぎた頃だった。
再会の余韻を引きずり、泊まっていくよう勧めるフィロン夫妻の申し出を断るのに、レイは随分苦労をしたようである。
一方、待ちぼうけとなったディーンは、執事トヴァイエの案内で広い屋敷内を見て回り軽食まで取ったが、やはり相当退屈だったようだ。
屋敷の門を出た途端、大あくびを連発する。
「あーあ、昼寝でもしとけばよかったかな」
「すまん。待たせたな」
「いや、気にしてねえよ。なかなか狗民の屋敷を探険するなんて、できねえからな」
ディーンは、馬上で伸びをしながら言った。
「で――どうする? ちょっと早いけど帰るか」
「そうだな。もう用事は済んでしまったし……」
行方知れずになっていた娘の子の窮地を、フィロン夫妻が見捨てようはずもない。レイは、狗民を束ねる古老の返答次第では、戦力をも提供できるだろうという心強い言葉を得ることができた。
しかし、今すぐ狗民たちが動いてくれるわけでもなく、レイはじっと祖父母からの連絡を待つしかなかった。
するべきことは、した。だが、レイの気持ちは落ち着かなかった。
「食事でもとるか……」
ディーンが、驚いた顔で振り向く。
食べ物のことを先に言い出すのは、いつも彼の方だった。レイは言い訳をするように、眉尻を下げる。
「お祖父さまとお祖母さまに囲まれて、食べるものも口に入らなかったんだ。おまえ、何かいい店知っているだろう?」
「うーん……旨いものならリーレンにもあるけど、どうせ帰るし、アド・カトンに行くか」
「わたしはどちらでもいいぞ。どうせ、おまえの奢りだ」
「なんでだよ」
「わたしは客だろう。それに帝都から逃げる時に、金など持って出ると思うか?」
堂々と言ってのけるレイに、ディーンは顰めっ面になった。
「てめえ、最初にあれだけ金は大事だって教えただろう」
「持たないように教育されているのでな」
「……分かった。おまえは育ちがいいとか何とかいう問題じゃなくて、統一世界一の商売人の血が流れてるんだな。よーく分かったぜ」
不機嫌なディーンとは対照的に、レイは爽やかな笑顔で、馬の拍車を駆る。渋々ディーンも後から馬を走らせた。
二人は再び川を越え、アド・カトンでもラサ市街とネダ村に近接した外れに来た。そこは、小さな店がいくつか集まっており、市も立ち、レイがタオ=フェイ・シンの道場を尋ねて回ったところでもあった。
ディーンは、レイが道を尋ねた料理屋の道路向かいの小さな店で馬を止めた。
表の子供に銅貨を弾み、馬を渡して、[五色屋]と書かれた暖簾をくぐる。
「へい、らっしゃい」
威勢のいい声で出迎えたのは、店の板前だった。この店は、表も裏もなく、小さな台を挟んだだけの同じ空間で板前が料理を作り、客がそれを食べるのだ。
ディーンは奥の卓に席を見つけ、レイを手招いた。板前に合図して、
「熱燗を二本つけてくれ。それから、摘むものを少し」
「鴨のいいのが入ってますよ」
「じゃあ、それを」
熱気と匂いとざわめきの中、手短に注文を済ませると、腰を落ち着けた。
カルディアロス人がひしめく狭い店内を見渡し、レイは少しためらって外套を脱いだ。やはり、周囲の視線は厳しい。
アルビオンやリューンでもレイの容姿は充分に人目を引いたが、ここまで明らかな警戒心を向けられるのは、初めてだった。
「どうした?」
「いや。なんだか……」
レイは口篭もり、両腕を体に引き寄せた。
「……まあ、ここは総督府が近いからな」
慰めにもならぬことを言い、ディーンは運ばれてきた銚子をとり、小さな盃に酒を注いだ。レイにも盃を持たせ、強引に乾杯をする。
「うん、旨い」
「甘いな。前に、おまえがメイリンたちからもらってきた酒に似ている」
「種類は一緒だからな」
ディーンが清酒を呷ったとき、ざわめきと共に何者かが店に飛び込んできた。
黒髪を団子に結んだ、縦よりも横に大きい四十がらみの女である。
「ちょっと、だぁれが帝都の馬鹿役人に酒を飲ましているんだいっ?!」
「お、女将さん……」
板前が慌てて、台の向こうから飛び出してきた。
「パイワン。おまえがいながら、なんてざまだよ!」
