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慌ただしく、それでも大袈裟ではなく、リィナが近所の農婦を頼って急な客人のための食材を調達に行っている間、めずらしくディーンが台所に立った。
昔とは違い、無斎の用事や友人のソロモン・ナイトの手伝いなどで不規則な生活を送る彼が、家事をすることはほとんどなかった。それでもさすがに慣れた手つきで、米を炊き、野菜を刻んでゆく。
養祖父の言いつけを済ませ、籠に新鮮な地鶏を抱えて帰ってきたリィナが、兄の姿を見て驚いた。
「あら、兄さん。どういう風の吹き回し?」
「いいから黙って手伝えよ」
ディーンは年の離れた妹から地鶏を受け取ると、早速下拵えに入った。リィナは手拭で髪を包み、腕まくりをして、干し魚の出汁の具合を見た。
「うん、ちょうどいい」
「部屋はできたのか?」
「平気よ。毎日掃除しているもの」
自信たっぷりに言い、リィナは出汁を漉した。
「こっちは俺がするから、おまえ行っていいぞ」
「そう? じゃあ、お願い」
息の合った兄妹らしく、簡潔な会話で分担を決めると、リィナは台所から板間に上がった。
「ね、兄さん」
「なんだ?」
「あの二人と、どこで知り合ったの?」
ディーンは、面倒臭そうに顔を顰めた。
「ね、ちゃんと紹介してよね?」
「無駄口叩いてないで、しっかり働けよ」
笑いながらリィナが中へ去る。
それから、さして時間もかからずに、一同は夕餉の膳についた。
レイとイリヤは、無斎を交えた話し合いを続けていた様子で、面持ちは晴れず、再びディーンと顔を合わせた時も、わずかに微笑んだだけであった。
「失礼いたします」
声をかけ、襖を開けたリィナが膳を運んでくる。あたたかな食事の湯気と匂いが、その場を和ませた。
リィナは振り分けていた髪を解いて背に流し、菊花の袿に改めている。薄く化粧まで刷いた妹に、ディーンは物言いたげな視線を送った。
リィナは頬を赤らめつつも、澄ました顔で膳を並べる。
慣れない畳敷に足を崩して座っていたレイは、慌てて正座をしようとしてよろめいた。
「無理はせぬがよい。せっかくの馳走が不味くなるでのう」
無斎が言う。日も落ち、板戸を閉めた決して静かではない室内で、その声は不思議なくらいよく通った。
「では、いただこうか」
給仕をしていたリィナが末席についたのを見計らい、無斎が声をかけた。レイとイリヤは食前の簡単な祈りを捧げて、食事に手をつける。
信仰をもたないディーンは何もせずに箸を取り、異国の友人に尋ねた。
「おまえ、今までも祈りなんかしてたっけ?」
「していたぞ。おまえが食べることに一生懸命で、気が付かなかっただけだ」
「指でなんかやってた記憶はある」
吸い物を一口飲み、レイは顔を顰めた。
「聖印を切っていたんだ。なんかやってたなどとは、冒涜だぞ」
「俺、そーゆー方面ぜんぜんだめ」
「ならば気をつけるんだな。特に彼女の前では」
レイの視線に導かれ、ディーンは朱金の髪の女性を見た。あくまでもしとやかに、イリヤが微笑み返す。
「神官なのか?」
「似たようなものだ」
祭儀の長たる祭主の娘で聖騎士なのだから嘘はないが、それと事実には大きな隔たりがあった。
「お二人とも、お箸難しくありません?」
リィナが、異国から来た客を気遣った。
「ええ、平気です」
「一応、作法は一通り習ってはいるんだ。少し心許ないけどね」
レイは、親指を支点に、人差し指と中指で箸を動かしてみせた。
「まあ、お上手」
「九曜、おまえよりうまいんじゃないの?」
