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翌日の朝食の席で、無斎は、ラサ市の一画リーレンへ向かうことを一同に伝えた。
「リーレンって、あの狗民街のある?」
「そうじゃ」
狗民とは、かつてセントゲア大陸を支配していた王国の末裔と呼ばれる人々で、もはや母国はなく、各国にリーレンのような小さな街を築いて暮らしている。
しかし、統一世界の経済界――特に不動産、金融、商業では、四割がその出身者や血縁者によって占められ、魔術とも噂される独自の連絡網で絆は強く、発言権は大きかった。
確かに、帝都さえ手を出しかねる狗民の協力がつけば、心強いだろう。
「知り合いなんかいたか?」
「昨日まだ御存命じゃと聞いてのう。忘れておらるることはないと思うが……」
無斎は、白髯を撫でた。
「好意的かどうかは、疑問じゃのう」
「なんだよ、それ」
「まあ、行ってみなさい。行ってみればお会いできるかもしれん。お会いできれば、話を聞いて頂くことができよう。話を聞いて頂ければ、協力もしてもらえようというものじゃ」
「なんだか気の長い話……」
九曜があきれた。
「無斎が話をつけるの?」
「儂が顔を出すと話がこじれよう。レイどのに直接行って頂こう」
「はい」
「場所はアド・カトン神殿の近くじゃ。ディーンに案内させよう」
ディーンが顔を顰めた。
「無責任なじじいだぜ」
「おぬしに任せると申したであろうが。重要な警護じゃ、しっかりやれよ」
あっさりと無斎は励ます。妖魔の少年に、
「九曜。おぬしは、ひとつ使いを頼まれてはくれぬか」
「いいよ。どこ?」
「あまり人には気付かれてはならぬところじゃ」
無斎は、手紙を縒り、結んだものを渡した。九曜はそれを手にすると、二、三度後ろへ飛び跳ねる。そして一陣の青白い疾風となって、戸外へ消えていった。
それを見送り、ディーンが腰をあげる。
「さて、俺たちも出掛けるか」
「――いえ……あの、私は総督府へ参ります」
静かに、きっぱりとイリヤが言い出した。
「イリヤ……」
レイの顔色が変わる。
「どのような形で帝都から連絡が行っているのか分からないのだぞ。危険すぎる!」
「ですが、相手の動きを探らねば、こちらも動きはとれません。そうでしょう?」
イリヤの問いかけに、ディーンと無斎は沈黙した。正当な意見である。
レイは息をついて、
「分かった。貴方のことだから心配はいらぬと思うが、くれぐれも気をつけて」
「心得ております」
女たちは抱き合うと、それぞれの目的に向かって別れた。
狗民の容姿は、白い肌、薄い色の毛髪に碧眼が常で、明らかにカルディアロスのどの民族とも違っている。しかし、かといって北方ビグリッド人のように筋骨逞しく彫りが深いわけでもなく、どちらかというとカルディアロス北端の住人シン族に似ているようでもある。
狗国もはるか昔にグェデ砂漠の砂塵と化しており、もはや彼らの伝承に頼るほかはなく、真偽のほどは定かではない。しかし、世界統一以前から各国を席巻していた狗民は、その伝承すら真実としてしまうほどの存在感をもっていた。
ネダ村からリーレンへはシールイ川を舟で下るのが最も早いが、都合上、ディーンとレイは馬で向かった。まだ冬の色濃いこの季節、頭から外套を被った二人を怪しむ者はいない。
川沿いの柳が、銀色の綿毛に覆われた新芽をつけ、きらきらとそよいでいる。
冷たい朝風に蒼い眼を細め、レイは対岸に並ぶ華やかな街を眺めた。
「あれが……」
「ああ、リーレンだ」
生国エファイオスにも当然あっただろうが、帝都の管理下から出たことのないレイにとっては、初めての狗民街であった。
来た時に通ったラサ市街とは、また違った雰囲気の街である。