「女将さん、だけど……」
「だけども何もあるもんかいっ。どこにいるのさ、あたしが叩き出してやるよ!!」
鼻息も荒く店内を睨む女の迫力に、レイは思わず席で身を小さくした。
ディーンが銚子から酒を注ぎながら、のんびりと声をかける。
「違うって、女将。こいつは帝都の馬鹿役人なんかじゃねぇよ。半分狗民だからな」
「おや、まあ。セレスディーン・グラティアスじゃないか!」
「よお、女将。店をほったらかして、どこ行ってたんだよ」
「どこ行ってたじゃないよ。今朝がたウィン坊やが寝込んでるって話を聞いたから、折り詰めを持って見舞いに行ってたのさ」
[五色屋]の女将は、前掛けを締めた大きな下腹に、ごつい両拳を当てた。
「それよりも、なんだい。しばらくぶりに顔を見せたと思ったら、まぎらわしい子を連れ込んでさ! あたしゃ、また帝都のくそったれが店を荒らしに来たのかと、慌てて飛んで帰ったじゃないか」
「そりゃ悪かったな。だけど、俺の友達を叩き出すのはやめてくれよ」
「当たり前だよ。きちんと金を払って気持ち良く飲んで食べていく者は、みんなうちのお客さ」
伝法だが裏のない言い様に、レイは安堵の息をついた。どうやら危ない目には合わないで済むらしい。
――だが……この様子では、総督府に駐留している者たちは、相当な悪事を働いているようだな。
苦い気持ちが胸中に渦巻く。
帝都では、支配下の諸国は下等であるとする者がほとんどである。支配しているのだから、従うのは当然。帝都人なら何をしても許されると考える愚か者さえでる始末だ。
セイデンは、このままでは統一世界に活路はないと思い極め、もっと諸国が手を携える形を目指しているが、帝都内部の評判はよくない。
「――あんた、嫌な思いさせて悪かったね」
いつのまにか女将が、横に来て声をかけた。手には新しい銚子を持っている。
「いや」
「このところ、総督府のやつらがやってきてよく暴れてね。それでこのあいだ、大乱闘さ」
着物の袖をまくり、左腕に巻いた包帯を見せた。ディーンが濃い眉を顰める。
「どうりて椅子の数が少ないと思ったぜ。大丈夫なのか?」
「あんたがいなかったから、パイワンは台から投げ飛ばされちまったよ」
調理台の向こうで、ひょろりとした板前が苦笑いする。
「悪いな。このところ、サリにこき使われててな」
「あの子も見ないね。元気にしているのかい?」
「まあね。ところで、ウィンの様子はどうだった?」
「あれ……?」
女将は呟くように言って、辺りをきょろきょろ見回す。すると、店の戸口から笑いをこらえる声が聞こえてきた。
「ウィン坊、何をそんなところに突っ立ってるんだい」
「……だって、喧嘩に巻き込まれるのは嫌だから」
扇で口元を隠してはいたが、彼の目は明らかに笑っている。もうじき十九になる坊やは、女将と幼なじみの招きに店内に入ってきた。
「なんだよ、寝込んでたんじゃないのか」
「寝ていたよ、さっきまではね。だけど、わざわざハナさんが来てくれたのに、布団の中に入っているわけにはいかないじゃない」
やさしい声で、青年は抗弁した。カルディアロス人にしては、明るい色の髪と眼。白い肌は透き通るようで、生来病気がちであることを物語った。
柔らかな栗毛を長くのばし、桜に流水の着物に臙脂の羽織を着たウィンは、小柄なことも手伝って少女のように見える。
――わたしより女らしい。
くすりと笑い、レイは手を差し出した。
「レイ・セジェウィクだ。よろしく」
「ウィンレイ・リウです」
慣れない挨拶に戸惑いつつ、ウィンはレイの手をとり、はっと息をつめた。
「あなた――」
呟いて、ウィンは崩れるようにその場に座り込む。
「どうした?」
ディーンが驚いて立ち上がった。
「レイファス、おまえなんかやった?」
「何もしていない。彼は多分――」
「――感じやすいんだよ、ちょっとね」
ウィンレイは蒼褪めた顔で、情けなさそうに二人を見上げた。
「驚かせてごめん。能力として発現できるほど強くはないくせに、こういう時は人一倍感じてしまうんだ」
――いや、そうではない。