ディーンとリィナに挟まれて座る少年が、居心地悪そうな顔になった。握りこぶしで箸を掴んだ九曜は、頬をぷうと膨らませる。
「いーの、僕は人間じゃないんだからっ」
「ほら、九曜。ご飯ついてる」
リィナが、妖魔の少年の口の端についた飯粒をとってやる。
「ありがと」
「おかわり、いる?」
「うん」
「あ、俺も」
九曜の倍の飯茶碗を早くも空にした兄に、リィナはあきれた。
「兄さん、食べ過ぎよ」
「育ち盛りなんだ」
どこまで育つものか、体格のいいディーンが言い返す。その後ろからも、催促がかかった。
「リィナ、儂も頼む」
「……分かったわ。三人とも育ち盛りなのね」
リィナは母親のような口調でいなし、笑いをこらえている客人を振り返った。
「お代わりはいかがです?」
「いや、結構」
「充分ですわ」
リィナは三人に給仕をし、米櫃に布巾をかけて納めながら、兄に言った。
「そういえば兄さん、まだちゃんと紹介してもらってないわよ」
白米を口に運びかけていたディーンは、手を止め、妹を見た。
「紹介ったって、おまえが連れてきたんだろーが」
「そうじゃなくて……知り合いなんでしょ?」
含みを持たせた言い方に、ディーンは眼だけでレイを窺った。
「だから、こいつはレイだって」
「そうじゃなくて、どういった知り合いか聞いているの!」
顔を赤くして、リィナがむきになる。ディーンは照れ臭いのか、乱暴に飯をかきこんだ。
「前に話しただろう。一緒に旅をした奴だよ」
「え……」
リィナの顔が一瞬固まり、爆発でも起こしたような驚愕へと変わった。
「ええっ。レイ……さんって、あのレイさんなのっ?!」
「そんなに驚くことはないだろーが」
「だって、だって、この方あたしてっきり……男の……方だと……」
切れ切れの言葉の最後を言い終わる前に、リィナは耳まで真っ赤になって、うなだれてしまった。
一同が苦笑する。とりわけ妹の衣装替えに合点のいったディーンは、笑うあまり、喉に飯を詰まらせた。
ますますしゅんとなるリィナを、九曜が慰める。
「レイはわざとそうしているんだもん。男と思っても、間違いじゃないよ」
「そのとおり。簡単に見破られては、私も困る。気にしないでくれ」
レイの言葉に、リィナはようやく顔をあげる。レイは箸を置き、一同を見渡した。
「では、もう一度自己紹介をしようか。私はレイファシェール。こちらはイルレイアです。急な訪問を歓迎して頂き、大変感謝しています。どうぞよろしく」
「よろしくお願いいたします」
イリヤも頭を下げる。リィナも改めて形を整えると、両手をついた。
「エストリーネと申します。以前は、兄が大変お世話になりました。御逗留心より嬉しく思います。ごゆるりとお過ごしなさいませ」
大人びた口調で挨拶し、深々と頭を下げる。だが、再び上げた顔には、屈託ない今までの笑顔が戻っていた。
リィナは改めて箸を取り、兄に言った。
「じゃあ、九曜とも顔見知りなのね」
「顔見知りどころの騒ぎじゃないぜ。彼女とは、まったくの初対面だけどな」
ディーンが曙色の髪の女性を見た。イリヤは意味ありげに微笑し、
「ええ。でも、お噂はかねがねうかが伺っております」
「どうせいい噂じゃないんだろう」
「いいえ。二度もレイ様を助けて下さった方に、ようやくお目にかかれてうれしゅうございますわ」
微妙に緊張の漂う会話を不安に思ったのか、リィナが割り込んだ。
「だけど、すごい偶然ね。こんなところでまた会うなんて」
「偶然じゃないからだろ」
「え……」
驚く妹に、ディーンは一口吸い物をすすって教えた。