瓦葺きの四角錐型の家の外観は似ているが、屋根は豪華な鴟尾をもって反り返り、楼閣のようないでたちだ。材も、木より石がふんだんに使われ、漆喰の壁には色とりどりのタイルが華を添えている。その鮮やかさは、なぜかレイに三年前に訪れた南の大国アルビオンを思い起こさせた。
二人は橋を渡り、リーレンへ入った。朝靄に白く荘厳に建つアド・カトン神殿に背を向け、リーレンの中心街へ向かったところに、目指す屋敷があった。
当地で薔薇屋敷と称されるそこは、有棘の鉄柵に囲まれ、T字型の建物の二階にまで蔦が這い、歴史を感じさせる。だが今は人の出入りが絶えているのか、門は錆つき、冬といえども庭に華やかさがなかった。
門柱にもたれ、居眠りをしている若い門番をため息混じりで眺め、ディーンは馬を近付けた。
生温かい馬の鼻息を間近で吹きかけられ、門番が悲鳴をあげて眼を覚ます。
「この屋敷に用がある。無斎からの使いだといってくれ」
「あ……ああ、はい。し、しばらくお待ちを」
眼をこすりこすり、門番は屋敷へ駆けていく。ディーンとレイは枯れた庭に入り、馬から降りて招かれるのを待った。
しばらくして、鈍い響きとともに扉が開き、年老いた執事が顔を見せた。容姿からすると、彼も狗民らしい。
「――申し訳ございません。当家の主人は誰にもお会いいたしません」
「だが、昨日使いを――」
「お手紙は確かに拝見いたしました。ですが主人は病身で、どなた様もお助けできるような状態ではございません。無斎さまにも、どうぞそのようにお伝えください」
断固たる口調で言い、扉を閉めようとする。その隙間をディーンは足で押さえ、
「待てよ。病気でも話くらい聞けんだろう」
「あまり無体なことをなさいますと、役人を呼びますよ」
「な……てめえ」
かっとなるディーンを押さえ、レイが扉の隙間を覗き込んだ。
「勝手なお頼みとは充分承知している。だが、我々にも他に頼れる伝手がないのだ。話だけでも聞いてもらえないだろうか」
老執事の眼が、何かを探るように、束の間二人を凝視する。
「――しばらくお待ちを」
言い、物音も立てず家の奥へ去る気配がした。
やがて、
「どうぞ」
重い音を立てて、二人の目の前の扉が開かれた。いつのまにか現われた、これも老いた下男が、二人の馬を牽いて去る。
「お待ちを。じきに主人が参ります」
屋敷へ入った二人は、古い調度品が置かれた応接間へ通された。まるで数十年前から時が止まっているような重い装飾燭台や、多くの絵画に囲まれた室内は薄暗く、埃ともうひとつ、何か独特の香りがする。
――なんだろう……この匂い。どこかで嗅いだような……花……?
思い、辺りを見渡したレイは、傍らのディーンが息を飲む声を聞いた。
彼は石像のように、左の壁に掛けられた一幅の絵を凝視している。
「どうした?」
「見ろよ……これ」
言われるままに眼を向けたレイは、瞬間、心臓が打ち砕かれるほどの衝撃を受けた。
それは、細い渦巻装飾の額縁に入れられた、大きな肖像画であった。
成人の記念として描かれたものなのか、まだ幼さの残る一人の女性が、淡い色の髪を結って衣服に垂らし、白い薔薇の花束に囲まれて微笑んでいる。生けるがごとく描きこまれたその肖像画で、何より眼を引くのは、その美貌であった。
手にした薔薇よりもなお瑞々しい雪白の肌に、細い線で描かれた怜悧な顔立ち。宇宙のごとく深い蒼の双眸。
それは誰も――本人でさえ目にしたことのない、女の姿のレイファシェール・セジェウィクその人であった。
凍り付いたように自分自身を見つめるレイは、扉の閉まる重い響きに、奥から現われた人物に気がついた。
寝間着をまとった、蒼褪めた顔の背の高い男――屋敷の当主エドゥワルド・フィロンである。