レイは思った。能力を発現できないのは、弱いからではなく、ウィンレイの肉体が耐え得られないからだ。能力を使えば、彼の命は半年も保たないに違いない。そのために、意識的にか意識下で、彼は能力を制限しているのだ。
―――それでも、かなり体力を消耗するだろうに……。
椅子に這いのぼり、ウィンは、まだ血の気の戻らないままレイに微笑みかけた。
「あなたはすごいや。僕が出会った中でも、最高に強い能力者だよ」
「すまない。これでも押さえたつもりなんだが、うまく制御できないんだ」
「何おまえ、まだ制御できないの?」
レイが椅子の下でディーンの足を蹴った。ディーンは悲鳴をあげて、
「だって、能力使えるようになったの、三年も前の話だぜ?」
「ディーン。発現するのと行使するのは違うんだ。これだけ強ければ、制御するのに時間がかかるのも当然さ」
隣に座ったウィンの説明に、ディーンは箸をくわえたまま呟く。
「ふーん、そんなにすごいのか」
「はいはい。そのすごさに気が付かないディーンは、もっとすごいよ」
ウィンは苦笑し、女将が運んできた盃で酒を飲んだ。蒼褪めていた顔に、ほんのりと血の色が差す。
「ま、僕が知っている中では、さすがにディーンより上だね。出会えて光栄だ」
「なんで俺が関係あるんだよ」
ウィンは黙って肩をすくめ、一つ年上の友人に酌をする。
料理が運ばれてきた。特製の付けだれに漬かった鴨肉を、葱と共に炭火で焙ったものを頂くのが、この店のやりくちだ。
焼きたてのうちにと、ディーンとレイは早速、熱い肉をはふはふと口に運んだ。
「だけどウィン。おまえ、能力者じゃないのによく分かるな」
「まあね。僕は、他の人たちより死に近いからね」
さらりといい、ウィンは猪口を呷った。ディーンは酌をしてやり、
「死に近い男の割に、よく飲む野郎だぜ」
「だって、美味しいものをとことん味わってあの世に行きたいじゃない?」
「それもそうだ」
レイも笑って、ウィンと杯を打ち合わせた。
「失礼だが、リウというとユウォン伯爵と何か……?」
リューンで騒ぎを起こしたディーンの後見人となった伯爵は、小さいながらもカルディアロスの旧家である。
ウィンは困ったように笑って、
「伯爵は兄。僕は、由緒正しい伯爵家のみそっかすというわけ」
「みそっかすもみそっかす。何しろこいつ、一時は勘当されていたからな」
「そう。あのときはさすがにどうなるかと思ったよ」
朗らかにディーンと語り合う青年は、放蕩の末、家を勘当されるようにも見えない。
「ウィン。友達の選択を誤ったのではないか?」
「あはは……。そうとも言うけどね」
ウィンは器用そうな長い指で髪をかきあげ、
「僕はね――絵を描くことが好きで、それだけをしていれば幸せだったんだ。兄は僕を理解してくれたけど、父は貴族の子が絵に熱中することを許さない人でね。母が間に立ってくれていた頃はよかったけど、亡くなったらもう、行き着くとこまでいっちゃって……」
「そこを俺とサリが拾ったわけ。なんて言うの、恩人ってやつ?」
「恩人とは違うと思うけど?」
ウィンは穏やかに反論し、続けた。
「父が死んだ後、兄は僕を呼び戻そうとしてくれたけど、もう絵師として働きはじめていたから、家には戻らなかったんだ。まさか伯爵の弟が、絵師で稼ぐわけにもいかないしね。妻もいることだし」
「妻? 結婚しているのか?」
「そう」
ウィンは、にっこり笑った。ディーンが横で、五つ年上の姉さん女房なのだと、レイに教えた。
「へえ……」
「いいよ、結婚は」
笑顔で言うウィンに、レイは驚きを隠せない。
人というものはわからぬものだと、一人納得して、レイは酒を飲んだ。
*
話が弾み、料理もあらかたなくなった頃、ディーンたちの席に[五色屋]の女将が、湯気のたった鍋を運んできた。
「こんなのはどうだい?」
鰹出汁を張った中に、野菜や茸、削ぎ切りにした鴨肉とつみれをぶちこんだ鴨鍋である。
「こいつはいい」
きちんとした食事をとっていないディーンとレイは、舌を火傷しながら鍋をつついた。
ウィンは傍らで一人、酒を手に、にこにことそれを眺めている。レイが気付いて、