「二年前、リューンで俺の身元保証人を引き受けたのは、ユウォン伯爵とじじいだ。レイの親父さんがどんなに鈍くても、俺と関わりがあることくらい気付くだろう」
「儂は、父君の剣を受けた時に、なぜおぬしが気付かなんだか不思議でならぬわ」
無斎の指摘に、ディーンは憮然となった。レイを顎で差して、
「こいつもシェスも、親父さんと同じような剣の遣い方をしてたから、ごまかされたんだ」
「弟子が師匠と同じ形をとるのは自然の流れじゃ」
「師匠? 親父さんのことか?」
ディーンの疑問に、イリヤが答える。
「私たちの剣の師でありますモルガンどのは、レイ様の父君と同じくタオ=フェイ・シン老にその流儀を学び、独自の剣を作り上げた方ですわ」
「なるほどね、同門の徒か。似ているわけだ」
納得するディーンに、レイが尋ねる。
「似ているというが、私にはまったく別に見えたが?」
「両刃と片刃で、剣の形が違うんだから当然さ。だけど、例えば間合いの取り方とか体さばきとか、中央や北方の剣法だと筋力に頼る部分が多いんだけど、俺たちはむしろ発条を使って間合いを作る。じじいなんかチビだし面倒くさがりなもんで、特にこいつに習うと動きに無駄がないんだ。そのへん似てるかな」
「ふむ……」
レイは、剣術だけは好きで、年端もいかぬうちから剣を振り回していた記憶があるが、本格的な鍛練は、やはり帝都に行きモルガン将軍から教わったのが最初であった。
その時、腕力のない彼女に徹底的に叩き込まれたのは、呼吸である。
攻めて相手を打ち負かすのではなく、いかに相手を見極め、少ない動きで戦いに勝利するか――その変幻自在な動きは、他の帝都の剣士たちにはまったくないものだった。
それは、数々の戦歴をもつ将軍の経験から編み出されたものだと思っていたが、その源はここ、カルディアロスで培われたものなのかもしれない。
「シェスは完全に別の形に仕上がってるって感じがしたけど、やっぱ親父さんはじじいの型に似てたよな」
古五王国の一リューン公国で、折しも父子共に剣を交えたディーンは、二杯目の飯茶碗を平らげて呟いた。
「ところで、じじい」
「なんじゃ」
「助ける手立てはあんのかよ」
ディーンは、前に座る二人の帝都人を目顔で差した。
無斎は茶をすすり、
「ないでもない」
「なんだよ。はっきりしねえな」
「その方が協力して下さるものか分からぬでのう。一応、お頼みはしたが……」
ディーンは、今夜唯一、戸外へ出た妹を見た。
「へえ。手回しがいいな」
師匠に対するとも思えぬその態度に、さすがにレイが眉を顰めた。
「ディーン、剣聖でもあられるフェイ老に失礼だろう」
「あ、レイどの。今は隠居しておるゆえ、無斎とお呼びくだされ」
「はあ……しかし」
「しかしったって、剣術はすごいけど、真剣であとはただのじじいだぜ」
「――剣は教えたが、どうやら礼儀を教え損うてのう……」
ぼそりと言われた無斎の台詞に、一同が失笑する。特に九曜は深々と頷いて、
「本当だよねぇ。ま、無斎に育てられたから、こんなにひねたとも言えるけどね」
「妖魔のおぬしにひねたと言われるとは、ディーンも成長したものよ」
「無斎の域までは、まだまだだけどね」
ほっほぅ、と梟のような声を上げて、無斎が笑った。
「阿呆。何を馬鹿自慢してるんだよ、禿タコ」
妖魔の少年と冗談を言い合う育ての親に、ディーンは心底嫌そうな顔になった。
「こんなやつが剣聖だなんて、世の中ぜっったい間違ってるぜ」
「悔しかったらなってみるがよい」
「馬鹿、誰がなりたいかよ。軍に就くわけでもないし、そんなものになったって一銭の得にもならねえじゃねぇか」