病身という彼は、執事と妻のマリエルに両脇を守られ、おぼつかない足取りでこちらへとやってきた。やつれてはいるものの、細身のしなやかな体付きは、明らかにその場の誰の眼にもレイとの近似を認めさせた。
お互いの紹介の言葉はなかった。
フィロン夫妻と執事は、互いに互いを支え合いながら、ただただ無言で、突然訪れた若者を見つめている。その眼から、涙が溢れていた。
「よくぞ……よくぞ生きていた……」
老当主の口から、ようやく、それだけが絞り出された。
返す言葉もないレイは、棒立ちのまま外套を取った。流れ落ちる銀色の髪に、彼らの瞳に驚きが走り、すぐに深い慈愛が宿される。
マリエル・フィロンが声を詰まらせる。
「本当に……あの子によく似て……」
「おまえ、一人なのか……? エメラインは――おまえの母親はおらぬのか?」
老主人の問いに、レイはすぐに答えることが出来なかった。何度か息を呑みこみ、口を開く。
「母は――」
身体は震えているのに、レイの口から出たのは意外にしっかりした声だった。
「母は――亡くなりました。わたしを産んだ後、病いに倒れて――」
老夫妻と執事の間から、言葉にならぬ呻きが洩れる。
「おまえの名は、なんというのです?」
「レイファシェールと申します」
「どこに住んでいるのです? もしやに……父君と……?」
「六年前より帝都の父の元で暮らしております。それまでは、エファイオスの真珠の宮にて育てられました」
淡々と答えるレイに、老婦人が夫から離れ、つい、と歩み寄った。
彼女より頭ひとつ低いマリエルは、骨張った手のひらで、ゆっくりとレイの頬に触れた。
「辛かったでしょう。ごめんなさいね……貴方のことを何も知らなくて、私達、何もしてあげられなかったわね。ごめんなさいね……」
「……」
「さぞ寂しかったでしょう……心細かったでしょう……」
顔中涙だらけにして、マリエルが謝る。頬を撫でるその手の優しさに、レイの胸にも、熱いものがぐっとこみあげてきた。
暖炉の上に架けられた別の絵には、若き日のエドゥワルドとマリエルに挟まれて、よく似た二人の少女が笑っている。それは、家族のあたたかさそのものだった。
リューンで聞いたセイデンの声が、耳に甦る。
『――おまえの母と出会ったのも、彼の地であった……』
「本当に、よくここまで成長して……。今まで生きていてよかった……本当に、よかった」
「お…祖母さま……」
「遠い異国でどんなに一人で苦労をして……」
声を震わせるマリエルに、レイは少し微笑んで、かぶりをふった。
「いいえ……いいえ。わたしは一人ではありませんでした」
もう、レイには分かっていた。なぜあれほど危険を冒してまで、銀の兇児である自分を守り育てたのか――なぜ、あれほど愛情を注いでくれたのか。
「わたしの側には、もう一人の貴方がたの娘がおりました。今は離れ離れですが、西の大神殿の宮長として、立派に務めを果たしておいでです」
先日帝都で会ったばかりの桂花の顔が、絵の中の少女に重なる。溌剌とした笑顔で年上の少女に寄り添うその姿は、そのまま、レイに寄り添う叔母の姿だった。
欠けていた組み絵が嵌め込まれたような充足感が、レイを包む。その眼から、一滴の涙が零れ落ちた。
*
カルディアロス総督府・聖魚城。二時間前に帝都より出された通告に、府内の誰もが動揺を隠しきれなかった。
皇帝の急病に加え、モルガン将軍の投獄に宰相および第二皇子の失踪となれば、事件性を感じるのは当然である。さすがに皇太子ルークシェストが皇帝殺害未遂の嫌疑をかけられていることまでは報じられなかったが、それでも口さがない者たちの噂話は早くも真実に近付き、また大きく捻じ曲げて広まっていた。
「俺は、やはり宰相が何か仕組んだと思うね。余所者は、やはり信用がおけぬよ」
「いやいや、あの方に限ってそのようなことは……」