「ウィン、遠慮せずに食べないと、なくなってしまうぞ?」
「ううん。僕はいいよ」
「よくないだろう。酒ばかり飲まずに、少しは精をつけないと……」
言いながら、レイは小皿に野菜や肉をよそって、ウィンの前に置いた。
帝都でこのようなことをすることはまずないが、真珠の宮では全員で食事を分け合っていたし、何よりディーンといる時は堅苦しさもなにもない、ただのレイになってしまうのだ。
「ディーンのようになれとは言わないが、いま少し元気にならなければ、妻女も女将も心配するだろう?」
「うん……」
しょんぼりと子供のように頷いて、ウィンは小さく千切った野菜の葉を口の中に入れた。
酒を代えにきた女将が、それを見て目を丸くする。
「おや珍しい。ウィン坊やが野菜を食べているよ」
「レイに、食べなさいってお説教されちゃったんだ」
ハナは笑って、彼の薄い背中を分厚い手のひらで叩いた。
「そいつはいいじゃないか。どんどん食べて、病気を追い払っちまいなよ」
「うん。だけど、お肉だけは勘弁だなあ」
「なんだ、食べられないのか」
情けないウィンの降参に、レイは笑って、皿から肉をとりあげた。
「食べられないのであれば、スープを飲むといい。滋養がつく」
「ありがとう」
「まったく、おまえは好き嫌いしすぎだぜ」
言いつつ、朝から何も食べていないような勢いで食べるディーンに、レイは冷たく、
「おまえは食べ過ぎ」
「成長期だって」
「どこまで成長すれば気が済むんだ?」
「あともう少し身長が欲しいんだよな」
「伸びる前に横に溜まるぞ」
厳しい意見に、ディーンがぐっとつまった。
卓上を片付けながら、やりとりを聞いていたハナが吹き出して、
「あんたにも苦手な人がいたんだね。どこの知り合いだい?」
「こいつの親父がじじいの弟子なんだ」
「へえ……」
ハナは、まじまじとレイを振り返り、納得したように頷く。
「あんたかい。昨日、無斎じいさんの居所を嗅ぎ回ってた怪しい二人連れってのは……」
レイは苦笑した。
「そんなに怪しかったかな」
「まあ、ここは田舎だし、余所者が入れば目立つからね。すぐに噂もたつさ」
「そうか……」
レイは、内心ひやりとしたものを感じた。噂が近辺にとどまればよいが、総督府の耳に入ることがあれば、万が一ということもあるかもしれない。
「――ねえ、あんた」
ハナに呼びかけられて、レイは我に返った。
「なんだ?」
「あんた、半分狗民って本当かい?」
「ああ。私もさっきまで知らなかったんだが、父がここで剣術を修業していたときに母と知り合ったらしい」
「じゃあ、リーレンの人かい」
「そのようだ」
その答えに、ハナは少し考え込む形となり、ややあって意外なことを言い出した。
「そういえば――昔のお客で、リーレンのお姫さんと駈け落ち寸前までいった人がいたねえ」
「え?」
これにはレイも驚いた。
「今思い出したよ。無斎じいさんの道場にいた人だから、案外、あんたの父親かもしれないねえ」
女将はからからと笑って、
「二十四、五年前の話さ。あたしはまだ十代の娘盛りで――笑うんじゃないよ――この店も親の代でね。帝都もさほど威張ってもいなくて、いろんな客が出入りをしていたんだよ。その中にリューン人のような、ちょっと毛色の変わった若い男がいたのさ。剣術をやっているのは一目で分かったよ。赤毛の背の高い男と二人連れでね。決まって夕方に来ていたものさ」
「どんな……ひとだったのだ?」
「あまり目立ちはしなかったね。金髪の巻き毛を短くしてさ、ちょっと爽やかないい男だったよ」
「……」
「酒だけのときもあれば、食事も頼むときもあったけど、万事品がよくてね。ああ、この人は普通の生まれじゃないと、娘心にも感じたものさ。リーレンのお姫さんが惚れたのも分かる気がしたね。周りはずいぶん反対したみたいだけど、じいさんだけは賛成してね……。いろいろ手を尽くして祝言をあげようっていうところまできた時、突然故郷へ帰るって挨拶にきて――それっきりさ」
ハナは、大きな肩をすくめてみせた。