「得るものは栄誉のみ――じゃが、これにはもてるぞ?」
左の小指を立て、髭面をほころばせる八十余の老爺に、ディーンは頭を抱えた。
「あーあ、こんな奴に育てられた俺って不幸……」
レイもちょっと同情しかけたが、その時、それまで黙っていたリィナが強い口調で反論した。
「何言ってるのよ、兄さん。一番不幸なのは、あたしです!」
リィナは、自分を育ててくれた兄と老剣士をきっと睨む。
「なんでだよ」
「だって、生まれた時から、兄さんとおじいさまに囲まれていたのよ? いろんな事件は起こるし、しょっちゅうサリみたいな人たちは出入りするし、妖魔と暮らすことにはなるし……。おかげで、普通がどんなだか、さっぱり分かんなくなっちゃったじゃないの!」
真剣な顔で訴える少女に、一同は唖然とし、次の瞬間爆笑した。
「笑わないでよっ!」
リィナが叫ぶ。
だが、その声もみんなの笑い声にかき消されて、彼らの耳には届かなかった。
夜の庭で、まだ早い春の虫が鳴いていた。
*
夜空には薄絹を流したように雲が広がり、弓形の月を朧に見せていた。
山と森が囲む夜景に光はなく、淡い月明かりを受けて、夜露が幻のようにかすかな煌めきを見せるだけだった。
レイは、廊下の柱に寄り掛かったまま、露玉を飾るシンラの細い葉を指先で撫でた。
ふと、背後に人影が立つ。
「――よお」
レイは驚きもせずに、首だけをそちらに向けた。
「ディーン。どうした、こんな夜中に」
「最近夢見が悪くてな。好みじゃない女にしつこく迫られるんだ」
軽口を叩き、ディーンはレイの隣にやってきた。
「世の中におまえの好みじゃない女がいたとは初耳だ」
「馬鹿。俺の好みはうるさいぞ?」
ディーンは、だらしなく柱に二の腕をついてもたれ、
「それよりおまえ、こんなところに一人でいていいのかよ。お付きのおねーさまにどやされるぞ」
「イリヤは湯殿だ。どやしになど来ない」
「そいつはよかった」
言い、ディーンはレイの顔を覗き込む。
「二年ぶり、かな?」
「そうだな」
「なんだか随分昔みたいな気がするな」
「ああ」
頷いて、レイは再会した友の変貌ぶりを改めて感じた。身長や体格もさることながら、声も深みを増して、二年前には色濃かった少年臭さを一掃していた。
そう思うレイをどう見たのか、ディーンは黙って、彼女の銀色の髪に触れる。
「何だ?」
「いや。挨拶がまだかなーと思って」
唇で挨拶しようとするディーンに、レイは厳しい一瞥をくれた。
「ただの友達に、そんな挨拶はいらんだろう」
「あれ、ばれてた?」
悪怯れもせず、ディーンが笑う。
「いいだろ、親友だし」
「丸二年も音信不通でいる奴は、親友とは呼ばない!」
断言するレイに、ディーンは心得顔になる。
「わかった。おまえ、拗ねてるんだな?」
「誰がだ」
「そうかそうか、俺に会えなくて寂しかったのか」
「違うと言っている。まともに別れの挨拶もなく母国に強制送還された奴が、国元で騒ぎを起こしていないか心配になっただけだ!」
ディーンが頬を膨らませる。
「ちぇ。もっと寂しがれよな」
「だいたい連絡のひとつもよこさないで、友達も何もないだろう。しかも二年間も、わたしが出した手紙の返事もなしに、だ」
内心二度と会えないものと思っていたレイは、我慢の糸が切れたように、二年分の鬱積を吐き出す。
「手紙は着いたのだろう?」
「まあね」
「わたしが帝都にいることは、わかっていたはずだ。連絡をとろうという気はなかったのか――この二年間、一度も?」
「連絡……ねえ」
「返事くらい書けるだろう!」
「ふ…ん」
ディーンが、奇妙な表情になった。