「だが帝都では、宰相の行方を追うのに絞っているそうではないか」
「まあ、金剛の宮の飛遠の術を悪用して、壊していったというからな。なにか隠したいことがあるのかもしれんなあ」
「そうだろう、そうだろう」
「だが、レイファシェール殿下の失踪はどうなる?」
「決まっている。宰相が人質として攫っていったに違いない」
「あの方が、そんな真似をするかなあ」
「するとも」
「ふうむ……」
聖魚城の裏門の見張りにつきながら兵士たちが語り合っていると、ふいに周りの空気が大きく動いた。
絶やさぬように焚かれた篝火が、音を立てて弾け飛ぶ。
「誰だっ!」
槍を構えて辺りを見回す二人の前へ、ふわり、と風のように小さな影が現われた。
「見張り番にしては口数が多いようね」
「誰だ、貴様!」
影が、外套の下から微笑んだ。鮮やかな曙色の髪。
「イ…イルレイア姫……」
「お開けなさい。コルドバイン総督に用があります」
兵士たちは声もなく槍を下げ、祭主の姫を通した。聖騎士の光環もなく服装も地味だが、さすがに聖騎士として、また祭主の娘として各国の神殿や総督府に出入りをする彼女を見誤る者はいない。
報せを受け、奥の間にいたカルディアロス総督バスチアン・コルドバインが現われた。
「これはこれは、イルレイア姫」
四十代半ばの若い総督は大仰に両手を広げ、姫の手に口付けた。
「相変わらずお美しい」
「お久しぶりです、モルフィード第二天公爵。今日は、貴方の力を借りに参りました」
「どういった御用件でしょう?」
黒い巻き毛を唇で揃え、三角の顎髭をたくわえた総督が、上品に首を傾げる。祭主の姫は答えず、外套を従者に預けた。
総督が椅子を引いて、
「どうぞお掛けくださいませ」
「ありがとう」
イルレイアは、草花をあしらったリューン様式の椅子に腰掛けた。
その向かいに腰を下ろし、総督は、従者に飲み物を運ばせる。
「私の力など、小さな虫けらほどもありませんが……」
「ええ、帝都ではね。でもカルディアロスでは、話は別……そうでしょう?」
「何やら、総督としての私に御用がおありのようですが」
「そのとおりです」
イルレイアはカヴァ酒を一口飲み、従者が退室し終わるのを待った。
「総督。飛遠の術は、使用可能ですか?」
「ライムス宰相の手により受けました損傷が大きく、金剛の宮とはまだ……」
「反逆者が宰相でいられるわけがないでしょう。すべてを絶たれたのですか?」
「は……。ですが、遠話は可能です」
イルレイアは落ち着いた様子で、琥珀色の液体をまた口に含んだ。
「瑠璃の宮の紫峰様との連絡は?」
「ええ、勿論」
「では、早急にお願いします。私がいろいろと動くのは危険ですから」
「殿下……?」
さすがに総督も不審な顔になる。イルレイアは、あくまでも穏やかに告げた。
「私は今、レイファシェール皇子と共にいます」
「何と……!」
「場所は今は伏せておきましょう。ですが、私が共にいる間、皇子の身柄は安全ですし――勿論、帝都に反旗を上げることもありません」
「……」
「ノア・ライムスの行方は掴めたのですか?」
「いえ……まだ、何も」
「……そう」
祭主の姫は茶色の睫毛を伏せた。
「彼の行方は、貴方がたでは分からないでしょうね。仕方ありません」
「は……」
「総督」
「何でしょう?」
狐のような黒々とした瞳が、ひたと見つめる。
「以前……そう二十年ほど前に、カルディアロス総督を務めていた者は分かりますか?」
「ハエラ第二天公爵ベルウェールどのと存じ上げておりますが……」
「確かですか?」
「はい。ベルウェール卿の御息女が、その縁あってカルディアロスはイーサ公爵イ・ホン家へ嫁いだと聞き及んでおります」
「そう……」