「あとから聞いた話じゃ、道場でも赤毛の方と二人で龍虎とか双璧とか言われていたらしくて、他の門人との間でも、結構いざこざがあったらしいよ」
「いざこざ?」
「道場の後継者とかなんとかさ。結局二人がいなくなって、話は立ち消え。じいさんは後継者も選ばずに道場を閉じちまうし、お姫さんは異国で神殿に入ったって話だよ」
女将は、思い出を打ち消すように片手を振って、
「昔話はこれでおしまい。あんたの両親はあたしの知っている人とは違うのかもしれないし、今さら思い出話に浸ったって、実にも毒にもなりゃしないやね」
「……」
レイは、無言で冷えた酒を飲んだ。
取りつく島もないその態度に、ディーンもウィンもかける言葉がない。
普段どおりに振る舞うものの、固さが残るまま三人は飲み、夕方にさしかかって店内が混んできたのを見計らって席を立った。
ディーンとレイが店を出ようとした時、入り口に並んだ客を押しのけ、二人の男がやってきた。
夕闇にも、白い肌に薄い色の頭髪が浮いて見える。総督府の兵士たちだ。
「女将、酒だ。酒を持って来い!」
「お客は皆さん並んでるだろう。順番を守らないんだったら、余所へ行っておくれ!」
女将は毅然と言って出たが、大柄な女将の倍はある兵士が、ぐっと睨みをきかせる。
「なんだ、この店は。おまえたちを守ってやっている我々への敬意はないのか!」
「無礼者め!」
勘定をしていたディーンが割って入ろうとしたとき。
「止せ」
低い声で、女将を庇う者がいた。レイである。
レイは、頭から外套をすっぽりと被ったまま、静かに言った。
「無礼はおのれらであろう」
「なんだ、貴様は!」
「我々帝都人を侮辱する気か!」
「おのれらの為しておることは、帝都人とも思えぬ。この家の者の迷惑だ。早々に立ち去るがよい」
「貴様、何様だ!」
「二度と我々に歯向かえぬようにしてくれる!」
一人の兵士が、唸りをあげて拳を突き入れてきた。レイはふわりと避け、その拳を片手で掴んだ。
「む……!」
「去るがよい。今の私は機嫌が悪い。逆らえばただではすまぬ」
レイは、兵士の腕を捻り、軽く前へ押し出した。すると、どこをどうされたのか、兵士は弾けるように店の外に吹き飛び、もう一人を巻き込んで地面に倒れた。
「去るがよい」
レイは、有無を言わさぬ声音で繰り返した。
人々に囲まれ、不利を感じたのか、兵士たちは起き上がると、逃げるように去っていった。
ひそかなレイへの賛辞と兵士への嘲笑がさざめき、人々が店の中に流れを戻す。それに逆らって店を出つつ、ウィンが感嘆の口笛を吹いて、手にした扇をうち振った。
手を振り返すレイを眺め、女将がディーンに囁く。
「――あの子、強いじゃないか」
「剣士だからな」
「セル坊、負けてるよ。頑張らないと」
ハナは、太い肘でディーンの横腹を小突く。レイが戻った。
「待たせたな」
「ありがとうよ、助かったよ」
「いや」
「まったく、一度でもあんたをあいつらと一緒だと思うなんて、あたしも焼きが回ったもんだ。今度何かあったら、あんたに頼もうかねえ」
剛毅な女将の物言いに、レイは苦笑を禁じえなかった。
「勘定は――」
「いいんだよ、この子に払わせたから。二度と追い出そうとしたりしないから、またおいでな。腕によりをかけて待ってるよ」
「ありがとう」
ディーンと共に店を出て行きかけ、レイは立ち止まった。
「――そうだ、女将」
「なんだい?」
「さっき話していた男のことだが……どうして急にここを去ったんだ?」
「家の事情だとか聞いた気がするけど、定かじゃないねえ……」
女将は、腕組みをして考え込んだ。
「そうだねぇ……。いつのことだったかは、覚えているけどね。何かと騒がしい年だったから」
「いつだ?」
「三五七三年――前の皇帝が亡くなった年さ」
レイの顔から表情が消える。
「……そうか。ありがとう」
その夜、ディーンとレイが家に戻ったのは、夕の刻を過ぎた頃だった。
レイは心ここにあらずといった様子で、口をきくことはほとんどなく、イリヤが耳にした情報を伝えた時も、わずかに労わ(いた)ったのみであった。