「その手紙が、握り潰されない保障はあんのかよ?」
濃紫の瞳が、睨むようにレイを見る。
「どうなんだ? おまえのところに必ず届くって言い切れるのか……帝都の中のおまえに?」
レイは黙った。
私文書には誰も手をつけさせないようにしてある。だが、それが通用するのは彼女の周辺のことで、手紙がカルディアロスから幾つもの公的機関を経て、帝都のアイテールに辿り着かねば意味を成さない。
それまでに身分も素性も定かではないディーンの手紙は、開封され検閲されるか、途中で破棄されるか、いずれにしろ元の形でレイの元へ届くことはないに等しかった。
いかに隔たれた世界にいるか、それを見せ付けられた気がして、レイは哀しくなった。
ふいに、彼女の頭を大きな手が引き寄せる。
「……ごめん。俺が悪かったよ、レイファス。薄情な真似しちまったな」
「ディーン……」
「今度から気をつける――って言っても、本人が先に届いたから、手紙は当分お預けだけど」
ディーンの肩に頭を預けたまま、ようやくレイは笑った。
風が出てきた。
さやさやと揺れるシンラの葉から、夜露がわずかに揺らめいて散っていく。
「……ディーン、おまえはずっとここに住んでいるのか?」
「いや。最初は、あの森の際辺りに住んでいたんだ」
ディーンは、九龍連山に続く深い森を指差した。
「あの〝鎮めの森〟で、俺は拾われたんだ」
「森で……?」
「ああ。だけど、養父母が死んでこっちへ移ったんだ。家も焼けちまったしな」
淡々とディーンは言い、
「九曜に言わせると、こんなところに住む人間の気持ちがわかんねえってほど霊的に怪しい場所らしいけど、何となく離れられなくてな。家族はみんなここで眠っているし……リィナが産まれたところだしな」
「なんだか、おまえがよく妖魔に出くわす理由が分かった気がするぞ」
「馬鹿、納得してんじゃねーよ」
レイは笑って、
「確かに、ここは霊気が満ちている。だけど――」
ディーンを仰いだ。
「いいところだと思う。自然の力が溢れていて、わたしは好きだ」
ディーンが破顔する。その笑顔だけは変わらない、とレイは思った。
夜風に、シンラの葉が波のごとくさざなった。
「寒くなってきたな」
「長居しすぎたようだ」
レイは、冷たくなった自分の腕を抱えた。ディーンはその肩に腕を回し、
「しょーがないなあ。俺があたためてやるって」
「余計なお世話だ」
レイは、肩に回したディーンの手の甲を思い切りつねった。
「いででで。肩くらいいいだろう」
「おまえに肩を抱かれるくらいなら、柱にすがっていたほうがましだ」
「レイファス……それ、友達以下だぜ?」
「正確には柱にも劣る」
「じゃあ、どこまでなら許されるんだよ」
「では、訂正しよう。柱並みだ」
「……そのこころは?」
「黙って立っていれば、そのうちすがりもする」
ひでーなあ、などとぶつくさ言いつつも、ディーンは、おとなしく直立不動でレイの横に立つ。
レイは笑いを噛みころしながら、不思議に懐かしい気分に浸った。
どこよりもここに、自分のいるべき場所に帰ってきた――そんな気がしたのだ。
*
レイと別れて部屋に戻ったディーンは、部屋の障子の前で足を止めた。
「……」
一息置き、音もなく障子を開ける。
「――お早いお帰りですこと」
障子の影に身を隠した彼を迎えたのは、艶やかな女の声だった。
「人の部屋に忍び込むなんざ、帝都貴族のすることとは思えないな」
「貴方を待っていたのよ」
うっすらと笑い、イリヤは言った。湯浴みから上がったばかりなのだろう、用意された着物一枚を素肌に羽織り、素足で立つ彼女はとても扇情的だ。