イーサは首都ラサの東隣りに位置し、肥沃な土壌で広大な農耕を行なっている。そこを統治するイ・ホン家は、カルディアロスでは由緒ある名家のひとつだ。
――思った以上に、カルディアロスには皇帝の協力者が眠っていそうね。
イルレイアは冷静に考えた。だが、それもまたひとつひとつ封じなければならない。
皇帝には、この戦いに勝ち目はないのだ。
守護神である聖母は捕らわれ、切札であるレイもまた、手の内にあるのだから。
イルレイアは立ち上がり、懐から一通の書状を取り出した。
「紫峰様に託して、これを養父に届けて頂戴」
「承知つかまつりました」
立ち上がり、手紙を受け取った総督は、怪訝な顔になった。
封蝋もなく、何も書いていない真っ白な封筒からは、得も言われぬ芳香が漂っている。
「これは一体……?」
「いいのよ、渡せば分かるわ。勿論バスチアン、貴方が読んでも構わないけれど――」
小姓を呼び、再び外套を纏ったイルレイアは、妖艶に微笑んだ。
「二度とその眼で日の光を見ることはないと覚悟をなさい」
あくまでもしとやかに言い、祭主の姫は聖魚城を出ていった。
*
何もない土地に、弱々しい草とも木ともつかぬ枯れた棒が、均等に立ち並んでいる。その広さは、およそ屋敷一個分。
その中を、日に灼けつくし、皺も時間も何もかも体に刻みこんだような庭師が、ゆっくりと手入れをして回っている。手つきは無駄がないが、それは倦むほどに鈍かった。
ディーンは、フィロン邸の裏手にあたる窓から、その様を眺めていた。
レイとフィロン夫妻は、先程から応接間に閉じこもったきり、もう三時間も出てこない。
無斎が何を企んだかは知らないが、兄と父のほかに身寄りはないと信じていた彼女と祖父母の対面の邪魔はできなかった。
――狸じじいめ……。ま、本当に仕組んだのは親父さんってことだろうが……何考えてるか、さっぱりだぜ。
帝都で今何が起こっているのかは、具体的には知らされていない。ただ、レイの父と兄が身動きできず、代わりに伯父が実権を握ろうとしていることだけは聞かされていた。
ただのお家騒動といってしまえばそれまでだが、帝都人だけに相手が悪い。
役職もあるが、小貴族でも帝都人の権力は絶大である。古五王国の王家ですら、時と場合によっては彼らに逆うことはできないのだ。帝都そのものが、一個の人格であり力であるとも言われている。
今ここで、帝都の権力バランスが変われば――世界が変わるかもしれない。
その鍵を握るレイをカルディアロスに来させ、祖父母と対面させて、セイデンは一体何をしようとしているのか。
彼の意図を計りかね、ディーンはため息をついた。
庭師は、まだ手入れを続けている。
ふと、ディーンの背後に誰かが立った。庭師と同じくらい年をとった執事である。
執事は腕に布巾をかけ、硝子杯を銀の盆に乗せて捧げて、一礼する。
「――先程は失礼を致しました。お飲み物をどうぞ」
「ありがとう」
ディーンは、淡い色の液体が入った杯をとった。
不思議な香りが漂う。葡萄酒のようでいてさっぱりとしていた。
「薔薇酒でございます」
執事が言った。
「へえ。初めて飲んだぜ。結構うまいな」
「統一暦三五七ニ年の製造でございます」
感情を現わさない声が、わずかに曇る。執事は盆を小脇に抱え、窓辺へ眼を移した。
その眼の色は、深い皺に隠れて分からなかった。
「エマお嬢様が、あの方と出会われた年でございます」
「――」
「あの年は、薔薇がとても見事でございました。ありとあらゆる薔薇が咲き乱れ、薔薇酒の出来もよく、それはそれは恵まれた年でございました」
少し語を切り、執事は控えめな態度を崩さずに続けた。
「その翌年、あの方は帝都へ御戻りになりました。お嬢様が、妹君のサラ様と家を出られたのはそれから間もなくのことでした。それが……この庭で薔薇が作られた最後の年でございます」