着物から匂いたつ艶めかしい肢体から、ディーンはかろうじて眼を逸らす。
「何の用だ。夜這いにしては、大胆すぎねぇか」
「別にそれでも構わないけれど……」
イリヤは、指先でくせのない髪を玩びながら、
「貴方と二人で話がしたかったの」
「どんな?」
「そう……例えば、貴方は何者か」
ディーンは、鼻で笑った。
「あいつから聞いてんだろう」
「私は、貴方の口から直接確かめたいのよ」
「……」
「貴方はいろんなことを知り得る立場にあるわ。こちらも貴方を知っておく必要があるの」
「こちら、ときたか。裏に誰の意図が絡んでいるんだか知らねーが、そいつにこう言ってやるんだな。俺は、てめえらのようなくだらねえ権力には興味ねえ。それくらいなら、てめえの尻の匂いでも嗅いだほうがましだってな」
「あまりいい表現ではないけれど、言いたいことはよく分かったわ」
胸の前で腕を組み、朱金の髪の女が歩み寄った。
「ただ、貴方はいろんなところに出しゃばりすぎるの。目障りだわ」
「やっと本音が出たな」
「レイ様にこれ以上近付かないで頂戴」
「さて、ね。こればっかりは、俺とあいつの問題だ。あんたの指図は受けないね」
イリヤは、哀れむように微笑んだ。
「愚かだこと。貴方がいることで、どれだけレイ様の立場が悪くなるか考えたことはないの? 銀の兇児というだけで充分に危ういものを、よりにもよって妖魔を従えた、出生も知れない人間が周りをうろちょろされたらどうなると思うの?」
「さあね」
「レイ様をはじめ、父君も兄君も極刑。その首は帝都の曝しものになるでしょう……なぜだか分かる?」
眼尻の切れ上がった褐色の瞳が、すうっと細まった。
「帝都人だからよ。帝都は異端者を嫌うの。徹底的に……貴方が想像もつかないほどにね」
「……」
「これは貴方のためでもあるの。レイ様から離れなさい」
「いやだね」
ディーンは一蹴した。
「あんたの指図は受けないと言っただろう。あいつがそう言うのなら考えもするが、あんたには決められたくないね」
「そうかしら?」
イリヤは、つい、とディーンに体を寄せた。くら、と脳髄を灼く芳香が彼を包んだ。
――なんだ……この匂い。
「若い肉体には、捌け口も必要だわ。そう思わない?」
薫りが動いて、顔の辺りにまとわる。
ディーンは、かすむ意識の中で何かが動くのを感じた。同時に腕が反応して、それを掴む。
「ふ……」
短刀を握った右手を捕まれ、イリヤが不敵に微笑んだ。
「意外とやるわね」
「馬…鹿野郎。殺気丸出しじゃねぇか」
息苦しさをこらえ、ディーンは毒突いた。
「惜しいこと。天国を味わえたかもしれないのに」
「……へっ。あんたとだったら、地獄かもな」
イリヤは軽やかに笑い、ふわり、と彼から離れた。
「ねえ……ひとつだけ教えて。無斎さまの本当の意図は何?」
「どういうことだ」
「貴方に何をさせようとしているの?」
短刀の刃を指先でなぞりながら、狐のような瞳が凝視する。ディーンは窓を開け、深く夜気を吸い込んだ。
「さあね。その時になってみなきゃわかんねーよ」
「呆れるばかりの無計画性ね。いつもそうなの?」
「まあね」
イリヤはしばし黙り、あきらめたように微笑んだ。
「……分かったわ」
と、きらり、と鋼が輝いて、短刀がディーンの喉元に突き付けられる。
「活躍、楽しみにしているわよ」
微笑を残したまま、すぐに短刀は喉を離れ、豊艶な胸の間に吸い込まれた。
素早い動きと色気に、ディーンの眼が眩む。
女戦士は婉然たる一瞥をくれると、曙色の髪を翻して、微風のごとく彼の部屋から出ていった。