ディーンは、色のない庭を見た。枯れ枝のような木々は、それでは薔薇なのか。
だが、どんなに想像力を働かせても、この庭が色鮮やかな薔薇の花で覆い尽くされている光景を思い浮べることはできなかった。
「薔薇というのは、なかなかに手入れが難しいものです。苗木から育て、花を咲かせるにはたいへんな手間がかかります。水や肥料は、少なくとも与えすぎてもいけません。剪定も時期を見定めねばなりませんし、虫もとてもつきやすい。それを、アサイアスは一人で成し遂げておりました」
「あんたはやらなかったのかよ?」
執事は片眉を上げ、少し微笑んだ。
「わたくしは、経理と販売の担当でございます。買い付けや世話に出費がかかりすぎて儲けは少のうございましたが、評判にはなりました」
狗民らしい発言に、ディーンは笑った。
「薔薇が商売になるなんて、思いもよらなかったぜ」
「万事世の中が豊かになったせいもありましょう。ですが何より、美しい花は人の心をひきつけます。加工して砂糖煮やお酒、お茶や香水なども作りましたが、それは二次的な産物にすぎません。主人の目的は、新しい薔薇を作り出すことでございました」
「新しい……薔薇?」
「はい。植物は、姿形が少々異なれども、交配し、子孫を残すことが可能でございます。ならば、花の大きな種類と匂いのよい種類を掛け合わせれば、花の大きく匂いのよい薔薇が咲くのではないかと……主人はこのように考えたのでございます」
「なるほど」
「わたくしどもは世界中を駆けめぐり、様々な種類の薔薇の苗木を持ち帰りました。ですが、ことは簡単には運びませんでした。まずは、その持ち帰った薔薇をこの地に根付かせねばなりません。わたくしどもは気が遠くなるほどの歳月を重ね、そして――二十三の品種をこの世に送り出しました」
老いた執事は、誇らしげに胸を反らした。
一重、八重、丸い花弁から剣状のもの、ぼかしや斑入り。ありとあらゆる薔薇で埋め尽くされたフィロン家の庭は、まさに楽園だった。その称賛は、そこに住まう二人の美しい姉妹にも、薔薇姫の尊称を与えた。
〝白薔薇〟のエメラインと〝赤薔薇〟のサルディーラ。二輪の薔薇は、庭の素晴らしさと共に人々の噂にのぼらぬ日はなかった。
だが、姉妹がいなくなり、楽園もまた終わりを迎えた。
「それらの苗木は、今も大切に眠っております……ここに」
執事の眼に宿っていた柔らかな光が、ゆっくりと遠退く。
「もう、薔薇づくりはしないのか?」
「……わたくしどもも主人も、もう年でございますから」
再び執事は、表情のない笑みを浮かべた。
ディーンは彼の肩先を拳で軽く小突いて、陰りのない笑顔を向ける。
「何言ってんだよ。俺の剣術の師匠は、教わったとき七十超えてたぜ。まだまだいけるって」
「さようで……ございましょうか」
「さようでございます、さ」
屈託なく返す。
「主人に言ってやりな。せっかく孫に会えたんだ。長生きしなきゃ罰があたるぜって。長生きするには、仕事をするのが一番だってな」
硝子杯を執事に返した。彼の肩を両手でぽんぽんと叩き、
「ごちそうさま。今度はこんな辛気臭い庭じゃなくて、綺麗な花を眺めながら飲もうぜ?」
「……分かりました」
「約束だからな?」
「はい」
執事が、笑う。はにかんだ、まるで少年のような笑顔に、ディーンはさらに大きな笑みを作った。
「そういえば、あんたの名前を聞き忘れていたな」
「トヴァイエと申します」
「俺はディーンだ。じゃあ、約束を忘れるなよ。トヴァイエさん」
「承知いたしました、ディーン様」
冬の重い曇天を割ってのびた淡い日の光が、枯れきった庭をやさしく照らす。
ディーンは、吹き抜ける風の中に、一瞬甘い薔薇の香りを嗅いだ気がした。




